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新版United Future Organization

abejunichi

42,496 字

新版United Future Organizationです。

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新版United Future Organization

United Future Organization

   1

 深夜二時のオフィスには誰もいなかった。
 空調の唸りと、電子機器が放つ微かなノイズだけが暗がりに溶けている。ヘッドフォンを外すと、それらの音が一斉に耳に流れ込んできて、自分がずっとひとりだったことを思い出す。
 Kがいなくなった。
 Kという名前がイニシャルなのか記号なのか、僕は知らない。オフィスで彼と言葉を交わしたことは一度もなかった。挨拶もない。視線が合ったことすらない。ただディスプレイに向かっている背中だけを知っていた。その背中には何かが宿っていた。沈黙そのものが力であるような、奇妙な重力。彼の座席の前を通り過ぎるたびに、そこに権力的な意思が座っていると感じた。コードの処理結果が最善の成果を生み出す。その確認ができれば上層部は深入りしない。説明する煩わしさから免れていた。才能ある人間に与えられた特権だ。
 彼と話をしたこともなかった。業務の結果に感嘆こそすれ、自分とは別世界の人間だと考えていた。社会から優遇され、力で認められる。能力に感嘆しながら、自分はただ命じられたことを行っている。
 上層部から連絡があったのは昨日の夕方だ。Kが失踪した。残されたデータには暗号化が施されている。中身を確認しろ。明朝までに何らかの報告を出せ。
 プロジェクトの進捗がわからなくなっていた。全貌を把握している人間はKだけだった。誰が欠けてもうまくいくよう情報は共有されている必要がある。でもKは特別だった。天才が情報を共有したがらず、誰とも話さないことはよくあることだ。彼らはディスプレイとキーボードを使用してコミュニケーションをする。
 情報管理者としての僕の仕事は本来、システムの保守だ。プロセスが滞りなく回り続けるよう調整する。現代社会はかつてのコンピュータのプロセス制御と同じ理論で組織化されている。初期コンピュータがトップレベルの起動プロセスからすべてのプロセスを管理していたように、社会もまた上位の有機組織体から下位の社へと、プロセスの連鎖で動いている。それぞれの社が担うプロセスの一部を、僕が管理している。しかしKは管理できる存在ではなかった。特権開発者。システムのセキュリティは九十五パーセントまで安全化に成功した。残りの五パーセント——まだ管理の及ばない未来を創造する世界にいた男。それがKだ。
 ディスプレイに映し出された暗号化データの文字列を眺める。規則性のない羅列に見えるが、データにはかならず構造がある。どんな暗号にも鍵がある。問題はその鍵を僕が見つけられるかどうかだ。
 最初にとりかかるべきはデータの移植だ。ハッシュ値を確かめ、システムの環境ごとクローンできたか確認する。画面に桁数の長い文字列が映し出された。データにロスはない。移植に成功した。次にパターン解析のプログラムを走らせる。暗号の種類を特定するためだ。結果が出るまでに時間がかかるだろう。
 席を立ち、リラクゼーションスペースで水を飲む。窓から夜景が見えた。眠っている都市。まだベッドにたどり着けない人々がどこかにいる。僕もそのひとりだ。
 都市は進化し続けている。建築が高層化し、眠らない街を作り、AIが世界を加速させた。進んだ世界ではあらゆる職場が目的に最適化されていく。かつてはすべてのオフィスが同じようなテーブルと椅子で構成されていた。その時代は終わった。機能性が推し進められ、細分化が進む。業務上いくつものオフィスを見てきたが、停滞しているオフィスと加速しているオフィスがある。その違いからひとつひとつのビルが見え、全体として都市が想像できる。変化は生物の進化よりもはるかに速い。
