等価交換したくないので錬金窯を自作してみました
【ユーザ情報】
ユーザID: 3128636
ユーザ名: 若菜みかん
【Nコード】
N7780MR
【タイトル】
【プロット公開】【完結】等価交換したくないので錬金窯を自作してみました
【作者名】
若菜みかん
【種別】
連載作品
【完結設定】
完結済
【年齢制限】
全年齢
【ジャンル】
ローファンタジー〔ファンタジー〕
【作品に含まれる要素】
AI直接使用
【キーワード】
なろうフェス2026 ギャグ 男主人公 女主人公 西洋 中世 職業もの 魔法 日常 錬金術 工場
【あらすじ】
【全22話】一気読み歓迎 プロット公開中
これからは番外編を書きます
魔力さえあれば、素材を別のものへ変えられる――そんな錬金術が存在する世界。
子供が生まれたことをきっかけに危険な冒険者生活を引退した元魔導師マードックは、家族と安全に暮らすため錬金術師へ転向した。
ところが、実際に錬金術を使ってみて気付いてしまう。
「……これ、割に合わなくないか?」
高価なものを作ろうとすれば、高価な素材と大量の魔力が必要になる。
それなら最初から買った方が早い。
だったら――錬金窯そのものを改良すればいい。
魔石をつないで魔力を節約。
余ったものは再利用。
料理を作り、家具を作り、ついには家まで作り始める。
本人はただ、楽をしたかっただけだった。
「ちゃんと代価は払ってますよ。効率化しただけです」
「屁理屈をこねおって!」
神に呆れられながらも、マードックの錬金窯は少しずつ巨大になり、人を巻き込み、やがて町のものづくりそのものを変えていく。
そして技術が進み続けた先で、彼らは一つの問いにたどり着く。
――作れるものは、本当に作っていいものなのか。
これは、楽をするためなら努力を惜しまない一人の男が、
錬金術を「魔法」から「技術」へ変えていく物語。
【掲載エピソード数】
26
【初回掲載日時】
2026-09-02 19:58:59
【最終掲載日時】
2026-09-08 14:31:48
【感想受付】
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【レビュー受付】
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【評価】
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評価平均: 4.0pt
【収益情報】
収益化設定: 有効
累計獲得チアスコア: 0.00
累計獲得なろうリワード: 0
------------------------- エピソード1開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
プロローグ 父親になったので冒険者を辞めることにした
【本文】
小さいな。
マードックが生まれたばかりの息子を見て最初に思ったのはそれだった。
「ほら、ちゃんと頭を支えて」
「分かってる」
「分かってる人の顔じゃないわよ」
ローレライは笑いながら赤ん坊を差し出した。
マードックは両腕でおそるおそる受け取る。
思っていたより軽い。それなのに腕が妙に緊張する。
「これでいいのか?」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「大丈夫だから。そんなに力を入れないで」
そう言われても力を抜く方が難しかった。
マードックは魔導師だった。
冒険者として何度も魔物と戦ってきた。炎を操い、岩を砕き、自分より大きな魔物を相手にしたこともある。魔力の扱いにはそれなりの自信があった。
そんな男が赤ん坊一人を抱くだけで緊張している。
「……怖いな」
「あら、あなたでも怖いものがあるのね」
「そりゃあるさ」
腕の中で赤ん坊が少し動いた。
マードックの身体が固まる。
「そんなに緊張しなくても壊れないわよ」
「いや、壊れるだろ」
「壊さないでよ」
「だから怖いんだよ」
ローレライが声を殺して笑った。
マードックは赤ん坊の手に指先で触れてみる。
小さな手が動き、指を握った。
「……」
弱い力だった。
それでもマードックは指を動かせなかった。
「セドリック」
ローレライが名前を呼んだ。
「この子がセドリック」
「ああ」
二人で何度も話し合って決めた名前だった。
マードックは自分の指を握っている小さな手を見つめた。
ふと三か月ほど前の仕事を思い出す。
冒険者仲間と森へ入り、獣型の魔物を討伐する依頼だった。
事前に聞いていたのは一頭だけだったが、実際には群れになっていた。
冒険者をしていれば珍しい話ではない。
仲間と連携して何とか切り抜けたものの、マードックは左肩に大きな傷を負った。
家へ帰るとローレライが黙って傷の手当てをしてくれた。
その腹にはセドリックがいた。
あのとき判断を一つ間違えていたら。
魔力がもう少し早く尽きていたら。
仲間の援護が間に合わなかったら。
今ここに自分はいなかったかもしれない。
「ローレライ」
「なに?」
「俺、冒険者を辞めるよ」
ローレライは目を丸くした。
「今決めたの?」
「ああ」
「ずいぶん急ね」
「前から少し考えてたんだ。今決めた」
マードックはセドリックを見る。
ローレライは少し黙ってから息を吐いた。
「そう」
「反対しないのか?」
「すると思った?」
「もう少し驚くかと思ってた」
「驚いてるわよ。でも安心した」
その言葉を聞いてマードックは何も言えなかった。
冒険者は稼げる。
実戦経験のある魔導師なら仕事にも困らない。危険な依頼を選べば報酬も上がる。
今まではそれでよかった。
危険なのは最初から承知していたし、自分で選んだ仕事だった。
だが、これからは違う。
自分が死んだら困る人間が二人いる。
「問題は次の仕事だな」
「もう仕事の話?」
「働かないと三人で食っていけないだろ」
「今日くらいは息子のことだけ考えたら?」
「息子のことを考えてるから仕事の話をしてるんだよ」
「あなたらしいわね」
冒険者を辞めるなら別の仕事が必要になる。
できれば危険が少なく、家の近くで働ける仕事がいい。これまで身につけた魔力制御も無駄にはしたくない。
マードックはいくつかの仕事を頭に浮かべた。
「錬金術かな」
「錬金術?」
「魔力を使うし、工房を持てば町から出なくていい」
「あなた、錬金術なんてできた?」
「基礎なら知ってる」
「それで仕事にするの?」
「これから覚えればいいだろ」
ローレライはしばらくマードックを見つめた。
「簡単に言うわね」
「魔物に食われるよりは簡単だ」
「比べるものがおかしいのよ」
それでも悪くない選択だと思った。
錬金術なら町で仕事ができる。
朝に家を出て仕事をする。夜になれば帰ってくる。
何日も森に入り続ける必要はない。依頼先で野宿することもない。
それならセドリックが大きくなっていく姿も見られる。
腕の中でセドリックが小さなあくびをした。
マードックはその顔を見て笑う。
「よし、決めた」
「今度は何?」
「俺は錬金術師になる」
「まずはちゃんと勉強してから名乗ってね」
「分かってるよ」
マードックが錬金術師を選んだ理由は単純だった。
世界を変えたいわけではない。
錬金術の歴史に名を残したいわけでもない。
神の定めた法則に逆らうつもりもなかった。
家族と暮らして、なるべく危険な目に遭わずに働く。
そして毎日ちゃんと家へ帰る。
それだけだった。
錬金術師なら家に帰ってこられる仕事だと思った。
少なくとも、このときは。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード2開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
一年目 魔力効率化 1
【本文】
マードック錬金工房。
そう書かれた真新しい看板を入口に掛けてから三か月が経った。
工房の中央には大きな錬金窯が置かれている。
石と金属で作られた円筒形の窯で、上部には素材を入れるための蓋がある。側面には魔力を流し込むための術式が刻まれていた。
マードックは窯の前に立ち、深く息を吸った。
「よし」
窯の中には鉄鉱石が入っている。
術式へ手を当てて魔力を流す。
淡い光が刻まれた線に沿って広がり、窯の内部から低い音が聞こえてきた。
しばらくすると光が消える。
マードックは蓋を開けた。
「できた」
中にあるのは精製された鉄だった。
不純物の多かった鉱石とは見た目から違う。
取り出した鉄を眺めていると、後ろからローレライが覗き込んだ。
「成功?」
「成功だな」
「ずいぶん嬉しそうね」
「そりゃ嬉しいさ。三か月前まで錬金術師ですらなかったんだぞ」
「三か月前から錬金術師って名乗ってなかった?」
「看板を出した日から錬金術師だ」
「そういうものなの?」
「たぶん」
ローレライは少し怪しいものを見る顔をした。
それでも仕事にはなっていた。
鉄の精製。
銅の精製。
簡単な合金。
壊れた金属製品の材料への再加工。
まだ一人前とは言えないが、基礎的な錬成なら安定して成功するようになっている。
特に魔力制御では苦労しなかった。
長く魔導師をしていた経験がそのまま使えたからだ。
錬金術師になった判断は間違っていなかった。
少なくともマードックはそう思っていた。
ある日までは。
「金を作ろう」
昼食の席でマードックが言った。
ローレライはスープを飲む手を止めた。
「急にどうしたの?」
「気付いたんだよ」
「何に?」
「鉄を作るより金を作った方が儲かる」
「……そうなの?」
「鉄より金の方が高いだろ」
「それはそうね」
「同じ錬金術を使うなら高いものを作った方がいい」
完璧な理屈に思えた。
少なくともマードックには。
翌日から実験が始まった。
まず銀。
成功した。
次に純度の高い銀。
これも成功。
その次は金。
必要な素材を集め、錬成条件を調べる。
鉄とは比べものにならない量の魔力を要求されたが、それでもマードックなら扱えた。
窯の術式が光る。
額から汗が流れた。
「まだか……」
魔力を送り続ける。
冒険者時代でも、ここまで長時間一定量の魔力を出し続けることは少なかった。
ようやく術式の光が消えた。
マードックはその場に座り込む。
「できた……」
窯の中には小さな金塊があった。
手に取る。
重い。
間違いなく金だった。
「ローレライ!」
家からローレライがやってくる。
「どうしたの?」
「見ろ」
マードックは金塊を見せた。
「金?」
「金だ」
「作ったの?」
「作った」
「すごいじゃない」
「だろ?」
これならいける。
鉄や銅を細々と精製するより効率がいい。
もっと条件を詰めれば量も増やせるかもしれない。
宝石も試したい。
希少金属もいい。
錬金術師になって三か月。
早くも楽に稼ぐ方法を見つけてしまった。
マードックは上機嫌で帳簿を開いた。
材料費を書く。
今回の錬成に使った素材。
補助材料。
窯の消耗。
そこへ自分が使った魔力量を加える。
魔力は無料ではない。
使えば疲れる。
大量に消費すれば休息が必要になり、その間は仕事ができない。
同じ量を魔石で補う場合の価格も書いてみた。
完成した金塊を秤に載せる。
現在の相場から売却価格を計算した。
「……」
マードックはもう一度計算した。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「ちょっと待ってくれ」
数字を書き直す。
素材の量を確認する。
金塊をもう一度量る。
「おかしいな」
「何が?」
「思ったより儲からない」
ローレライが帳簿を覗き込む。
「材料が高いんじゃない?」
「高い」
「魔石も高いわね」
「高いな」
「窯も傷んでるんでしょ?」
「……少し」
「あなた、さっきから疲れて座ったままじゃない」
「それもある」
ローレライは完成した金塊を持ち上げた。
「これ、普通に買ったらいくら?」
マードックは答えた。
ローレライは帳簿を見る。
もう一度金塊を見る。
「買った方がよくない?」
「待て」
「何を?」
「それを言ったら錬金術師の存在意義がなくなる」
「でも買った方が安いんでしょう?」
「……条件を変えればいい」
マードックは宝石を試した。
駄目だった。
銀も計算した。
大して変わらなかった。
希少金属についても調べた。
希少なものには希少な素材が必要だった。
素材を減らせば、その分だけ必要な魔力が増える。
魔力を減らせば、素材の条件が厳しくなる。
何かを減らせば別の何かが増える。
錬金術は便利だった。
便利だが、都合よくはできていない。
数日後。
マードックは工房で錬金窯を眺めていた。
「割に合わない」
結論が出た。
高価なものを作れば楽に稼げる。
そんなうまい話はなかった。
「じゃあ普通に仕事する?」
ローレライが言った。
「嫌だ」
「働くの嫌なの?」
「違う。無駄があるのが嫌なんだ」
マードックは錬金窯へ近づいた。
側面に刻まれた術式を見る。
素材を入れる。
術式を起動する。
術者が魔力を送り続ける。
錬成が終わるまで待つ。
どこの工房でも使われている普通の錬金窯だ。
「そもそも、なんで俺がずっと魔力を送り続けないといけないんだ?」
「そういうものだからじゃない?」
「そういうものっていうのが気に入らない」
マードックは窯の周りを歩く。
一周して正面へ戻った。
もう一周する。
「素材を変えても駄目だった」
「そうね」
「作るものを変えても駄目」
「そうね」
「だったら……」
マードックは錬金窯を見上げた。
「こいつを変えればいい」
ローレライも窯を見る。
「錬金窯を?」
「ああ」
「買ったばかりよ?」
「だから?」
「高かったのよ?」
「知ってる」
「壊さないでね」
マードックは返事をしなかった。
「ねえ」
「まず構造を調べるだけだ」
「その言い方、信用できないんだけど」
マードックは工具箱を持ってきた。
錬金術師になって三か月。
ようやく仕事にも慣れてきたところだった。
その日、彼は初めて錬金窯を分解した。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード3開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
一年目 魔力効率化 2
【本文】
錬金窯を分解して三日が経った。
「直せるの?」
「直せる」
「本当に?」
「たぶん」
「今たぶんって言った?」
工房の床には錬金窯だったものが広がっていた。
外装。
魔力を流すための術式板。
錬成室を囲む金属板。
魔力を内部へ導くための部品。
その中央でマードックは腕を組んでいる。
「思ったより単純だな」
「私には元に戻せるようには見えないけど」
「大丈夫だ。全部覚えてる」
「図面は?」
「ない」
「描きながら分解しなさいよ」
もっともだった。
マードックは床に並べた部品を見る。
「次からそうする」
「次も分解するの?」
「必要なら」
ローレライはため息をついて家へ戻っていった。
マードックは作業を再開する。
錬金窯の仕組みそのものは理解できた。
問題はやはり魔力だった。
素材を入れる。
術式を起動する。
術者が魔力を流す。
錬成が始まる。
必要な魔力量に達すると錬成が完了する。
「なんで俺が全部出すんだ?」
そこが気に入らない。
魔導師だった頃も同じだった。
魔法を使えば自分の魔力が減る。
使いすぎれば動けなくなる。
当然のこととして受け入れてきた。
だが、錬金術は戦闘ではない。
敵が待ってくれるわけではない戦場なら、自分の魔力を一気に使う意味はある。
工房に置かれた錬金窯には逃げる足もなければ、襲ってくる牙もない。
急ぐ必要がない。
「別に俺じゃなくてもいいだろ」
マードックは棚から小さな魔石を取り出した。
魔力を蓄えた石だ。
魔導具の動力などに使われている。
珍しいものではない。
錬金術でも補助的に使われることはある。
マードックは魔石を術式板の横へ置いた。
「ここから入れて……」
術式を紙に写す。
錬金窯の魔力経路は、術者から魔力を受け取ることを前提に作られている。
ならば入口を増やせばいい。
自分から入れる魔力。
魔石から入れる魔力。
二つを同じ経路へ流す。
「いけそうだな」
問題は量だった。
魔力は多ければいいわけではない。
錬成中に供給量が大きく変われば錬成そのものが不安定になる。
魔石を直接つなげば、どれだけ流れ込むか分からない。
「じゃあ絞ればいい」
マードックは魔力の流れを制限する術式を追加した。
魔導師時代に使っていた考え方だった。
大きな魔法を使うときも、一気に魔力を流せばいいとは限らない。
必要な量を必要な速さで流す。
それを錬金窯にやらせる。
三日後。
錬金窯は元の形に戻った。
正確には少し違っていた。
側面から一本の管が伸び、その先に魔石を固定する箱が取り付けられている。
「……格好悪いわね」
完成した窯を見たローレライの第一声だった。
「性能には関係ない」
「もう少し何とかならなかったの?」
「試作品に見た目を求めるな」
「試作品なの?」
「成功したら完成品になる」
「失敗したら?」
「試作品だったことになる」
「便利な言葉ね」
マードックは鉄鉱石を窯へ入れた。
いつもなら術式へ手を当てる。
今回は違う。
側面の箱へ魔石を入れた。
「始めるぞ」
術式を起動する。
魔石が淡く光った。
魔力が管を通り、窯へ流れ込んでいく。
内部の術式が光り始めた。
「おお」
「動いた?」
「動いた」
マードックは術式へ手を当てた。
自分の魔力も少し流す。
魔石から供給される分を感じながら量を調整した。
「……軽いな」
「何が?」
「いつもの半分も使ってない」
錬成は続いている。
それなのに身体がほとんど疲れない。
魔石から一定量の魔力が供給され続けているからだ。
しばらくすると術式の光が消えた。
マードックは窯を開ける。
中には精製された鉄があった。
「できてる」
ローレライも覗き込む。
「いつもの鉄と違う?」
「いや」
マードックは鉄を取り出して確認した。
見た限りでは問題ない。
重さを量る。
変わらない。
簡単な品質確認も行った。
「同じだ」
「じゃあ成功?」
「ああ」
マードックは自分の手を見る。
ほとんど疲れていない。
同じ素材。
同じ錬成物。
違うのは自分が支払った魔力の量だけだった。
「これだよ」
「何が?」
「俺がやりたかったのはこれだ」
マードックは魔石を取り出した。
もちろん魔石はただではない。
使えば内部の魔力も減る。
何もないところから魔力が生まれたわけではなかった。
それでも意味はある。
今までは術者一人の魔力量が、そのまま一日にできる仕事の限界だった。
魔石を併用できれば、その限界を変えられる。
何より疲れない。
「これなら一日に何回も使える」
「働く回数を増やすの?」
「そうだ」
「楽をしたかったんじゃなかった?」
「一回の仕事が楽になる」
「仕事は増えるのよね?」
「……」
「増えるのね?」
マードックは聞こえなかったことにした。
その日の夜。
マードックは眠っていた。
『おい』
「……」
『おい、起きろ』
「うるさいな……」
『起きろと言っておる!』
目を開ける。
知らない場所だった。
上下も左右も分からない白い空間。
目の前には見知らぬ老人が立っている。
「誰だ?」
『エルド』
「知らないな」
『神だ』
「神?」
『そうだ』
マードックは少し考えた。
「何か用ですか?」
『お前、今日何をした』
「鉄を作りました」
『その前だ』
「錬金窯を改造しました」
『なぜ魔石がつながっておる』
「魔力を入れるためです」
『錬金術とは術者が素材と魔力を代価として錬成を行うものだ』
「払ってますよ」
『何?』
「魔力」
マードックは答えた。
「魔石から」
『お前の魔力ではないだろう』
「でも魔力ですよね?」
『……』
「素材と魔力が代価なんでしょう?」
『そうだ』
「素材は入れました」
『入れたな』
「魔力も入れました」
『入れたが』
「じゃあ等価交換してますよ」
エルドは黙った。
マードックは少し不安になった。
「駄目なんですか?」
『……規則には、術者本人の魔力でなければならないとは書いておらん』
「じゃあ問題ないですね」
『そういう話ではない』
「でもちゃんと払ってますよ。俺が直接払ってないだけです」
エルドの眉間にしわが寄った。
『屁理屈をこねおって』
「規則どおりです」
『それを屁理屈と言うのだ!』
翌朝。
マードックは目を覚ました。
隣ではローレライが眠っている。
セドリックも小さな寝息を立てていた。
「……夢か」
妙な夢だった。
マードックは起き上がる。
工房へ向かい、昨日改造した錬金窯を見る。
魔石を固定する箱には何の異常もない。
「規則どおりなんだけどな」
マードックはつぶやいた。
その日から彼は、魔石を使った錬金窯の改良を本格的に始めた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード4開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
一年目 魔力効率化 3
【本文】
魔石を接続できるようになってから、マードックの仕事はずいぶん楽になった。
朝一番に鉄を精製する。
続けて銅。
昼までにもう一度鉄。
昼食を挟んで午後から二回。
一日に五回。
以前なら三回も錬成すれば魔力を使い切っていた。
今では仕事を終えても余裕がある。
「これはいい」
マードックは満足していた。
錬成できる回数が増えた。
疲れも減った。
仕事を終えてからセドリックを抱く余裕もある。
冒険者だった頃とは大違いだった。
数日後。
マードックは帳簿を開いた。
「……高いな」
魔石代が増えていた。
当然だった。
自分の代わりに魔石へ働かせているのだから、その分だけ魔石を消費する。
仕事の回数が増えれば消費量も増える。
「また?」
ローレライが帳簿を覗き込んだ。
「まただ」
「今度は何が高いの?」
「魔石」
「使ってるもの」
「分かってる」
「じゃあ仕方ないんじゃない?」
「仕方ないで終わらせたら改善できないだろ」
「改善するの?」
「する」
マードックは帳簿を持って工房へ向かった。
ローレライもついてくる。
「今度は壊さないでね」
「壊してない」
「一回ばらばらになってたけど」
「あれは分解だ」
「同じじゃない?」
「元に戻れば分解だ」
「戻らなかったら?」
「破壊だな」
ローレライは納得しなかった。
マードックは錬金窯の横に置かれた魔石を見る。
問題は単純だった。
魔石を使いすぎている。
ならば使用量を減らせばいい。
マードックは錬成中の魔力の流れを調べることにした。
鉄鉱石を入れる。
魔石を接続する。
術式を起動する。
魔力が窯へ流れ始めた。
マードックは自分の魔力を少量だけ流し、内部の状態を探る。
「多いな」
「何が?」
「最初に入りすぎてる」
錬成が始まった直後は大量の魔力が流れ込んでいる。
しばらくすると必要量が減る。
それでも魔石からの供給量はほとんど変わらない。
最後はさらに少なくていい。
「ずっと同じ量を入れてたのか」
「駄目なの?」
「必要ない」
マードックは紙を取り出した。
錬成開始。
安定。
終了直前。
三つに分けて必要な魔力量を書き込む。
「最初だけ多くして、途中から減らせばいい」
「そんなことできるの?」
「俺がやればできる」
「あなたがやるの?」
「……それだと意味がないな」
楽をするために改造しているのに、錬成中ずっと横で調整する仕事が増えてしまう。
マードックは腕を組んだ。
「窯にやらせよう」
「どうやって?」
「考える」
そこから数日間、工房の机は紙で埋まった。
魔力の流量を変える術式。
錬成の進み具合を判断する術式。
一定量を超えたら魔力を絞る仕組み。
マードックは魔導師時代に覚えた魔力制御を一つずつ術式へ置き換えていった。
失敗もした。
魔力を絞りすぎて錬成が止まった。
逆に増やしすぎて素材を駄目にした。
術式が焼けて交換することもあった。
ローレライが工房へ来るたび、窯の横に新しい部品が増えている。
「大きくなってない?」
「少し」
「最初こんなの付いてなかったわよね?」
「必要になった」
「こっちの箱は?」
「魔力調整器」
「その横は?」
「制御用の術式板」
「これは?」
「触るな」
「触らないわよ」
さらに数日後。
改良した窯で鉄を精製した。
品質に問題はない。
使った魔石を確認する。
「減った」
マードックは前回の記録と比較した。
もう一度試す。
同じ結果だった。
「よし」
魔石の消費量が目に見えて減っている。
必要なときだけ必要な量を供給する。
それだけで無駄はかなり減った。
「これなら魔石代も下がる」
「やっと完成?」
「いや」
マードックは錬金窯を見る。
「まだ無駄がある」
「あるの?」
「錬成が終わる直前だ」
必要な魔力量を減らしても、完全にゼロにはできない。
術式の内部にも魔力が残る。
錬成が終われば、その魔力は少しずつ散って消えていく。
今までは気にしたこともなかった。
わずかな量だからだ。
だが一日に何度も錬成するなら話は変わる。
「これ、もったいないな」
ローレライは嫌な予感がした。
「まさか、それも使うの?」
「使えるなら」
「どうやって?」
「戻せばいい」
「どこに?」
マードックは魔石を指さした。
「ここ」
「魔石に戻せるの?」
「分からない」
「分からないの?」
「だから試す」
また錬金窯の横に部品が増えた。
今度は魔力を送り込むためではない。
逆だった。
窯に残った魔力を集め、外へ戻す。
最初の実験ではほとんど回収できなかった。
二回目も失敗。
三回目で魔石が割れた。
「危ないじゃない!」
「今のは予想外だった」
「そういうのを危ないって言うのよ!」
割れた魔石を片付けながらマードックは考える。
空になった魔石へ魔力を押し込めばいいと思っていた。
だが魔石にも受け入れられる量と速さがある。
「入れる方にも調整が必要か」
「先に気付いて」
「今気付いた」
回収した魔力を一度別の場所へ貯める。
そこから少しずつ魔石へ戻す。
マードックは小さな蓄魔器を追加した。
錬金窯はさらに大きくなった。
そして十日後。
錬成が終わる。
余った魔力が回収される。
蓄魔器へ移動する。
