プロローグ
1642年、アムステルダム。
ブレー通りのアトリエには不吉なほどの熱気が充満していた。
扉を開けると、鼻を突くのは乾性油の重苦しい臭気。そして、職人と呼ぶには若すぎる男たちが立てる騒々しい靴音。奥からは画商の下卑た笑い声が漏れ聞こえてくる。
その喧騒の中、後に「夜警」という名で呼ばれることになるこの巨大なキャンバスは異様なほどの光と、深い闇を湛えていた。
「もっとだ、ヤン。もっと闇を深くしろ。あいつらは、光と影が照らし合う、俺の『物語』を求めているのだ」
当代随一の集団肖像画家、レンブラント・ファン・レイン。
その声は自らの、衆人の耳目を煽る企てへの確信のようにも、注文主たちの英雄的幻想を封じ込める自負のようにも、聞こえた。
しかし、私はその瞳が今や喪失の沼に沈んでいるのを知っていた。
羽根飾りのついた帽子の陰で、光を捉えるはずのその瞳はどこまでも昏(くら)い。
「親方……しかしその『物語』のために闇を広げれば、この者たちの顔はもはや肖像ではなくなります。彼らが求めたのは代価に見合った栄光であり、端役への降格ではない……」
私は手を止めずに告げた。
だが、彼は低く笑い、筆先で虚空を切り裂きながら言った。
「構わん。俺はこの集団肖像画で、かのルーベンスをも超える、これまでにない傑作を描くのだ。赦(ゆる)されざるはずがない」
この魔術師は今、一線を越えようとしている。
注文主の金を使い、彼らの舞台を借りて、自分のための物語を描き終えようとしている。
「いいでしょう、親方。あなたの望むままに、世界を、光と影で満たしましょう」
私は膠(にかわ)の下地を捨て、鉛を豊富に含んだ油をキャンバスの繊維の奥深くまで、力任せに擦り込んでいく。アムステルダムの湿った壁からこの絵を守る、鉛の鎧。
理(ことわり)の番人であった私が、ルーベンスの秩序の下では決して許されなかったであろうこの不気味な鉛の処方を、今、このレンブラントという魔術師の力を借り、この巨大な布の上で試している。
この男は、物語として光と影を描き出す比類なき力を、授かってしまったのだ。
誰もが彼の物語に狂わされている。私もまたおそらく、その一人だ。
目の前の巨大なキャンバスは、依頼主である火縄銃手組合(クローフェニールスドゥーレン)の隊員たちの虚栄を覆い隠して沈めてしまうほど、壮大な物語に満ちている。
だが、この男が物語を自分だけのものにしようとした今、魔法は解けるだろう。
私は今、その墓標を塗り上げている。
一、アントウェルペンの冬
1640年、レンブラントのアトリエがこの熱病にうかされる二年前。
私はまだ、別の神の下にいた。アントウェルペン、画家の王ルーベンスの工房。
そこには「理(ことわり)」によって完璧に統治された世界があった。
「親方が、亡くなった……」
あの日、工房に響いたその言葉は私にとって世界の終わりの合図だった。
ピーテル・パウル・ルーベンス。
画家の王であり、外交官であり、このアントウェルペンそのものを支えていた秩序。その心臓が止まった瞬間、私が信じていた理はただの「遺物」へと成り下がった。
喪が明けぬうちから、工房には「実務」という名のハゲタカたちが押し寄せた。遺族、弁護士、そして不吉な帳簿を抱えた事務員。彼らが数えるのは親方が遺した未完成の傑作の数ではなく、主を失った工房の「維持費」だった。
私は自ら練り上げた「不滅の下地」の処方箋を手に、事務員の前に立った。
「この影を作るには、一ヶ月の乾燥と、最高級のラピスラズリを焼いた灰が必要です。それがあって初めて、親方の絵は呼吸を始める」
事務員は顔も上げず、冷ややかに帳簿を叩いた。
「ヤン、君は勘違いをしている。故ルーベンス卿という『看板』があったからこそ、その不経済なこだわりは至高のものとして許容されていた。だが、その看板がなくなった今、それはただの無駄遣いだ。市場が求めるのは、もっと早く、もっと安く、もっと分かりやすい『ルーベンス風』の絵だ。君の仕事は、重すぎる」