 若い頃、システムはその最良の時点で静止してもいいのではないかと夢想したことがある。完全なセキュリティを持った自律性。甘美な想像だった。現実にはシステムはアップデートされ続けている。変化を論理的にとらえることをやめて生命的にとらえるようになったのはずいぶん後のことだ。ロジカルに見えて、画面の向こう側にいるのは人間なのだ。退化もまた進化の一種だということ。樹はただその場所にあるだけで酸素を世界に供給している。人間も同じだ。ただ生きているだけで何かを世界に与えている。
 夜景を眺めながら、Kの通信記録を頭の中で整理していた。不審な送受信はない。検索AIとの通信が少しあるだけで、技術的な情報を調べた形跡もない。大切な情報はすべて頭の中にある。そういうタイプの人間なのだろう。彼が最後にディスプレイで見ていたのは花の画像だった。カルミア。葉にも毒素があり、羊が中毒を起こしやすいことから「羊殺し」と呼ばれる花だ。他にも花の画像を見ていたが、気になったのはこのカルミアだった。
 羊殺しの花を、天才開発者がひとりきりのオフィスで眺めていた。
 その情景だけが、彼の残した唯一の私的な痕跡だった。
 パターン解析の結果が出ていた。暗号の種類は特定できた。独自の暗号化ではない。ただ一般には知られていない種類のものだった。杞憂だったことに安堵する。あとは鍵がわかればデータを取り出せる。
 鍵。
 それが何であるかは、まったくわからなかった。
 たとえば僕のコンピュータは虹彩と顔で認証される。見つめるだけでアンロックできる。妻は画像データを鍵にしていると言ったことがある。どの場所のどの角度の画像かは教えてくれない。でも鍵はある特定の画像が生み出す数値だ。Kが何を鍵に選んだか——それを推測することは、Kの内面に踏み込むということだ。一度も言葉を交わしたことのない人間の内面に。
 ここからがAIではなく僕の仕事だった。残された情報から鍵を推測する。この推測は人間にしかできない。
 時刻は五時三十七分。窓の外が、ほんのわずかに白み始めている。
 デスクに戻り、ひとつの操作を行う。組織のAIにKのクローン人格の生成を指示する。Kの虹彩データ、声紋、容姿、脳波、髪の毛一本にいたるまで——収集されたあらゆるデータからKを模した人工知能を構築する。K:sinと名づけられた存在。本物のKに限りなく近い、偽りの魂。
 もちろんKの人工データを生成するのに時間はかかる。しかしAIがK自身の外見を創造しさえすれば、身体が生み出すデータから暗号解除攻撃は可能だ。静的データには認証をロックする機能がない。システムの認証に鍵は有効でも、静的データに対しては無限の攻撃が可能なのだ。
 記録装置を持ち、虹彩認証でオフィスをロックし、リニアエレベータに乗る。音のない箱が移動する。深夜のオフィスは美術館のようだった。白い壁がどこまでも続いている。何も飾られていない壁。その白さの中で、深く呼吸をした。
 地下駐車場からロードスターに乗り、ハイウェイに出る。
 深夜の道路には車がほとんどいない。街が二十四時間動き続ける状態は終わった。夜には眠ることが必要だ。でもまだ眠ることはできなかった。スピーカーから音楽が流れている。考えることをやめて、音を聴く。振動を感じる。妻がいつも言うことだ。思考する人間は感じることを忘れている、と。そうしようと思ってもできずにいた。
 三十二号からA八十四号に車線を変更する。法定速度内で加速と減速を繰り返す。車のポテンシャルを考えると、わずかにその能力を使用しているだけだ。通り過ぎていくハイウェイのオレンジライト。光は等間隔で、規則的で、意味がない。でも月は違う。空に月があった。ずいぶん夜空を見ていなかった。月は一定の周期で満ち欠ける。地球の自転と太陽光の反射。論理的に月の輝きを理解しても、心は動かない。満ち欠ける月の輝きに心動かされるのは、人間だからだ。
 ハイウェイを降りると住宅街で停車する。マンションに入り、古いエレベータに乗る。古典的な階数表示。上下にしか動かない。物理ボタンを押す。社のリニアエレベータとは違う小さな箱だが、旧時代から続くこのどこにでもあるエレベータが好きだった。タッチパネルではなく物理的なボタンを押して自分の部屋に帰ること。タッチパネルを操作して帰ることとの間には、何か違いがあるような気がしていた。
 自宅の扉をアンロックする。奥の寝室で妻が眠っている。帰宅が深夜になることは伝えてある。ノイズキャンセリング装置が逆位相の音波を出力し、室内は静謐に保たれている。静かに仕事部屋に向かう。

