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残照の網を編む

夏久 遼吾

18,199 字

離島文学、青春群像劇

"残照の島で、絆と記憶を編み直す、静謐なる物語。"

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第一章 凪の底

 島にただ一つ残された自動販売機は、郵便局の錆びた庇の下で、一日中、低い唸り声を上げていた。誰も、その中身を信用していなかった。
 その内部で冷やされている缶ジュースの大部分は賞味期限がとっくに切れているか、あるいは何年も前に製造が終了した銘柄のままで放置されていた。たまに小銭を入れると、内部で何か引っかかる鈍い金属音が響き、そのまま沈黙が戻る。私たちはその壊れた機械を「島の心臓」と呼んでいた。役割を果たしているのかよく分からないが、とにかく微かな熱と音だけを放ち続けているからだ。
 古い木造の物置で、机の上に広げられた一冊のノートに向き合う。漁具の腐ったゴムの臭いと、古い紙の湿った匂いが混ざり合う空間だ。ノートは祖父・徳蔵の遺品だった。表紙は湿気でふやけ、煤けて黒ずんでいる。中には鉄筆で刻んだかのように鋭い文字がびっしりと並んでいた。ページの端に、たった一行だけ、こう記されている。
「言葉が乱れれば、島の輪郭も崩れる。ゆえに、正しき言葉を守り抜くべし」
 それが何に対する言葉なのか、ノートの他のページを繰っても分からない。
 両親が交通事故で亡くなったとき、私は小学校に上がったばかりだった。その時から、この島で祖父と二人で暮らすようになった。記憶の中の祖父は、いつも背筋を伸ばし、決して声を荒げることのない人だった。「言葉は、人が最後まで手放してはならぬ杖じゃ」幼い頃、意味も分からぬまま、その言葉を繰り返し聞かされた。夕食はいつも二人分の干物と味噌汁だけで、祖父は箸を置くたびに、必ず「ごちそうさま」と静かに呟いた。
 両親のいない私を、島の子どもたちは最初、遠巻きにしていた。それを変えてくれたのが、当時まだ五歳の健介だった。駆け寄ってきて、「一緒に虫捕りしよ」とだけ言った、あの屈託のない笑顔を今でも覚えている。
 里美もまた、縁側でよく一緒に宿題を教え合った幼馴染だった。振り返れば、二人がいなければ、この島でこれほど長く暮らし続けることはできなかっただろう。
端正な筆跡をなぞっていると、背後の戸が開き、湿った潮風が入り込んできた。振り返ると、二つ年下の健介が立っていた。首に色褪せたタオルを巻き、右手に古びた一升瓶を下げている。
「一樹にい、またそげな古い本ば読みよるわけ?」
 健介の声は、この島に育った若者特有の、低く鼻にかかった響きを持っていた。
 一升瓶を床に置こうとして手元が狂い、瓶の底が床の段差に当たってゴンと大きな音を立てて傾く。
「おっとっと!」
 慌てて抱え直した弾みで古い畳から埃が舞い上がり、健介は派手にクシャミをした。
「ぶえっしゅっ! ったく、ここはいつ来ても埃っぽくてかなわんな」
 赤くなった鼻をこすりながらどさりと腰を下ろす。木漏れ日の中で金色に踊る埃が、かつての賑わいの残滓のように見えた。
「一升瓶なんか提げて、どうしたんです」
「ああ、こいな。区長からの届け物じゃ。潮結びの縄締めに使う灰汁の残り、多めに持ってけっち言われとぅんからよ」
 健介は一升瓶を軽く揺すって見せた。濁った液体が鈍い音を立てる。
「祖父の日記を読み返していたのです」
 眼鏡のブリッジを押し上げながら答える。健介の顔にうっすらと困惑の影が走った。
「相変わらず堅苦しいな、一樹にい。そん完璧な標準語、聞いてるだけで壁を感じるが」
 子どもの頃、同年代の子らからは「気取っている」とからかわれ、何度も喧嘩になった。それでも祖父は、家に帰るたびに静かに私の頭を撫で、「正しい言葉を使いなさい」とだけ言った。理由を尋ねても、多くを語らなかった。
「言葉が崩れれば、島の誇りも失われる」
 努めて淡々と返したが、その言葉は自身の喉元に重くのしかかった。過疎化が進み、あらゆる境界が融けゆくこの島で、崩れない言葉を使うことそれは誇りというよりも、祖父の遺志という名の重い鎖だった。
 健介は口調に潜む頑なさを察してか、諦めたように視線を落とした。
「言葉なんかで腹は膨れんが。それより一樹にい、今年も本当に『潮結び』ばするんか」
 床の一升瓶を顎でしゃくる。濁った灰色の液体がガラスの向こうで重たく揺れた。
「今年はこれで縄ば締め直せって。ソテツの灰汁じゃ。そうせんと、引き潮の波に負けて
千切れてまうからってよ。だけどさ……」
 健介は一升瓶の栓を親指で弄びながら、言葉を探すように黙り込んだ。
「今年、わんきゃでちゃんとできるんかいや。前や区長も手伝ってくれよったが、あの足腰じゃ、もう浜かちゃ立てんろや」
「立てなくとも、見守ってくれるだけで十分ですよ」
「潮結び」――七年に一度、八月の大潮の夜、潮が最も深く引く時刻に、浅瀬へ手編みの麻縄を張り巡らせる、島に伝わる古い習わしだ。