私は言葉を失った。私という部品は、親方の影の下、完璧な理の中でしか機能しない。
看板を剥ぎ取られた途端、私がこの一身を賭してきた技術は、誰にも理解されない、ただのガラクタへと成り下がった。
「これからは効率こそが理だ。君のような『影の技術者』に払う金はもう、この工房にはない」
空っぽになった工房で、私は一人、親方が愛した深い黒の顔料を見つめていた。ここではもう、光と影の真実を追うことは許されない。
そんな折だった。
親方の生前から出入りしていた画商が、音もなく私の隣に立って言った。
「ヤン。アントウェルペンの灯は消えた。だが、北のアムステルダムでは今、一人の画家が血眼になって、腕の良い職人を探している」
画商は哀れむような、それでいて縋(すが)るような笑みを浮かべ、一枚の書簡を差し出した。
アムステルダム。欲望と喧騒が渦巻く、節操のない、俄仕立ての都。
正統を自負するアントウェルペンの職人にとって、そこは成金たちが虚飾を競い合う場でしかない。
「レンブラントという男だ。『本物の闇』を作り出せる技術者を、求めている」
私は、画商の手にある書簡を黙って見つめた。
自分からあのような場所へ行くつもりはなかった。だが、ここにはもう私の居場所はなく、北の地には私の技術を必要とする男がいるという。
私はあの顔料を、小壺に隠した。
冷え切ったスヘルデ川を下り、かの敵地へと移る決意をした。
理によって統治されたアントウェルペンを去り、喧騒のアムステルダムへ。
私はそのレンブラントという魔術師に、ルーベンス様が私に遺した神の御業を、貸し与えることにした。
二、泥と黄金の都
1640年、暮れ。スヘルデ川を下り、海を経由してアムステルダムの港に降り立った瞬間、私は自分が決定的な異邦人であることを悟った。
この街の空気は、まるで違っていた。
アントウェルペンを包んでいた、あの湿った石畳と教会の乳香が混じり合った静謐な匂いはない。
代わりに鼻腔を突いたのは腐りかけた運河の水、タール、そして遠い異国から運ばれてきた香辛料の刺激臭だった。
人々は早足で、誰もが何かに追われているか、あるいは何かを追いかけている目をしていた。重厚な外套をまとった私は、この喧騒の中でひどく浮いていた。ここでは、身なりが示す「階級」よりもその懐にいま幾らの銀貨が入っているかという、「現在価値」だけが問われているようだった。
私は懐にある、革で封じられた小壺の冷たい感触を確かめながら、画商に教えられた場所を目指した。
ブレー通り。アムステルダムの中でも最も雑多で、最もせわしない場所。
道ゆく人々の吐息には、いまだに数年前の「忌まわしき風」の、苦い後味が混じっていた。
「……あれは、ただの草花の、ただの根に過ぎなかったのだ。あんなものに、牛数十頭分もの値をつけた俺たちが、どうかしていたのだ」
角の酒場で、かつての富商らしき男がうつろな目でこぼしているのが聞こえた。数年前、この街を襲ったチューリップの狂乱。
この地には、実体のない富を膨れ上がらせる魔物が住んでいる。
人々は「風の商売(ウィンドハンデル)」という名の魔物に唆(そそのか)され、まだ見ぬ花のために金貨を積み上げ、そしてある朝、風が止むようにすべてがただの泥へと帰した。
だが、この街の連中は、喉元を過ぎればその恐怖を忘れるらしい。
私は、眼前にそびえるレンブラント・ファン・レインの豪邸を見上げた。それは、権威が住まう館というよりは、英雄譚を演じるための舞台のような、どこか危うい均衡の上に立つ楼閣だった。
街中が魔物に食い荒らされた傷跡を隠している最中に、レンブラントは莫大な借金を背負ってこの楼閣を買い取ったという。アントウェルペンの理から見れば、それは正気の沙汰とは思えない振る舞いだ。
「……チューリップの次は、絵具なのか」
私は懐にある、重い小壺をそっと撫でた。人々が何を買い、何を尊ぶかは、私のような職人の知るところではない。