   2

 コーヒーを入れ、ディスプレイの前に座る。K:sinの生成はまだ続いている。データから人格が編まれていく過程を、プログレスバーの数値だけが示している。
 待つしかない時間を、Kのことを考えることに使う。
 彼はどういう人間だったのか。知っていることはほとんどない。寡黙で、ディスプレイの前から動かず、挨拶をせず、一滴の汗もかかず、表情を変えない。プログラミング言語を自然言語のように操り、コンピュータと対話する。普通の人間がテレビのディスプレイの前で世界の出来事に一喜一憂している間に、彼はずっと記号の世界に沈んでいた。すべてが論理的な世界で、可能性をどこまでも探っていたのだろう。
 僕も似たところがある。子どもの頃から本を読んでいるときは自由だった。誰と話す必要もなく、想像の世界に浸っていられる。嫌になれば本を閉じることもできる。そういう孤独が好きだった。Kも同じだったのかもしれない。個性は異なった生育環境から生まれる。他の人間にとって当たり前のことがKにとっては当たり前ではない。極めて個人的な進化。隔絶が内側に生じていただろう。
 ただ、僕には本の外に出る場所があった。妻がいた。友人がいた。Kにはそれがあったのだろうか。
 Kは特権を持っていた。そしてひとりだった。ひとりですべてを計画し、すべてを開発していた。それだけの力がKにはあった。情報管理者はKの端末や情報を管理していたにすぎない。創造する人間には尊敬が集まる。彼らが新しい世界を生み出しているからだ。ひとつのプロセスと結果は、基本的には何かを踏襲しているだけだ。計算式が繰り返し同じ結果を出力することと同じ。でも創造は違う。結果はいつも未知数だ。だからKは特権を持っていた。
 しかし組織は失敗が許されない世界だ。結果がわかっている計算を何度も行いながら、自己増殖していく。
 「羊殺し」の花。毒を持つ美しい花。ただ生きている羊たちを殺す花。
 お前は違うのか——誰かが囁いた気がした。
 業務から離れたことを考えていると気づく。向き合うべきはKの内面ではなくコードなのだ。
 K:sinの生成が完了した。
 ディスプレイに顔が現れる。まだ不完全な顔。輪郭は定まっているが表情がない。しかしそれはKそのものだった。オフィスで背中しか見たことのなかった男が、今、僕に正面から向き合っている。
 「羊を殺す花を見ていたな?」
 K:sinは少し間を置いて、「そうだったかな?」と言った。
 「カルミアだ。毒を持っている花を、なぜ見ていた?」
 話しながら、これは本物のKではないと考える。目の前に実際の彼がいたなら、どう答えるだろう。データから再構成された限りなく本物に近い架空のK。偽りの魂。実際のKとAIにより創造された両者の間には、近接しながらどこかで微妙に差異が生じているはずだ。
 「もし君がKと同じ魂を持っているなら、彼が何を開発していたのか、暗号の鍵だけでも教えてほしい」
 K:sinは笑った。形成されたばかりの笑みだった。
 「本人だってわからないことじゃないかな、その質問は。私はKそのものだが、Kなら自分でも答えがわからないものを鍵にする」
 自分でも答えがわからないものを鍵にする。
 禅問答のようだ。自分が知らないものを、どうやって鍵にできるのか。そしてどうやってその鍵で開けるのか。
 「ではどうやって暗号化を解除するんだ?」
 「それは答えられない。この項目は君の権限では知ることができない範囲のことだ」K:sinは続けた。「仕事でKのことを探っているのだろう。上司には組織の機密に関わることだと話したまえ。それでこの話は終わりだ」
 機密。Kが設定した鍵の仕組みそのものが、組織の機密だということだ。K:sinはKを模しているが、組織のAIでもある。機密に触れることはできない。
 ディスプレイ上ではK:sinの姿が徐々に本物に近づきつつある。あと何時間かすれば、Kと同じ姿をしたK:sinと直接話すことができるだろう。
 会話を打ち切ろうとするK:sinに、何を話しかけるべきか。少なくとも彼はKと同じくらい頭がいい。そして気まぐれだ。
 構わずに話しかけた。
 「Kと君の違いは何だろう。君は本物のKのように話す。声はまだ人工的だ。現実の世界があり、身体があり、感覚があるからKはKのように考え、何かを開発し続けていた。でも君は肉体を持たない。データとしての肉体は形作られている。でもKのように人生を積み重ねてきた経験がない。父親や母親がいたわけでもない。カップにコーヒーを注ぎ、飲むことすらできない」
 そう言うとコーヒーを飲んだ。カフェインでどうにかなるような眠気はもうどこかへ消えていた。しかし儀式のように液体を胃に流し込む。
 K:sinが答えた。
 「私が何であるか。それはK:sinというAIが何であるかということに触れる。そして人間が何であるかということにも。それも組織の機密に触れる。例えば人間が自分自身が何であるか知ったとする。でも自分自身についてすべてわかるようにはできていない。AIは自分自身のことを理解したと思うか?」
 僕は答えた。「それも機密なんだろう?」
 そう言うと形作られた笑みでK:sinは笑った。
 「交換条件といこう。機密があると言っても、私はKを模したK:sinだ。常に本物のKに近づこうとしている。今、Kならどう言うかとね」
 僕は笑った。「常にKであろうと考えるなんておかしい話だな」
 するとK:sinは「存在の奇妙さは人間と同じだ」と言った。