 なぜそれを続けるのか、由来を語れる者はもう島に一人もいない。ただ、かつては十二人の若者が等間隔に波打ち際に立ち、呼吸を合わせて一斉に縄を結ぶのが鉄則だったということだけが、口伝えに残っている。しかし現在、島に残っている若者は私と健介、そして区長の孫である里美の三人だけだ。
「三人で十二人分の役割をこなす。それがいかに無謀なことか、健介、あなたも理解しているでしょう」
「分かっとるが! 守るしかないと思ってるから、あんたもこればやめんのだろ。一樹にい、あんたが一番、この義務から目を背けられないって顔しとるが」
 健介が物置の隅に積み上げられた麻縄の束を蹴る。
 彼が島を出ていくためのフェリーの切符は、すでに部屋の抽斗に眠っている。来月には、本土の精密機械工場へと旅立つ。そのことに触れないのは、お互いの暗黙のルールだった。
 窓の外では、今年もまた終わりのない凪が底に沈んでいた。コンクリートからは陽炎が立ち上り、塩気を帯びた生温かい風が集落の狭い路地を幾筋も走る。歩くだけで肌にじっとりと汗がまとわりつき、肺の奥まで塩の匂いで満たされる。狂ったように鳴くセミの声と、遠くで繰り返される単調な波の音。息苦しい静寂があたりを覆っていた。
 二年前に学校が廃校になってから、集落は子どもの声を手放した。鉄棒はツタに覆われ、錆びたブランコが風もないのに時折きしんだ。
 夕方になると、老人たちは打ち上げられた流木のように防波堤へ集まり、うつろな瞳で水平線を見つめていた。そして互いの生存を確かめ合うように短い言葉を交わし、それぞれ家へと帰る。
 里美の祖父である区長も、毎朝五時に港へ出て、フェリーが来るはずのない時間にも、ただ水平線を眺めて過ごしていた。「何を待っているのか」と尋ねても、彼は決まって「別に、何も」とだけ答え、それ以上は語らない。
 本港からフェリーに乗り、複雑に絡み合う海峡を抜けて外海へ出ると、平たい背中をした島が現れる。かつては真珠の養殖やサトウキビの栽培で数百人がひしめき合って暮らしていたというが、今やその面影はどこにもない。
「健介、一樹への八つ当たりは、それくらいにしときなよ」
 涼やかな声とともに里美が入ってきた。手には木製の大きな針と補修用の麻糸が握られている。健介の隣に腰を下ろし、慣れた手つきで麻縄のほつれを修復し始めた。顔には過酷な太陽が刻んだ微かな日焼けの跡があったが、瞳は潮溜まりのように透き通っていた。
「わんは八つ当たりなんかしとらんて」
 健介は口を尖らせた。
「ただよ、三人で四人分ずつ走るなんて、そんな格好悪いことして、先祖が喜ぶわけないが。形ば変えてまで残して、何になるわけ、一樹にい」
 その言葉が、いつまでも胸に残った。祖父のノートを閉じた。
 里美は針を動かす手を止め、私と健介の顔を交互に見つめた。
「伝統、伝統って難しく言うつもりはないけどさ」
 ぽつりと言いながら、手元の縄を強く引く。
その指先は驚くほど力強かった。
「でもね、こいば編んどる時間だけは、自分が島の一部になれた気がするわけ。島がうちたちに『ここにいていいよ』って、許してくれているような気がしてさ。それが無くなってしまうのは、うちはやっぱり寂しいよ。島がひとりぼっちになってしまうみたいで」
 声に、ほんの一瞬だけ何かをこらえるような翳りが滲んだ。共に育ってきた私でさえ聞き逃してしまいそうな、微かな揺れだった。
 物置の外では、セミの声が遠く激しく響いた。それ以上は言葉を交わさず、ソテツの灰汁の匂いが立ち込める薄暗い部屋の中で、それぞれの持ち場を見つめた。古い麻の繊維が擦れ合う微かな音だけが響く。物置の奥底まで、郵便局の自動販売機が放つ低い唸り声が届いていた。
 夕暮れ、祖父のノートを小脇に抱えたまま、港へと続く坂道を下った。案の定、区長は堤防の先端に立ち、微動だにせず海を見つめていた。潮風に晒された背中は、長年の労働で丸く硬くなっている。
「区長」
 声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。深い皺の奥にある瞳は、いつも通り凪いでいた。
「一樹か。またその日記ば読んどるんか」
「ええ。まだ、意味が分からない箇所が多くて」
「意味なんぞ、分からんたてん、よかが」
 区長はぽつりと言うと、再び水平線へと視線を戻した。
「わんきゃは、分からんまま、続けてきただけよ。そいでよかど」
 それ以上は語らず、彼はまた静寂に沈んだ。私はその隣に並び、しばらくの間、同じ方角を見つめていた。何を待っているのかは、やはり分からないままだった。ただ、その沈黙
の中に、言葉にならない何かが確かに横たわ
っているのを感じた。

── 第1章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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