そこから魔石へ少しずつ戻っていく。
マードックはしばらく待った。
「……入ってる」
魔石を確認する。
量は少ない。
錬成に使った魔力が全部戻ってくるわけではない。
それでも今まで捨てていた魔力の一部が残った。
「できた」
ローレライも魔石を見る。
「それだけ?」
「それだけって言うな」
「少ししか戻ってないじゃない」
「一回ならな」
マードックは錬金窯を叩いた。
「百回なら?」
「百回?」
「千回なら?」
ローレライは少し考えた。
「結構な量になる?」
「なる」
「でも千回も働くの?」
「……」
「楽をしたいんじゃなかった?」
「一回の仕事は楽になってる」
「前にも聞いたわ、それ」
マードックはまた聞こえなかったことにした。
その夜。
『おい』
聞き覚えのある声がした。
マードックは目を開ける。
また白い空間だった。
目の前にエルドが立っている。
「こんばんは」
『何が、こんばんは、だ』
「今日は何ですか?」
『お前、魔力を戻したな』
「余ってたので」
『余っていたから?』
「捨てるのはもったいないでしょう」
『代価として差し出した魔力だぞ』
「使わなかった分です」
『一度差し出しただろう』
「でも使ってないですよね?」
『そういう問題ではない』
「じゃあ使ってない魔力は誰のものなんですか?」
『……』
「俺のですよね?」
『……』
「なら持って帰ってもいいでしょう」
エルドは額を押さえた。
『お前は等価交換を何だと思っておる』
「ちゃんと必要な分は払ってますよ」
『そういうところだ!』
「足りないなら錬成できないんでしょう?」
『できん』
「できてますよね?」
『できておる』
「なら足りてます」
『……』
しばらく沈黙が続いた。
エルドは大きく息を吐いた。
『屁理屈をこねおって』
「二回目ですね、それ」
『誰のせいだと思っておる!』
翌朝。
マードックは目を覚ました。
横ではセドリックが泣いていた。
「おっと」
抱き上げる。
少しあやすと泣き声が小さくなった。
マードックは眠そうな顔で息子を見る。
「父さんな、神様に怒られたぞ」
セドリックは何も答えない。
「でも間違ってないと思うんだよな」
セドリックが小さな手を伸ばした。
「お前もそう思うか」
「何を赤ちゃんに同意させようとしてるの?」
後ろからローレライの声がした。
「起きてたのか」
「セドリックが泣いたら起きるわよ」
ローレライはセドリックを受け取った。
「それで、今日は何するの?」
「仕事」
「窯はいじらない?」
マードックは少し考えた。
「今日はな」
「今日は?」
「もっと安い魔石が使えないか試したい」
「やっぱりいじるのね」
魔力を節約するために始めた改造だった。
その錬金窯はいつの間にか、買ったときとはまるで違う姿になっていた。
そしてマードックはまだ満足していなかった。
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------------------------- エピソード5開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
一年目 魔力効率化 4
【本文】
魔石代をもっと下げられないか。
マードックは次にそこへ手を付けた。
質のいい魔石は高い。
ならば安い魔石を使えばいい。
最初に試したのは単純な方法だった。
いつも使っている魔石を、半額ほどで買える低品質なものへ交換する。
「これで同じように動けば安くなる」
「動くの?」
「動かしてみれば分かる」
ローレライは少し離れた。
「なんで離れる?」
「前に魔石を割った人がいるから」
「あれは回収するときの話だ」
「今回は絶対に割れない?」
「絶対とは言ってない」
ローレライはもう一歩離れた。
マードックは錬金窯を起動した。
低品質な魔石から魔力が流れ始める。
すぐに問題が起きた。
「安定しないな」
供給される魔力量が一定ではない。
増えたり減ったりを繰り返している。
これでは錬成条件まで不安定になる。
マードックは途中から自分の魔力を加え、何とか錬成を終わらせた。
「駄目?」
「このままじゃな」
マードックは魔石を取り外した。
安いものには安い理由がある。
だが、使えないわけではない。
「一個で駄目なら何個か使うか」
「高くならない?」
「安いから大丈夫だ」
翌日、錬金窯の横に魔石を入れる箱が三つ並んだ。
三個の魔石から同時に魔力を取り出す。
一つの出力が下がれば他から補う。
それぞれから流れる魔力を調整器へ送り、まとめてから窯へ供給する。
マードックは錬金窯を起動した。
「お」
三つの魔石が光る。
調整器を通った魔力が窯へ入っていく。
昨日より安定している。
「いけそう?」
「ああ」
錬成が終わる。
鉄を取り出して確認する。
問題はない。
「できた」
「安くなった?」
「計算してみる」
マードックは帳簿を開いた。
三個の魔石の価格。
使用した量。
回収できた魔力。
以前の方法と比較する。
「……少し安い」
「少し?」
「少しだ」
「三個も付けたのに?」
「三個付けたから安定したんだよ」
確かに安くはなった。
だが、期待したほどではない。
マードックはさらに試した。
四個にする。
五個にする。
種類の違う魔石を混ぜる。
供給する順番を変える。
錬成開始時だけ質のいい魔石を使い、安定したら低品質な魔石へ切り替える。
余剰魔力の回収量も増やした。
調整器も作り直した。
効果はあった。
魔石代は少しずつ下がった。
だが最初に魔石を接続したときほど大きくは変わらない。
一割。
そこからさらに少し。
また少し。
改善するたびに次の改善幅が小さくなっていく。
「これを変えたら?」
ローレライが術式板の一部を指した。
「そこはもう変えた」
「じゃあこっち」
「それも試した」
「これは?」
「昨日やった」
「……もうないじゃない」
「そうなんだよな」
マードックは錬金窯の前に座った。
最初に買ったときとはずいぶん姿が変わっている。
魔石を接続する箱。
魔力調整器。
複数の魔石をまとめる術式。
余った魔力を集める蓄魔器。
回収した魔力を戻す仕組み。
自分の魔力を直接流すこともできる。
魔石だけで補うこともできる。
両方を組み合わせることもできる。
同じ鉄を作るために必要な魔力は変わらない。
変わったのは、その使い方だった。
「この辺が限界か」
「珍しいわね」
「何が?」
「あなたが諦めるなんて」
「諦めるわけじゃない」
マードックは窯を見る。
「これ以上やっても割に合わない」
新しい部品を作るにも金がかかる。
術式を追加すれば管理する場所も増える。
複雑になれば故障する場所も増える。
わずかな魔力を節約するために、それ以上の金と時間を使えば意味がない。
「魔力をこれ以上効率よく使うのは難しそうだ」
「じゃあ完成?」
「一応な」
ローレライは錬金窯を眺めた。
「最初よりずいぶん大きくなったわね」
「必要なものを付けたらこうなった」
「買ったときはもっとすっきりしてたのに」
「性能は今の方がいい」
「掃除は前の方が楽だったわ」
「……そこは考えてなかった」
「考えて」
マードックは錬金窯の周りを見る。
確かに隙間が増えている。
管もある。
箱もある。
掃除しにくそうだった。
「次に作るならまとめるか」
「次も作るの?」
「今すぐじゃない」
「今すぐじゃないのね」
ローレライはその言葉を信用しなかった。
その日の夜。
マードックは帳簿を開いていた。
一年近く錬金術師をやってきた。
最初の頃と比べれば仕事はかなり楽になった。
同じ量を錬成しても疲れにくい。
一日にできる仕事も増えた。
魔石代も抑えられている。
悪くない。
だが、帳簿の数字は思ったほど増えていなかった。
「何見てるの?」
セドリックを寝かせたローレライがやってきた。
「今年の帳簿」
「赤字?」
「いや、黒字だ」
「ならいいじゃない」
「もう少し儲かると思ってた」
「最初に金を作ろうとしてたものね」
「それは忘れてくれ」
「忘れないわよ」
マードックは帳簿へ視線を戻した。
鉄を精製する。
銅を精製する。
頼まれた素材を作る。
仕事を増やせば収入も増える。
だが、一日にできる仕事には限界がある。
魔力の問題だけではない。
素材を運ぶ。
窯へ入れる。
錬成を待つ。
完成したものを取り出す。
客へ渡す。
全部に時間がかかる。
「魔力だけ減らしても駄目か」
「何が?」
「一回の仕事で入ってくる金は変わらない」
「同じものを作ってるんだから当然じゃない?」
「そうなんだよ」
マードックは鉄の精製に使った材料費と売値を見る。
次に銅。
銀。
どれも似たようなものだった。
材料には値段がある。
加工すれば価値は上がる。
だが素材として売っている限り、大きな差にはならない。
「安く作るのは限界がある」
「そうね」
「だったら高く売るしかない」
ローレライが嫌そうな顔をした。
「また金を作るの?」
「違う」
「宝石?」
「それもやらない」
マードックは一年前の失敗を覚えている。
高価なものを作ろうとすれば、それだけの代価を要求される。
金には金なりの代価が必要だった。
宝石も同じだった。
ならば最初から高価な素材を作る必要はない。
「同じ材料でも作るものによって値段が違うよな」
「まあ、そうね」
「鉄の塊と包丁なら?」
「包丁の方が高いでしょうね」
「木材と椅子なら?」
「椅子」
「小麦とパン」
「パンね」
マードックは帳簿へ書き始めた。
材料。
加工。
完成品。
売値。
「何してるの?」
「考えてる」
「何を?」
「材料を売るのをやめる」
ローレライは帳簿を見る。
「じゃあ何を売るの?」
「完成品」
今までのマードックは錬金術で素材を作ることばかり考えていた。
鉄を精製する。
銅を精製する。
銀を作る。
もっと高価な素材を作る。
だが、価値を上げる方法はそれだけではない。
同じ材料でも手を加えれば価値は変わる。
「安い材料に価値を足せばいい」
「簡単に言うけど、何を作るの?」
「それをこれから考える」
「まだ考えてないのね」
「方向は決まった」
マードックは帳簿に大きく文字を書いた。
付加価値。
「次はこれだ」
「付加価値?」
「ああ」
魔力を節約する方法は一年かけてずいぶん分かった。
次に考えるべきなのは、何を作るか。
高価な素材ではない。
同じ材料から、もっと価値のあるものを作る。
マードックはまだ知らなかった。
その考えが翌年、自分の工房へ一頭の豚を連れてくることになるとは。
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------------------------- エピソード6開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
二年目 食品 1
【本文】
「包丁を作ろう」
年が明けて最初の仕事の日。
マードックは鉄を錬金窯へ入れた。
「普通じゃない?」
ローレライが言った。
「普通でいいんだよ」
「去年は金を作ろうとしてたのに」
「忘れてくれ」
「無理ね」
去年までマードックは鉄を精製して、そのまま素材として売っていた。
今年は違う。
同じ鉄から完成品を作る。
最初に選んだのが包丁だった。
理由は単純だ。
家にあるから形が分かる。
「これを作る」
マードックは台所から持ってきた包丁を錬金窯の横へ置いた。
「私の包丁なんだけど」
「参考にするだけだ」
「使うから早く返してね」
マードックは包丁を観察した。
刃の長さ。
厚み。
形。
柄との接続。
今までの錬成とは少し違う。
鉄を精製するだけなら、完成した鉄の形はそれほど重要ではなかった。
今回は違う。
使える形にしなければならない。
マードックは紙に包丁の形を描いた。
「……絵、下手ね」
「分かればいい」
「これ包丁?」
「包丁だ」
「魚かと思った」
「包丁だ」
術式へ完成形を設定する。
鉄を入れる。
柄に使う木材も入れた。
錬金窯を起動する。
魔石から魔力が供給され、去年一年かけて改良した調整器が必要な量へ整える。
錬成が終わった。
マードックは窯を開ける。
「できた」
中には包丁があった。
少し歪んでいる。
柄も太い。
それでも包丁には見える。
「貸して」
ローレライが受け取った。
「重い」
「鉄だからな」
「そういう意味じゃないわよ」
台所へ持っていく。
野菜を置いて切る。
「切れない」
「そんなに?」
「使ってみる?」
マードックが受け取った。
野菜へ刃を当てる。
押す。
「……切れないな」
「でしょう?」
「形は合ってる」
「包丁は形が合ってればいいものじゃないの」
マードックは自分で作った包丁を見る。
鉄を包丁の形にした。
それだけだった。
「刃か」
「刃ね」
そこから作り直した。
厚みを変える。
刃先を薄くする。
材料も変える。
硬さも調整する。
二本目。
「切れるけど使いにくい」
三本目。
「柄が痛い」
四本目。
「悪くない」
五本目。
「これなら使える」
ローレライから合格が出た。
「最初のと比べてみる?」
五本の包丁が机に並んだ。
「最初のひどいな」
「魚みたい」
「まだ言うのか」
五本目は店で売られている包丁と比べても悪くない。
問題は値段だった。
マードックは材料費と魔力の使用量を計算する。
「いけるな」
「儲かる?」
「ああ」
鉄を精製して売るより利益が大きい。
同じ材料でも、使えるものに加工すれば値段が上がる。
去年考えたことは間違っていなかった。
「付加価値だ」
「気に入ったの? その言葉」
「いい言葉だろ」
「私は普通に包丁を買うけど」
「なんでだよ」
「五本作って一本成功するなら、まだ買った方が安心だから」
「そこは改善する」
次は鍋を作った。
これは比較的簡単だった。
皿も作った。
金属製の道具もいくつか試した。
木材を使った箱にも挑戦した。
作れるものが増えるたびにマードックは帳簿へ数字を書き込んだ。
素材のまま売るより利益が出る。
だが別の問題も見えてきた。
「面倒だな」
「何が?」
「覚えることが多い」
包丁には包丁の作り方がある。
鍋には鍋。
箱には箱。
材料を入れれば何でも完成品になるわけではない。
形。
材質。
厚さ。
用途。
それぞれ条件が違う。
「職人さんがいる理由が分かった?」
「分かった」
「じゃあ任せれば?」
「それだと俺が楽にならない」
「またそこ?」
マードックは完成した包丁を見る。
同じものをもう一本作る。
今度は成功した。
三本目も同じだった。
条件さえ決まれば、錬金窯は同じものを作れる。
「最初だけ大変なんだ」
「最初?」
「一度うまくいった条件を残しておけばいい」
材料の種類。
量。
魔力量。
完成形。
錬成時間。
全部を書き残す。
次から同じ条件で錬成する。
「毎回考えなくて済む」
「それは楽ね」
「だろ?」
マードックは嬉しそうに記録を整理した。
これなら完成品を作れる。
同じものを何度も作れる。
素材を売るより利益も出る。
しばらくは日用品を作ってみよう。
そう考えていた日の夕方。
ローレライが工房へ顔を出した。
「マードック」
「どうした?」
「夕飯作るから、その鍋返して」
「ああ」
試作品として使っていた鍋を渡す。
ローレライはそれを持って家へ戻ろうとした。
マードックは机の上にある材料を見る。
鉄。
木材。
完成した包丁。
鍋。
そして家へ向かうローレライ。
「……料理も同じじゃないか?」
ローレライが足を止めた。
「何が?」
「材料を加工して完成品にする」
「まあ、そうだけど」
「肉と野菜を入れる」
「うん」
「切る」
「うん」
「火を通す」
「うん」
「味を付ける」
「うん」
「料理になる」
「そうね」
マードックは錬金窯を見る。
ローレライも錬金窯を見る。
少し間があった。
「駄目よ」
「まだ何も言ってない」
「その顔してるときは大体ろくなこと考えてないもの」
「料理を作れるんじゃないか?」
「普通に作りなさい」
「でも毎日作るだろ?」
「作るわよ」
「毎日同じ作業をしてる」
「料理だからね」
「毎日やる作業なら、自動化した方がいい」
「待って」
マードックは立ち上がった。
「肉ある?」
「夕飯用なら」
「野菜は?」
「あるけど」
「香辛料」
「ある」
「持ってきて」
「夕飯どうするのよ」
「今から作る」
「あなたが?」
マードックは錬金窯を叩いた。
「こいつが」
ローレライは錬金窯を見た。
「嫌な予感しかしないんだけど」
「大丈夫だ」
「その言葉、去年何回聞いたと思ってるの?」
「今回は食えるものを作るだけだ」
「そこが一番心配なのよ」
その日の夕食が食卓に並ぶまで、いつもの三倍の時間がかかった。
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------------------------- エピソード7開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
二年目 食品 2
【本文】
錬金窯から夕食が出てきた。
見た目は悪くない。
肉と野菜を煮込んだ料理だ。
湯気も立っている。
「できた」
マードックは満足そうだった。
「できたわね」
ローレライは少し警戒していた。
二人の間に料理が置かれている。
「食べないのか?」
「あなたからどうぞ」
「俺?」
「作った人から」
「作ったのは窯だ」
「考えた人から」
マードックはスプーンを持った。
肉と野菜をすくって口へ入れる。
「……」
「どう?」
「食える」
「おいしい?」
「食える」
「おいしい?」
マードックは黙った。
ローレライも一口食べる。
「まずい」
「食えるだろ」
「食べられることと、おいしいことは違うの」
火は通っている。
肉も柔らかい。
野菜も食べられる。
問題は味だった。
「塩が足りない?」
「それだけじゃないわね」
「香辛料?」
「それもあるけど」
ローレライはもう一口食べた。
「全部一緒に煮た?」
「一緒に入れた」
「だからよ」
「何が?」
「肉と野菜で火の通る時間が違うでしょう?」
「同時じゃ駄目なのか」
「料理したことないの?」
「冒険者のときは全部鍋に入れてた」
「よくそれで生きてこられたわね」
「腹は壊さなかったぞ」
「そういう話じゃないのよ」
最初の自動調理は失敗だった。
正確には食べられるものはできた。
だが、それだけだった。
翌日。
マードックはローレライの料理を横で見ていた。
「やりにくいんだけど」
「気にするな」
「気になるわよ」
ローレライが肉を切る。
マードックが紙に書く。
野菜を切る。
書く。
鍋へ入れる。
書く。
「いちいち書かないでくれる?」
「必要なんだ」
「料理の作り方くらい聞けば教えるわよ」
「量が分からない」
「このくらい」
「このくらいじゃ次に同じものが作れない」
ローレライの手が止まった。
「面倒くさい人ね」
「同じ味にしたいんだよ」
塩を入れる。
「今どれくらい入れた?」
「適当」
「量ってくれ」
「いつも量ってないわよ」
「じゃあ今日は量って」
「料理ってそういうものじゃないんだけど」
「錬金術はそういうものなんだ」
二人の共同作業が始まった。
肉の量。
野菜の量。
水。
塩。
香辛料。
入れる順番。
加熱する時間。
ローレライが普段は感覚でやっていることを、マードックが数字にしていく。
完成した料理を食べる。
「これだ」
「いつもの味ね」
「じゃあこれを窯で作る」
「できるの?」
「条件は分かった」
マードックは錬金窯の設定を変えた。
今度は全部を同時に処理しない。
肉。
野菜。
調味料。
それぞれを別の工程として扱う。
肉には肉の処理。
野菜には野菜。
最後に合わせる。
数日後。
二回目の自動調理が行われた。
錬金窯を開ける。
匂いはいい。
「これは期待できる」
「前も見た目は悪くなかったわよ」
食卓へ運ぶ。
マードックが先に食べた。
「うまい」
「本当に?」
「食ってみろ」
ローレライも口へ運ぶ。
「……悪くない」
「だろ?」
「ちょっと味が濃い」
「そこは直せる」
「肉は柔らかい」
「だろ?」
「野菜も前よりいい」
「だろ?」
「嬉しそうね」
「成功したからな」
そこへ小さな足音がした。
セドリックだった。
一歳を過ぎ、家の中を歩き回るようになっていた。
「おっと」
マードックが抱き上げる。
セドリックは食卓の料理へ手を伸ばした。
「これはまだ駄目だ」
「この子には別に作ってあるわよ」
ローレライがセドリック用の食事を持ってくる。
柔らかく煮た野菜だった。
マードックはそれを見る。
次に錬金窯で作った料理を見る。
もう一度セドリックの食事を見る。
「……これも作れるな」
「やめて」
「なんで?」
「まず大人用を完成させて」
「完成してるだろ」
「味が濃いって言ったでしょう」
「調整すればいい」
「そういうところよ」
それからしばらく、マードック家の夕食は実験の場になった。
「今日は?」
「三番」
「昨日は?」
「二番」
「違いは?」
「塩を減らした」
食べる。
「薄い」
「戻すか」
翌日。
「今日は?」
「四番」
「何を変えたの?」
「肉の処理時間」
「少し硬い」
「戻す」
さらに翌日。
「五番」
「おいしい」
「本当か?」
「うん。これなら普通に出せる」
マードックは紙に大きな丸を付けた。
「完成だ」
同じ材料。
同じ量。
同じ設定。
同じ料理。
何度作っても大きく味が変わらない。
ローレライが作った方が細かな調整はできる。
だが錬金窯には別の利点があった。
「これ、私がいなくても作れるのね」
「ああ」
「あなたでも?」
「俺でも作れる」
「それは便利ね」
「そこまで言うか?」
「あなたの料理を食べたことあるもの」
マードックは反論できなかった。
自動調理を始めて一か月。
マードックは新しい問題に気付いた。
「量を増やしたい」
「また?」
「一回でこれだけしか作れない」
錬金窯から出てくる料理は家族数人分。
家庭で使うなら十分だった。
仕事として売るなら少ない。
「窯を大きくする?」
「それもある」
マードックは材料を見る。
肉屋から買ってきた肉。
農家から買った野菜。
香辛料。
それぞれを工房まで運び、必要な量に分けている。
「これ、肉屋で切ってもらう必要あるか?」
「どういう意味?」
「肉を買うだろ」
「うん」
「肉屋が豚を解体する」
「そうね」
「部位ごとに分ける」
「そうね」
「俺が買う」
「うん」
「ここへ運ぶ」
「うん」
「窯に入れる」
「うん」
マードックは少し考えた。
「途中の作業、多くないか?」
「仕事だからでしょう?」
「錬金窯でできないかな」
「何を?」
「肉にするところから」
ローレライが動きを止めた。
「待って」
「豚を肉にして、それを料理にする」
「待って」
「同じ加工だろ?」
「待ってって言ってるでしょう」
マードックは紙を取り出した。
「豚一頭から取れるものを調べよう」
「本気なの?」
「本気だ」
「どこに豚を入れるのよ」
二人は錬金窯を見る。
今の投入口ではどう考えても入らない。
「……大きくするか」
「そこからなの?」
数日後。
近所に住むギルバードが工房の前を通りかかった。
「こんにちは、マードックさん」
「おう。ちょうどいいところに来た」
「何か手伝います?」
「そっち持ってくれ」
「これですか?」
「ああ」
ギルバードはマードックと一緒に大きな金属板を持ち上げた。
「何作ってるんです?」
「錬金窯」
「前からありましたよね?」
「入口を大きくする」
「何入れるんです?」
「豚」
ギルバードの手が止まった。
「豚?」
「一頭」
「なんで?」
「料理を作る」
「豚から?」
「豚から」
ギルバードはしばらく黙った。
「面白そうですね」
「だろ?」
「そこ、意気投合しないで」
工房の入口からローレライが二人を見ていた。
その横でセドリックがギルバードを見つけ、嬉しそうに手を伸ばしている。
「あ、セドリック」
ギルバードが金属板を置いて駆け寄った。
「また大きくなったな」
セドリックが笑う。
その後ろではマードックが錬金窯の寸法を測っていた。
「これなら入るな」
「何がです?」
「豚」
「ああ、豚」
ローレライは頭を抱えた。
こうしてマードック錬金工房では、料理を作るためだけに錬金窯の投入口を大きくする工事が始まった。
【リアクション】
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------------------------- エピソード8開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
二年目 食品 3
【本文】
豚が来た。
「本当に連れてきたのね」
「ああ」
マードック錬金工房の前に一頭の豚がいる。
正確には処理済みの豚だった。
さすがに生きた豚をそのまま錬金窯へ入れるつもりはない。
「そこは安心したわ」
「何が?」
「生きたまま入れるとか言い出さなくて」
「そんなことするわけないだろ」
「最近のあなたなら少し心配だったのよ」
マードックは豚を乗せた台車を押した。
以前の錬金窯なら、そもそも入口を通らない。
今は違う。
投入口が大きく作り直されていた。
その分だけ蓋も重くなったため、横には滑車まで付いている。
「錬金窯ってこんな形だったっけ?」
手伝いに来たギルバードが言った。
「元はもっと小さかった」
「ですよね」
「必要だから大きくした」
「これ以上大きくならないですよね?」
「分からん」
「なるんだろうなあ」
ギルバードが笑った。
マードックは台車を投入口の前まで動かした。
「問題はここからだ」
豚一頭を料理にする。
言葉にすれば簡単だが、実際にはそんなに単純ではない。
肉だけを考えればいいわけではない。
骨がある。
脂がある。
皮もある。
食べられない部分もある。
「全部料理にするの?」
「無理だ」
「じゃあどうするんです?」
「分ける」
マードックは紙を広げた。
豚のどの部分を何にするか。
肉は部位ごとに分ける。
料理に向くものはそのまま調理。
保存した方がいいものは別にする。
骨や皮などは排出する。
「こんな細かいことまで錬金窯にやらせるんですか?」
「俺がやるより楽だろ」
「作る方が大変じゃないです?」
「一回作れば次から楽になる」
「なるほど」
「納得しないで」