だが、この街に漂う「軽さ」だけはどうしても肌に合わなかった。
私に分かるのは、重さだけだ。
私は、自分の指先に伝わる小壺の冷たい感触を握りしめ、重厚な扉を叩いた。
通されたアトリエの光景に、私は言葉を失った。
そこは私が知る「工房」ではなかった。市場の喧騒がそのまま建物の中になだれ込んできたかのような、無秩序な空間だった。
壁には完成したのかどうかも定かではない習作が無造作に立てかけられ、床には高価な東洋の絨毯が敷かれているが、その上には絵具の染みが点々と散っている。
異国風のターバンを巻いた老人や、物乞いのような風体の男たちがモデルとしてたむろし、職人たちは卑猥な冗談を言い合っていた。
ルーベンス様の工房にあった、あの張り詰めた静寂、整然と並べられた道具、弟子たちの完璧な規律は、ここには微塵もなかった。
「──誰だ、あんたは」
不意に、混沌の中から低い声がした。男が一人、私の方へ歩いてきた。
私はその姿に息を呑んだ。レンブラントという男。想像していた「画家の王」の姿とは、あまりにかけ離れていた。ルーベンス様のような、洗練された宮廷人の佇まいではない。ずんぐりとした体躯に労働者のような太い首。
高価なベルベットの上着を羽織っているが、袖口は顔料でひどく汚れている。
だが、その目は異様だった。獲物を前にした獣のように、私を、いや、私がまとっている「アントウェルペンの匂い」を値踏みしていた。
「画商から話は聞いている。南から来た『影の技術者』だな」
挨拶も、礼儀もない。彼は私の目の前まで来ると、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐような仕草をした。
「……あんたからは、古い教会のカビ臭い匂いがする。だが、その奥に、極上の油の匂いが混じっているな」
彼はニヤリと笑い、無遠慮に手を差し出してきた。握手を求めているのではない。「ブツ」を出せという要求だ。
私はためらいながら、懐から小壺を取り出した。紐を解き、封じていた革を剥ぐ。
レンブラントの目の色が、変わった。それまでの不遜な態度が消え、純粋な、しかしどこか狂気を孕んだ好奇心の輝きだけが残った。彼は壺を奪い取るように受け取ると、中身を指先で掬い取った。
「ほう……」
彼が指先で黒を練ると、アトリエの窓から差し込む鈍い冬の光が、その黒に吸い込まれて消えた。
「これが、ルーベンスの影か。重い。そして、深い。まるで墓石の裏側だ」
彼は恍惚とした表情で、その黒を自分の掌に塗り広げた。
「いいだろう、アントウェルペンの男。採用だ。俺の光は強すぎる。並大抵の影では、すぐに焼き尽くされてしまう。俺の物語には、この『絶対に燃えない影』が必要だ」
彼は私を見なかった。ただ、私の技術(モノ)だけを見ていた。
私はその瞬間、自分がとんでもない場所に来てしまったことを悟った。
この男は、神に仕えるために絵を描いていない。自分の光で世界を焼き尽くすために、私の影を燃料として求めているのだ。
「……一つだけ、条件があります」
私は、乾いた喉から声を絞り出した。
「私が下地を練り、影を置く間、あなたは口を出さないでいただきたい。私の『理(ことわり)』は、あなたの『物語』とは違う時間で動いている」
レンブラントは顔を上げ、私を見て、面白そうに喉を鳴らした。
「理、か。いいだろう、好きにしろ。客への言い訳は俺の仕事だ。その代わり、俺の劇場を、アントウェルペンの教会みたいに退屈な場所にはするなよ?」
こうして、泥と黄金の都アムステルダムで、私はこの魔術師の影の担い手となった。
三、サスキアの光
アトリエの混沌の中に、その「光」は唐突に現れた。
私が地下の薄暗い作業場で、キャンバスに塗り込むための下地を練り上げていた時のことだ。階段を降りてくる衣擦れの音と共に、アトリエの荒々しい熱気が、一瞬にして華やかで、しかしひどく脆い芳香に塗り替えられた。
