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食べてすぐ寝たら牛になるよ

梓星

35,365 字

現代ファンタジー、家族ドラマ

"娘が牛になった世界で、父は新たな家族の形を探す。"

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第1章

 スマートフォンのアラームで目が覚める。午前4時半。昨夜は残業があり、帰宅したのは11時近く。疲れは残るが今日が金曜であることを思い出し気を奮い立たせる。
 顔を洗い、歯を磨いて、水を一杯飲む。玄関を出る。7月。日が出たばかりだが、既に猛暑の気配が漂っている。
 庭に回る。茶色がかった子牛がぼんやりと立っている。「おはよう、由奈」。当然、挨拶に返事はない。もっとも人間だったころも由奈は寝起きが悪く、朝の挨拶は返ってこないことが多かったが。
 物置にストックしている干し草を取り出す。糞を庭の隅の木製の囲いの中に入れる。牧草の食べ残しもそこに放り込んで蓋をする。そして由奈にホースで水をかけてブラッシングしてやる。由奈は気持ちよさそうに目を細めている…ように見えるのは気のせいか。
 離婚後はなんでこんなものを買ったのかと後悔していた一戸建ても今となっては良かったと思う。集合住宅だったら由奈を置いておくことはできなかった。
 「なぁ、由奈。パパの言ってることは分かるか?」。子牛はのんびりと牧草を食んでいるだけだ。

 定時で退社して会社から自宅とは反対方向に電車で三駅。市の地域支援センターへ向かう。10メートルほど先を何度かセミナーで顔を合わせたことのある男が歩いているが、声をかける気にはならない。
 地域支援センターの入口には目立たないように、本日の催事「牛化当事者支援団体たうるす セミナー」と書かれている。「恥ずかしがったり、世間体を気にすることはない」と前回のセミナーで言われた気がするが、そうであるならもっと堂々と張り出せばいいと内心毒づいた。
 会場に入ると、30脚ほど並んだパイプ椅子は既に半数ほどが埋まっていた。後ろの方の席に座る。スマホを取り出し、自宅の軒下に取り付けた見守り用のスマートカメラにアクセスする。由奈は道路の方を向いて座っている。反芻しているのか口が動いている。
 間もなく講師の女性が現れる。常に笑顔を絶やさない年齢不詳の女だ。「私が今日、皆様にお伝えしたいのは、まずご自身を責めたりすることはしないでほしいということです」
 妻が出ていったのは昨年の今頃。由奈はもともと私に懐いていたので当然のように私と暮らすことを選択した。住む家もそのまま。生活から妻だけが消えた形だ。
 妻は不妊治療をするほど子どもを欲しがっていたにも関わらず、出産後、想像以上に育児が大変だと分かるとあれこれ理由をつけて由奈と向き合うことを避けているようにしか見えなかった。
 することといえばもっともらしい写真をとってインスタグラムにアップロードして「幸せ」をアピールすることぐらい。
 だから妻がいなくなっても生活はほとんど変わらなかった。
 いや、そう思っていたのは間違いだったのだろう。
 由奈の七歳の誕生日の少し後の5月。仕事を終えて家に帰ると、いつも鍵を開ける音を聞きつけるとすぐに玄関に出迎えにくる由奈が来ない。嫌な予感がして足早に居間へ向かうと茶色い子牛が床に寝そべっていた。
 「ご自身を責めても事態は何も変わらないどころか、悪くなるだけです。趣味や友人との時間をとって楽しむというのは決して冷たいとか非難されるようなことではないんです」
 もし離婚していなかったら。
 妻はそれこそ牛のようにソファに寝転んでスマホをいじっているだけだった。家事も私が大半をこなし、むしろ由奈の手伝いの方が貢献していたくらいだ。
 だが、それでも離婚さえしていなければ私が帰宅するまでの時間、由奈は一人じゃなかった。お菓子を食べた後、うとうとし始めたら「食べてすぐ寝たら牛になるよ」と声をかけてくれる人がいた。
 「牛になられたご家族もきっと皆さんが日々悲しんで暮らすことは望んでいないでしょう」
 放課後、なるべく由奈が一人にならないよう工夫はしていた。習い事を増やし、学童保育にも入れた。だが、どうしても夕方以降、家で一人になってしまう時間をゼロにはできなかった。
 よく男親はリスクに鈍感で、子どもが事故に遭うのは男親が見ている時が多いという。ずっと由奈を見守ってきた私は「そんなことない」と思っていたが、私もそんな無配慮な男親の一人だったのだろう。あるいは妻がそんな私と由奈をそっと支えてくれていたのかもしれない。
 クラウドストレージに保存された由奈の写真を眺める。妻が撮影した写真も少なくない。これは全てインスタグラム投稿用だったのだろうか?
 講師は1時間たっぷりかけて、家族が自らを責めないこと、日常を楽しむことの大切さを滔々と語り続けた。正直な感想は、こんな話を聞くよりも早く帰っていつもより長く由奈と一緒にいてやれば良かった、というものだ。
 もうこの会に顔を出すこともないだろう。講師が話し終えると、愛想もなくすぐに支援センターを後にする。
 早く帰りたい気持ちもあったが、帰りはどうせ満員電車。ここで食べてしまった方がいいだろう。安いことで知られるイタリアンの店に入る。ハンバーグなどは食べる気にならない。パスタとサラダを食べる。
 食後のウォーキングコーナーは無視して駅へ向かう。万が一にも食後30分以内に寝るわけにはいかないが、家までちょうど電車で30分ほどだ。満員電車に立って乗れば寝てしまうことはない。
 週末ということもあり駅前は賑わっている。学生の夏休みも近い。シネマコンプレックスでは、人気アニメの大きな看板が掲げられている。思わず目を背ける。
 一度牛になった男が牛の怪力をそのままに人間に戻り、通りがかった偉い侍に見初められて京の都で活躍したという昔話がある。その話をモチーフに牛から戻った少年が妖怪変化や悪い宇宙人と戦うアニメだ。
 少し前まで由奈と一緒にテレビで見ていた。今はとても見る気にはなれない。