ローレライが横から言った。
「この人、その考えで一年中錬金窯をいじってたのよ」
「でも便利になったんですよね?」
「便利にはなったわ」
「じゃあいいじゃないですか」
「ギルバード君までそっち側に行かないで」
三人で準備を進めた。
今回作るのは煮込み料理。
すべての肉を一度に料理するわけではない。
一部を調理し、残りは部位ごとに分けて出す。
最初から欲張ると失敗する。
マードックも一年間の改造で少しは学んでいた。
「始めるぞ」
豚を台車ごと投入口の前へ運ぶ。
ギルバードと二人で中へ入れた。
蓋を閉じる。
魔石を確認する。
今回は普段より多い。
「やっぱり魔力を使うのね」
「量が多いからな」
「等価交換?」
「等価交換」
マードックは錬金窯を起動した。
複数の魔石が光る。
魔力調整器を通り、安定した魔力が窯へ流れ込む。
いつもの錬成より長い。
「まだですか?」
「もう少し」
「いい匂いしてきましたよ」
ギルバードが鼻を動かした。
確かに料理の匂いがする。
「成功したか?」
マードックは術式を見る。
まだ錬成は終わっていない。
しばらく待つ。
やがて術式の光が消えた。
「終わった」
三人が錬金窯を見る。
「開けるぞ」
マードックが蓋を開けた。
湯気が上がる。
「おお」
ギルバードが声を上げた。
中には大きな容器が並んでいた。
煮込み料理。
部位ごとに分けられた肉。
脂。
骨。
皮。
その他。
「できてる」
マードックは最初に料理を確認した。
見た目は悪くない。
匂いもいい。
「食べる?」
ローレライが聞いた。
「もちろん」
三人で少量ずつ試食する。
マードック。
ローレライ。
ギルバード。
「うまい」
「おいしいですね」
「前よりちゃんと料理になってるわね」
「成功だ」
マードックは笑った。
豚を入れた。
料理が出てきた。
それだけ聞けば馬鹿みたいな話だったが、本当にできてしまった。
「すごいですよ、これ」
ギルバードが錬金窯を見る。
「肉屋で肉を買って料理するところまで一気にできるってことですよね?」
「ああ」
「売れそうですね」
「だろ?」
「でも」
ローレライが大量の容器を見る。
「これ、どうするの?」
「売る」
「今日中に?」
「……」
マードックは煮込み料理を見る。
一家三人で食べられる量ではない。
ギルバードの家へ分けても余る。
「保存は?」
「考えてある」
「全部?」
「……ある程度は」
「全部じゃないのね」
豚一頭という量を甘く見ていた。
作ることはできた。
問題は作った後だった。
料理は放っておけば傷む。
肉も保存が必要になる。
さらに骨。
脂。
皮。
これらも大量に出ている。
「これ、捨てるんですか?」
ギルバードが骨を見ながら聞いた。
「今のところは」
「もったいなくないです?」
マードックの動きが止まった。
「……今なんて言った?」
「もったいないって」
マードックは骨を見る。
脂を見る。
皮を見る。
もう一度骨を見る。
「そうだよな」
「何?」
ローレライが嫌な予感を覚えた。
「これも材料だ」
「材料?」
「骨も脂も皮も、元は豚だろ」
「そうね」
「代価として入れた」
「入れたわね」
「なのに捨てる」
マードックの顔が険しくなった。
「もったいない」
「そこ?」
「使えるものを捨てるのは無駄だ」
マードックは紙を持ってきた。
骨。
脂。
皮。
それぞれ書き出す。
「何に使える?」
「皮は革になるんじゃないですか?」
ギルバードが言った。
「革」
マードックが書く。
「脂は?」
「料理にも使うけど」
ローレライが考える。
「石鹸にも使えるわね」
「石鹸」
書く。
「骨は?」
「知らない」
「僕も」
三人で骨を見る。
「調べるか」
数日後。
マードックは町を歩き回っていた。
肉屋。
革職人。
石鹸職人。
農家。
話を聞いて回る。
骨も砕いて処理すれば肥料などに使える。
脂にも用途がある。
皮は当然、革になる。
食肉として価値の低い部分にも使い道があった。
「全部使えるじゃないか」
工房へ戻ったマードックは嬉しそうだった。
「また始まった」
ローレライが言った。
「何が?」
「その顔」
「今度は捨てるものを減らせる」
「どうするの?」
「分けるところまではもうできてる」
マードックは錬金窯を指さした。
「だったら出す先を変えればいい」
肉は食品。
骨は肥料の材料。
脂は石鹸の材料。
皮は革の材料。
一頭の豚を、それぞれ必要な形へ分ける。
「全部使ってるんだから無駄がない」
その夜。
『おい』
マードックは目を開けた。
「久しぶりですね」
『久しぶりですね、ではない』
白い空間。
目の前にはエルド。
「今日は何です?」
『お前、豚を入れたな』
「入れました」
『錬金窯に』
「はい」
『一頭』
「はい」
エルドはしばらく黙った。
『何をしておるんだ、お前は』
「料理です」
『料理?』
「肉は料理。骨は肥料。脂は石鹸。皮は革にします」
『待て』
「全部使います」
『そういう問題ではない』
「全部使ってるんだから等価交換でしょう?」
『そういう意味ではない!』
「何が駄目なんです?」
『錬金術とはだな』
「素材を入れて魔力を払って別のものを作る」
『そうだ』
「やってますよ」
『……』
「何も増やしてません」
『……』
「捨ててたものまで使ってるだけです」
エルドは額を押さえた。
『お前と話していると、等価交換とは何だったのか分からなくなってくる』
「俺も最近、便利な仕組みだと思い始めました」
『褒めておらん!』
翌朝。
マードックは工房へ向かった。
昨日の骨、脂、皮が並んでいる。
料理を作るだけでは足りない。
これらを全部使える形にしたい。
問題は一つだった。
「俺だけじゃ使い切れないな」
革を作ってもマードックは革職人ではない。
石鹸を大量に作っても売る場所がない。
肥料を作っても畑を持っていない。
料理だって豚一頭分となれば一家では食べ切れない。
一人で全部やるのは無理だった。
マードックは町の方を見る。
「……人を呼ぶか」
錬金窯を作り始めてから、マードックは初めて自分の工房の外へ目を向けた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード9開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
二年目 食品 4
【本文】
「人を集める?」
「ああ」
朝食を食べながらマードックが言った。
「昨日の骨とか皮の話?」
「そうだ」
「誰を呼ぶの?」
「肉屋と革職人。石鹸を作ってるところにも話を聞きたい。あと農家だな」
「そんなに?」
「俺だけじゃ使えないからな」
豚一頭を錬金窯で処理できることは分かった。
肉は料理になる。
骨にも使い道がある。
脂も使える。
皮も使える。
問題はマードックが、それらを必要としていないことだった。
革を作っても使わない。
肥料を作っても畑がない。
石鹸も一家で使える量には限度がある。
「必要な人に渡せばいい」
「買ってくれるの?」
「それを今から聞く」
「買ってくれなかったら?」
「別の人を探す」
ローレライはパンを食べながら夫を見る。
「あなた、商売するようになったわね」
「最初から錬金術で食っていくつもりだったぞ」
「最初は金を作って楽に暮らすつもりだったじゃない」
「忘れてくれ」
「それは無理」
その日の昼。
マードックは町の肉屋を訪ねた。
「豚を一頭欲しい」
「またか?」
「ああ」
「この前も買っただろ」
「今度は継続的に欲しい」
肉屋の主人が怪訝な顔をする。
「何するんだ?」
「錬金窯に入れる」
「帰れ」
「待て」
「豚を錬金窯に入れる客と長話したくねえよ」
「料理になる」
「もっと意味が分からん」
説明には時間がかかった。
前回の結果を見せることになった。
肉。
脂。
処理した皮。
そして料理。
「これを一回で?」
「ああ」
「誰が解体した?」
「窯」
「肉を分けたのは?」
「窯」
「料理は?」
「窯」
主人は黙った。
「便利だろ?」
「気味が悪い」
「なんでだよ」
「普通は窯が豚を解体しねえんだよ」
もっともだった。
それでも商売の話になると主人の態度が変わった。
「一頭丸ごと買うんだな?」
「ああ」
「定期的に?」
「うまくいけば」
「なら売る」
「早いな」
「商売だからな」
話は決まった。
次は革職人だった。
「この皮を?」
「使えるか?」
職人はマードックが持ってきた皮を見る。
「使えるが、処理が甘い」
「どこが?」
「ここだ」
職人が指で示す。
「こっちも厚さが違う。傷も残ってる」
「駄目か?」
「駄目とは言ってない。安くなら買う」
マードックは考えた。
「どうなってれば高く買う?」
「そこから聞くのか?」
「ああ」
職人は少し呆れながら説明した。
必要な状態。
厚み。
残してほしい部分。
取り除いてほしい部分。
マードックは全部紙へ書いた。
「次はそれで作る」
「作る?」
「窯で」
「皮を?」
「豚から」
職人はマードックを見る。
「お前、錬金術師だよな?」
「そうだ」
「最近の錬金術師はそんなことするのか?」
「俺だけだと思う」
「だろうな」
脂も同じだった。
石鹸職人へ持っていく。
「使えますね」
「このままで?」
「もう少し不純物を減らしてもらえれば助かります」
「どのくらい?」
「そうですね……」
また紙へ書く。
骨については近隣の農家へ話を持っていった。
こちらもそのまま渡せばいいわけではなかった。
砕く。
処理する。
使いやすい状態にする。
「注文が多いな」
工房へ戻ったマードックが言った。
「当たり前でしょう」
ローレライは集まった紙を見る。
「みんな仕事で使うんだから」
「使えるものを渡せばいいと思ってた」
「使えることと使いやすいことは違うのよ」
マードックは聞き覚えがあると思った。
「包丁のときも似たようなこと言ってなかったか?」
「言ったわよ」
「料理のときも?」
「言ったわね」
「なるほど」
「今ごろ?」
作れるだけでは駄目だった。
使う人が求める状態にしなければ価値は上がらない。
マードックは錬金窯の設定を変更した。
肉は部位ごと。
皮は革職人が扱いやすい状態へ。
脂は石鹸職人の希望に合わせる。
骨も後工程を減らせる状態まで処理する。
数日後。
二頭目の豚が工房へ届いた。
「また来ましたね」
ギルバードが台車を押している。
「ちょうどいい。手伝ってくれ」
「いいですよ」
「最近ずっといるわね」
ローレライが笑った。
「面白いんですよ、ここ」
ギルバードは錬金窯を見る。
「次に来たらまた何か増えてるし」
「今日は増えてないぞ」
「昨日、この箱ありました?」
「……あった」
「本当に?」
「たぶん」
「増えてるじゃないですか」
三人で豚を搬入する。
錬金窯を起動した。
しばらく待つ。
錬成終了。
今度は前回より細かく分けられた状態で出てきた。
「確認するぞ」
肉。
問題なし。
料理。
問題なし。
脂。
前よりきれいになっている。
皮。
指定された状態に近い。
骨。
こちらも処理されている。
「できたな」
翌日、それぞれを町へ持っていった。
革職人は皮を見る。
「前よりいい」
「買う?」
「買う」
石鹸職人も脂を確認した。
「これなら助かります」
「買う?」
「この品質なら」
農家にも骨から作った材料を見せた。
こちらも話がまとまった。
そして肉と料理も売れた。
工房へ戻ったマードックは帳簿を開く。
豚の仕入れ。
魔石。
香辛料。
その他の材料。
そこから売上を引く。
「……おお」
「どう?」
「利益が出た」
「前も出てたでしょう?」
「違う」
マードックは帳簿をローレライへ見せた。
「一頭から何回も金が入ってくる」
肉。
料理。
皮。
脂。
骨。
今まで捨てていたものにも買い手がいる。
「これだ」
「付加価値?」
「それもある」
マードックは帳簿を指さした。
「無駄が少ない」
同じ一頭の豚でも、使える部分を増やせば全体の価値が上がる。
高価なものを錬成する必要はない。
材料を使い切ればいい。
「もっとやれるな」
ローレライが顔を上げた。
「もっと?」
「一頭ずつじゃ少ない」
「待って」
「二頭なら?」
「待って」
「三頭」
「工房に入らないでしょう」
マードックは周囲を見る。
確かに狭い。
錬金窯そのものが大きくなった。
材料を置く場所も必要。
完成した肉を置く場所。
皮。
脂。
骨。
台車も通る。
「狭いな」
「今気付いたの?」
「広げるか」
「家まで工房にしないでよ」
「それはしない」
「絶対よ」
数日後。
マードックは肉屋、革職人、石鹸職人、農家を工房へ呼んだ。
ギルバードもいる。
「それで、何の集まりなんだ?」
肉屋の主人が聞いた。
「相談がある」
「また豚か?」
「豚だ」
「やっぱりか」
マードックは机の上へ紙を広げた。
「今は俺が豚を買ってる」
「ああ」
「ここで処理する」
「ああ」
「それを俺がみんなのところへ運んでる」
「そうだな」
「面倒だ」
全員が黙った。
「お前が始めたんだろ」
肉屋の主人が言った。
「だから改善する」
「嫌な予感がするな」
マードックは紙へ簡単な図を描いた。
「ここに豚を運ぶ」
入口。
「ここで処理する」
錬金窯。
「肉はこっち」
食品。
「皮はこっち」
革。
「脂はこっち」
石鹸。
「骨はこっち」
肥料。
それぞれ矢印でつなぐ。
「必要な人が取りに来れば、俺が運ばなくていい」
「お前が楽したいだけじゃねえか」
「みんなも楽になる」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
革職人が図を見る。
「でも、ここでまとめて処理してくれるなら悪くない」
石鹸職人もうなずく。
「品質が安定するなら助かります」
農家も考えている。
肉屋の主人が腕を組んだ。
「何頭やるつもりだ?」
「まだ決めてない」
「一頭ずつじゃ、こんな場所はいらねえぞ」
「だから増やす」
「どこまで?」
マードックは工房の外を見る。
「とりあえず、入るだけ」
「一番信用できない答えだな」
ギルバードが笑った。
「食肉センターみたいですね」
「しょくにく?」
「いや、何となく言ってみただけです」
マードックは図を見る。
一人の工房で全部やる必要はない。
必要な人間が集まればいい。
それぞれが必要なものを受け取る。
錬金窯はその中心で、材料を必要な形へ分ける。
「共同で加工場を作らないか?」
全員がマードックを見る。
「俺が窯を用意する」
肉屋の主人が聞いた。
「金は?」
「出せる人?」
「そこからかよ!」
話し合いはその日の夕方まで続いた。
費用。
場所。
誰が何を持ち込むか。
誰が何を受け取るか。
品質が悪かった場合はどうするか。
最初から全部決まったわけではない。
それでも数人が参加することになった。
数か月後。
マードック錬金工房の隣に新しい建物ができた。
工房より広い。
床は汚れても洗いやすくした。
材料を運ぶ台車が通れる幅を取った。
食品を扱う場所と、それ以外を扱う場所も分けた。
中央には改良した錬金窯が置かれている。
「大きくなったな」
マードックが言った。
「去年と全然違いますね」
ギルバードが答える。
「去年は鉄を入れてた」
「今は豚ですもんね」
「来年は何を入れてるんでしょうね」
マードックは笑った。
「さあな」
「変なこと言わないで」
ローレライがセドリックを連れてやってきた。
セドリックはギルバードを見つけると手を伸ばす。
「お兄ちゃん!」
「お、言えるようになったな」
ギルバードが抱き上げた。
マードックは二人を横目に、新しい加工場を見る。
最初は自分が楽をするためだった。
魔力を節約した。
次に材料を無駄なく使おうとした。
気が付けば肉屋や職人や農家まで集まっていた。
「これ、もう俺の工房じゃないな」
「今さら?」
ローレライが言った。
「みんなで使ってるもの」
「そうだな」
マードックは少し考えた。
「なら、もっと使いやすくしないとな」
「また始まった」
ローレライが笑った。
錬金窯はもう、一人の錬金術師だけが使う道具ではなくなっていた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード10開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
三年目 規格 1
【本文】
三年目。
共同加工場は狭くなっていた。
「去年建てたばかりよね?」
「ああ」
「もう狭いの?」
「狭い」
ローレライは加工場の中を見る。
肉を置く台。
料理を入れる容器。
皮。
脂。
骨。
魔石。
道具。
それらを運ぶ台車。
人も増えた。
去年、数人で始めた加工場には、いつの間にか出入りする人間が増えている。
「広げるの?」
「その前に片付ける」
「あなたが?」
「なんで驚くんだよ」
「片付ける前に広げる人だと思ってたから」
「俺を何だと思ってる」
マードックは加工場を歩いた。
物が多い。
それ以上に、置き方が悪い。
床に箱が並んでいる。
その横にも箱。
さらに上にも箱。
「棚が欲しいな」
「買う?」
「作る」
「そう言うと思った」
木材を買ってきた。
最初に作ったのは単純な棚だった。
板。
柱。
補強材。
錬金窯へ入れる。
完成形を設定する。
「これくらいなら簡単だな」
錬成が終わった。
棚が出てきた。
「大きいですね」
ギルバードが見上げる。
「加工場で使うからな」
「どうやって出したんです?」
「ぎりぎり」
棚は錬金窯の排出口を通る最大に近い大きさだった。
「次は出ないかもしれないですね」
「入口と出口を広げるか」
「先に棚を置きましょうよ」
ギルバードと二人で棚を運ぶ。
壁際へ置いた。
箱を並べる。
「おお」
床が空いた。
「いいじゃない」
ローレライも満足そうだった。
「もう一個作る」
「必要ね」
同じ材料を用意する。
同じ設定。
同じ棚を作る。
二つ目が完成した。
横へ並べる。
「……あれ?」
ギルバードが二つの棚を見る。
「どうした?」
「高さ、違いません?」
「同じ設定だぞ」
二人で確認する。
確かに少し違う。
一つ目の棚の方がわずかに高い。
「材料かな」
木材を確認する。
最初に使った板と二回目に使った板。
厚みが少し違う。
幅も完全には同じではない。
「同じ量を入れたんだけどな」
「木ですからね」
ギルバードが言った。
「一本ずつ違いますよ」
「でも同じ棚を作りたい」
「このくらいなら使えるでしょう?」
「使える」
「じゃあいいんじゃないです?」
マードックは二つの棚を見る。
「気になる」
「出た」
後ろにいたローレライが言った。
「何が?」
「あなたの面倒なところ」
「同じものを作ったのに違うんだぞ」
「使えるんでしょう?」
「使えるけど」
「ならいいじゃない」
「よくない」
マードックは測り始めた。
高さ。
幅。
奥行き。
棚板の間隔。
一本目。
二本目。
数字を書いて比べる。
「ここが違う」
「少しだけでしょう?」
「少し違う」
「だから?」
「三個、四個と並べたらもっと気になる」
「そこ?」
「箱を積むときにも困る」
今度は棚に置いてある箱を持ってきた。
加工場ではいくつもの箱を使っている。
肉を運ぶ箱。
材料を入れる箱。
道具を入れる箱。
「これも大きさが違うな」
「作った人が違うもの」
「同じくらいの箱なのに?」
「同じくらいだからでしょう」
一つを棚へ入れる。
入った。
別の箱を入れる。
少し引っかかった。
三つ目。
今度は隙間が大きい。
「無駄だな」
「何が?」
「場所」
マードックは棚を見る。
「箱の大きさが全部同じなら、棚もそれに合わせられる」
「まあ、そうね」
「棚の幅も同じなら並べやすい」
「そうね」
「台車も箱に合わせられる」
「……また何か始まりそう」
マードックは紙を持ってきた。
箱を測る。
どれくらいの大きさが使いやすいか。
ローレライにも聞いた。
「大きすぎると持てないわよ」
「台車で運ぶ」
「全部台車で運ぶわけじゃないでしょう?」
「そうか」
「中身を入れた重さも考えて」
箱だけなら持てる。
肉を入れれば重くなる。
脂を入れても重い。
「じゃあ、このくらいか」
幅。
奥行き。
高さ。
マードックは数字を決めた。
「この大きさで箱を作る」
「何個?」
「とりあえず十個」
「十個?」
「全部入れ替える」
「今ある箱は?」
「使えるところで使う」
「捨てないならいいわ」
木材を用意した。
今度は材料の大きさが違っても、完成品の寸法を指定する。
余った部分は別に分ける。
不足する場合は錬成を止める。
「そこまでやるんですか?」
ギルバードが聞いた。
「同じものを作るんだから同じ大きさにする」
一個目。
二個目。
三個目。
完成した箱を並べる。
「揃ってる」
ギルバードが一つを持ち上げた。
次の箱を重ねる。
きれいに重なった。
三個。
四個。
「これ、いいですね」
「だろ?」
「今までの箱より片付けやすい」
「だろ?」
マードックは嬉しそうだった。
十個の箱を加工場へ持ち込んだ。
棚へ入れる。
同じ隙間。
同じ高さ。
同じ位置。
「気持ち悪いくらい揃ってるわね」
ローレライが言った。
「褒めてる?」
「一応」
使ってみると予想以上に便利だった。
どの箱でも同じ棚へ入る。
どの箱でも同じ台車へ載せられる。
空箱は重ねられる。
置く場所にも迷わない。
壊れても同じものを作ればいい。
「これだな」
「何が?」
「同じって便利だ」
マードックは紙に箱の寸法を書き残した。
その横に棚の寸法も書く。
材料。
厚さ。
形。
組み方。
必要な魔力量。
「また記録?」
「次に同じものを作るからな」
「料理のときと一緒ね」
「そうだ」
一度うまくいったものを、同じ条件で繰り返す。
食品で覚えた方法だった。
だが今回は、味ではない。
形そのものを揃える。
数日後。
肉屋の主人が加工場へ来た。
「この箱、いいな」
「だろ?」
「うちにも欲しい」
「何個?」
「二十」
「二十?」
「肉を運ぶのに使いたい」
革職人も箱を見た。
「うちにも何個か作ってくれ」
「同じのでいい?」
「いや、もう少し長いのがいい」
「どれくらい?」
「このくらい」
「このくらいじゃ分からん。測るぞ」
「面倒な奴だな」
「同じもの作れなくなるだろ」
注文が増えた。
箱。
棚。
作業台。
椅子。
道具を置く台。
加工場で使っていたものを見た人間が、自分の店にも欲しいと言い始めた。
「家具屋みたいになってきましたね」
ギルバードが言った。
「家具屋じゃない」
「棚作ってますよ」
「錬金術師だ」
「箱も」
「錬金術だ」
「椅子も頼まれてましたよね」
「錬金術だ」
「家具屋じゃないですか」
「錬金術師だ」
マードックは注文を書いた紙を見る。
問題が一つあった。
「木材が足りないな」
「買えば?」
「買う」
「じゃあ問題ないじゃない」
「今までより長い板がいる」
大きな棚。
長い作業台。
丈夫な椅子。
注文されるものが増えるほど、必要な材料も大きくなる。
加工場の錬金窯を見る。
去年、豚を入れるために大きくした。
それでも長い板を扱うには使いにくい。
「また入口を大きくするんですか?」
ギルバードが聞いた。
「入口だけじゃ駄目だ」
「というと?」
「出口もだ」
「やっぱり大きくなるんですね」
「仕方ないだろ」
「去年も聞いた気がします」
マードックは錬金窯の横へ立った。
最初は手で持てる材料だけだった。
次に豚が入った。
今度は長い木材を入れようとしている。
作るものが大きくなれば、窯も変えなければならない。
そして、もう一つ。
マードックは十個並んだ箱を見る。
同じ幅。
同じ高さ。
同じ形。
「寸法を決めておいた方がいいな」
「寸法?」
「ああ」
誰かに頼まれるたびに、その場で大きさを決めるのは面倒だった。
箱ならこの大きさ。
棚ならこの幅。
板ならこの厚さ。
よく使うものだけでも先に決めておけばいい。
「毎回考えなくて済む」
ギルバードが笑った。
「結局そこなんですね」
「大事だぞ」
マードックは新しい紙を一枚取り出した。
そこへ最初の数字を書いた。
このとき彼は、それをただの寸法表だと思っていた。
後に多くの工房で使われることになる最初の規格は、加工場の箱をきれいに積みたかったという、それだけの理由から始まった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード11開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
三年目 規格 2
【本文】
箱の寸法を決めてから、注文はさらに増えた。
「同じ箱を十個」
「前と同じ棚を二つ」
「この台に合う大きさで」
注文を受けるたびに、マードックは寸法表を開いた。
「この箱でいいか?」
「それで頼む」
「棚は?」
「前と同じ」
「分かった」
以前なら、そのたびに大きさを測り直していた。
今は違う。
番号を決める。
材料を用意する。
設定を呼び出す。
錬成する。
それだけだった。
「楽だな」
「そこに戻るのね」
ローレライが言った。
「大事だろ」
「まあね」
加工場では、同じ箱がいくつも使われるようになっていた。
肉屋も使う。
革職人も使う。
農家も使う。
用途によって大きさは違うが、よく使うものは数種類に絞られている。
「これ、こっちの棚にも入りますね」
ギルバードが箱を持ち上げた。
「同じ幅にしてるからな」
「台車にも載る」
「それも合わせた」
「便利だなあ」
「だろ?」
マードックは満足そうだった。
だが、誰もが喜んだわけではなかった。
ある日の午後。
加工場へ一人の老人がやってきた。
白髪交じりの髪。
厚い手。
長年、道具を扱ってきた人間の手だった。
「マードックというのはお前か」
「そうだ」
「ルドウィックだ」
名前には聞き覚えがあった。
錬金術協会でも古株の錬金術師。
特に金属と木材の加工に詳しい。
「何か用ですか?」
「これだ」
ルドウィックは加工場に積まれた箱を指さした。
「お前が作ったのか」
「ああ」
「全部同じ寸法だな」
「その方が便利だから」
「誰が決めた」
「俺」
ルドウィックの眉が動いた。
「お前が?」
「そうだけど」
「なぜだ」
「同じ方が使いやすい」
「それだけか」
「十分だろ」
ルドウィックは箱を一つ持ち上げた。
裏を見る。
角を見る。
板の厚みを見る。