「──レンブラント、まだ根を詰めているの?」
柔らかな、だが芯に儚さを孕んだ声だった。 私が顔を上げると、そこには豪奢な毛皮を羽織り、真珠の首飾りを何重にも巻いた女性が立っていた。サスキア・ファン・アイレンブルフ。レンブラントの妻であり、彼が最も愛するモデル。
彼女がそこに立つだけで、煤けたアトリエの壁が、王宮の回廊のように錯覚された。窓から差し込む冬の斜光が彼女のブロンドを透かし、その肌を陶器のような輝きで満たしている。
レンブラントは、先ほどまでの獲物を狙う獣のような目を一瞬で解き、子供のような無邪気さで彼女へ駆け寄った。
「サスキア、見ろ、この影を。アントウェルペンから来た男が、俺に『崩れない闇』を運んできたんだ」
彼は誇らしげに、まだ絵具が滴るキャンバスを指し示した。サスキアは微笑んだ。
その微笑みには、熟しきって今にも落果する果実のような美しさと危うさがあった。私は、技術者としての冷徹な目で彼女を観察した。厚く塗られた白粉(おしろい)の下にある、透けるような皮膚の薄さ。時折、咳をこらえるために微かに震える指先。彼女が身に纏っている最高級のベルベットや真珠は、その落果の予兆を、隠しきれていない。
「まあ……とても深い闇。少し、寒気がするほどだわ」
彼女がキャンバスに近づき、私の練り上げた影を覗き込んだ。その瞬間、彼女の白皙(はくせき)の横顔が、泥のような黒の対比によって、この世のものとは思えないほど鮮烈に浮かび上がった。
レンブラントは、愛おしげに彼女の肩を抱き寄せた。だがその抱擁すらも、私には消えゆく光を引き留めようとする、執着の仕草に見えた。
「親方、奥方をあまり光の中に立たせない方がいい。その輝きは、あまりに強すぎて、影を焼き切ってしまう」
私は、自分でも驚くほど無愛想な声で言った。サスキアは私を見て、驚いたように目を丸くし、それから鈴を転がすような声で笑った。
「あら、厳しい職人さん。レンブラントがあなたのことを『岩のような男だ』と言っていた理由が分かったわ」
彼女は私に近づき、私の汚れた手に、温もりのない、しかし羽毛のように軽い手をそっと重ねた。
「お願いね、ヤン。この人の無茶を、あなたが支えてあげて。この人は、目に見えるものすべてを『永遠に続く物語』にしたがっているけれど……自分では、その方法を知らない人だから」
彼女の瞳の中に、一瞬だけ、すべてを諦めたような、深い悟りの色が過ったのを私は見逃さなかった。彼女は知っているのだ。
この楼閣を支えているのが、レンブラントの魔法という名の「虚」でしかないことを。
サスキアが階段を上がっていくと、アトリエは再び乾性油の重苦しい匂いと無秩序な喧騒に引き戻された。
「……見たか、ヤン。あれが俺の光だ」
レンブラントは、彼女が去った空間を呆然と見つめ、力なく笑った。
「あの光を、俺は失うわけにはいかない。たとえ神がそれを奪おうとしても、俺はこの布の上に、彼女を繋ぎ止めてみせる」
私は答えなかった。私はただ、彼女の手が触れた自分の掌に残る、かすかな白粉の跡を見つめていた。粉末のガラス、鉛、油――。私の作るものは、醜く、重く、そして決して美しくはない。だが、あのサスキアという儚い光を、彼女が恐れた「闇」から守り抜くことができるのは、レンブラントの魔法ではない。私がこのキャンバスに打ち込む、「本物の闇」だけなのだ。
私は再び、地下の暗がりへと戻り、重い練り棒を手に取った。魔術師が愛する光が消える前に。その残像を永遠の中に封じ込めるための漆黒を、私は作り続けなければならない。そう思った。
四、商談の不協和音
アトリエに「商売」の風が吹き込んできたのは、湿り気を帯びた日の午後のことだった。
重厚な扉を押し開け、火縄銃手組合(クローフェニールスドゥーレン)の面々が足を踏み入れる。
先頭のフランス・バニング・コック隊長は最高級の黒ベルベットを纏い、首元の襞襟(ひだえり)は完璧な形状で鎮座していた。