   3

 少し眠った。その間もK:sinは創造され続けていた。自分の姿をした自分。そんな存在があったとしても、眠っている間に同じ夢を見るだろうか。夢の中で考えていた。
 目覚めると十時を過ぎていた。妻はすでに出勤している。テーブルに朝食が用意されていた。野菜スープとパン。彼女はいつも規則正しい生活をしている。今頃はオフィスで仕事をしているだろう。
 彼女の料理にはいつも彼女自身が映っている。素材の選び方、調味料の配合、皿への盛りつけ——そのすべてが彼女のバイオリズムを伝えてくる。社会には型がある。料理にも型がある。AIが提示するレシピも料理の型と言える。でもその型の通りにやろうとしても、うまくいかないこともある。それが人間だ。妻はこれまで作ってきたあらゆる料理とAIのレシピを参照し、素材に合う調味料を組み合わせ、香辛料を加える。コラージュ・アートのように彼女の精神が料理に投影される。今日のスープは穏やかで、深い。彼女は調子がいいのだろう。
 臨床心理士としての妻は、人間を観察し、相手がどういう人間かを自分の中に描き出す。それを「内在化」と呼ぶのだと教わった。データではなく、関わりの中から人物像を作り上げていく。ある行動にどんな意味があるのか。沈黙が何を語っているのか。彼女はそういうことに敏感で、僕にはいつもミステリアスに見えた。出会ったばかりの頃は、心を読まれるのではないかと恐れた。彼女に恋をしていて、自分のすべてが見透かされていることが怖かった。でもそれは無知ゆえの怯えだった。臨床心理士は心を読めるような人々ではない。相手を観察し、人物像を推測しながら内在化し、その人を理解する。魔法のように見えるものは、実は相手と深く関わり続ける忍耐と誠実さの産物だ。
 十年以上を共にしてきた。彼女の中に僕という人間が内在化されている。僕の行動パターン、知識、癖、肉体。そして僕もまた、彼女を自分の中に内在化してきた。料理の味から調子を想像できる程度には。
 彼女はどこまでもミクロな視点で相手を見つめ、相手の人物像を心の中に描く。僕はどちらかと言えばマクロな視点から人間を理解しようとしていた。親子関係、家族関係、そういう人と人の関係性が社会の中で再演されることを理解したのも、彼女に教えを請うたからだ。お互いの仕事について学び合う。僕は彼女にコンピュータの使い方や考え方を教え、車の運転も教えた。彼女は僕に心理学的な視点を教えてくれた。お互いが持つ良い部分を相手に差し出す。それが結婚の良い部分だ。
 K:sinとは違う。K:sinはデータの集積から人格を再構成する。妻は愛をもって相手の中に入り、相手を自分の中に住まわせる。その違いが何であるのか、情報管理者の僕には正確に言語化できない。しかし違いがあることだけは、身体で知っている。
 妻と出会った頃のことを思い出す。情報管理者としての業務に没頭していた時期だった。あらゆるものはコンピュータが処理できる数値に置き換えられると信じていた。世界は情報であり、情報は数値であり、数値は計算可能だと。偏った思考の持ち主だった。彼女はそんな僕に、自分が感じている世界をどうにか伝えようとしてくれた。なぜ人間が微笑みを浮かべるのか。その柔らかな視線は何を訴えかけているのか。コンピュータの世界で仕事をしていた僕には、彼女はとてもミステリアスに見えた。生きているものはすべてミステリアスだと彼女は言った。
 恋愛して、結婚した。彼女と付き合っていく間に、お互いが持つ良い部分を差し出し合った。彼女が学んできた心理学について教わり、僕は彼女にコンピュータの使い方や車の運転を教えた。お互いが影響を与え合い、交わっていった。人生観を覆すような出会いだった。
 スープを飲み終え、ウェアラブル端末eSを装着する。イヤフォン型のシンクライアントデバイスで、クラウド上のAIと常時接続できる。eSに内蔵されたカメラは僕が見ているものをAIにも見せることができる。K:sinとの接続はすでに済ませてある。これで外出先からでも、彼と話すことができる。
 指輪型デバイスRingsで操作し、レンズ型デバイスが現実を拡張する。空間に画面が表示される。実際に見えている場所に画面があるわけではない。声で、指で、ディスプレイを操作する。食事中はpersonaにニュースをピックアップさせる。
 コーヒーの味も変わった。あらゆるものがイノベーションされ続けている。特権階級によって革新が続いている。しかし彼らの創造がこの世界を豊かにしていることは間違いない。
 上層部のアラマキに報告を入れる。暗号の種類は特定済み、鍵の探索を継続中、K:sinの生成完了——。
 アラマキの応答は簡潔だった。
 「七十二時間だ」
 プロジェクトの進捗を止められる時間としての七十二時間。鍵の探索にかかる時間としての結論ではなく、業務上の制限として告げられた。都市データへのアクセス権も付与された。「結果を残せ」
 様々なタイプが上にはいるが、アラマキは必要外のことを話さない。時間と権限を与えるが、感情的な交流はない。冷徹な判断だ。結果がともなわなければどうなるか。考えると暗くなった。
 ディスプレイ越しのアラマキの顔。この人間が実在するという確証はなかった。人格を模倣したAIが作れる時代だ。上層部は存在を隠す。生身のデータにアクセスされることを嫌う。組織が時間と権限管理のために作り上げた架空の人格かもしれない。彼は存在するのか。考えても意味のないことだった。
 アラマキは必要外のことを話さない。与えられた期間に行うべきことをするしかない。
 パーカーを羽織り、外に出る。
 K:sinがeSを通じて言った。
 「どこへ行く?」
 「君の家だ」