「悪くはない」
「褒めてる?」
「褒めておらん」
「悪くないって言っただろ」
「品質の話だ」
ルドウィックは箱を床へ戻した。
「だが気に入らん」
「何が?」
「お前が勝手に寸法を決めていることだ」
マードックは首をかしげた。
「困る?」
「職人には職人の考えがある」
「箱にも?」
「箱にもだ」
ルドウィックは別の箱を指さした。
「用途が違えば必要な厚みも変わる。持つ人間が違えば大きさも変わる。木材も種類によって性質が違う」
「それはそうだな」
「ならば、なぜ同じにする」
「同じで困らないところだけ同じにしてる」
ルドウィックは黙った。
「全部同じにするつもりはない」
マードックは寸法表を持ってくる。
「これは肉を運ぶ箱」
次。
「これは道具用」
次。
「これは軽い物用」
ルドウィックが紙を見る。
「種類を分けているのか」
「ああ」
「それでも数字で決めるのか」
「数字じゃないと同じものを作れない」
ルドウィックの表情が少し険しくなった。
「そこだ」
「何が?」
「同じものを作ることを、なぜそこまでありがたがる」
「便利だから」
「職人が作れば、その場に合ったものを作れる」
「でも人によって違うだろ」
「それが技量だ」
「じゃあ技量が低い人は?」
空気が変わった。
近くで作業していた人間たちも少し静かになる。
ルドウィックがマードックを見る。
「何が言いたい」
「同じものを頼んでも、作る人によって出来が違うことがある」
「当然だ」
「困るだろ」
「だから腕を磨く」
「何年?」
「人による」
「その間は?」
「学ぶ」
「使う側は待つのか?」
ルドウィックの眉間にしわが寄る。
「お前は職人を馬鹿にしているのか」
「してない」
マードックは即答した。
「むしろ逆だ」
「何?」
「上手い職人が作ったものを、同じように作れたら便利だろ」
「何を言っている」
「良いものができたら、その条件を残す」
材料。
寸法。
厚み。
形。
必要な強度。
全部記録する。
「次から同じ条件で作ればいい」
「それでは職人の技量が必要なくなる」
「全部は無理だろ」
マードックは近くの椅子を指さした。
「これ、座り心地悪い」
「おい」
「でも壊れない」
「そういう話ではない」
「座り心地まで数字にできるならやる」
「……」
「できないなら職人に聞く」
ルドウィックが黙った。
マードックは続ける。
「俺は職人をなくしたいわけじゃない」
「では何だ」
「毎回同じことで失敗したくない」
箱が入らない。
棚の高さが違う。
台車に載らない。
同じ注文なのに出来が違う。
「そういうのを減らしたい」
ルドウィックはしばらく何も言わなかった。
「若いな」
「そう?」
「考えが浅い」
「そうか?」
「数字にできないものはいくらでもある」
「それは分かる」
「分かっていない」
ルドウィックは加工場を出ていった。
「怒らせました?」
ギルバードが近寄ってくる。
「たぶん」
「大丈夫ですかね」
「何が?」
「協会の偉い人なんでしょう?」
「古参らしい」
「怖くないんですか?」
「別に」
ローレライが横から言った。
「少しは気にしなさい」
「でも間違ったこと言ったか?」
「言い方の問題よ」
「どこが?」
「全部」
「そんなに?」
数日後。
錬金術協会から呼び出しが来た。
「ほら」
ローレライが紙を見せる。
「怒られたんじゃない?」
「行けば分かる」
「反省してる?」
「まだ怒られたと決まってない」
「その態度で行くの?」
「普通に行く」
錬金術協会。
マードックが中へ入ると、何人かの錬金術師が集まっていた。
ルドウィックもいる。
その隣には若い男が座っていた。
「あなたがマードックさん?」
「ああ」
「カールです」
若い男はすぐに立ち上がった。
「例の箱、見ました」
「例の?」
「寸法を揃えたやつ」
「ああ」
「便利ですよね」
ルドウィックが横から睨む。
「カール」
「だって便利じゃないですか」
「そういう問題ではない」
「またそれですか」
「またとは何だ」
二人は普段から意見が合わないらしい。
奥にいた男が手を叩いた。
「その話をするために集まってもらった」
ブラウン。
協会の幹部だった。
「マードック」
「はい」
「君が作っている寸法表を見せてほしい」
「いいですよ」
紙を渡す。
ブラウンは一枚ずつ確認した。
「材料まで書いてあるのか」
「同じ寸法でも材料が違えば強さが変わるから」
「用途も?」
「分けてる」
「使用例もある」
「使う人に聞いた」
ブラウンはしばらく紙を見ていた。
「これは面白い」
ルドウィックがすぐに言った。
「ブラウン」
「最後まで聞け」
ブラウンは紙を机へ置く。
「便利だから面白いのではない」
マードックを見る。
「誰が作っても同じになる可能性がある」
「それが狙いです」
「そこが問題でもある」
「問題?」
「同じ寸法なら同じ品質だと思われる」
マードックは少し考えた。
「違う?」
「違う」
ブラウンは箱を一つ持ってこさせた。
「例えば同じ寸法の箱を作る」
「ああ」
「板の厚さも同じ」
「ああ」
「形も同じ」
「ああ」
「だが材料が悪ければ?」
「壊れる」
「加工が悪ければ?」
「壊れる」
「見た目が同じでも、中身まで同じとは限らない」
マードックは箱を見る。
「なるほど」
ルドウィックが腕を組む。
「ようやく分かったか」
「じゃあ品質も決めればいい」
「何?」
「寸法だけじゃ足りないんだろ」
ブラウンの目が少し細くなった。
「何を決める?」
「材料」
紙へ書く。
「厚さ」
書く。
「強さ」
書く。
「壊れやすいところ」
書く。
「どこまで違っていいか」
そこでマードックの手が止まった。
「どこまで?」
カールが覗き込む。
「全部ぴったり同じじゃなくても使えるでしょう」
「ああ」
「なら、許せる範囲を決めればいい」
マードックは紙を見る。
「少しくらい違ってもいい」
「でも違いすぎたら駄目」
「そう」
ブラウンが静かに言った。
「許容差だな」
「きょようさ?」
「決めた値から、どこまでずれてよいか」
マードックはその言葉を書いた。
許容差。
「それ、いいな」
「気に入った?」
カールが笑う。
「便利そうだ」
「結局そこなんですね」
ルドウィックはため息をついた。
だが今度は帰らなかった。
机の上の寸法表を見る。
「木材なら、この程度の差は出る」
「どれくらい?」
「用途による」
「じゃあ教えてくれ」
「なぜ私が」
「知ってるから」
ルドウィックが黙る。
「俺より詳しいだろ」
「当然だ」
「なら手伝ってくれ」
「断る」
「なんで?」
「お前が気に入らん」
「そこか」
カールが吹き出した。
ブラウンは笑わなかった。
「ルドウィック」
「何だ」
「君の知識は必要だ」
「……」
「マードックの方法を認めろと言っているわけではない」
ブラウンは寸法表を指さす。
「使えるかどうかを確かめたい」
ルドウィックは長く息を吐いた。
「三日だけだ」
「十分」
「十分じゃない」
「じゃあ一週間」
「増やすな!」
その日から、錬金術協会の一角で妙な作業が始まった。
箱を測る。
板を測る。
壊す。
また作る。
重いものを載せる。
落とす。
壊れた場所を見る。
「壊れた」
カールが言った。
「薄すぎる」
ルドウィックが答える。
「じゃあ厚くする」
マードックが書く。
「厚くしすぎると重い」
「じゃあどこまで?」
「それを調べているんだ!」
三人の声が協会中に響いた。
数週間後。
最初の寸法表には、新しい項目が増えていた。
寸法。
材料。
用途。
許容差。
確認方法。
そして最後に一つ。
品質。
マードックは紙を見る。
「面倒になったな」
ルドウィックが睨む。
「お前が始めたんだ」
「でも前より使いやすい」
「それは認める」
マードックが顔を上げた。
「今なんて?」
「二度は言わん」
「認めた?」
「二度は言わん!」
カールが笑った。
ブラウンは完成した紙を手に取る。
「これを協会で試験的に使う」
「いいのか?」
「まだ一部だけだ」
ブラウンはマードックを見る。
「ただし、勝手に広めるな」
「なんで?」
「確認が必要だからだ」
「使えるのに?」
「使えることと、安全に使えることは違う」
マードックは少し黙った。
またどこかで聞いたような言葉だった。
「分かった」
「本当に?」
ローレライがいれば、たぶんそう言っただろう。
寸法を揃えれば便利になる。
それだけで始めた話だった。
だが揃えるなら、何を揃えるのか決めなければならない。
どこまで違っていいかも決める。
そして、同じ形なら同じように使えると保証する必要もある。
マードックはその紙をただの寸法表とは呼ばなくなった。
「規格か」
ブラウンがうなずいた。
「ああ」
箱をきれいに積むために始めた数字は、いつの間にか品質まで決め始めていた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード12開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
三年目 規格 3
【本文】
規格を作ってから三か月。
マードックは困っていた。
「三号箱を三十個?」
「ああ」
肉屋の主人が言った。
「多くない?」
「足りねえんだよ」
「この前二十個作っただろ」
「使ってる」
「壊れた?」
「違う。便利だから増やす」
「なるほど」
マードックは注文を書いた。
三号箱。
三十個。
「いつまで?」
「できれば今週」
「無理」
「錬金窯ならすぐだろ」
「材料がない」
「木材なら用意する」
「じゃあできる」
話は終わった。
肉屋の主人が帰る。
ローレライが帳簿を持ってやってきた。
「今の何?」
「三号箱」
「三号?」
「肉とかを運ぶ箱」
「名前を付けたの?」
「毎回寸法を言うのが面倒だから」
「また面倒だからなのね」
「三号って言えば分かる」
実際、便利だった。
一号箱。
二号箱。
三号箱。
用途と大きさを分けた。
棚も同じだった。
一号棚。
二号棚。
作業台にもいくつか決まった寸法がある。
最初はマードックと加工場の人間だけが使っていた呼び方だった。
いつの間にか町の職人も使うようになっていた。
「三号箱に合う棚をくれ」
「二号を四つ積める台車が欲しい」
「一号箱だと小さいから二号にしてくれ」
寸法を説明する必要がない。
名前を言えば通じる。
「便利だな」
「そうね」
「もっと早くやればよかった」
「去年は豚を窯に入れるので忙しかったものね」
「そうだった」
数日後。
マードックは木材を買いに町へ出た。
材木屋で必要な板を注文する。
「三号箱を三十個作りたい」
「なら、いつもの板だな」
「分かるの?」
「最近よく出るからな」
材木屋の主人が板を出してきた。
幅も厚みも揃っている。
「これ、切ってある?」
「ああ」
「なんで?」
「お前のところ以外でも三号箱を作る奴がいる」
「誰が?」
「何人かいるぞ」
マードックは初めて聞いた。
「俺以外が作ってるの?」
「当たり前だろ。お前一人で町中の箱を作るつもりだったのか?」
「いや」
考えていなかった。
「寸法が決まってるから作りやすいらしい」
「へえ」
「こっちも板の大きさをある程度揃えられる。注文のたびに切り方を変えなくて済むから楽だ」
「それはいいな」
マードックは少し嬉しくなった。
自分が作らなくても同じものが作られている。
それならもっと楽になる。
木材を受け取り、工房へ戻る途中。
「マードックさん!」
声をかけられた。
ギルバードだった。
両手に箱を抱えている。
「ちょうどよかった」
「何?」
「見てください」
箱を地面へ置く。
「三号箱です」
「そうだな」
「買いました」
「うちで?」
「違います」
「どこで?」
「向こうの木工所」
ギルバードが指さす。
「安かったんですよ」
「へえ」
マードックは箱を見る。
見慣れた大きさだった。
「ちゃんと三号だな」
「加工場に持っていきましょう」
二人で戻る。
ギルバードは買ってきた箱を棚へ入れた。
すっと収まった。
「おお」
ギルバードが嬉しそうに言う。
「入った」
「当たり前だろ」
「別の店で買ったんですよ?」
「三号なんだから入る」
「でもマードックさんが作ってない」
「だから?」
ギルバードは棚と箱を見る。
「なんかすごくないです?」
マードックも見る。
自分が作った棚。
知らない職人が作った箱。
作った人間は違う。
それでも合う。
「……確かに」
「でしょう?」
寸法を決めただけだった。
だが、その数字を共有すれば、別の人間が作ったもの同士でも組み合わせられる。
「これ、面白いな」
「今さらですか?」
「俺は自分が作るときに楽だから始めたんだ」
「知ってます」
「知らない奴が作っても合うのか」
「規格だからじゃないですか?」
「そうなんだけど」
マードックは箱を何度か出し入れした。
「便利だな」
「気に入りました?」
「ああ」
「じゃあ僕、もう一個買ってきます」
「なんで?」
「安いから」
「待て」
「何です?」
「いくらだった?」
値段を聞く。
マードックが作るより少し安い。
「……負けてる」
「そこ気にするんですか?」
「材料費どうなってるんだ?」
「知りませんよ」
「気になる」
その日の夕方。
さらに別の店から三号箱が持ち込まれた。
「これ交換してくれ」
肉屋の主人だった。
「なんで俺に?」
「三号箱だろ?」
「俺が売ったんじゃない」
「同じだろ」
「違う」
「三号って書いてあるぞ」
箱の側面に大きく、
三号。
と書かれていた。
「どこで買った?」
「市場」
「安かった?」
「安かった」
「……見せて」
マードックは箱を受け取った。
軽い。
「軽くない?」
「だから使いやすいと思ったんだ」
棚へ入れる。
入った。
寸法は合っている。
「問題ないじゃないか」
「肉を入れてみろ」
肉屋の主人が言った。
加工場にあった肉を入れる。
箱を持ち上げる。
ぎし。
「ん?」
底が少し曲がった。
「おい」
「まだ持ち上げるな」
マードックが床へ戻す。
底板を見る。
「薄い」
「三号だろ?」
「寸法は三号」
「じゃあ三号じゃねえか」
「でも板が違う」
マードックは寸法表を持ってきた。
確認する。
「材料も違う」
「三号じゃねえか」
「だから……」
マードックは言葉に詰まった。
見た目は三号箱だった。
棚にも入る。
外側の寸法もほぼ合っている。
だが、肉を運ぶために決めた強さがない。
「どこで作った?」
「知らん。市場で買った」
「売った奴は?」
「知らん」
「誰が三号って書いた?」
「知らん」
「何も知らないじゃないか」
「安かったんだよ!」
「安ければいいのか!」
「お前が言うな!」
マードックは黙った。
「……確かに」
「納得するな」
翌日。
問題の箱を持って錬金術協会へ行った。
「三号箱です」
カールが箱を見る。
「普通ですね」
「持って」
カールが持ち上げる。
「軽い」
「肉を入れると壊れそうになる」
「じゃあ駄目じゃないですか」
「でも三号って書いてある」
「書くだけなら誰でもできますよ」
「そうなんだよ」
奥からルドウィックが出てきた。
「だから言っただろう」
「何を?」
「数字だけ揃えても意味がない」
「数字も揃ってない」
「もっと悪い!」
ルドウィックは箱を見る。
「材料が悪い。板も薄い。組み方も雑だ」
「棚には入る」
「箱は棚に入れるためだけにあるのか?」
「違う」
「なら駄目だ」
「でも三号って売ってる」
「それが問題なんだ!」
ブラウンも箱を確認した。
「予想より早かったな」
「予想してたの?」
「いずれ出るとは思っていた」
「言ってくれよ」
「勝手に広めるなと言ったはずだ」
「あ」
「忘れていたな?」
「……少し」
「完全に忘れてましたね」
カールが言った。
ブラウンは二つの三号箱を並べた。
一つはマードックの規格どおり。
一つは市場で売られていたもの。
外から見ればよく似ている。
「買う側には分からない」
ブラウンが言った。
「そうだな」
「なら、どうする?」
「中まで見る?」
「買うたびに?」
「面倒だな」
「お前はそればかりだな」
ルドウィックが呆れる。
「でも毎回調べるのは無理だろ」
肉屋が箱を百個使うなら、百個すべてを壊して確認するわけにはいかない。
強さを確認するために壊してしまえば、そもそも使えない。
「作った人を信用する?」
カールが言った。
「知らない人だったら?」
「困りますね」
マードックは二つの箱を見る。
「じゃあ、確認したものだけ印を付けるとか」
ブラウンがマードックを見る。
「印?」
「規格どおりに作られてるって確認できたものに印を付ける」
「誰が確認する?」
「……協会?」
「なぜ我々なんだ」
「錬金術協会だから」
「木工品までか?」
「俺も錬金術で作ってる」
「他の職人は?」
「木工所」
「では木工職人の組合も必要だな」
「面倒だな」
「だからお前が始めたんだ!」
ルドウィックの声が響いた。
カールが笑う。
「でも、それなら買う側は楽ですよ」
「何が?」
「印を見ればいい」
規格に合っている。
材料も決めたものを使っている。
必要な強さも確認している。
それが分かる印。
「それなら安い箱と間違えないな」
マードックが言った。
「安い箱が悪いわけではない」
ブラウンが訂正した。
「用途が違うだけだ」
「ああ、そうか」
軽いものを入れるなら、薄い箱でもいい。
問題は肉を運ぶための三号箱として売られていることだった。
「じゃあ用途も分かるようにする?」
「必要だな」
「また項目が増える」
「嫌ならやめてもいいぞ」
「それは嫌だ」
「なら書け」
マードックは紙を出した。
三号箱。
寸法。
材料。
許容差。
用途。
必要な強さ。
確認方法。
そして、
確認済み。
「これでいい?」
「まだ試験だ」
ブラウンが言った。
「いきなり町中へ広げるな」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「今回は覚えてる」
「今回は、とは何だ」
数週間後。
加工場へ新しい三号箱が届いた。
マードックが作ったものではない。
ギルバードが持ってきた。
「また別の店?」
「はい」
「大丈夫?」
「見てください」
箱の側面に小さな印があった。
協会と木工職人たちが試験的に始めた確認印。
「お」
マードックが箱を持つ。
棚へ入れる。
収まる。
肉を入れる。
持ち上げる。
問題ない。
「ちゃんとしてる」
「しかも安かったですよ」
「また負けた」
「そこなんですね」
ギルバードが笑う。
「でも、マードックさん」
「何?」
「これ、もうマードックさんが箱を作らなくていいってことですよね?」
マードックの動きが止まった。
自分が寸法を決めた。
職人と一緒に品質を決めた。
確認する方法も作った。
その結果。
自分以外の人間が、同じものを作っている。
しかも自分より安い。
「……作らなくていい?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
マードックは箱を見る。
しばらく黙った。
「最高じゃないか」
「そこまで喜びます?」
「俺が作らなくても同じものが手に入るんだぞ」
マードックは笑った。
「これが一番楽だ」
ギルバードも笑った。
加工場の隅では、同じ寸法の箱がきれいに積まれている。
誰が作ったのかは、それぞれ違う。
それでも同じ棚に入り、同じ台車に載り、同じ仕事に使えた。
マードックはようやく気付いた。
同じものを作るために必要なのは、同じ職人ではない。
同じ窯でもない。
作り方と、出来上がったものに求める条件を共有すればいい。
自分が作らなくてもいい仕組み。
マードックにとって、それ以上に魅力的なものはなかった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード13開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
三年目 規格 4
【本文】
それから半年。
ロックフィールドの町を歩くと、マードックは妙なものを見るようになった。
「三号箱、十個頼むよ」
「あいよ」
市場で声が聞こえる。
振り返る。
店の前に見慣れた箱が積まれていた。
「……三号だ」
マードックが呟く。
「三号ですね」
隣を歩いていたギルバードが答えた。
「俺が作ったやつじゃない」
「もう誰もマードックさんが作ったと思ってないですよ」
「そうなの?」
「そうですよ」
少し寂しい。
だが、それ以上に楽だった。
マードックはもう箱をほとんど作っていない。
必要になれば買えばいい。
棚も同じだった。
決まった寸法のものなら、町の木工所へ頼める。
壊れたら同じ番号のものを買う。
加工場で使う台車も、箱に合わせた寸法のものが増えた。
「楽になったな」
「嬉しそうですね」
「楽するために始めたからな」
「三年かかってますけど」
「必要な努力だ」
「楽するために?」
「そうだ」
ギルバードは笑った。
二人は材木屋へ向かった。
加工場で使う新しい作業台を作るためだった。
「四号板を二十枚」
マードックが言う。
「厚い方か?」
「そう」
「なら奥だ」
材木屋の主人が迷わず歩いていく。
以前なら、
このくらいの長さ。
このくらいの幅。
このくらいの厚さ。
と説明していた。
今は番号だけで通じる。
材木屋も、よく売れる寸法の板をあらかじめ用意している。
「これでいいか?」
板を一本確認する。
「いい」
「二十枚な」
話はすぐに終わった。
「早いですね」
ギルバードが言った。
「楽だろ?」
「はいはい」
材木屋を出る。
その途中で、マードックは一軒の木工所の前で立ち止まった。
職人が椅子を作っている。
同じ形の椅子が五脚並んでいた。
「同じだ」
「椅子ですね」
「そうじゃなくて」
マードックは近寄った。
「これ、全部同じ寸法?」
職人が顔を上げる。
「ああ」
「なんで?」
「なんでって、注文がそうだからだよ」
「誰から?」
「宿屋」
職人は作業を続ける。
「二十脚欲しいって言われた」
「二十?」
「一脚ずつ形が違ったら困るだろ」
「そうだな」
「だから最初に一脚作って、寸法を決めた」
壁に紙が貼ってある。
簡単な図。
高さ。
幅。
座面。
脚の長さ。
「図まである」
「当たり前だろ」
「誰に教わった?」
「別に誰にも」
職人が怪訝な顔をする。
「最近みんなやってるぞ」
「みんな?」
「同じものを何個も作るなら、その方が楽だからな」
マードックはギルバードを見る。
「俺と同じこと言ってる」
「感染したんじゃないですか?」
「病気みたいに言うな」
さらに歩く。
別の工房では棚。
その隣では樽。
少し先では荷車の車輪。
すべてが同じ規格になったわけではない。
職人ごとの作り方も残っている。
注文に合わせた一品物も普通にある。
だが、何度も作るもの。
交換するもの。
組み合わせて使うもの。
そうした品には少しずつ決まった寸法が使われ始めていた。
「全部同じにしなくてもいいんだな」
「今さらですか?」
「最初は揃えた方が便利だと思ってた」
「違ったんです?」
「揃えた方が便利なものだけ揃えればいい」
「普通ですね」
「普通になるまでが大変なんだよ」
その日の午後。
錬金術協会へ寄った。
中ではカールとルドウィックが言い争っていた。
「だから五号でいいじゃないですか」
「薄い!」
「十分ですよ」
「お前は何を載せるつもりだ!」
「普通の道具です」
「普通とは何だ!」
「普通は普通です!」
「数字で言え!」
マードックは立ち止まった。
「ルドウィック」
「何だ!」
「数字嫌いじゃなかった?」
ルドウィックが黙った。
カールも黙った。
「……必要だから使っているだけだ」
「便利だろ?」
「調子に乗るな」
「便利なんだ」
「うるさい!」
奥でブラウンが書類を整理している。
「最近ずっとあんな感じですか?」
「ああ」
「大変ですね」
「君のせいだ」
「俺?」
「君だ」
ブラウンは書類を一枚渡した。
確認済みの製品。
試験方法。
使える材料。
製作者。
問題があった場合の記録。
「増えましたね」
「増やしたのは君たちだ」
「便利になったでしょう?」
「仕事も増えた」
「それは……」
「便利になった部分は認める」
「お」
「だが、基準を作れば終わりではない」
ブラウンは書類を指さした。
「守られているか確認する人間が必要になる」
「なるほど」
「基準を変えるなら理由も必要だ」
「なるほど」
「問題が起きたら記録する」
「なるほど」
「理解しているか?」
「だいたい」
「していないな」
ブラウンはため息をついた。
「いずれ専門に管理する者が必要になるかもしれん」
「錬金術師なのに?」
「錬金術師だからだ」
マードックは少し考えた。
錬金術師。
昔は自分の魔力と技量で物を作る人間だった。
今は違う。
窯を作る者。
窯を調整する者。
材料を調べる者。
出来たものを確認する者。
規格を考える者。
同じ錬金術でも仕事が分かれ始めている。
「面倒になったな」
「技術が広がるとはそういうことだ」
「俺は楽したかっただけなのに」
「知るか」
ブラウンは次の書類を手に取った。
加工場へ戻ると、ローレライが待っていた。
「遅かったわね」
「協会に寄ってた」
「また何かやった?」
「何もやってない」
「本当に?」
「今日は」
「今日は?」
「何でもない」
マードックは買ってきた板を見る。
「作業台を作るか」
新しい作業台は、今までより大きかった。
加工場で複数人が同時に使う。
長い材料も置けるようにする。
幅を決める。
高さを決める。
脚の位置を決める。
「これでいいな」
図を描いた。
材料を錬金窯へ運ぶ。
長い板を持ち上げる。
投入口へ入れる。
途中で止まった。
「……入らない」
ギルバードが反対側を見る。
「斜めにします?」
「やってみる」
二人で板を傾ける。
「そっち上げて」
「はい」
「もう少し」
「これ以上無理です」
「回せる?」
「壁に当たってます」
「じゃあ戻す」
二人で板を下ろした。
マードックは錬金窯を見る。
「狭い」
「またですか」
「去年より大きくしたんだけどな」
「豚を入れるために」
「そうだった」
今度は木材だった。
箱なら入る。
椅子も作れる。
小さな棚も作れる。
だが大きな家具になると、材料そのものが入らない。
「入口を広げる?」
ギルバードが聞いた。