私はアトリエの隅の大理石板に向かい、練り棒を握って油と顔料を押し潰していた。
石板の上でねっとりと絵具が練り上がる低い音が、男たちの饒舌な足音と交錯する。
「ファン・レイン。我が隊の肖像を、あの新しい広間の正面に飾りたいのだ。アントウェルペンの……そう、かのルーベンスのような、誰もが足を止める仕上げを頼む」
コック隊長の声には、古都アントウェルペンの「格」への劣等感と、それを金で買い叩こうとする、新興成金都市アムステルダムの傲慢さが混ざり合っていた。
その瞬間、イーゼルの前に座るレンブラントの背中が強張ったのを私は見逃さなかった。
彼にとって、ルーベンスの名は劇薬だ。この男はイタリアへも行かず、この北の街で己の深淵を掘り続ける魔術師だ。海を越えて王侯貴族に愛される「画家の王」は、呪うべき太陽のような存在だろう。私は一瞬、動きを止めて身構えた。
だが、レンブラントの背中に走った緊張は、それではなかった。彼の筆先が、止まった。止まったのは一呼吸にも満たない。私が石板の上で練り棒を回す音の方が、よほど長く尾を引いた。
彼が投げかける視線が、コック隊長の襞襟に跳ねた光から、隊長の顔へ、背後に並ぶ男たちへと滑る。絵に先に「座席」を割り振っている。そういう目だ。彼の喉仏が、小さく上下した。
次の瞬間、彼は何事もなかったように鼻で笑った。
「ルーベンス、か。……あちらの絵は、人ではないものを讃えるためのものです。閣下」
それから、襞襟の白に吸い寄せられるように言葉を足した。
「──閣下。あんたが求めているのは綺麗な聖人の真似事か? それとも、歴史を動かす人間の、実体の物語か?」
「……もちろん、後者だ。誰も見たことのないものを。我々の栄光を。漏らすことなく残してほしいのだ」
「漏らすことなく」
レンブラントは、そこだけを舌の上で転がした。
「ご安心ください、閣下。望む以上の光を封じ込めてやりますよ」
彼は笑った。笑いながら、私が塗り上げた下地の闇へ視線を落とす。
「俺が描くのは、このアムステルダムの泥を蹴って進む、生きた人間の進軍だ。……誰も置き去りにはしない」
レンブラントは私が塗り上げた下地を、まるで宿敵の盾を叩くように強く打ちながら言った。
その言葉に、コック隊長たちは満足げに頷いた。
私は練り棒を止めなかった。──止められなかった。
レンブラントとコック隊長の言葉と期待に、微かなすれ違いを感じていた。
いや、私に分かるのは、重さだけだ。私は自分の影を練り棒の下に押し潰しながら、重く、確かな黒を練り続けた。
後日、私は独りでその場所へ向かった。
完成した巨大なキャンバスが飾られる予定の、クローフェニールスドゥーレンの広間。運河のすぐ脇に立つその豪奢な建物の内部に足を踏み入れた瞬間、私は顔をしかめた。新興都市アムステルダムの「正体」が、そこにあったからだ。
外観こそ石造りの立派な建築だが、広間の空気は、肺にまとわりつくような不気味な湿り気を帯びていた。私は窓際へ歩み寄り、漆喰の壁に掌を当てた。指先に伝わってきたのは、壁の奥から染み出している運河の冷気と、逃げ場を失った水蒸気の、しぶとい感触だった。
(……ここは、絵画の墓場だ)
冷たさが、皮膚の奥へじわりと染み込んでくる。指を離しても、しばらくそこに残るような冷たさだった。壁の内側から息が漏れている。そういう湿り方だ。
私は腰の袋から薄いナイフを抜いた。壁の隅、目立たぬ継ぎ目に刃先を当て、ほんの少しだけ削る。白い粉は乾いていない。指の腹に貼り付き、ゆっくりと溶ける。
私はその粉を親指と人差し指で潰し、匂いを確かめた。運河の冷気の匂いが混じっている。
(ここに掛けたら、膠の下地はまず、もたない)
そう思った瞬間、胸の奥で、別のものが小さく跳ねた。私は懐の小壺の輪郭をなぞった。革越しに伝わってくる、鈍い重さ。冬でもぬるまない冷たさ。ナイフを鞘に戻し、削った粉を指で払う。払っても落ちない湿り気。私は壁をもう一度だけ撫で、掌を握りしめた。私は広間の壁を一度強く叩き、決意を固めてアトリエへと引き返した。
