第一話 三月のスイートピー
ポストの中に、自宅宛ではない葉書が一枚混じっていた。
表は写真になっていて、体育館らしい場所に子供たちが整列している。
卒業式だ。卒業生の子供たちは、大きくなった身体に微妙に合わない制服を着て、胸の前にスイートピーの小さな花束を持っている。淡いピンクや紫が、紺色の制服の前でぼんやり明るい。
裏を返すと、宛名は「花よし」。住所はこの近所だった。
真鍋彩乃は、二十七年間のほとんどをこの町で過ごしてきた。
実家の二階の自分の部屋は、高校の時からほとんど変わっていない。
大学を出て、隣の市の会社に事務職として勤めて、毎日同じ電車で帰ってくる。特に不満はない。特に不満がないということに、ときどき不安になる。
花よし、という名前には覚えがなかった。でも住所を見れば、商店街のあのあたりだということはなんとなくわかった。彩乃の生活圏からは微妙に外れていて、用がなければ通らない場所。
葉書をもう一度表に返した。
写真の子供たちは、六年生にしては小さい子もいれば、中学生みたいに背の高い子もいる。花を持つ手がぎこちない子、しっかり抱えている子、よく見たら隣の子とふざけている子。一人ひとり違うのに、遠目には同じに見える。
誰かの卒業式。知らない学校の、知らない子供たちの。
――いや。
写真の右上に小さく印字された学校名を読んで、彩乃は息を止めた。
南陽小学校。自分が通っていた小学校だ。
もう一度写真を見る。体育館の壁のタイル、舞台の幕の色、窓の形。記憶の中にあるそれと、たぶん同じだ。ただ子供たちは知らない顔ばかりで、当たり前だけれど十五年も経てばそうなる。
彩乃は葉書をダイニングテーブルの上に置いた。夕飯の支度をしながら、ときどき目がそっちにいった。知らない子供たちの卒業式の写真が、なぜ近所の花屋に届くのか。少し考えて、ああ、と思った。卒業式の花。あの一本ずつ手渡される花。あれを納めた花屋に、学校がお礼のような意味で写真を送っているのだろう。
自分の卒業式のことを思い出そうとした。体育館が寒かったこと、校長先生の話が長かったこと、母親が泣いていたこと。花を受け取った記憶は——ある。あるけれど、それは「卒業式の手順」の一部としてあるだけで、花そのものの記憶ではなかった。薄いピンクだった気もするし、紫だった気もする。スイートピーだったかどうかすら、今の彩乃にはわからない。
翌日は土曜日で、彩乃は午前中に葉書を持って家を出た。別に急ぐ理由はなかったが、人のものをいつまでも手元に置いておくのは気持ちが悪かった。
商店街を少し入ったところに、その花屋はあった。間口はそれほど広くないが、店先に並んだバケツの花がはみ出していて、道を歩く人の視界には自然と入る場所だった。彩乃はこの道を何度か通ったことがあるはずだが、花屋として意識したことはなかった。
「すみません、これ、うちのポストに入ってたんですけど」
店の奥から出てきたのは、五十代くらいの男性だった。エプロンをしていて、手が濡れている。花の手入れをしていたのだろう。
「ああ、すみません。ご迷惑をおかけしました」
男性は葉書を受け取って、表の写真を見た。その頬がほんの少しゆるんだのを、彩乃は見た。
「毎年届くんですよ、これ」
男性はそう言って、葉書を裏返したり表に戻したりしていた。
「うちが卒業式の花を納めてる学校で。もう二十年になるかな。毎年、式が終わると写真を送ってくれるんです」
「二十年も」
「ええ。最初の年のも、まだありますよ」
男性は店の奥に彩乃を手招きした。レジの横の壁に、小さなコルクボードが掛かっていた。そこには何枚かの写真葉書がピンで留められていたが、男性はその下の引き出しを開けて、束になった葉書を取り出した。
「全部は貼りきれないんで。でも一枚も捨ててないです」
輪ゴムで束ねられた葉書を年度順にめくっていく男性の手つきには、花を扱うときの自然な丁寧さがあった。
「これが一番古いやつ。この年から始めたんです」
二十年前の卒業式。写真の画質が少し違う。体育館は同じだが、壁に貼られた飾りのデザインが今風ではない。
彩乃は自分の卒業年度を暗算した。十五年前。男性が葉書をめくる手を、無意識に目で追っていた。
「あの」
「はい?」
「十五年前のって、ありますか」
男性は少し驚いた顔をして、それから束になった葉書を数え直した。
「これかな」
差し出された一枚の葉書には、見覚えのある体育館があった。壁のタイルの色。窓から差し込む三月の光。整列した子供たちが、スイートピーの花束を持っている。
後列の右から四番目に、自分がいた。
背が高い方だったから後列で、隣は確か加藤くんだった。彩乃は淡い紫のスイートピーを胸の前に持って、まっすぐ前を向いている。少し緊張した顔をしている。でも花はちゃんと持っている。
「これ、私です」
「へえ!この学校のご出身なんですね」
「はい。……当たり前かもしれないんですけど、この花、お店で用意されてたんだな、って」
「ええ、うちで」
「知りませんでした」
男性は少し笑った。
「そりゃそうですよ。卒業式の日にそんなこと気にする子供はいません」
彩乃はもう一度、十五年前の自分を見た。あの日、あの花を受け取ったとき、自分は何を考えていただろう。たぶん、何も考えていなかった。
卒業式にはそういうものがある、という程度の認識で、その日のうちに家の花瓶に入れられて、数日後にはひらひらと花弁を落とした。
それがスイートピーだとすら思っていなかった。
でもその花は、この人が選んでいた。何十人分かのスイートピーを、一束ずつ、束ねて、ラッピングして、早朝に届けていた。
「毎年、大変じゃないですか」
「まあ、儲かる仕事ではないです」
男性はそう言ってから、手元の葉書の束に目を落とした。
「でも、こうやって写真もらうと。ちゃんと届いたんだなって」
その言い方が妙に静かで、彩乃は何も言えなかった。「届いた」というのは、花が子供の手に渡ったということなのか、それとも、もう少し別の意味なのか。
「お時間いただいてすみません。わざわざ届けてくださって」
「いえ」
彩乃は店を出た。商店街の道をまっすぐ歩いて、いつもの動線に戻った。
花屋の店先に並んでいたバケツの花が、さっきよりも少しだけ、目に入った気がした。帰り道、いつも素通りしていたコンビニの隣にも小さな花屋があることに気づいた。前からあったのだろう。ずっとあったのだろう。
夕方、母親が買い物から帰ってきて、ダイニングテーブルの上に何もないことには気づかなかった。彩乃も何も言わなかった。言うほどのことではなかった。
ただ、夜になって自分の部屋に戻ったとき、机の上のペン立てに挿しているドライフラワーが目に留まった。いつからここにあるかも覚えていない、小さなかすみ草の束。ただ、これがここにあるのも、たぶん、知らない誰かの一日があったからだ。
彩乃は別にそのことで泣いたりはしなかった。何かを決意したわけでもなかった。ただ、明日の朝に少しだけ早く起きて、いつもは通らない道を歩いてみようと思った。
翌日の日曜日。彩乃は知らない道を歩いた。
知らない道を歩くと知らない店があった。
たぶん、前からそうだった。
彩乃は自動販売機で温かいお茶を買って、知らない公園のベンチに座った。
別にどうということのない、三月の日曜日だった。
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