「それだけじゃ駄目だ」
「出口も?」
「ああ」
完成した作業台を出せなければ意味がない。
「分解して作れば?」
ローレライが言った。
「それでもいい」
「じゃあ解決ね」
「でも、大きいまま作れた方が楽だ」
「また大きくする気?」
「必要なら」
「どこまで?」
マードックは長い板を見る。
家具。
棚。
机。
ベッド。
扉。
今はその程度だった。
「なあ」
「何?」
「これだけ長い木材を扱えるなら、もっと大きいものも作れるよな」
ローレライが嫌な顔をした。
「何を作るつもり?」
「まだ何も」
「その顔で言われても信用できない」
マードックは板を持ち上げる。
「例えば柱とか」
「柱?」
「梁とか」
ギルバードが首をかしげた。
「それ、家具じゃないですよね」
「そうだな」
「家ですよ」
マードックの手が止まった。
「家か」
ローレライがすぐに言った。
「やめて」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「作れるかな」
「言った!」
マードックは加工場の天井を見上げた。
柱。
梁。
壁。
床。
屋根。
今まで作ってきたものより、ずっと大きい。
必要な材料も増える。
運ぶ方法も考えなければならない。
今の錬金窯では足りない。
今の加工場でも足りない。
マードックは笑った。
「面白そうだな」
「私は嫌な予感しかしないわ」
ローレライの予感は、だいたい当たる。
翌年。
マードック錬金工房の周囲から、また建物が増え始めることになる。
今度は加工場を作るためではない。
家を作るための設備を作るためだった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード14開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
四年目 建築 1
【本文】
四年目。
マードックは、自分の工房を壊していた。
「おとうさん」
セドリックが、崩された壁を見上げる。
「おう」
「こわれたの?」
「壊した」
「なんで?」
「狭いから」
セドリックは少し考えた。
「なおす?」
「広くする」
「なんで?」
「狭いから」
「さっききいた」
「そうだったな」
三歳になったセドリックは、よく喋るようになった。
そして、よく聞く。
何をしているのか。
どうしてそうするのか。
それは何に使うのか。
答えても、また聞く。
「いつできる?」
「まだ分からない」
「なんで?」
「作ったことがないから」
「なんで?」
「普通は作らないから」
「なんで?」
マードックは手を止めた。
「ローレライ」
「なに?」
「助けてくれ」
「自分で答えなさい」
少し離れた場所で、ローレライが笑っている。
その隣ではギルバードが柱を運んでいた。
「これ、どこへ置きます?」
「そっち」
「そっちって?」
「新しい壁の横」
「新しい壁はまだありませんよ」
「じゃあ、その辺」
「その辺に置くと邪魔になります」
「なら邪魔にならないところ」
「どこですか?」
マードックは周囲を見回した。
取り外した板。
切り出した柱。
運び込まれた石材。
錬金窯の交換部品。
滑車。
縄。
台車。
加工場の周囲は、どこを見ても物で埋まっている。
「置くところがないな」
「だから聞いてるんです」
「広くしないと駄目だ」
「広くするために壊してるんですよね?」
「そうだ」
「その材料を置くために、先に広い場所が必要です」
「なるほど」
「今気づいたんですか?」
ギルバードが呆れた顔をする。
マードックは壊しかけの工房を見た。
大きな材料を扱うには、今の加工場では狭い。
だから壁を外し、屋根を延ばそうとした。
だが、そのためには大量の材料が必要になる。
材料を保管するには場所がいる。
加工するにも場所がいる。
完成した柱や梁を並べておく場所もいる。
「工房を広くするための工房が必要だな」
「嫌な言い方ね」
ローレライが言った。
「でも必要だろ」
「必要だとしても、先に相談してほしかったわ」
「相談したぞ」
「昨日の夕食のときに、『明日、壁を外す』って言っただけでしょう」
「反対しなかった」
「冗談だと思ってたのよ」
「俺は本気だった」
「それが問題なの」
ローレライは、壁のなくなった工房を見る。
朝までは、そこに棚があった。
作業台があった。
窓もあった。
今は何もない。
「今夜、雨が降ったらどうするの?」
「降るのか?」
「知らないわよ」
マードックは空を見上げた。
少し曇っている。
「急いだ方がいいな」
「そういう話じゃないわ」
結局、その日は工房を広げるのではなく、外した壁を元へ戻す作業で終わった。
翌朝。
マードックは工房の前に大きな紙を広げた。
「今回は先に考える」
ローレライが紙を見る。
「何を?」
「必要なもの」
紙には、いくつかの四角が描かれていた。
現在の工房。
加工場。
材料置き場。
完成品置き場。
その横に、さらに大きな四角がある。
「これは?」
「新しい加工場」
「大きすぎない?」
「柱や梁を扱うなら、これくらい必要だ」
「こっちは?」
ギルバードが、紙の端に描かれた細長い線を指さした。
「道」
「道?」
「材料を運ぶ」
「今も道はありますよ」
「狭い」
今まで扱ってきた材料は、人が持てる大きさが多かった。
重いものは荷車で運んだ。
それでも家具や道具なら、どうにかなった。
だが、家に使う柱や梁は長い。
一本なら運べる。
何本も運ぶなら話が変わる。
曲がり角が狭ければ通れない。
地面が柔らかければ車輪が沈む。
加工場へ入れるにも、出口が狭ければ詰まる。
「建物だけじゃないのね」
「ああ」
マードックは紙へ線を足した。
「材料が入ってくる」
入口に矢印を描く。
「ここで長さを確認する」
四角を描く。
「切る」
次の四角。
「削る」
その隣。
「錬金窯で処理する」
さらに隣。
「確認する」
最後に大きな四角を描いた。
「保管する」
ローレライが紙を見る。
「ずいぶん長い建物ね」
「材料を戻さなくて済むようにした」
「戻す?」
「今は同じ場所で切って、削って、窯へ運んで、また作業台へ戻してるだろ」
「そうね」
「重い材料で何度もやりたくない」
ギルバードがうなずいた。
「一方向に進めるんですね」
「ああ」
「それなら台車も同じ向きに動かせます」
「床も平らにした方がいいな」
「途中に段差があると危ないですからね」
マードックは紙へ書き加える。
平らな床。
広い入口。
台車が通れる幅。
材料を持ち上げる滑車。
長いものを回せる空間。
雨に濡れない保管場所。
書けば書くほど、建物は大きくなった。
「家を作るための設備ですよね?」
ギルバードが聞いた。
「そうだ」
「家より大きくないですか?」
「何軒も作るからな」
「何軒作るんです?」
マードックは黙った。
まだ一軒も頼まれていない。
そもそも家を作れるのかも分からない。
「まず一軒」
「誰の家です?」
「決めてない」
「注文は?」
「ない」
「勝手に設備を作ってるんですか?」
「試してから注文を取る」
「試す家は誰のです?」
マードックは周囲を見た。
自宅。
工房。
加工場。
どれも今すぐ建て替える必要はない。
少し離れたところに、小さな小屋がある。
道具と薪を置いているだけの古い小屋だった。
「あれにしよう」
「家じゃないですよ」
「小屋が作れれば、家も作れる」
「だいぶ違うと思います」
「大きさが違うだけだ」
「それが一番大きな違いでは?」
ギルバードの言葉を聞き流し、マードックは小屋の寸法を測り始めた。
幅。
奥行き。
高さ。
柱の本数。
梁の長さ。
屋根の傾き。
使われている板の厚さ。
調べてみると、家具とは違うことが多かった。
椅子なら、壊れても座っている人が転ぶ程度で済む。
棚なら、載せたものが落ちる。
だが建物は違う。
柱が折れれば、屋根が落ちる。
壁が外れれば、雨や風が入る。
床が抜ければ、人が怪我をする。
火が出れば、中にいる人が逃げられなくなる。
「思ってたより面倒だな」
「今さらやめてもいいのよ」
ローレライが言った。
「いや」
マードックは古い小屋の柱を叩いた。
「面倒なところが分かったなら、先に考えられる」
腐っている場所。
水が染みた跡。
虫に食われた穴。
継ぎ目の緩み。
建てたときには問題がなくても、使っているうちに傷んでいく。
家具も同じだった。
だが、家は長く使う。
一度作れば、何年も。
場合によっては、作った人間より長く残る。
「窯で形を作れば終わりじゃないな」
「当たり前でしょう」
「材料も選ばないと駄目だ」
「そうね」
「どこに使うかで、処理も変える必要がある」
「そうね」
「交換できるようにした方がいいな」
ローレライが眉をひそめた。
「家を?」
「家じゃない。傷んだところを」
マードックは柱を見る。
すべてを一つにしてしまえば、丈夫にはなるかもしれない。
だが、一か所が傷んだときに困る。
直すために家全体を壊すわけにはいかない。
柱。
梁。
壁。
床。
屋根。
役割ごとに分ける。
必要なところだけ外せるようにする。
同じ寸法で作れば、別の場所で作った部材とも交換できる。
「三年目にやったことと同じですね」
ギルバードが言った。
「そうだな」
「規格」
「ああ」
「家具より数が増えますね」
マードックは紙を見る。
柱だけではない。
梁。
板。
扉。
窓。
留め具。
屋根材。
一軒の小屋でも、多くの部材が必要になる。
家なら、もっと増える。
「全部決めるのは無理だな」
「諦めます?」
「揃えた方が便利なものだけ揃える」
ギルバードが笑った。
「普通ですね」
「普通になるまでが大変なんだよ」
まずは柱と梁。
次に壁板と床板。
屋根は後で考える。
マードックは図を描き直した。
同じ太さの柱。
決められた長さの梁。
組み合わせるための継ぎ目。
錬金窯で一体化させるのではなく、現場で組み立てられる形。
「窯で家を作るんじゃないのね」
ローレライが言った。
「入らないからな」
「大きな窯を作ると思ってたわ」
「考えた」
「考えたの?」
「でも、家が入る窯を作るには、窯を作る建物が必要になる」
「家より大きな?」
「ああ」
「その建物はどうやって作るの?」
「それを考えて、やめた」
ローレライが安心したように息を吐いた。
「少しは成長したのね」
「だから、部品を作る」
「結局作るのね」
マードックは図を持ち上げた。
工房で作る。
台車で運ぶ。
現場で組み立てる。
窯に入らないなら、入る大きさに分ければいい。
問題は、その先だった。
「これ、誰が組み立てるの?」
ローレライが聞いた。
「俺たち」
「家を建てたことがあるの?」
「ない」
「ギルバードは?」
「ないです」
二人の視線がマードックへ集まる。
「なら、知ってる人に聞こう」
その日の午後。
マードックは町の大工組合を訪ねた。
図面を抱えたマードックを見て、受付の男が言った。
「今度は何を作る気だ?」
「小屋」
「帰れ」
「まだ説明してないだろ」
「錬金術師が図面を持って大工組合へ来た時点で、嫌な予感しかしない」
「よく言われる」
「だろうな」
男は図面を受け取った。
しばらく見る。
一枚めくる。
また見る。
やがて、深いため息をついた。
「これは小屋の図面じゃない」
「小屋を作る設備の図面だ」
「もっと悪い」
男は図面を机へ置いた。
「大工を呼べ。腕がよくて、気が長くて、錬金術師が嫌いなやつ」
「最後の条件は必要か?」
「絶対に必要だ」
奥から、低い声が返ってきた。
「そんな大工なら、ここにいる全員だ」
マードックが振り返る。
太い腕をした年配の男が、こちらを睨んでいた。
その視線が、机の上の図面へ落ちる。
「家を、部品にするつもりか」
「駄目か?」
「駄目かどうかを決めるのは、作ってからじゃ遅い」
男は図面を一枚持ち上げた。
「まず、お前に家の作り方を教える」
「助かる」
「勘違いするな」
紙が音を立てた。
「お前が何を壊そうとしているのか、先に理解させるためだ」
マードックは笑った。
「それでいい」
四年目。
マードックは初めて、自分よりも家に詳しい人間と仕事をすることになった。
そして、自分が知らないことの多さを知ることになる。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード15開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
四年目 建築 2
【本文】
翌朝。
年配の大工は、工房へ来るなり新しい加工場の図面を破った。
「何するんだ!」
「家の作り方を教えてほしいと言ったな」
「言った」
「なら、まず忘れろ」
破られた図面が、机の上に落ちる。
隣にいたギルバードが一歩下がった。
ローレライは少し離れた場所で見ている。
マードックは破れた紙を拾った。
「せっかく描いたのに」
「だから破った」
「どういう意味だ?」
「こんなものを見ながら話したら、お前は自分の考えに都合のいいことしか聞かん」
「そんなことはない」
「ある」
大工は即答した。
「大工組合で図面を見たとき、お前は一度も家のことを聞かなかった」
「聞いたぞ」
「どこを同じ寸法にできるか。どの部材を窯で作れるか。何人で組み立てられるか」
「大事だろ」
「家が、どうやって立っているかは聞いたか?」
マードックは黙った。
「立っているだろ」
「それが分かっていないと言ってるんだ」
大工は工房の柱を叩いた。
低い音がした。
「屋根は重い」
「知ってる」
「雨が降れば、もっと重くなる」
「そうだな」
「風は横から押す」
「ああ」
「地面は動く」
マードックは柱の根元を見る。
「動く?」
「乾けば縮む。雨が続けば緩む。寒くなれば凍る場所もある。どこに建てても同じだと思うな」
「地面まで考えるのか」
「家は地面に立つんだ。当たり前だろ」
大工は次に梁を見上げた。
「木も動く」
「木が?」
「乾けば縮む。湿れば膨らむ。曲がる。ねじれる。割れる」
「加工した後でも?」
「木を何だと思ってる」
「材料」
「木だ」
大工は作業台に置かれていた板を手に取った。
表面を見る。
端を見る。
指で撫でる。
「こいつはまだ乾ききってない」
「使えないのか?」
「使い方による」
「窯で乾かせばいい」
「急に乾かせば割れる」
「魔力で均等に乾かす」
「中までか?」
「ああ」
「一本ずつ違う木を、全部同じ力で?」
マードックは板を見た。
太さ。
水分。
木目。
切り出した場所。
確かに一本ずつ違う。
「調整すればいい」
「どうやって調整する?」
「それを今から考える」
大工は鼻を鳴らした。
「ようやく始められるな」
マードックは顔を上げた。
「何を?」
「家作りをだ」
年配の大工は、ガイウスと名乗った。
大工歴は三十五年。
家を建てる。
橋を直す。
荷車の荷台も作る。
冬になれば扉や窓の修理もする。
大工組合では若い職人へ仕事を教えていた。
「親方でいい」
そう言ったので、マードックたちも親方と呼ぶことにした。
親方が最初に始めたのは、小屋を建てることではなかった。
木を積むことだった。
「これでいいか?」
マードックが地面に板を並べる。
「駄目だ」
「どこが?」
「地面に置くな」
「少しくらいならいいだろ」
「下から湿る」
「じゃあ台に載せる」
「重ねるな」
「場所を取るだろ」
「間に細い木を挟め。風が通るようにしろ」
板を置く。
細い木を挟む。
その上に次の板を置く。
同じ作業を繰り返す。
「面倒だな」
「腐った柱で家を建てるよりは楽だ」
「窯に入れれば早い」
「入れる前に、何が起きるか試せ」
そこでマードックは、同じ木から切り出した板を十枚用意した。
一枚はそのまま乾かす。
残りは錬金窯へ入れる。
魔力の量を変える。
乾かす速さを変える。
板の向きも変える。
最初の板は、表面が割れた。
二枚目は反った。
三枚目は端が曲がった。
四枚目は一見きれいに仕上がった。
親方が木槌で叩く。
鈍い音がした。
「中が割れてる」
切ってみる。
中心近くに細い亀裂があった。
「見えないな」
「だから怖い」
親方は切断面を指さした。
「柱に使ってから割れたらどうする?」
「確認する方法を考える」
「全部切る気か?」
「切ったら使えないな」
マードックは腕を組んだ。
出来上がったものを見ただけでは分からない。
表面が同じでも、中まで同じとは限らない。
魔力を流してみる。
返ってくる感覚が、板ごとに少し違った。
だが、割れの違いなのか。
木目の違いなのか。
水分の違いなのか。
それだけでは判断できない。
「面倒だな」
「さっきからそればかりだな」
「楽をするために始めたからな」
「家を作るのに楽をするな」
「楽に作れて、壊れない方がいいだろ」
「先に壊れないものを作れ」
親方の言うことは正しかった。
正しいので腹が立つ。
試験は三日続いた。
板を乾かす。
記録する。
切る。
中を見る。
曲げる。
叩く。
折れるまで力をかける。
同じように処理したはずの板でも、壊れ方が違った。
節の近くから割れるもの。
木目に沿って裂けるもの。
大きく曲がってから折れるもの。
ほとんど曲がらずに折れるもの。
「同じにならないな」
「木だからな」
「同じ寸法にはできる」
「形だけ揃えても、強さは揃わん」
「じゃあ、弱い方に合わせる」
親方の手が止まった。
「何?」
「強さが違うなら、一番弱いものでも壊れない太さにする」
「太くすれば材料が増える」
「家が潰れるよりはいい」
「運ぶのも重くなるぞ」
「そこは別に考える」
親方はしばらくマードックを見た。
「お前、本当に元魔導師か?」
「そうだ」
「魔導師はもっと力任せだと思っていた」
「力任せにやって死にかけたから、冒険者を辞めた」
「なるほどな」
親方は初めて笑った。
木材の処理方法が決まるまで、さらに五日かかった。
乾燥は一度に行わない。
最初に弱い魔力で全体を温める。
少し休ませる。
板の状態を確認する。
向きを変える。
もう一度、弱い魔力を流す。
早くはなった。
だが、マードックが最初に考えていたほど早くはない。
「一度で終わらせたいな」
「割れてもいいなら終わるぞ」
「よくない」
「なら待て」
待つ。
確認する。
また待つ。
錬金窯を使っているのに、すぐには完成しない。
マードックは不満だった。
ローレライは安心していた。
「あなたが待つことを覚えるなんてね」
「待つだけなら誰でもできる」
「あなたはできなかったでしょう」
「必要なら待つ」
「少しは成長したのね」
「最近よく言われるな」
処理した木材を使い、ようやく小屋の柱を作ることになった。
親方は二本の柱を並べる。
片方は、これまで使われてきた形。
もう片方は、マードックが図面に描いた形。
同じ太さ。
同じ長さ。
違うのは、梁を受ける部分だった。
マードックの柱には、四方向すべてに同じ穴が開いている。
どの向きでも梁を差し込めるようにした。
「便利だろ」
「弱くなる」
親方が言った。
「なんで?」
「穴を増やしたからだ」
「使わない穴は塞ぐ」
「塞いでも、一度切った木は元に戻らん」
「錬金術で繋げる」
「最初から切るな」
「向きを考えずに使える方が楽だ」
「家の柱に裏表も向きもないと思うな」
親方は柱を倒した。
木目を指でなぞる。
「力を受ける向きがある」
次に梁を置く。
柱へ差し込む部分を見せる。
「継ぎ目は同じ形ならいいわけじゃない」
「組み合えばいいだろ」
「抜ける」
「留め具を使う」
「緩む」
「錬金術で固定する」
「直せなくなる」
マードックは黙った。
去年、自分で言ったことだった。
傷んだところを交換できるようにする。
すべてを繋げてしまえば、外せなくなる。
「じゃあ、どうする?」
親方は別の継ぎ手を見せた。
梁の端は単純な四角ではない。
柱の穴へ差し込み、上から木の栓を打つ。
引いても抜けない。
だが、栓を外せば分解できる。
「面倒な形だな」
「必要だからこうなった」
「窯なら作れる」
「手でも作れる」
「窯なら同じ形で何本も作れる」
「それは好きにしろ」
親方は二つの継ぎ手を並べた。
「ただし、これを勝手に変えるな」
「もっと簡単にできるかもしれない」
「簡単にしてもいい。弱くならないことを確かめてからだ」
また試験が始まった。
柱と梁を組む。
横から力をかける。
重りを吊るす。
揺らす。
外す。
もう一度組む。
何度も繰り返す。
最初の継ぎ手は抜けた。
次は割れた。
三つ目は外せなくなった。
四つ目は組み立てる途中で木の栓が折れた。
「手で作った方が早くないですか?」
ギルバードが聞いた。
「今はな」
「これ、楽になるんです?」
「同じ失敗をしなくなれば」
「いつです?」
「まだ分からない」
「またですか」
失敗した部材が、加工場の隅へ積まれていく。
その横でセドリックが木片を並べていた。
「なに作ってる?」
マードックが聞く。
「おうち」
「それは壁か?」
「ちがう」
「屋根?」
「おうち」
子供にしか分からない形だった。
それでもセドリックは満足そうだった。
木片を一つ載せる。
崩れる。
もう一度載せる。
また崩れる。
三度目は、下の木片を少し離した。
その上に長い木片を置く。
今度は崩れなかった。
「できた」
「なるほど」
セドリックの家は、柱が二本。
その上に梁が一本。
それだけだった。
だが、立っている。
マードックは試験中の柱を見た。
複雑にしすぎていた。
どの向きでも使える。
誰でも間違えない。
一つの部材を何か所にも使える。
便利にしようとして、穴と継ぎ目を増やしていた。
「親方」
「何だ」
「柱を二種類に分ける」
「なぜだ?」
「角に使う柱と、途中に使う柱で受ける力が違う」
親方がうなずく。
「続けろ」
「全部同じにすると、使わない穴が増える。弱くなる」
「ああ」
「だから役割ごとに分ける」
柱を二種類。
梁を二種類。
継ぎ手も、それぞれに合わせる。
部材の数は増える。
だが、形は単純になる。
必要なところだけ加工できる。
強さも残せる。
親方は新しい図面を見た。
「最初よりはましだ」
「褒めてるのか?」
「最初がひどすぎた」
「厳しいな」
「家だからな」
新しい部材を作った。
組み立てる。
重りを吊るす。
横から引く。
揺らす。
一度外す。
もう一度組む。
壊れない。
抜けない。
外そうと思えば外せる。
親方が木槌を置いた。
「これなら、小屋には使える」
ギルバードが笑った。
「やっとですね」
「ああ」
マードックは並べられた柱と梁を見る。
すべて錬金窯で同じ形に加工されている。
だが、同じものではない。
使う場所に合わせて種類が分かれている。
木の状態も一本ずつ確認した。
形を揃えるだけでは足りない。
強さを揃えようとしても、完全には揃わない。
だから、違いがあっても壊れないようにする。
「じゃあ建てるか」
マードックが言った。
親方は首を横に振った。
「まだだ」
「部材はできたぞ」
「地面ができていない」
「地面?」
「最初に言っただろう」
親方は、小屋を建てる予定の場所を指さした。
昨夜、雨が降った。
そこには小さな水たまりができていた。
「家は地面に立つ」
マードックは水たまりを見る。
泥の中へ足を入れる。
靴が沈んだ。
「……ここに柱を置いたら?」
「沈む」
「石を置けば?」
「傾く」
「大きな石なら?」
「運んでみろ」
少し離れた場所に、土台へ使う予定の石が並べられていた。
一つで、大人二人でも持ち上がらない重さがある。
マードックは石を見る。
次に、完成した柱と梁を見る。
木材は台車で運べた。
だが、石は簡単には動かない。
空へ浮かせる魔法はない。
錬金窯も、向こうから歩いてきてはくれない。
「ギルバード」
「はい」
「滑車を増やすぞ」
「何個です?」
「分からない」
「またですか」
「今から試す」
マードックは笑った。
家を作る前に、まず家を作る場所を作らなければならない。
そして、そのためには。
重い石を運ぶための設備が必要だった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード16開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
四年目 建築 3
【本文】
土台に使う石は、全部で十二個あった。
「これを運ぶのか」
マードックが言った。
「そうだ」
親方が答える。
「十二個も?」
「四隅だけで建てるつもりだったのか?」
「駄目か?」
「小屋なら立つかもしれん」
「ならいいだろ」
「立つのと、使えるのは違う」
親方は地面へ杭を打った。
杭と杭の間に縄を張る。
建てる小屋の位置を決め、その中の土を少し掘る。
「なんで掘る?」
「柔らかい土を除く」
「全部?」
「必要なところだけだ」
掘った場所へ砕いた石を入れる。
棒で何度も突き固める。
その上に大きな石を置く。
柱は、さらにその上へ立てる。
「ずいぶん手間がかかるな」
「家を地面に置くだけだと思っていたのか?」
「少し埋めればいいと思ってた」
「腐るぞ」
「じゃあ石に載せる」
「その石が沈まないようにしてるんだ」
マードックは穴を見る。
家を作る。
そう言ったとき、考えていたのは柱と梁だった。
壁。
床。
屋根。
どれも目に見える。
だが、家が立つ場所にも仕事がある。
完成すれば、ほとんど見えなくなる。
それでも、そこを省くことはできない。
「面倒なものほど見えないな」
「見えないから手を抜く者もいる」
親方は地面を棒で突いた。
「そして、手を抜いたことが分かるのは家が傾いてからだ」
十二個の石のうち、最初の一個を運ぶ。
太い棒を差し込む。
二人で押す。
少し浮いたところへ丸太を入れる。
さらに押す。
石が丸太の上へ載った。
「動いた」
ギルバードが言った。
「よし」
さらに丸太を置く。
押す。
前へ進んだ石の後ろから丸太を抜き、また前へ置く。
少しずつ進む。
「遅いな」
「動いてるだけましですよ」
「もっと早くできる」
「また何か作るんですか?」
「このままだと十二回やることになる」
「そうですね」
「嫌だ」
「それが理由ですか」
翌日。
石置き場と建築場所の間に、二本の木材が並べられた。
その上に、低い台車が置かれている。
太い車輪。
短い車軸。
石を載せても壊れないように、家具用より頑丈に作った。
「道を作ったの?」
ローレライが聞いた。