五、崩れゆく光
1641年、冬。このブレー通りの楼閣は、二つの熱病に冒されていた。
一つは、アトリエの中央に鎮座するあの巨大なキャンバスだ。
レンブラントは取り憑かれたように、百本近い筆と山のような絵具を動かし、注文主たちが望んだ「栄光」を、彼一人のための幻想劇へと塗り替えていた。
そしてもう一つは、アトリエの奥、閉ざされた寝室から漏れ聞こえる、あの乾いた音だ。
壁を隔てて響くのは、サスキアの咳だった。かつてレンブラントのキャンバスの中で、花の女神として光を放っていた彼女の命は今、恐ろしい胸の病に内側から食い荒らされていた。
私は石板の上で、より厚く、より粘り気のある「白」を練った。
アトリエの空気は、鼻を突く乾性油の匂いと、サスキアが吐き出す微かな血の匂いが混ざり合い、奇妙な重苦しさを帯びている。
「ヤン、もっとだ。あの少女のドレスに、誰の目も眩むような輝きを載せるのだ」
レンブラントの声は、もはやコック隊長たちと商談をしていた時のそれではない。
彼は寝室から咳が聞こえるたび、まるでその音を掻き消そうとするかのように、乱暴な筆致でキャンバスを叩いた。中央で光を浴びるあの少女。サスキアの面影を宿しながら人間離れした輝きを放つ姿は、消えゆく妻の命をこの世に繋ぎ止めるための祈祷のようだった。
だが、どれほど絵具を厚く盛り、光を捏造したところで、肉体の崩壊を止めることはできない。
「……親方、少し休まれては。奥方の様子が……」
「黙れ! 描いている。今、俺はサスキアを、この闇の中に、永遠に、封じ込めるのだ!」
レンブラントは振り向きもせず、叫んだ。その瞳は血走り、絵具の汚れた手は小刻みに震えている。
彼は、コック隊長たちの虚栄心などもう覚えていなかった。ただ妻に迫る「死」という名の影から光を奪い返そうと、誰も見たことがない物語を描こうと、足掻いていた。
私は再び練り棒を握り、体重をかけた。彼が光を描けば描くほど、より深い闇が必要になる。
サスキアの命が削られていくたびに、コック隊長たちが望んだ「物語」は、重く、暗い影に侵食されていく。
私は、さらに重厚な鉛を、さらに純度の高い「黒」を練った。石板の上で、練り棒が鈍く鳴る。掌の骨にまで響く音だった。
黒は、粘りを増していく。光を吸うというより、光の方から逃げていく。そういう黒だ。レンブラントが筆を叩きつけるたび、キャンバスの表は荒れる。そのたびに私は、裏に回って指を当てた。布の張りがわずかに変わっている。
私は迷わず、鉛の小壷を開けた。蓋をひねると、鼻の奥が冷える匂いが立った。
(ここまでやれば、戻れない)
そう思ったのに、手は止まらなかった。私は刷毛を取り、鉛の重い層を叩き込んだ。擦り込む。押し込む。布の繊維が鳴る。鉛はすぐに黒に濁り、黒はさらに深くなる。境目が消えていく。
「ヤン。もっとだ。もっと闇を深くしろ!」
あの声が、上から落ちてくる。
私は返事をしない。乾ききらないうちに、層を重ねる。アントウェルペンの理の作法では避ける手順だ。避ける理由も、私はよく知っている。それでも、私は重ねた。もう、あの連中の顔のことなど、頭のどこにもない。私はあの連中の虚栄を嫌った。
だが、見てみたい、残したい、という欲はあの連中と、変わらないようだ。
練り棒を握り直す。
石板の上の黒がまた一段沈む。アトリエに響くのは、筆がキャンバスを打つ音と絶え間ない咳の音。そして、私が石板の上で練り棒を回す、鈍い音だけだった。
六、破壊の果ての深淵
1642年、6月。ブレー通りの楼閣に、重苦しい沈黙が降りた。サスキアが、その短すぎる生涯を閉じた。