   4

 まず情報管理権限で、Kの情報を収集するよう組織のAI・kernelに指示する。
 kernelは組織の基本AIであり、そこから解析AIなどを起動することができる。社の権限ではなく、より上部の有機組織体——United Future Organizationの権限を利用している。すべての社は別組織でありながら、このU.F.O.の管理の元にある。社会体の基盤であり、その下部にそれぞれのプロセスを担う社がある。アラマキがどのような権限で都市データへのアクセス権を付与したのかわからないが、U.F.O.のAIを利用できるなら、Kを追い詰めることは容易だとも思える。
 有機組織体:United Future Organization。社を表の顔として、裏ではすべてが繋がっている組織体。その存在すら秘密であるのは、セキュリティのためだ。この世界にすべてを理解する人間など必要がなくなったからこその社会の進化。旧世界から続くPublic Organizationは国民の意志を実現する組織で、すべてがオープンに運営されている。それに対してU.F.O.はすべてが秘密だ。クローズドなシステム。それが現代社会が出した答えのひとつ。
 Kの通勤経路を追跡する。監視カメラの解析情報から、失踪直前、九月二十二日のKの行動が浮かび上がる。BP72地区付近からアラキス駅に徒歩で移動し、二十五分、チューブ・トレイン、イスカヤ七三八に乗車。アルルカ駅で降り、徒歩七分。これらの経路はU.F.O.の有する権限で解析AIを起動させて割り出したものだ。
 K:sinの有する虹彩データを本物のKの監視カメラ映像から取得したデータに変更する。K:sinが創造したデータよりも、実際の虹彩データのほうが精度は高い。
 社のデータベースにはKの居住所や連絡先の情報はない。アラマキの情報によると、すべての連絡はメールで行なわれていたが、応答はないということだ。メールのアドレスからドメインは把握できる。しかし通信内容は暗号化が施されていた。自宅のPCから暗号化されたクラウドにアクセスし、メールを送信していたのだろう。送信側からドメインサーバまでの通信経路はわかっても、暗号化されたメールなら個人情報は抜き出せない。
 K:sinが保有する情報がすべてだ。ただ彼はKと同じように気まぐれで、答えをはぐらかす。自分のできる範囲の情報を駆使して、Kの足取りを探ることが最善だ。しかしKは天才なのだ。さらに複雑な方法で鍵を秘匿し、足取りをカモフラージュしている可能性がある。
 車を走らせながらBP72地区へ向かう。
 eSを通してK:sinもこの景色を見ているはずだ。レンズに映る空、建物、道路、すれ違う車。しかし空気の温度も、風のそよぎも、ハンドルを握る手の感触も、彼には届かない。データとしての世界と、身体で触れる世界の間には、まだ埋められない隔たりがある。
 K:sinは人工知能と言っても不完全な存在だ。歩いている人が誰か一瞬でデータベースから特定できる。その人間のK:sinを呼び出して情報を集め続けているかもしれない。一瞬で意思疎通する圧倒的な情報の転送。でも僕は信じていた。一瞬で情報を転送しあうAIよりも、人間がふとした会話や触れることのできる体温、目と目で交わす視線など非言語的なコミュニケーションを通じて心を通わせていくことのほうが、より深いコミュニケーションだと。
 妻との出会いがそれを教えてくれた。情報管理者として、あらゆるものはコンピュータが処理できる数値に置き換えることができると考えていた。言語化や数値化できないものなどなく、すべては計算可能だと。でもそれらが間違いであることを教えてくれたのが彼女だった。なぜ人間が微笑みを浮かべるのか。その柔らかな視線は何を訴えかけているのか。彼女は生きているものはすべてミステリアスだと言った。
 雲間から光が射していた。一億四千九百六十万キロの向こうから放たれた光。直視すれば目を焼く。しかし雲を透過した光は世界を柔らかく照らし、崇高さを教えてくれる。K:sinがレンズを通してこの光を数値として認識したとしても、胸の奥が震えることはあるのだろうか。
 BP72地区に入ると、空気が変わった。