「石のためにな」
「小屋を作るためでしょう?」
「小屋を作るために石を運ぶための道だ」
「また遠くなってるわね」
石を台車へ載せる。
縄を掛ける。
建築場所の近くに立てた太い柱へ滑車を取り付ける。
縄の反対側を、横向きに置いた大きな輪へ巻きつける。
「これは?」
ギルバードが聞いた。
「巻き上げ機」
「誰が回すんです?」
「俺とお前」
二人で棒を押す。
輪が回る。
縄が巻き取られる。
台車がゆっくり動いた。
「おお」
ギルバードが声を上げる。
今まで二人で押してもほとんど動かなかった石が、木材の上を進んでくる。
速くはない。
だが、確実に動いている。
「楽だな」
マードックが笑った。
「二人で回してますけど」
「押すより楽だ」
「これを作る方が大変でしたよ」
「十二個運べば得になる」
一つ目の石が到着した。
次は、台車から下ろさなければならない。
三本の柱を組み、上で繋ぐ。
そこへ滑車を吊るす。
石へ縄を掛ける。
巻き上げ機を回すと、石がわずかに持ち上がった。
「止めろ」
親方が言った。
「まだ穴の上じゃない」
「縄を見ろ」
縄の一本が、柱の角に擦れている。
細い繊維が毛羽立っていた。
「これくらいなら大丈夫だろ」
マードックが言う。
「なら、その下に立て」
親方が答えた。
マードックは石を見る。
大人二人でも持ち上がらない石が、目の前に吊られている。
その下へ入る気にはならなかった。
「嫌だ」
「なぜだ?」
「落ちたら死ぬ」
「大丈夫なんだろ?」
「直す」
石を下ろす。
縄が柱へ触れないように、滑車の位置を変える。
角には丸みをつける。
縄も太いものへ交換した。
もう一度持ち上げる。
「ギルバード、石の向きを変えてくれ」
マードックが言った。
ギルバードが近づく。
「待て」
親方が止めた。
「今度は何だ?」
「手で押させるな」
「少し動かすだけだ」
「揺れたら挟まれる」
石へ別の縄を掛ける。
離れたところから引き、向きを変える。
「面倒だな」
「死ぬよりは楽だ」
「それもそうだ」
石を穴へ下ろす。
高さを測る。
隣に置く石との高さが合わない。
一度持ち上げる。
下へ砕いた石を足す。
もう一度下ろす。
「まだ高い」
「少し取れ」
また持ち上げる。
少し取る。
下ろす。
「今度は?」
親方が板を渡す。
石と石の上に置く。
板の上へ、水を入れた細長い器を載せた。
水面を見る。
「少し傾いてるな」
「どっちだ?」
「そっちが低い」
また石を持ち上げる。
「これ、十二個やるんですか?」
ギルバードが聞いた。
「そうだ」
「今日は何個できます?」
「二個」
「小屋ですよね?」
「小屋だ」
「家だったら?」
誰も答えなかった。
十二個の石を据えるのに、六日かかった。
途中から作業する人間が増えた。
加工場の職人。
大工組合の若い職人。
錬金術協会から来たカール。
カールは巻き上げ機を見るなり、目を輝かせた。
「これ、魔力を使えば自動で回せませんか?」
「できると思う」
マードックが答える。
「なら、もっと早く運べますね」
「駄目だ」
親方が言った。
カールが振り返る。
「なぜです?」
「早く動かす必要がない」
「早い方が便利でしょう」
「石が揺れる」
「調整すれば」
「縄が切れたとき、すぐ止められるのか?」
カールは巻き上げ機を見る。
「止める仕組みを作れば」
「誰かが巻き込まれたときは?」
「それも……」
「動かす仕組みより、止める仕組みを先に作れ」
親方の言葉に、マードックは頷いた。
巻き上げ機へ歯をつける。
逆向きに回らないよう、木の爪を噛ませる。
棒から手を離しても、石が落ちない。
止めたいときには、爪を掛ければ止まる。
「これなら魔力で動かせる」
カールが言った。
「まだだ」
親方が答える。
「まだ何が?」
「誰が動かす?」
「誰でも」
「誰でも、で人が死ぬ」
操作する者を一人に決める。
石の近くにいる者。
縄を見る者。
巻き上げ機を動かす者。
それぞれが勝手に声を出すと、何を聞けばいいのか分からなくなる。
合図も決めた。
動かせ。
止めろ。
上げろ。
下ろせ。
危ない。
短い言葉だけを使う。
「こんなことまで決めるのか?」
マードックが聞いた。
「人数が増えれば必要になる」
親方が答えた。
「二人なら顔を見れば分かる。十人いれば分からん」
「間違えたら?」
「石が落ちる」
「分かりやすいな」
最後の石を据え終わった。
十二個の石が、同じ高さに並んでいる。
その上へ柱を立てる。
一本目。
二本目。
柱が倒れないように、仮の支えをつける。
梁を地面で組む。
縄を掛ける。
三本の柱で作った吊り上げ設備を動かす。
ゆっくりと梁が上がっていく。
「上げろ!」
親方が声を出す。
巻き上げ機が回る。
「止めろ!」
木の爪が噛み合う。
梁が空中で止まった。
柱の位置を直す。
「下げろ!」
少しずつ下ろす。
梁の継ぎ手が、二本の柱へ入った。
木槌で打つ。
栓を差し込む。
また次の柱を立てる。
その次の梁を上げる。
一日かけて、小屋の骨組みが出来上がった。
夕方。
マードックたちは少し離れた場所から、それを見ていた。
まだ壁はない。
床もない。
屋根もない。
柱と梁だけだった。
それでも。
「家みたいだな」
ギルバードが言った。
「小屋だ」
親方が訂正する。
「でも、立った」
マードックは骨組みを見上げた。
錬金窯で作った部材。
決められた寸法。
決められた継ぎ手。
地面で組み、設備で持ち上げ、現場で繋いだ。
巨大な窯は作っていない。
家を一度に錬成したわけでもない。
一人の魔力で持ち上げたわけでもない。
何人もの人間が、決められた役割を守って作った。
「おとうさんのおうち?」
セドリックが聞いた。
「みんなで作った家だ」
「ぼくも?」
「お前もだ」
「やった」
セドリックは骨組みの中へ走っていく。
「走るな!」
マードックと親方の声が重なった。
二人は顔を見合わせた。
「まだ仮の支えがある」
親方が言う。
「縄も張ってある」
マードックが続ける。
セドリックを追いかけ、ギルバードが中へ入った。
その姿を見ながら、マードックは考える。
作れるようになった。
だが、作れる人間が増えれば、それだけ危険も増える。
設備を使えば、今まで動かせなかったものが動く。
その代わり、失敗したときに落ちてくるものも大きくなる。
「親方」
「何だ」
「さっき決めた合図、紙にしておこう」
「読めない者もいるぞ」
「なら絵も描く」
「作業の順番もだ」
「設備を使う前の確認もいるな」
「縄と滑車も毎日見ろ」
マードックは新しい紙を取り出した。
そこへ書く。
作業する者。
合図する者。
確認する場所。
してはいけないこと。
「家を作るだけだったんだけどな」
「まだ小屋だ」
「そうだった」
マードックは笑った。
小屋を一つ作るために、道ができた。
台車ができた。
巻き上げ機ができた。
吊り上げ設備ができた。
役割が決まり、合図が決まり、確認する項目が増えた。
いつの間にか。
マードックたちは、物を作る設備だけでなく。
人が一緒に働くための仕組みまで作り始めていた。
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------------------------- エピソード17開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
四年目 建築 4
【本文】
小屋が完成した。
壁がある。
床がある。
屋根がある。
扉も窓もついている。
「できたな」
マードックが言った。
「小屋がな」
親方が答える。
「次は家だ」
「誰の家を建てる?」
「注文を取る」
「その前に雨を待て」
完成した小屋を前にして、マードックは空を見上げた。
よく晴れている。
「雨が降らなかったら?」
「降るまで待て」
「水をかければいい」
「屋根だけ濡らしてどうする」
「雨と同じようにかける」
「風は?」
「魔法で起こす」
「一晩中か?」
「……待つか」
三日後。
雨が降った。
マードックたちは小屋の中にいた。
屋根を叩く音がする。
壁にも雨が当たっている。
「漏れてないな」
ギルバードが天井を見上げた。
「まだ分からん」
親方が答える。
「もう雨は降ってますよ」
「水が入ってくる場所と、落ちる場所が同じとは限らん」
しばらく待つ。
天井は濡れない。
壁も濡れない。
窓の周囲も問題ない。
「成功だな」
マードックが扉へ向かった。
「待て」
親方が止める。
「まだ何かあるのか?」
「床を見ろ」
隅の方に、小さな水たまりができていた。
天井から落ちた水ではない。
扉の下から入ってきている。
外へ出る。
小屋の前に水が溜まっていた。
地面を流れてきた雨水が、扉の下へ集まっている。
「地面か」
マードックが言った。
「家は地面に立つ」
親方が言った。
「またそれか」
「お前が忘れるからだ」
小屋の周囲に溝を掘った。
水が建物から離れる方向へ流れるようにする。
入口には小さな段差をつけた。
次の雨では、水は入らなかった。
「今度こそ完成だな」
「ああ」
ようやく親方が認めた。
完成した小屋は、道具置き場として使われることになった。
棚を入れる。
台車を置く。
縄と滑車を壁へ掛ける。
どこに何を置くかは、ローレライが決めた。
「縄はこっち」
「巻き上げ機の部品は?」
「隣」
「木材は?」
「外の保管場所」
「遠くないか?」
「ここに入れたら台車が通れないでしょう」
「少しくらいなら」
「駄目」
床には、物を置いてよい場所が描かれた。
台車が通る場所。
人が歩く場所。
材料を一時的に置く場所。
「線まで引くのか?」
親方が聞いた。
「置く場所を決めないと、マードックがその辺に置くから」
ローレライが答える。
「なるほど」
「納得するな」
道具小屋ができると、加工場が少し広くなった。
広くなったはずだった。
数日後には、また狭くなった。
「なんでだ?」
マードックが言った。
「作るものが増えたからですよ」
ギルバードが答える。
家に使う柱と梁。
壁板。
床板。
扉。
窓枠。
屋根の下地。
種類ごとに分けて置く。
処理前の木材。
乾燥中の木材。
加工済みの部材。
確認を終えた部材。
同じ木材でも、状態が違う。
「どれが終わってる?」
マードックが聞いた。
「分かりません」
「作ったやつは?」
「昨日の分までです」
「昨日作ったのはどれだ?」
ギルバードが周囲を見る。
似たような柱が並んでいる。
印はついている。
だが、誰がつけた印か分からない。
「これじゃないですか?」
「本当か?」
「多分」
親方が木槌を置いた。
「多分で家を建てるな」
結局、一本ずつ確認し直すことになった。
寸法を測る。
表面を見る。
魔力処理の記録を調べる。
継ぎ手の形を確認する。
二日かかった。
「二度手間だな」
「最初から分けておけば一度で済んだのよ」
ローレライが言った。
次の日。
加工場に札が増えた。
処理前。
乾燥中。
加工待ち。
確認待ち。
完成。
不合格。
材料は、決められた場所へ置く。
次の作業へ進むときは、札と一緒に移動する。
誰が作ったか。
いつ作ったか。
どの窯を使ったか。
確認したのは誰か。
紙にも残す。
「また書類が増えた」
マードックが言った。
「間違えるよりはいいでしょう」
「覚えておけばいい」
「全員が?」
「……無理だな」
加工場で働く者は、すでに十人を超えていた。
全員の仕事を、マードック一人が見ることはできない。
木材を選ぶ者。
乾燥させる者。
寸法を測る者。
窯を操作する者。
継ぎ手を確認する者。
部材を運ぶ者。
得意な仕事も違う。
経験も違う。
「なら、仕事を分ける」
マードックが言った。
「今も分かれてますよ」
ギルバードが答える。
「もっとはっきり分ける」
窯を操作してよい者。
完成品を確認してよい者。
巻き上げ機を動かしてよい者。
吊り上げ作業の合図をしてよい者。
仕事ごとに必要なことを教える。
できることを確認する。
確認できた者だけが、その仕事をする。
「面倒だな」
「でも、誰が何をできるか分かります」
「俺は全部できるぞ」
「本当に?」
ローレライが聞いた。
「できる」
「片づけは?」
「それは仕事じゃない」
「不合格ね」
「なんでだよ」
錬金術協会へ相談すると、ブラウンは黙って書類を読んだ。
読んでいる間に、カールが口を挟む。
「窯を操作するだけなら、錬金術師でなくてもできますよね」
「手順を覚えればな」
マードックが答える。
「なら、職人に任せられます」
「魔力量の調整は必要だ」
「調整方法を目盛りにすればいい」
「材料によって変わる」
「材料ごとの表を作る」
話を聞いていたルドウィックが、顔をしかめた。
「錬金術を誰にでも使わせるつもりか」
「窯を使うだけだ」
「それが錬金術だろう」
「違う」
マードックは答えた。
「錬金術師が自分の技量で作るのと、決められた手順で窯を動かすのは別だ」
「何が違う?」
「できる範囲を決める」
「範囲?」
「この材料を、この形にする。決められた魔力量を超えない。異常があったら止める。勝手に条件を変えない」
「それで錬金術師と同じものが作れると?」
「同じものを作るためにやるんだ」
ルドウィックは黙った。
ブラウンが書類を机へ置く。
「操作する者には、何を教える?」
「窯の使い方」
「それだけか?」
「材料の違い。魔力量。止め方」
「事故が起きた場合は?」
「近づかない。魔力を切る。責任者を呼ぶ」
「責任者とは誰だ?」
マードックは考えた。
今までは自分だった。
だが、加工場が増えれば、自分一人では足りない。
「窯ごとに決める」
「誰でもよいのか?」
「経験が必要だな」
「誰が経験を確認する?」
「……協会?」
ブラウンがため息をついた。
「仕事を増やしに来たのか」
「相談に来た」
「同じことだ」
協会と大工組合で、何度も話し合いが行われた。
窯を扱うための教育。
建築部材を作るための手順。
完成品の確認方法。
吊り上げ設備の使い方。
現場での合図。
異常があった場合の停止。
守れなかった場合は、作業させない。
知識だけでなく、実際にできることを確認する。
一度できれば終わりではない。
定期的に、もう一度確認する。
「そこまで必要か?」
マードックが聞いた。
「必要だ」
親方が答えた。
「昨日できたことが、今日もできるとは限らん」
「忘れるからか?」
「慣れるからだ」
「慣れた方が上手くなるだろ」
「上手くもなる。雑にもなる」
その言葉に、マードックは反論できなかった。
慣れれば早くなる。
考えなくても手が動く。
だからこそ、確認を飛ばす。
少しくらい大丈夫だと思う。
縄の傷を見落とす。
合図を待たずに動かす。
「技術が足りない者より、慣れた者の方が危ないこともある」
親方が言った。
「面倒だな」
「それでいい」
「何が?」
「面倒だと思うくらいでちょうどいい」
やがて、一軒目の家を建てることになった。
町の外れに住む若い夫婦の家だった。
大きな家ではない。
部屋は二つ。
台所。
小さな物置。
それでも、小屋とは違う。
中で人が暮らす。
工房では、部材が順番に作られた。
材料を選ぶ。
乾燥させる。
加工する。
確認する。
札と記録が、部材と一緒に移動する。
完成したものは台車へ載せる。
決められた順番で現場へ運ぶ。
地面を整える。
土台の石を据える。
柱を立てる。
梁を上げる。
合図が飛ぶ。
「上げろ!」
巻き上げ機が動く。
「止めろ!」
梁が止まる。
誰も吊られた部材の下には入らない。
縄を見る者がいる。
柱を見る者がいる。
合図を出す者がいる。
マードックは全体を見る。
以前なら、自分で窯を動かした。
自分で材料を運んだ。
自分で組み立てようとした。
今は違う。
多くの人間が、それぞれの仕事をしている。
「お前、何もしてないな」
親方が言った。
「見てる」
「楽になったか?」
「忙しい」
「何もしてないのに?」
「何か起きないか見てると、手を動かすより疲れる」
親方が笑った。
数週間後。
家が完成した。
若い夫婦が扉を開ける。
床を歩く。
窓を開ける。
壁へ触れる。
妻の方が、小さく笑った。
「暖かい」
壁の間には、細かく砕いた植物繊維を詰めていた。
燃え広がりにくいよう、錬金窯で処理してある。
かまどの周囲には、木材ではなく石と焼いた板を使った。
屋根裏には空気が通る隙間を作った。
雨。
風。
寒さ。
火。
人が暮らす間に起こることを考えた。
完璧ではない。
だが、今までより安全で、直しやすい家になった。
「これ、本当に錬金術で作ったんですか?」
夫が聞いた。
「一部は」
マードックが答える。
「残りは?」
「大工が作った。職人が運んだ。みんなで組み立てた」
「では、誰の家なんでしょう?」
マードックは完成した家を見る。
「あなたたちの家だ」
夫婦が顔を見合わせた。
そして、もう一度笑った。
帰り道。
セドリックはギルバードに肩車されていた。
「おうちできたね」
「ああ」
「おとうさんが作ったの?」
「みんなで作った」
「おとうさん、なにしたの?」
マードックは答えようとした。
窯を作った。
図面を描いた。
失敗した。
仕組みを考えた。
人を集めた。
仕事を分けた。
記録を作った。
どれも家の一部ではある。
だが、完成した家のどこを見ても、マードックの名前は書かれていない。
「楽をする方法を考えた」
「らくできた?」
セドリックが聞く。
マードックは少し考えた。
「前より忙しくなった」
セドリックが笑う。
ローレライも笑った。
四年目。
錬金窯は、物を作る道具ではなくなり始めていた。
材料が入り。
いくつもの工程を通り。
多くの人間が働き。
同じ品質の部材が作られる。
人が増えれば、役割が生まれた。
設備が増えれば、点検が生まれた。
危険が増えれば、決まりが生まれた。
技術が広がれば、教える者が必要になった。
それはもう、一人の錬金術師の工房ではなかった。
町の人々は、その場所を。
工場と呼ぶようになった。
【リアクション】
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------------------------- エピソード18開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
五年目 医学 1
【本文】
五年目。
事故は、工場が動き始めて十二日目に起きた。
大きな音がした。
木材が床へ落ちる音。
続いて、誰かの叫び声。
マードックが駆けつけると、若い職人が床に倒れていた。
「何があった!」
「台車です!」
ギルバードが答える。
材料を載せた台車が、通路の途中で止まっている。
その横に、折れた車輪止めが落ちていた。
職人は右腕を押さえていた。
顔が青い。
「動かすな」
親方が言った。
「腕を見せろ」
「痛い……」
「分かってる。ゆっくりだ」
袖を切る。
腕が、不自然な方向へ曲がっていた。
「折れてるな」
マードックが言った。
「見れば分かる」
親方が睨む。
「治療院へ運ぶぞ」
担架を持ってくる。
職人を載せる。
揺らさないように、何人かで運ぶ。
マードックも一緒に行こうとした。
「お前は残れ」
親方が言った。
「なんでだ?」
「次の事故を止めろ」
マードックは台車を見る。
作業は止まっている。
周囲には多くの職人が集まっていた。
「全員、持ち場に戻れ」
「作業を続けるんですか?」
「続けない」
マードックは工場を見回した。
「今日は全部止める」
窯の火を落とす。
巻き上げ機を止める。
材料を置く。
加工途中の部材には札をつける。
誰も作業を再開しないよう、入口にも札を出した。
それから、事故が起きた場所を調べた。
台車。
車輪。
床。
落ちた材料。
折れた車輪止め。
「誰が置いた?」
マードックが聞いた。
一人の職人が手を上げた。
「俺です」
「きちんと入れたか?」
「入れました」
「本当に?」
「入れました!」
職人の顔が強張る。
ギルバードが車輪止めを拾った。
「これ、薄くないですか?」
並べて使っている別のものを持ってくる。
比べる。
折れた車輪止めは、少し薄い。
「誰が作った?」
記録を調べる。
名前がない。
作った日も分からない。
「工場のものじゃないな」
親方が言った。
「足りなかったので、倉庫にあったものを使いました」
職人が答える。
「似たような形だったから」
「確認は?」
「車輪が止まったので……」
最初は止まった。
だから使えると思った。
材料を載せた。
台車を押した。
途中で床がわずかに傾いていた。
台車が戻った。
車輪止めへ重さがかかった。
そして、折れた。
「似ているものを使った」
マードックが言った。
「大丈夫だと思いました」
「俺もそう思ったかもしれない」
職人が顔を上げる。
「責めてるんじゃない」
マードックは折れた車輪止めを見る。
「見分けられないものを置いたのが悪い」
使ってよい道具。
使ってはいけない道具。
形が似ていれば、間違える。
忙しければ、近くにあるものを使う。
「工場で使うものには、全部同じ印をつける」
マードックが言った。
「壊れたものは?」
ギルバードが聞く。
「すぐに分ける。直すものと捨てるものも」
「点検は?」
「台車を使う前に、車輪と止め具を見る」
紙へ書く。
事故が起きた時間。
場所。
作業していた者。
使っていた道具。
起きたこと。
考えられる原因。
次に同じことを起こさないための方法。
書き終えても、職人の腕は治らない。
「治療院へ行ってくる」
マードックが言った。
町の治療院は、工房から歩いて十五分ほどの場所にあった。
中へ入ると、薬草の匂いがした。
怪我をした職人は寝台に横たわっている。
腕には二本の板が添えられ、布で固定されていた。
「どうだ?」
マードックが聞いた。
「しばらく仕事は無理だ」
治療師が答えた。
白髪の混じった、小柄な女だった。
「骨は戻した。だが、くっつくまでは動かせない」
「治癒魔法は?」
「使った」
「なら、すぐ治るんじゃないのか?」
治療師はマードックの左肩を見る。
冒険者だった頃についた古い傷が残っている。
「お前の傷は、すぐに治ったか?」
「いや」
「治癒魔法は傷を消す魔法じゃない。血を止め、痛みを和らげ、身体が治ろうとするのを助ける」
「骨は?」
「本人の身体が繋ぐ」
「どのくらいかかる?」
「一月で済めば早い方だ」
マードックは固定された腕を見る。
板の形が、腕に合っていない。
肘の近くに隙間がある。
手首のところでは、布が強く食い込んでいた。
「その板、合ってないな」
「人の腕は一本ずつ違う」
治療師が答える。
「使える板の中から近いものを選んだ」
「作ればいい」
「怪我をするたびにか?」
「すぐ作れる」
マードックは腕の長さを測った。
太さを測る。
曲がっている部分へ触れないよう、紙に形を写す。
工場へ戻り、薄い木材を選んだ。
内側を削る。
腕の形に合わせて曲げる。
肌に触れる場所には、柔らかい布を張る。
重くならないよう、必要のない部分を抜く。
錬金窯を使えば、同じ厚さに整えられる。
だが、形は一つにしなかった。
怪我をした職人の腕に合わせた。
治療院へ持っていく。
治療師が古い板を外し、新しい固定具を当てた。
「痛むか?」
「さっきより楽です」
「指は動く?」
職人が指を動かす。
色を見る。
冷たくなっていないか確認する。
布の締め方を変える。
「これなら使える」
治療師が言った。
「もっと作るか?」
「同じものはいらん」
「なんでだ?」
「次の患者には合わない」
「大きさを何種類か用意する」
「太さは?」
「それも分ける」
「折れる場所は?」
「……それも」
「右腕と左腕は?」
マードックは黙った。
治療師が笑った。
「椅子の脚とは違うぞ」
「分かってる」
「本当か?」
「今分かった」
人間の身体は、一人ずつ違う。
同じ人間でも、右と左で違う。
大人と子供で違う。
男と女で違う。
同じ場所を怪我しても、折れ方が違う。
腫れ方も違う。
痛みも違う。
「じゃあ、作り方を決める」
マードックが言った。
「形じゃなくて?」
「ああ」
腕を測る。
怪我の場所を確認する。
紙へ形を写す。
必要な長さに切る。
身体へ合うように曲げる。
肌に触れる場所を柔らかくする。
固定した後も、指の色と動きを見る。
「これなら、別の腕にも使える」
治療師は固定具を見た。
「作る者が、怪我を理解していればな」
「教えてくれ」
「何を?」
「骨折した腕に、何をしていいか。何をしたら駄目か」
治療師の目が細くなる。
「お前が治療するつもりか?」
「固定具を作る」
「同じことだ」
「違う」
「患者に触れるなら、同じだ」
マードックは反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
柱なら、失敗しても建てる前に壊せる。
梁なら、重りを載せて試験できる。
車輪なら、壊れるまで回すこともできる。
人間にはできない。
少し試す。
駄目なら作り直す。
それでは遅いことがある。
「治療師が指示する」
マードックは言った。
「俺たちは、その指示に合わせて作る」
「勝手に変えないか?」
「変えない」
「便利だからと、余計な穴を開けないか?」
親方に言われたことを思い出す。
マードックは固定具を見た。
「必要なら変える」
「誰が必要だと決める?」
「治療師だ」
白髪の治療師は、しばらくマードックを見ていた。
「なら、次も頼むかもしれない」
「骨折か?」
「それだけじゃない」
治療師は棚から、古い木箱を下ろした。
中には、形の違う板や布が入っている。
指を固定する細い板。
脚を支える長い板。
首を動かさないための厚い布。
歩けない者が使う杖。
欠けた歯の代わりに入れる小さな金属。
「治すのは身体だ」
治療師が言った。
「だが、治るまで支える道具はたくさんいる」
マードックは箱の中を見る。
どれも小さい。
家の柱より小さい。
家具よりも小さい。
最初に作っていた錬金術の品と比べても、珍しいものではない。
それでも。
一つ間違えれば、人の身体を傷つける。
「面倒だな」
マードックが言った。
「やめるか?」
「いや」
固定具をつけた職人が、寝台で眠っている。
事故が起きる前と同じ腕には戻せないかもしれない。
それでも、できることはある。
「面倒だから、やる」