アトリエの熱狂は凍りついた。レンブラントは数日間、死んだように動かなかった。この楼閣から灯が消え、画商たちの下卑た笑い声も、弟子たちの騒々しい足音も、嘘のように止んだ。残されたのは、乾きかけの巨大なキャンバスと、そこに中途半端に浮き上がった「黄金の少女」の残像、そして私の練り上げた冷たい鉛の匂いだけだった。
「……理(ことわり)の、勝ちか」
私は一人、暗いアトリエで呟いた。どれほど魔術を弄し、光を捏造しようとも、肉体が朽ちるのを止めることはできない。
だが、サスキアの葬儀を終えて戻ってきたレンブラントは、私の想像とは全く違う姿で現れた。彼は泣いていなかった。その瞳には、絶望という名の、より凶暴で、より底知れぬ「魔力」が宿っていた。
「ヤン、立て。仕事の続きだ」
彼の声は、墓石を削るような音だった。喪の外套を脱ぎ捨て、絵の具にまみれた作業着姿に戻り、汚れたパレットを握りしめた。
その手は震えていたが、筆を構える力は以前よりも増しているように見えた。
「親方……これ以上、何を。彼女はもう、ここにはいません」
「いいや、ここにいる。俺が今、この瞬間に『描き直す』んだ」
彼は巨大なキャンバスの前に立ち、黄金の少女の周囲に、恐るべき速さで黒い絵具を叩きつけ始めた。それは肖像画を描く筆致ではない。自分を置き去りにした現実を、あるいは彼女を連れ去った神への呪いを、塗りつぶすための戦いだった。
「いいかヤン、あいつらが求めているのは、俺の『物語』だ。なら、見せてやる。愛する者を闇に沈め、自分だけが泥の中に残される、救いようのない、最高の物語だ」
彼は狂ったように筆を振り、少女の周囲に置かれた隊員たちの顔を、次々と黒い影の中に埋没させていった。代価を払った注文主たちの面目など、今の彼には1スタイフェルの価値もない。
「もっとだ、ヤン。もっと闇を深くしろ!あいつらは、光と影が照らし合う、俺の『物語』を求めているのだ!」
「俺はこの集団肖像画に亡き妻の魂までも鎮め、あのルーベンスをも超える、これまでにない傑作を描くのだ。これほどの勤勉が他にあるか!赦(ゆる)されざるはずがない!」
その叫びが、アトリエの壁に虚しく、しかし鮮烈に響いた。
私は悟った。今、この男は自らの手で「魔術師」としての力を使い果たそうとしている。自らの祈りのために、すべてを壊そうとしている。
その破壊の果てに生まれる「闇」は、かのルーベンス様を超えて、遥かな深淵にまで達しようとしている。
「……いいでしょう、親方。あなたの望むままに、世界を光と影で満たしましょう」
私は、地下から持ち出した最後の一瓶――あの不気味な鉛の処方薬を手に取った。私はその闇が、時間を超えて生き延びるための「鎧」を打ち続けるまでだ。アムステルダムの湿った壁から、この男の最後の呻きを守り抜く。
そのために、私はキャンバスに、封印を施し続けた。
七、祭りの終わり
1642年、晩夏。 熱病は、唐突に去った。
あれほどアトリエに充満していた乾性油の熱気と、魔術師の狂気じみた叫びは、嘘のように消え失せていた。
巨大なキャンバスが運び出される朝、ブレー通りの楼閣には、祭りの後のような、虚脱した静寂だけが満ちていた。
「慎重に運べ! 少しでも傷をつけたら、お前たちの給金が吹き飛ぶぞ!」
火縄銃手組合から雇われた屈強な人足たちが、掛け声と共に巨大な木枠を担ぎ上げる。その非常識な重みに、アトリエの床板が悲鳴のような軋み声を上げた。それは絵画の搬出というより、巨大な獣の死骸、あるいは封印された呪物を運び出す葬列のように見えた。
レンブラントはアトリエの隅、サスキアが生前好んで座っていた椅子に深く沈み込んでいた。 あの獲物を狙うような目つきは、もうない。その顔には深い疲労と、魂がごっそりと抜け落ちたような空白だけが張り付いている。彼は、自分の全てを注ぎ込んだ「物語」が、自分のもとから引き剥がされていくのを、まるで遠い他人の出来事のように虚ろな目で見つめていた。
「……行ってしまったな」
彼がポツリと呟いた声は、枯れ葉のように乾いていた。