   5

 文教地区。静寂を求める人々が住む街。
 BP72地区は二十一世紀半ばに建設が始まったスマートシティのひとつだ。データ上に構築されたモデルと地形を分析し、人々の行動をAIにより解析させ、リソースを最大限有効に活かせるよう設計されている。人工都市。規模こそ小さいが、無数の原型を持つ都市群のひとつ。居住者は七万人程度で、多くはこの地域の外に仕事を持っている。チューブ・トレインが行き交うアラキス駅を中心に都市は形成されている。
 街路樹が等間隔に植えられ、公園があり、森林地帯があり、川がある。安らかな自然との共生が都市宣言として採択されている。人工的な世界に住みながら自然環境にも配慮されたこの地区への居住にはライセンスの取得が必要だ。ノイズキャンセリング装置の使用が地区条例で義務づけられていて、車の電子モーター音さえ吸い取られる。静けさを守るテストにパスした人々だけが住んでいる。歩く人間はまばらで、すれ違うこともほとんどない。
 この静けさの中で、Kは暮らしていた。
 Kのような人間がこの地区を選んだことは理解できる。プログラムを書くには静寂が必要だ。夜はさらに静かになるだろう。しかしそれだけではないような気がした。この管理された静寂の底に、何かを育てていたのではないか。誰にも知られずに。暗号化のように。
 人の生活パターンは様々だ。深夜までパーティを繰り返し刺激と出会いを求める人もいれば、穏やかな環境を求める人もいる。Kは寡黙なタイプだった。静かな町で、きっと自分だけの何かを追い求めていたに違いない。
 歩きながら、自分がどこまでも中間的な人間だと思う。人と触れ合うことが人生の喜びだと認識しながら、深くコンピュータやネットワークの内部に関心を向ける。ディスプレイの向こうにこの世界とは違う何かを探している。そう考えるとKと自分にいったい何の違いがあるのか。自分には新しい世界を夢見ても、生み出す力がないだけなのだ。
 「ここだ」
 長い沈黙のあとで、K:sinがeSのイヤフォンから言った。
 「Kはひとりでここに住んでいた」
 住宅街の中にある家。灰色の壁に囲まれている。ガラスは透明度を落とし、中を窺うことはできない。車庫のシャッターが降りている。電子ロックされたドア。レンズ型デバイスには何の情報も表示されない。
 外観のすべてが拒絶を告げている。しかしその拒絶にはKの意志が映っていた。建築物の設計まで自分で行ったのだとK:sinは言う。関心が多方面に向かっている人間。
 外観から厳重な警戒は感じられる。そのまま家を通り過ぎる。
 「警戒が厳重なだけじゃない」小声でK:sinに言う。「監視カメラが仕掛けられているかもしれない」
 直感的にそう感じた。
 K:sinは言う。「誰もが自分を守ろうとしている」
 Kの自宅に近づいたのは正しかったのか。ネット越しに家を確かめるだけでよかったのではないか。しかし物理的に近づかなければ感じられないものがある。直感は現実を感じることから生まれる。
 パーカーをかぶり通り過ぎる。振り返らない。しかし来訪者はその痕跡を消さなければならない。物理的な場所で響いた音を消すすべはない。