マードックは木箱を持ち上げた。
五年目。
マードック錬金工房は初めて、人間の身体に使うものを作り始めた。
ただし。
何を作るかを決めたのは、錬金術師ではなかった。
【リアクション】
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------------------------- エピソード19開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
五年目 医学 2
【本文】
治療院の裏に、小さな作業場ができた。
錬金窯が一基。
作業台が二つ。
材料を置く棚。
完成した道具を保管する箱。
工場で使っている窯より、ずっと小さい。
「これでいいのか?」
マードックが聞いた。
「大きな窯を置いて、何を作るつもりだ」
治療師が答える。
「まだ分からない」
「分からないもののために場所を取るな」
「後で必要になるかもしれない」
「必要になってから考えろ」
治療師は棚を指さした。
「それより、あれをどうにかしろ」
棚には何種類もの布が積まれていた。
傷口を押さえる布。
薬を塗るための布。
火傷を覆う布。
身体を固定するための布。
洗ったもの。
まだ洗っていないもの。
一度使ったもの。
「分けてあるだろ」
「足りん」
「何が?」
「見ただけで分かるようにしろ」
「札がある」
「怪我人を運び込んだ後に、いちいち読むと思うか?」
マードックは棚を見る。
工場では、札と記録で材料を管理した。
だが、治療院では急ぐことがある。
血を流している人間を前にして、紙を読んでいる暇はない。
「箱を変える」
用途ごとに箱の形を変えた。
すぐに使う清潔な布は、蓋のついた白い箱。
使用したものは、赤い印のある箱。
固定用の布は、細長い箱。
薬を塗ったものは、中身が分かるように小さな絵をつける。
「これなら間違えないか?」
「暗い場所でも分かるようにしろ」
「色だけじゃ駄目か」
「夜に運び込まれる者もいる」
箱の蓋へ凹凸をつけた。
触れば区別できる。
「面倒だな」
「人間は、明るい時間だけ怪我をするわけじゃない」
「それもそうだ」
マードックたちが最初に作ったのは、傷を塞ぐものではなかった。
傷へ触れるものだった。
布を洗う。
煮る。
乾かす。
汚れがつかないように保管する。
一度使ったものを、清潔な布と混ぜない。
簡単なことだった。
だが、それだけで傷が悪くなる者が減った。
「錬金術をほとんど使ってないな」
ギルバードが言った。
「窯で乾かしてる」
「それだけですか?」
「箱も作った」
「錬金術師の仕事ですかね」
「治療師に必要だと言われたものを作ってる」
「地味ですね」
「家を建てるより小さいからな」
「大きさの話ですか?」
そんな会話をしながら、ギルバードは布を畳んでいた。
治療院へ来るたび、セドリックも一緒についてきた。
五歳になったセドリックは、白い箱へ布を入れる仕事を任されていた。
「これは?」
セドリックが聞く。
「白い箱」
「なんで?」
「きれいな布だから」
「こっちは?」
「使った布」
「なんで赤いの?」
「間違えないため」
「なんで間違えるの?」
「人間だから」
「おとうさんも?」
「特にお父さんが」
ローレライが答えた。
「なんで?」
「よく考える前に作るからよ」
「今は考えてる」
「今はね」
次に作ったのは、血を止めるための布だった。
怪我をした場所へ当て、強く押さえる。
それだけでも、多くの出血は止まる。
だが、深い傷では布がずれる。
押さえる力が弱ければ、血は流れ続ける。
「傷を塞ぐ薬はあるだろ」
マードックが聞いた。
「ある」
治療師が答える。
「なら、それを使えばいい」
「傷の中に汚れが残っていたら?」
「洗う」
「太い血管が切れていたら?」
「繋ぐ」
「誰が?」
「治療師が」
「できる者は多くない」
治癒魔法で血を止めることもできる。
しかし、すべての治療師が同じように使えるわけではない。
魔力が尽きれば使えない。
一度に大勢が怪我をすれば、全員には間に合わない。
「なら、魔力を使わずに止められるものを作る」
マードックは布の重ね方を変えた。
傷に当てる部分を厚くする。
その上から、長い布を巻きつける。
引けば締まる。
緩まないように留め具をつける。
「強く締めれば止まるな」
ギルバードが言った。
「強すぎれば、別のところが悪くなる」
治療師が答えた。
「では、どのくらい?」
「身体と傷による」
「また一人ずつ違うのか」
「人間だからな」
締める力は、作る側では決められなかった。
だから、少しずつ調整できるようにした。
締めた後に、皮膚の色を見る。
指先へ触れる。
冷たくなっていないか確認する。
時間も記録する。
巻いたまま忘れないよう、目立つ札をつける。
「道具だけでは使えないな」
マードックが言った。
「使い方まで一緒に渡せ」
治療師が答える。
「教えないで売るな」
出来上がった止血具は、治療院だけではなく工場にも置かれた。
加工場。
材料置き場。
建築現場。
台車にも一つ載せた。
使い方を教える。
傷を押さえる。
助けを呼ぶ。
いつ装着したか伝える。
勝手に外さない。
「使わないで済むのが一番ですね」
ギルバードが言った。
「ああ」
「でも、前より安心です」
「道具があるからって油断するなよ」
「分かってますよ」
ギルバードは笑った。
それから、皮膚を作った。
最初の患者は、かまどの火で腕を焼いた女性だった。
命に別状はない。
だが、腕の広い範囲で皮膚が失われていた。
傷を覆う布を交換するたび、女性は声を上げた。
「皮膚を作れないか?」
治療師が言った。
「革なら作れる」
「革では駄目だ」
「似たものなら?」
「身体が受け入れない」
動物の皮。
植物の繊維。
薄く加工した膜。
いくつも試した。
傷を覆うことはできる。
乾燥を防ぐこともできる。
だが、人間の皮膚にはならない。
「本人の皮膚を使う」
治療師が言った。
「傷のない場所から少し取る」
「取ったら、そこも傷になる」
「だから少しだ」
女性の同意を得た。
腕の内側から、ごく小さな皮膚を採る。
それを錬金窯へ入れる。
「増やせるか?」
治療師が聞いた。
「材料が足りない」
「魔力で補えないのか?」
「形だけなら作れる」
「形だけでは駄目だ」
皮膚は生きている。
ただ薄い膜を作ればいいわけではない。
本人の身体と繋がる必要がある。
血が通る。
汗を出す。
痛みを感じる。
傷つけば、また治ろうとする。
マードックは、少量の皮膚へ材料を足した。
水。
塩。
油。
動物から採った組織。
魔力を流す。
薄い皮膚のようなものができた。
治療師が確認する。
「使えない」
「なんで?」
「死んでいる」
「皮膚の形はしてる」
「形だけだ」
何度も失敗した。
厚すぎる。
脆い。
身体へつかない。
魔力を流した直後だけ動き、すぐに変色する。
「何が足りない?」
マードックが聞いた。
「本人だ」
治療師が答えた。
「この皮膚が、誰のものか分かっていない」
「皮膚にそんなことが分かるのか?」
「私は錬金術師ではない」
「俺は治療師じゃない」
「なら、二人で考えろ」
本人の皮膚を、完成品の見本ではなく中心に置く。
別のものへ形を写すのではない。
本人の皮膚が増えるのを、材料と魔力で助ける。
マードックは錬金窯の術式を変えた。
作るのではなく、育つ方向を揃える。
急がせすぎない。
途中で取り出す。
治療師が状態を確認する。
また窯へ戻す。
数日かかった。
出来上がった皮膚は、形が悪かった。
厚さも均一ではない。
家具や建築部材なら、不合格になっている。
治療師は、それを見てうなずいた。
「使える」
「これでいいのか?」
「これがいい」
女性の傷へ移す。
治癒魔法を使う。
新しい皮膚が、少しずつ身体と繋がっていく。
すぐには治らない。
何日も状態を見る。
色を見る。
熱を持っていないか確認する。
痛みを聞く。
一部は身体へつかなかった。
そこを取り除く。
残った皮膚が、少しずつ傷を覆った。
一月後。
女性は自分の腕を動かした。
完全には元に戻っていない。
大きな痕も残っている。
それでも、自分の手で服を着ることができた。
「ありがとう」
女性が言った。
マードックは皮膚を見る。
きれいではない。
同じ厚さでもない。
計画どおりの形でもない。
「こちらこそ」
「なぜ?」
「作り方を教えてもらった」
女性は不思議そうな顔をした。
治療師だけが笑った。
人工骨は、さらに難しかった。
鉱山で落石に巻き込まれた男が運び込まれた。
脚の骨が砕けている。
細かく割れた部分は、元の形へ戻せない。
「脚を切る」
治療師が言った。
男が青ざめた。
「待ってくれ」
マードックが言う。
「何か作れるか?」
「骨なら作れる」
「形だけでは駄目だぞ」
「分かってる」
砕けた骨の形を調べる。
反対側の脚も測る。
同じ形にはしない。
怪我をした場所に必要な形を作る。
材料には、動物の骨を使った。
洗う。
煮る。
不要なものを取り除く。
細かく砕く。
錬金窯で形を整える。
だが、硬く作ればいいわけではなかった。
「硬すぎる」
治療師が言った。
「骨より丈夫だぞ」
「周りの骨が負ける」
「弱くするのか?」
「本人の骨と同じくらいにしろ」
「同じにはできない」
「なら、少し弱い方がいい」
「壊れるぞ」
「壊れたときに、身体を壊さない方を選べ」
マードックは人工骨の中へ、小さな空間を作った。
本人の骨が伸びて入り込めるようにする。
永久に身体を支配する部品ではない。
治るまで支え、いつか本人の骨と一緒になる。
治療師が術式で周囲の骨を整える。
人工骨を入れる。
固定する。
傷を閉じる。
数日後。
熱が出た。
傷の周囲が腫れた。
一度開き、洗う。
薬を変える。
それでも、人工骨は身体の中に残った。
数か月後。
男は杖を使って立ち上がった。
一歩。
もう一歩。
長く歩くことはできない。
以前と同じように鉱山で働くことも難しい。
それでも、脚は残った。
「歩ける」
男が泣いた。
治療師が支える。
マードックは少し離れて見ていた。
「成功ですね」
ギルバードが言った。
「ああ」
「嬉しくないんですか?」
「嬉しい」
「そうは見えませんけど」
「どこまでが成功なのか分からない」
脚は残った。
だが、元には戻っていない。
歩ける。
だが、前と同じ仕事はできない。
命は助かった。
それなら成功なのか。
マードックには、まだ分からなかった。
「本人が喜んでるなら、今日はそれでいいんじゃないですか」
ギルバードが言った。
「軽いな」
「マードックさんが重すぎるんですよ」
「作ったのは俺だぞ」
「使って生きるのは、あの人です」
マードックは男を見る。
杖をつきながら、もう一歩進んでいる。
「そうだな」
その夜。
治療師が一枚の図を持ってきた。
人間の身体が描かれている。
骨。
血管。
肺。
心臓。
胃。
腸。
肝臓。
「今度は何だ?」
マードックが聞いた。
「皮膚は作れた」
「ああ」
「骨も作れた」
「完全じゃない」
「完全でなくても、助かった者がいる」
治療師は図の腹部を指さした。
「なら、身体の中にあるものは、どこまで作れる?」
マードックは図を見る。
皮膚や骨より、ずっと複雑だった。
形だけでは働かない。
他の臓器と繋がる。
血を受け取る。
別の場所へ送る。
一つだけで動いているものはない。
「作ったことはない」
「誰もない」
「失敗したら?」
治療師は答えなかった。
答える必要もなかった。
身体の外で試すことはできる。
形を調べることもできる。
動物で確かめることもできる。
だが最後には、人間の身体へ入れなければ分からない。
マードックは図へ手を伸ばした。
そこで止める。
「先に決めよう」
「何を?」
「誰に使うか」
「必要な者にだ」
「本人が知らないまま使わない」
治療師がうなずく。
「失敗するかもしれないことも伝える」
「ああ」
「治療師だけで決めない」
「錬金術師だけでも決めない」
「記録を残す」
「成功も、失敗も」
マードックは図を受け取った。
「それでも分からないことは?」
「分からないと伝える」
治療師が答えた。
「知らないことを、知っているふりだけはするな」
マードックは人間の身体が描かれた紙を見つめた。
作れるかもしれない。
その言葉が、以前ほど軽くは感じられなかった。
それでも。
作れなければ助からない人間がいる。
「やってみよう」
マードックが言った。
ギルバードが、その図を横から覗き込む。
「ついに人間まで作るんですか?」
「人間は作らない」
「じゃあ何を?」
マードックは、紙に描かれた内臓を見る。
「生きている人間に、足りないものを作る」
そのときはまだ。
その言葉の境界が、どれほど曖昧なものなのか。
誰にも分かっていなかった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード20開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
五年目 医学 3
【本文】
内臓を作る試みは、失敗から始まった。
最初に作ったのは、胃だった。
動物の胃を調べる。
形を写す。
必要な材料を集める。
錬金窯で組み立てる。
出来上がったものは、確かに胃の形をしていた。
「袋だな」
治療師が言った。
「胃だ」
マードックが答える。
「何ができる?」
「食べ物を入れられる」
「革袋でもできる」
「溶かせる」
「自分まで溶けているぞ」
中へ薬液を入れる。
しばらくすると、作った胃の表面から液が染み出した。
「失敗だな」
「見れば分かる」
次は、液が漏れないように厚くした。
今度は縮まない。
食べ物を送ることもできない。
薄くする。
破れる。
丈夫にする。
身体と繋がらない。
「形だけでは駄目だな」
「皮膚のときにも言った」
「内臓はもっと面倒だ」
胃。
腸。
血管。
肺。
どれも単独では働かなかった。
血管だけ作っても、中を流す血が必要になる。
肺だけ作っても、空気を送らなければ動かない。
胃だけ作っても、食べ物を送る場所がなければ袋のままだ。
「全部繋がってるな」
マードックが言った。
「人間だからな」
治療師が答える。
「一個くらい、勝手に動くものはないのか」
「勝手に動かれたら困る」
マードックたちは、臓器そのものを作ることを一度諦めた。
代わりに、壊れた部分を補うものを作った。
切れた血管へ巻く薄い膜。
腸にできた穴を塞ぐ小さな当て布。
傷ついた臓器の表面を押さえる柔らかい板。
血が溜まった場所から、外へ流すための細い管。
身体のすべてを作るのではない。
治療師が治すために、足りない部分だけを支える。
動物で試す。
状態を見る。
数日待つ。
また調べる。
使えなかったものは捨てる。
使えたものも、すぐには人間へ使わない。
「遅いですね」
ギルバードが言った。
「人間だからな」
マードックが答える。
「親方みたいなこと言うようになりましたね」
「嫌なことを言うな」
「褒めたんですよ」
「もっと嫌だ」
ギルバードは治療院へ来ることが増えていた。
工場の仕事が終わると、マードックを迎えに来る。
セドリックが一緒にいる日は、肩車をして帰る。
「ギルバード」
「なんだ?」
「きょうもおしごと?」
セドリックが聞く。
「そうだ」
「なに作ったの?」
「細い管」
「なんで?」
「身体の中に溜まったものを外へ出す」
「なんで?」
「そのままだと治らないから」
「なんで?」
「それは治療師に聞いてくれ」
「なんで?」
「俺には分からないからだ」
「ギルバードもしらないの?」
「知らないことくらいある」
「おとうさんといっしょだ」
「そうだな」
少し前なら、マードックは反論していた。
今は何も言わなかった。
知らないものを扱っている。
その自覚だけは、なくしてはいけない。
最初に人間へ使ったのは、細い血管を補う膜だった。
患者は、刃物で脚を深く切った男だった。
治癒魔法だけでは血が止まらない。
治療師が傷を開き、切れた場所を探す。
膜を巻く。
固定する。
治癒魔法を使う。
血が止まった。
翌日も止まっていた。
三日後も、膜は外れていなかった。
熱が出る。
薬を使う。
腫れが引く。
十日後、男は脚の指を動かした。
「成功か?」
マードックが聞いた。
「まだだ」
治療師が答える。
一月後。
男は立った。
二月後。
仕事へ戻った。
そこで初めて、記録へ成功と書いた。
「長いな」
「生きている限り、本当は終わらん」
「どこかで終わりにしないと、次に使えない」
「だから記録を残す」
成功した。
だが、二月までしか確認していない。
その先に何が起きるかは分からない。
分からないことも、そのまま書いた。
使ってよい場所。
使ってはいけない場所。
確認できている期間。
異常が起きた場合の処置。
治療師の判断がなければ使わない。
錬金術師だけでは決めない。
少しずつ。
本当に少しずつ、人間の身体に使えるものが増えていった。
事故が起きたのは、その頃だった。
工場の外で、新しい吊り上げ設備を組み立てていた。
家よりも長い梁を扱うための設備だった。
太い柱を四本立てる。
上に横木を渡す。
複数の滑車で力を分ける。
重りを吊り、試験する。
最初は軽いものから。
次に、実際に使う材料と同じ重さ。
最後に、それより重い石を吊る。
「上げろ!」
合図が出る。
巻き上げ機が回る。
石が地面から離れた。
「止めろ!」
石が止まる。
縄を見る。
滑車を見る。
柱を見る。
問題はない。
誰も吊り荷の下には入っていない。
「もう少し上げる」
マードックが言った。
合図を出す者が周囲を確認する。
「上げろ!」
再び巻き上げ機が動いた。
音がした。
小さな音だった。
木が軋む音とは違う。
乾いた枝を折るような、短い音。
親方が顔を上げる。
「止めろ!」
巻き上げ機が止まった。
次の瞬間。
上部の横木が割れた。
滑車が傾く。
石が落ちる。
縄が跳ねた。
吊り荷の下にいた者はいない。
だが、切れた縄が地面を走った。
若い職人の脚へ絡む。
職人が倒れる。
吊り下げられていた石が地面へぶつかり、横へ傾いた。
その先に、倒れた職人がいる。
ギルバードが走った。
職人の服を掴む。
引く。
職人の身体が動く。
石が倒れる。
鈍い音がした。
土煙が上がった。
「ギルバード!」
石の下から、脚が見えていた。
腹から下が、石と地面の間に挟まれている。
「巻き上げ機を戻せ!」
マードックが叫ぶ。
「待て!」
親方が止める。
「そのまま上げるな! 石がずれる!」
柱を確認する。
使える滑車を集める。
別の方向から縄を掛ける。
石がさらに倒れないよう、木材を差し込む。
持ち上げる高さは、身体を抜けるところまで。
「ギルバード!」
マードックが地面へ膝をつく。
ギルバードの目は開いていた。
「聞こえるか?」
「……はい」
「すぐ出す」
「若いのは?」
少し離れた場所で、助けられた職人が座り込んでいる。
脚に縄の痕はあるが、立つことはできていた。
「無事だ」
「よかった」
「喋るな」
ギルバードが小さく息を吐いた。
口元に血がついた。
外から見える傷は少ない。
それが、かえって怖かった。
「上げろ!」
石が、少しずつ持ち上がる。
隙間ができる。
板を入れる。
さらに上げる。
ギルバードの身体を引き出す。
担架へ載せる。
「治療院へ運ぶ!」
止血具を使える場所ではなかった。
腹の中で出血している。
治療師が傷へ触れる。
魔力を流す。
表情が変わった。
「急げ」
「何が壊れてる?」
マードックが聞いた。
「ここでは分からん」
「治せるか?」
「運べ!」
治療院へ着く前に、ギルバードの意識が薄れた。
「ギルバード」
マードックが呼ぶ。
返事はない。
一度だけ、目が開く。
「セドリックに……」
「何だ?」
「今日は、行けないって……」
「自分で言え」
ギルバードは答えなかった。
治療院の寝台へ運ぶ。
服を切る。
腹部は大きく腫れていた。
治療師が魔力を流す。
助手が薬と道具を並べる。
「骨盤が砕けている」
治療師が言った。
「腹の中にも血が溜まってる」
「開くのか?」
「このままでは死ぬ」
「開いても?」
「分からん」
マードックは作業場へ走った。
人工骨の材料。
血管を補う膜。
細い管。
傷を押さえる布。
使えるものを、すべて持ってくる。
治療師が腹部を開く。
血を外へ出す。
切れた血管を探す。
見つける。
膜を巻く。
血が止まらない。
別の場所も切れている。
腸が裂けている。
肝臓の一部が潰れている。
「膜を」
「これか?」
「小さい。もっと大きいものだ」
作業場へ戻る。
材料を窯へ入れる。
魔力を流す。
「早く」
自分に言う。
急がせる。
膜が出来上がる。
取り出す。
端が薄い。
作り直す時間はない。
「使えるか?」
治療師が確認する。
「やるしかない」
切れた血管を補う。
出血が少し減る。
腸の穴を塞ぐ。
潰れた肝臓の一部を取り除く。
そこへ、試作していた組織を入れる。
身体と繋ぐ。
治癒魔法を使う。
「魔力が足りない」
治療師が言った。
「俺のを使え」
「お前の魔力では治癒術は使えん」
「窯へ送る」
試作していた補助具を動かす。
治療師の術式へ、魔力だけを送る。
強すぎれば身体を傷つける。
弱ければ足りない。
目盛りを見る。
治療師の指示に合わせる。
「少し下げろ」
下げる。
「そのまま」
保つ。
「上げろ」
上げる。
何度も繰り返す。
砕けた骨盤を人工骨で支える。
切れた血管を繋ぐ。
裂けた腸を閉じる。
失われた血の代わりに、身体を巡る液体を入れる。
冷えた身体を温める。
心臓の動きを助ける。
一つずつ。
壊れた場所を直していく。
どれほど時間が経ったか分からなかった。
治療師の腕が震えている。
マードックの魔力も、ほとんど残っていない。
それでも。
ギルバードの胸が上下した。
心臓が動いている。
「戻った」
マードックが言った。
治療師は答えない。
ギルバードの目を見る。
光を当てる。
名前を呼ぶ。
手を握る。
反応はない。
「眠ってるだけだ」
「違う」
「心臓は動いてる」
「身体を動かしているだけだ」
「なら、続ければいい」
「マードック」
「血を流す。息をさせる。身体を温める」
「もう届いていない」
「何が?」
治療師は答えなかった。
ギルバードの心臓が、また弱くなる。
「魔力を上げる」
「やめろ」
「まだ動いてる」
「やめろ!」
治療師が術式から手を離した。
補助具だけが、一定の魔力を送り続けている。
心臓が、一度動く。
長い間が空く。
もう一度。
そして。
止まった。
静かだった。
工場で事故が起きたときより、ずっと静かだった。
「動かせ」
マードックが言った。
誰も動かない。
「心臓を作る」
「やめろ」
「今のより強いものを作る」
「もう死んでいる」
「肺も作る」
「マードック」
「血が足りないなら、それも作る」
治療師がマードックの腕を掴んだ。
「戻らない」
「まだ分からない」
「私には分かる」
「お前にできないなら、俺がやる」
腕を振りほどく。
作業場へ入る。
紙を広げる。
心臓。
肺。
肝臓。
血管。
骨。
皮膚。
今まで作ってきたもの。
作ろうとしていたもの。
全部作ればいい。
一つ足りないなら、一つ足す。
壊れたものを交換する。
それでも動かないなら、すべてを作り直す。
ギルバードの身体から形を取る。
同じ材料を集める。
同じように組み合わせる。
魔力を流す。
「代価ならある」
マードックは新しい錬成式を描いた。
魔石。
材料。
自分の魔力。
足りない。
ならば。
「俺の命を使う」
治療師の顔が強張る。
「何を言っている」
「等価交換だ」
「やめろ」
「命には命だ」
「そんなものは治療じゃない!」
「ギルバードが戻るなら、何でもいい!」
マードックが錬成式へ手を置く。
魔力を流す。
線が光った。
窯が低い音を立てる。
寝台に横たわるギルバードの指が、わずかに動いた。
「ギルバード?」
マードックが顔を上げる。
もう一度、魔力を流そうとする。
その手首を。
誰かが掴んだ。
冷たい手だった。
治療師ではない。
助手でもない。
人の手の形をしている。
だが、その指先からは何の魔力も感じなかった。
「そこまでだ」
声がした。
聞き覚えのある声だった。
何度も夢の中で聞いた。
窯を改造するたび。
等価交換の抜け道を90探すたび。
呆れ、怒り、文句を言ってきた声。
「エルド……?」
マードックの前に、一人の男が立っていた。
白い衣。
灰色の髪。
年齢は分からない。
男は床に立っている。
足元には影がある。
マードックの手首を掴む指には、確かな重さがあった。
夢ではない。
声だけでもない。
神が。
人間の治療院に立っていた。
「放せ」
マードックが言った。
「放せば、お前は続ける」
「当たり前だ」
「その先に、ギルバードはいない」
「まだ分からない!」
「分かっている」
エルドは寝台を見た。
「お前が動かしたのは、あの者の身体だ」
「なら、身体を全部直せば戻る」
「では聞こう」
エルドはマードックを見る。
怒ってはいなかった。
いつものように呆れてもいない。
ただ、静かだった。
「その身体へ戻すギルバードを、お前はどうやって作る?」
「記憶がある」
「どこに?」
「頭だ」
「その頭が覚えていることを写せば、それはギルバードか?」
「同じ身体だ」
「身体が同じなら、同じ者なのか?」
「なら魂を戻せ!」
マードックが叫んだ。
「代価なら払う。魔力でも、材料でも、俺の命でもいい。だから戻せ!」
エルドの手に、わずかに力が入る。
「等価交換とは、何でも交換できるという意味ではない」
「命には命だろ!」
「違う」
「何が違う!」
「お前の命を差し出せば、あの者の命が戻る。そのような交換は存在しない」
「神ならできるだろ」
「できるかどうかを聞いているのではない」
エルドは光を失った錬成式を見た。
「お前は今、ギルバードを救おうとしているのではない」
「救おうとしてる!」
「死んだ事実を、お前が受け入れたくないだけだ」
マードックの身体から力が抜けた。
それでも、手を引こうとする。
エルドは放さない。
「腕を作るなとは言わぬ」
静かな声が続く。
「骨を作るなとも、臓器を作るなとも言わぬ」
「なら」
「生きている者を支えるためなら、お前たちの技術を使えばよい」
エルドは、ギルバードを見る。