私は、傾けられ、狭い玄関扉を辛うじて潜り抜けていくキャンバスの「裏側」を見た。 そこには、私が数ヶ月を費やして塗り込め、叩きつけた、重く、鈍い鉛の層が染み出して広がっている。
アムステルダムの湿気から、この絵を守るための無骨な鎧。
魔術師の魔法は、間もなく解ける。
私は知っている。これからこの絵がクローフェニールスドゥーレンの湿った広間に飾られた瞬間、何が起こるかを。
期待に胸を膨らませた注文主たちは、除幕された絵を見て凍りつき、やがて激怒するだろう。「俺はどこにいる」「これでは完全な端役ではないか」「契約違反だ」と。
約束されたはずの莫大な残金は支払われず、この楼閣の借金は膨れ上がり、やがて債権者たちが押し寄せる。サスキアという光を失った彼には、もうその現実に抗う術はない。
ドン、と重い音がして、玄関の扉が閉まった。アトリエから、あの巨大な光と影が消えた。
後に残されたのは、主を失ったガランとした空間と、床に散らばる毒々しい顔料の染み、そして窓から差し込む、残酷なほど明るい夏の光だけだった。
「……終わったな、ヤン」
レンブラントが、誰に言うでもなく呟いた。ああ、終わったのだ。アムステルダムを熱狂させた短い夢は。
私は答えず、ただ自分の手に染み付いた、洗っても落ちない鉛の匂いを嗅いだ。
祭りは終わり、魔術師は死ぬ。だが、私が打ち込んだ鉛の鎧は、あのキャンバスの中で、これから始まる果てしない時間を、生き続けるに違いない。
八、北からの便り
1660年代、初頭。
私は、再びアントウェルペンの理の中にいた。
かつてのルーベンス様の王国は、今や静かな、あまりにも静かな黄昏時を迎えていた。
私は絵画の修復家として小さな工房を構え、若い徒弟たちに「正しい地塗りの作法」を淡々と説く日々を送っていた。アムステルダムでのあの熱病のような日々は、懐に隠した小壺の顔料のように、誰にも語らぬ秘密として仕舞い込んでいた。
そんなある日のことだ。アムステルダムの画商から、一枚の簡素な版画が届けられた。
「……ほう」
私は作業台の上でその版画を広げ、思わず息を呑んだ。
それは、布地商組合の見本調査官たちを描いたものだった。
一目でわかった。あの魔術師は、まだ死んでいなかった。
それどころか、彼はかつての荒々しい虚飾を捨て、全く別の地平に立っていた。
描かれているのは、五人の調査官と一人の使用人。
かつての火縄銃手たちの劇的なポーズも、不自然な黄金の少女もそこにはない。だが、この版画から放たれる視線の鋭さ、そして画面を支配する圧倒的な「実体」の重みはどうだ。
彼は、学んだのだ。
注文主たちの顔を平等に描きつつ、その一人一人の内面に、消えることのない「物語」を宿らせる方法を。そこには、私が説いた「理」と、彼の「魔法」が完璧な調和を保って共存していた。
「……とうとう、辿り着いたのですね」
私は版画の黒い線をなぞりながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
あの手痛い没落……サスキアの死。名声の失墜。
それらすべての代償を払い、彼はついに「真実」を描き出す術を手に入れたのだ。
それと同時に、私の中に、抑えがたい一つの問いが浮上した。
ならば。
あの日の彼がすべてを賭け、私が禁忌を冒して支えた、あの「傑作」はどうなったのか。
アムステルダムの湿った壁。あの最悪の環境。
レンブラントが「理」を軽蔑し、己の魔法だけを信じていたあの頃、私が打ち込んだ鉛の鎧は、果たして今もあの危うい劇場を支え続けているのだろうか。それを確かめずに、死ぬわけにはいかない。
私は重い腰を上げ、再びスヘルデ川を下る旅支度を始めることにした。
かつての共犯者が辿り着いた「正解」を祝うために。
そして、あの「過ち」が今も在り続けているかをこの目で確かめるために。
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