X X X

 なんでか知らねぇが、みんながオラのことをポカンと口開けて見てる。アホみたいな面だ。畑の方から駆けてきたのはおっ母だ。「弥太郎!」ってオラの名前を叫んでる。よく見るとオラは素っ裸だ。あれ、今までオラは何してたんだっけ?
 「弥太郎! あんた、戻れたのか」
 全く覚えがねぇが、どうやらオラは十日の間、牛になってたらしい。明日には牛送りで祓われるところだったって言うから、命拾いしたもんだ。「10日ぐれぇ牛になって野良仕事休みてぇとか言ってるからこんなことになるんだ」と怒られちまったけど。
 「牛になった奴はたくさんいるが、人に戻った奴を見たのは初めてだ」と村の大人たちは口々に言う。ただ、神社の神主さんによると、唐国で牛から戻って、偉いお坊さんの旅の手助けをした人がいたそうだ。
 次の日には野良仕事に出た。妙に仕事が捗ると思ってたら、「おめぇ力が強くなったな」「牛の力を持ち帰ったんでねぇか」なんて言われる始末だ。
 オラも最初は畑仕事にいい塩梅だくらいに思ってたが、村の爺様が熊に襲われかかった頃から、風向きが変わってきた。
 若い衆で見回りしてたら、運悪く熊に出くわしたんだけど、そこで襲ってきた熊を投げ飛ばしたら、「熊と相撲を取って勝った」だの「熊にまたがって馬の稽古をしてる」だの無茶苦茶な噂を立てられた。力自慢で頼られてるうちは良かったんだけど、だんだんみんなが気味悪がって、近付いてこなくなった。
 「あんまり気落ちすんな。人を傷付けるようなことさえしなけりゃ、そのうちみんな分かってくれる」
 おっ母はそう言うけれど、小さい頃から一緒に遊んでた馴染みにも避けられるようになり、おっ母まで孤立するようになると、さすがに堪えた。
 最初はオラの力が強いのが怖いのかと思ってたんだけど、「牛から戻るなんて物の怪の類だ」なんて話してるのをうっかり聞いてしまってからは、もう受け入れてもらえることはねぇってことが鈍いオラにも分かった。
 オラが都に行くって言うと、おっ母は少し黙って「そうだな。その方がええかもしれんな」と言った。それでなけなしの米で握り飯をこさえてくれた。それを持ってオラは一人、都に向かった。
 おっ母にも馴染みの連中にも、これっきり会えなくなると思うと涙が溢れた。オラは牛になる前と何一つ変わらねぇつもりなんだけど、そう思ってるのはオラだけなのかもしれねぇな。

X X X

 「牛帰りの弥太郎」の昔話に縋って、牛化した人が戻る方法があると信じる人もいる。だが私にはそれは子宝に恵まれなかった人が川辺に座って子どもが入った桃が流れてくるのを待つのとの違いが分からない。

── 第1章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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