「だが、死んだ者を材料から作り直すな」
「なぜだ」
「それは治療ではない」
「同じ身体なら」
「同じではない」
「同じ記憶があれば」
「それでも違う」
「何が違う!」
「ギルバードは、作られたからギルバードになったのではない」
エルドの声は変わらない。
「生まれ、生き、選び、失敗し、誰かと過ごした。そのすべてによって、あの者はあの者になった」
マードックは寝台を見る。
ギルバードは動かない。
「俺たちは、できることをした」
「そうだ」
「足りなかった」
「そうだ」
「なら、もっと作れば」
「届かなかったからといって、すべてを越えてよい理由にはならぬ」
マードックは何も言えなかった。
治療師が、錬金窯の魔力を切った。
低い音が止まる。
部屋から、すべての音が消えたように感じた。
エルドが、ようやく手を放す。
マードックの腕が下がった。
「……じゃあ」
声がうまく出なかった。
「俺は、何を作ればよかった」
エルドはすぐには答えなかった。
「お前たちは、今日必要だったものを作った」
「でも、助からなかった」
「技術は、必ず人を救うという約束ではない」
「なら、何のためにある」
「次に生きている者へ、できることを増やすためだ」
マードックは、破れた血管を補った膜を見る。
人工骨。
細い管。
止血具。
どれも使われている。
どれも働いた。
それでも、ギルバードは死んだ。
「この失敗を残せ」
エルドが言った。
「成功したものだけを残すな」
「失敗じゃない」
治療師が言った。
エルドが振り返る。
「私たちは失敗したのではない」
治療師は震える手を握った。
「救えなかった」
「同じだ」
マードックが言う。
「違う」
治療師は、はっきりと答えた。
「間違えたこともあった。足りないものもあった。それでも、救えなかったことのすべてを失敗と呼ぶな」
マードックは何も答えなかった。
窓の外は、すでに暗くなっていた。
セドリックが家で待っている。
ギルバードは今日、行けないと言った。
それを伝えなければならない。
マードックは寝台の横へ座った。
「少しだけ待ってくれ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
エルドは、何も言わなかった。
神は消えなかった。
逃げるように天へ帰ることもなかった。
ただ人間たちと同じ部屋に立ち。
ギルバードの死を。
朝が来るまで、一緒に見届けた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード21開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
五年目 医学 4
【本文】
ギルバードの葬儀は、事故から三日後に行われた。
工場の仕事は止めた。
治療院も、午前中は閉じた。
大工組合。
錬金術協会。
加工場で働く職人。
ギルバードが手伝った家に住む人々。
多くの人が集まった。
棺の中に、ギルバードがいる。
傷は見えないようにされていた。
眠っているようにも見えた。
だが、眠っている人間とは違う。
胸が動かない。
呼んでも答えない。
セドリックは、ローレライの手を握っていた。
「ギルバード、いつ起きるの?」
誰も答えられなかった。
「起きないの?」
ローレライが膝をつく。
セドリックと同じ高さになる。
「ギルバードはね、死んだの」
「しんだら、どうなるの?」
「もう会えない」
「なんで?」
「身体が動かなくなったから」
「おとうさん、なおしたんでしょ?」
セドリックがマードックを見る。
マードックは、答えられなかった。
壊れた血管を繋いだ。
人工骨を入れた。
裂けた内臓を塞いだ。
心臓も動かした。
それでも、ギルバードは戻らなかった。
「直せなかった」
ようやく、それだけを言った。
「おとうさんでも?」
「ああ」
「なんで?」
いつもの問いだった。
何を答えても、また聞く。
分からないことがあれば、納得するまで聞く。
「分からない」
マードックは答えた。
「分からないことも、あるんだ」
セドリックは棺を見る。
ローレライの手を離す。
ギルバードのそばへ行く。
小さな手で、棺の縁へ触れた。
「きょう、あそべないの?」
返事はない。
「ずっと?」
返事はない。
セドリックはしばらく待っていた。
やがて、泣いた。
大きな声ではなかった。
何度も息を詰まらせながら、ギルバードの名前を呼んだ。
マードックは、息子の肩へ手を置いた。
それしかできなかった。
葬儀が終わった後も、エルドは町にいた。
誰にでも見える姿で、普通に道を歩いていた。
最初は誰も、彼が神だとは思わなかった。
白い服を着た、見慣れない男。
そう思われていた。
だが、錬金術協会へ入った途端、ルドウィックが椅子から転げ落ちた。
「エ、エルド……」
「久しいな」
「なぜ、ここに」
「呼ばれた」
「誰に?」
エルドがマードックを見る。
「呼んでないぞ」
マードックが言った。
「死者を作る錬成式に、我を組み込んだだろう」
「代価を管理する神だからな」
「それを呼んだと言う」
「来るとは思わなかった」
「来なければ、お前は何をしていた?」
マードックは答えなかった。
ブラウンが立ち上がる。
「本当に、エルド神なのですか?」
「そう呼ばれている」
「証明は?」
部屋の空気が止まった。
ルドウィックが青ざめる。
「ブラウン!」
「重要なことだ。神を名乗る者の言葉だけで、協会の方針は決められん」
エルドはブラウンを見た。
「何をすれば証明になる?」
「分かりません」
「分からないものを求めるな」
「では、神であることを理由に命令しないでいただきたい」
「そのつもりはない」
エルドは空いていた椅子へ座った。
「話し合うために来た」
「神が座った……」
カールが呟く。
「立ったまま話せと?」
「いえ」
「なら、お前たちも座れ」
ブラウン。
ルドウィック。
カール。
マードック。
治療師。
親方。
ローレライも呼ばれた。
全員が、一つの机を囲む。
エルドも同じ机についている。
「何を話す?」
ブラウンが聞いた。
「境界だ」
エルドが答えた。
「人間の技術と、魂の境界」
「死者蘇生を禁じるのですか?」
「禁じるだけなら話し合いは必要ない」
「神の力で止めると?」
「できる」
「なら、なぜしない?」
エルドはマードックを見た。
「止めれば、別の場所で試す者が現れる」
「俺はもうやらない」
マードックが言った。
「お前だけの問題ではなくなった」
錬成式は残っている。
人工骨の作り方。
皮膚を増やす方法。
血管を補う膜。
内臓の一部を作る試み。
そして、身体の機能を再び動かす設備。
マードックが作らなくても、記録を読んだ誰かが続きを考える。
別の町。
別の国。
何十年も後。
いつか必ず、同じ場所へ到達する。
「全部燃やせばいい」
ルドウィックが言った。
「医療の記録もか?」
治療師が聞く。
「危険なものだけだ」
「どこからが危険だ?」
「死者を蘇らせるものだ」
「止まった心臓を動かすのは?」
ルドウィックが黙った。
治療師が続ける。
「心臓が止まっても、すぐなら戻る者がいる」
「それは死者ではない」
「誰が決める?」
「治療師だ」
「治療師の判断が、必ず正しいと思うか?」
答えは出なかった。
生きている者と、死んだ者。
言葉にすれば簡単だった。
だが、その境目は一瞬ではない。
呼吸が止まる。
心臓が止まる。
声が届かなくなる。
身体が冷たくなる。
どの時点から、治療が蘇生へ変わるのか。
「神なら分かるのか?」
マードックが聞いた。
「魂が身体を離れたことは分かる」
エルドが答えた。
「なら、お前が決めればいい」
「それでは、お前たちは死の判断を神へ預けることになる」
「何が悪い?」
「我が現れなければ、何もできなくなる」
「呼べばいい」
「必ず応じると思うな」
「神だろ」
「神だからだ」
エルドは机の上に置かれた記録を見る。
「人間の身体を扱う判断は、人間が負え」
「でも、間違える」
「神も間違える」
ルドウィックが立ち上がった。
「そのようなことを!」
「神を何だと思っている」
「完全な存在です」
「なら、なぜ世界にこれほど面倒な決まりがある」
誰も答えなかった。
エルドは続ける。
「神は世界のすべてを知っているわけではない。我は等価交換を管理する。魂の行き先を管理する神もいる。生と死を見守る者もいる」
「神にも役割があるのか」
マードックが聞いた。
「お前たちと同じだ」
「神も仕事を分けてるんですね」
カールが言った。
「一人ですべてを行えば間違える」
「神も?」
「神もだ」
ブラウンが新しい紙を出した。
「では、神と人間で役割を分けましょう」
エルドが紙を見る。
「何を書く?」
「互いに、してよいことと、してはならないことを決めます」
「神と約束するつもりか?」
「命令ではないのでしょう?」
「ああ」
「ならば、約束です」
話し合いは三日続いた。
最初に決まったのは、生きている者を治す権利だった。
人工骨。
人工の皮膚。
血管の代用品。
内臓の補助。
失われた手足の代わり。
身体の働きを助ける設備。
それらを作り、使うことへ、神は介入しない。
「寿命を延ばすのは?」
カールが聞いた。
「治療の結果として延びるなら同じだ」
エルドが答える。
「百年生きる身体を作ったら?」
「生きている者の身体なら、人間が判断しろ」
「千年は?」
「年数を神に決めさせるな」
「では、不死も?」
部屋が静かになった。
エルドは少し考えた。
「不死になった者が、何を失うのかまで理解しているなら止めぬ」
「何を失うんです?」
「知らぬ」
「神なのに?」
「作ったことがないからな」
マードックが笑った。
「神も、分からないと言うんだな」
「お前よりは早く言える」
次に、人間が踏み込まないものを決めた。
死者の魂を呼び戻さない。
魂を材料として使わない。
魂を別の身体へ移さない。
記憶と身体を再現したものを、死者本人として作らない。
死者の身体を動かすために、魂の代用品を作らない。
「人形なら?」
カールが聞いた。
「作ればいい」
エルドが答える。
「人間そっくりの?」
「構わぬ」
「記憶を持たせたら?」
「死者の記憶を使わなければよい」
「自分で考える人形は?」
「それは、作った後に本人へ聞け」
「本人?」
「自分で考えるなら、お前の道具ではないかもしれぬ」
ブラウンが額を押さえた。
「問題が増えました」
「技術が広がるとは、そういうことなのだろう?」
マードックが言う。
「君が言うな」
三日目の夕方。
紙の一番上に、名前が書かれた。
生命と魂に関する不可侵条約。
人間は、生きている者を治す技術を手放さない。
神は、人間が身体を治し、補い、作ることへ介入しない。
ただし人間は、魂を作らない。
死者を本人として再製造しない。
神は、人間の命を勝手に奪わない。
人間の選択を、神の都合で変えない。
「最後の二つは必要か?」
エルドが聞いた。
「人間だけが約束するなら、条約ではありません」
ブラウンが答えた。
「神を縛るつもりか」
「嫌なら、命令として持ち帰ってください」
エルドは紙を読んだ。
何度も読む。
一か所を指さす。
「ここが曖昧だ」
「どこです?」
「死者を本人として再製造しない。本人でなければ作ってよいように読める」
「では、書き直します」
「こっちは?」
治療師が聞いた。
「魂を材料として使わない」
「魂を測ることは?」
「構わぬ。ただし傷つけるな」
「どうやって確認を?」
「これから決める」
神と人間が、言葉の意味を一つずつ確認する。
勝手な解釈ができないようにする。
書き直す。
読み直す。
また書き直す。
ルドウィックが、その光景を見ていた。
「神との約束まで、規格にするのか」
「必要だろ」
マードックが答える。
「口約束では、後で揉める」
「相手は神だぞ」
「神も間違えるらしい」
「聞こえている」
エルドが言った。
「聞こえるように言った」
完成した条約へ、最初にブラウンが署名した。
錬金術協会を代表する名前。
次に、治療師。
大工組合からは親方。
工場で働く者を代表して、ローレライ。
マードックは最後だった。
「俺も書くのか?」
「一番必要だ」
全員が答えた。
マードックは、自分の名前を書いた。
紙をエルドへ渡す。
「神はどうする?」
エルドは指先を紙へ置いた。
淡い光が広がる。
紙の一番下に、見たことのない文字が現れた。
誰も読めない。
「何と書いた?」
マードックが聞いた。
「エルド」
「本当に?」
「神の署名を疑うのか」
「証明できないからな」
ブラウンが咳払いをした。
「写しを作ります」
「神の文字も写せるのか?」
カールが聞く。
「試してみる」
錬金窯へ入れる。
同じ紙を作る。
人間が書いた文字は、そのまま写った。
しかし、エルドの署名だけが消えている。
「駄目ですね」
カールが言った。
「では原本を保管する」
ブラウンが答える。
「写しには、人間の言葉でエルドと書いておけ」
エルドが言った。
「それでいいんですか?」
「署名が光る必要はない。約束が残ればよい」
原本は、錬金術協会で保管されることになった。
写しは治療院。
大工組合。
マードック錬金工房。
そして、国の管理機関へ送られた。
神と人間が条約を結んだ。
その話は、すぐに町中へ広がった。
信じる者。
信じない者。
死者蘇生ができるようになったと勘違いする者。
反対に、治療が禁じられたと思う者。
説明するための紙が、さらに必要になった。
「仕事が増えたな」
マードックが言った。
「君が死者蘇生に手を出したからだ」
ブラウンが答える。
「反省してる」
「本当に?」
「もうやらない」
「それだけか?」
マードックは少し考えた。
「次にやろうとするやつを止める」
ブラウンがうなずいた。
条約ができても、ギルバードは戻らない。
工場の入口には、事故の記録が置かれた。
割れた横木。
切れた縄。
倒れた石の位置。
ギルバードが、若い職人を助けたこと。
治療院で行った処置。
使った道具。
成功したこと。
足りなかったこと。
死者蘇生を試みたこと。
エルドに止められたこと。
何も隠さず書いた。
「ここまで残すのか?」
親方が聞いた。
「成功したものだけを残すなと言われた」
「神に?」
「ああ」
「素直に聞くこともあるんだな」
「俺が間違ってたからな」
マードックは、事故を起こした横木を見る。
外からは分からなかった亀裂。
今までの確認では見つけられなかった。
それも記録へ残す。
見つけられなかったものを、なかったことにはしない。
「次はどうする?」
親方が聞いた。
「中を見る方法を考える」
「木を切らずに?」
「ああ」
「できるのか?」
「分からない」
マードックは答えた。
「でも、見つけられなかったことは分かった」
工場が、少しずつ動き始める。
最初に行ったのは、事故現場の片づけではなかった。
全員で記録を読むことだった。
ギルバードを知っている者も。
ほとんど話したことのない者も。
新しく入ったばかりの者も。
同じ記録を読んだ。
そして、それぞれが自分の持ち場へ戻った。
錬金窯に火が入る。
台車が動く。
作業の合図が響く。
治療院では、白い箱から清潔な布が取り出される。
人工骨を入れた男が、杖をついて歩いている。
火傷をした女性は、自分の手で服を着ている。
救えなかった命がある。
それでも、救えた命もあった。
技術は、死をなくさなかった。
ただ。
生きている者にできることを、少しずつ増やしていた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード22開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
エピローグ 等価交換したくないので
【本文】
それから、十年が経った。
ロックフィールドの町は、大きく変わった。
マードック錬金工房の周囲には、いくつもの工場が建っている。
木材を扱う工場。
食品を加工する工場。
家具を作る工場。
建築部材を作る工場。
治療に使う道具を作る工場。
材料が運び込まれる。
状態を確認する。
加工する。
完成したものを調べる。
記録を残す。
合格したものだけが、次の場所へ送られる。
錬金窯は、工場ごとに違う形をしていた。
大きなもの。
小さなもの。
長い材料を通せるもの。
少量の材料を細かく調整するもの。
マードックが最初に買ったような、何でも作るための窯は少なくなった。
作るものに合わせて、必要な機能だけを持たせる。
誰が使っても、同じ手順で動く。
異常があれば止まる。
使った魔力量も、材料も、作った者も記録される。
「止めろ!」
工場に声が響く。
巻き上げ機が止まる。
吊られていた梁が、空中で静止した。
作業する者が縄を確認する。
横木を叩く。
返ってくる音を聞く。
表面へ魔力を流す。
木の中を通り、戻ってきた魔力の違いを調べる。
「ここだ」
職人が印をつける。
木材を下ろす。
印の場所を切ると、中から細い亀裂が現れた。
「不合格」
札がつけられる。
その木材が、家の梁に使われることはない。
工場の入口には、一冊の記録が置かれていた。
十年前の事故。
割れた横木。
切れた縄。
倒れた石。
救えなかった一人の職人。
新しく工場へ入った者は、最初にその記録を読む。
誰も、ギルバードを知らない。
それでも、名前を知っている。
何が起きたのかを知っている。
なぜ吊り荷の下へ入ってはいけないのか。
なぜ使う前に設備を確認するのか。
なぜ異常があれば作業を止めるのか。
決まりだけではなく、その理由を教えられる。
治療院も大きくなった。
隣には、医療用の道具を作る工房がある。
人工骨。
皮膚を育てるための小さな窯。
血管を補う膜。
失われた手足の代わりとなる器具。
身体の働きを助ける設備。
どれも、治療師の指示がなければ作れない。
錬金術師だけで使い方を決めることもできない。
作る者。
使う者。
確認する者。
患者へ説明する者。
役割は分かれていた。
治療を受ける本人の同意も、記録へ残される。
成功したもの。
うまくいかなかったもの。
途中で使うことをやめたもの。
起きた問題。
分からないこと。
すべてが残されている。
生命と魂に関する不可侵条約は、各地へ広がった。
国が違えば、言葉も違う。
治療の方法も違う。
神の呼び方も違う。
それでも、最初の条文だけは変わらなかった。
人間は、生きている者を治す技術を手放さない。
神は、人間が身体を治し、補い、作ることへ介入しない。
人間は、魂を作らない。
死者を本人として再製造しない。
神は、人間の命を勝手に奪わない。
人間の選択を、神の都合で変えない。
条約の原本は、今も錬金術協会に保管されている。
人間の文字で書かれた署名。
そして最後に、誰にも読めない神の文字。
何度写しても、その署名だけは消えた。
そのため原本を見るために、遠くの国から訪れる者もいた。
神の文字を研究する者。
条約の意味を議論する者。
本物ではないと言う者。
神との約束を人間が作ったことに怒る者。
「偽物だ」
そう言われるたび、ブラウンは答えた。
「内容を読んでから決めてください」
ブラウンは、まだ協会で書類を読んでいた。
以前より部屋は広くなった。
扱う書類は何倍にも増えた。
確認する者。
教育する者。
事故を調べる者。
規格を作る者。
条約を管理する者。
仕事ごとに部門が分かれている。
「また増えたな」
マードックが書類の山を見る。
「増やしたのは君だ」
ブラウンが答える。
「俺は窯を改造しただけだ」
「まだ言うか」
隣の部屋では、カールが若い錬金術師へ設備の使い方を教えていた。
「決められた魔力量を超えないこと」
「少しくらいなら大丈夫では?」
「少しくらいと思った理由を説明してください」
「早く作れるからです」
「早く作る必要は?」
「注文が多いので」
「では、窯を増やしてください。条件を変えてはいけません」
「でも、マードックさんはよく変えたと聞きました」
「だから、問題が増えました」
廊下まで笑い声が聞こえた。
その向かいの部屋では、ルドウィックが古い錬金術の記録を整理している。
以前なら、新しい技術を否定していた。
今は違う。
古い方法が、なぜその形になったのか。
失われた手順に、どんな意味があったのか。
新しい技術と比べ、残すべきものを調べている。
「それ、使うのか?」
マードックが聞いた。
「使うかどうかを決めるために調べている」
「捨ててもいいんじゃないか?」
「お前は昔から、古いものを簡単に捨てすぎる」
「新しく作ればいい」
「作れなくなってから気づいても遅い」
「面倒だな」
「技術を残すとは、そういうことだ」
いつかブラウンが言った言葉を、今度はルドウィックが口にした。
協会を出ると、少年が待っていた。
十五歳になったセドリックだった。
マードックより少し背が低い。
手には紙の束を抱えている。
「遅かったな」
マードックが言った。
「お父さんが頼んだ図面を取ってきたんだよ」
「そんなに多かったか?」
「途中でまた増やしたでしょう」
「必要になった」
「先に言ってよ」
「後で必要だと分かった」
セドリックは父親へ紙を渡した。
新しい錬金窯の図面。
治療院から頼まれたものだった。
患者の身体へ直接使う窯ではない。
人工の皮膚を育てるための材料を、一定の温度に保つ設備。
魔力が強くなりすぎた場合は止まる。
二人以上で確認しなければ、条件を変えられない。
「大きすぎない?」
セドリックが聞いた。
「後で増やすかもしれない」
「必要になってから考えろって、治療師に言われたんじゃなかった?」
「覚えてたのか」
「何度も聞いたから」
「じゃあ少し小さくする」
「少し?」
「半分くらい」
「最初の図面は何だったの?」
「夢だ」
「使わないものを描かないでよ」
二人で工場へ戻る。
入口の横には、小さな椅子が置かれていた。
誰も座らない椅子だった。
十年前。
ギルバードが休憩中によく座っていた。
壊れれば直す。
雨が降れば中へ入れる。
邪魔になる場所へ移動されても、いつの間にか元の位置へ戻っている。
その椅子だけは、規格品ではなかった。
脚の長さも少し違う。
座面も傾いている。
作った者の名前も残っていない。
「ただいま」
セドリックが椅子へ言った。
返事はない。
それでも、毎日言っている。
工場の中では、多くの人が働いている。
マードックが知らない者も増えた。
自分で錬金窯を作ったことのない者。
冒険者だった頃のマードックを知らない者。
ギルバードと話したことのない者。
それでも、同じ図面を使う。
同じ手順を守る。
問題が起きれば記録する。
分からなければ、勝手に進めず誰かへ聞く。
必要なら止める。
よりよい方法があれば、理由を確認して変える。
「マードックさん」
若い職人が声をかけた。
「この部材、寸法は合っています。でも、戻ってくる魔力が少し違います」
「前の記録は?」
「ここです」
「同じ材料か?」
「同じ種類です」
「種類じゃなく、切り出した場所は?」
「分かりません」
「なら、分からないまま使うな」
「不合格ですか?」
「まだ決めるな。別の者にも確認してもらえ」
職人が部材を持っていく。
マードックは、その背中を見る。
昔なら、自分で切って確かめていた。
今は、切らずに調べる者がいる。
自分には扱えない設備もある。
知らない技術もある。
「楽になった?」
セドリックが聞いた。
「何が?」
「お父さん、ずっと楽をしたかったんでしょう?」
「ああ」
「今は?」
マードックは工場を見回した。
相談を待つ書類。
確認が必要な図面。
新しい窯。
治療院からの依頼。
国から届いた質問。
次に教える職人。
やることはいくらでもある。
「前より忙しい」
「失敗じゃない?」
「いや」
マードックは笑った。
「俺が全部やらなくてよくなった」
一人では作れないものが増えた。
一人で決めてはいけないことも増えた。
だから、仕事を分けた。
知識を残した。
教える仕組みを作った。
確認する者を置いた。
作れるかどうかだけではなく。
作ってよいか。
誰が使うか。
何が起きるか。
失敗したとき、誰が止めるか。
そこまで考える者たちが現れた。
彼らは、錬金術師と呼ばれることもあった。
職人と呼ばれることもあった。
学者。
設計者。
管理者。
検査員。
教える者。
多くの仕事に分かれていた。
だが、やがて。
作ることに責任を持つ者たちを表す、新しい言葉が使われるようになった。
彼らは、エンジニアと呼ばれるようになった。
その日。
マードック錬金工房の屋根の上に、エルドが座っていた。
神との条約が結ばれてからも、ときどき町へ来る。
何をするわけでもない。
工場を見る。
治療院を見る。
新しく建った家を見る。
人間たちが、また面倒な決まりを増やしているのを見る。
工房の中から、マードックの声が聞こえた。
「同じ代価なら、もっと効率よく使っても問題ないだろ!」
「条件を勝手に変えないで!」
セドリックの声が続く。
「結果が同じならいいじゃないか!」
「同じかどうか、まだ確認してないでしょう!」
エルドは目を閉じた。
十年前と、何も変わっていない。
いや。
変わったからこそ、同じ言葉を言い続けている。
エルドは小さく笑った。
「屁理屈をこねおって」
工場の煙突から、白い煙が上がる。
町の向こうでは、新しい家が建っている。
治療院の窓から、子供の泣き声が聞こえた。
生まれたばかりの、元気な声だった。
エルドは空を見上げた。
「これも時代か」
【後書き】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
本作はこれにて【完結】となります。
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【リアクション】
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------------------------- エピソード23開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
プロット公開
【前書き】
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。