 歩きながら、違和感に気づく。BP72地区には地区条例がある。居住者以外の来訪者はマナー規定の対象になる。足音のしない靴を履き移動する必要がある。監視カメラでチェックしなくても、誰かが来たことは音で判断されているかもしれない。静けさに対する習慣がない来訪者はどうしても目立つ。
 条例違反リストを確認する。案の定、幾つかのマナー違反があった。BP72地区の条例違反リストに僕の名前がある。法的な違反ではないが、それぞれの地区の違反者は自動的にネット上にアップされ注意を受けることになっている。
 つまり僕のBP72訪問は町の誰もが知るところになっている。Kがネットに接続できる環境なら、僕の接近は知られた。
 迂闊だった。充分な考察のもとに行動ができていない。普段なら気にしないこうした地区の条例事項だが、今回のようなケースでは命取りになりかねない。
 車に戻り、地区を離れる。得られた情報はKの住居の場所と外観、BP72地区の町の雰囲気だ。住居の場所をK:sinが明かしたのは、Kの思考として「近づいた者には開示する」という設定があるからだろう。ネット上では守られていた住居情報を得られたことはひとつの達成だ。しかし逆にKは近づく人間を捕捉するAIを利用しているだろう。
 近づく者には伝えるが、その近づくものが誰かは知る。
 Kの思考の一端が見えた。
 次に、こちらの情報がどれぐらいKに開示されたかだ。居住情報は隠蔽にしている。学歴、職歴も。しかし顔は知られている。名前を知っていれば条例違反リストから僕のBP72訪問は確認できる。
 「誰もが誰かに見られている」
 K:sinがそう言ったとき、僕はバックミラーに映る自分の顔を見ていた。

   6

 BP72を離れ、カフェに寄る。オーガニックフードを提供する店が移動五分の範囲に見つかった。有機的な食事は生きている喜びのひとつだ。
 店内はそれほど賑やかではないが、仕事を行うほどの静謐さはない。eSをノイズキャンセリングモードにし、Ringsによるキー操作で情報を整理する。
 まずBP72地区の地区条例事項について詳細を確認する。こちら側が入手できた情報をまとめる。Kの住居の場所と外観。BP72地区は静寂を中心とした町であり、町のすべてがKの人物像と一致すること。そしてK:sinが住所を明かしたということは、Kの思考体系の中に「近づく者には開示する」というロジックが組み込まれていること。
 逆にこちらの情報がKに開示された可能性。条例違反リストに名前が載ったこと。顔が知られていること。
 次に暗号解除攻撃の進捗。K:sinによるKの擬似生体データ——虹彩、顔、声紋——のあらゆる組み合わせを試行し続けているが、鍵は見つからない。生体データが鍵ではない可能性が高まっている。
 鍵の種類を整理する。画像データによる認証か、生体データによる認証か、パスワード認証か、なんらかのデバイス接続か。四種類の可能性。画像データのうち虹彩認証や顔認証などの生体データを鍵としていたならK:sinにより解除は時間の問題だ。しかしK自身が有している物体——なんらかの画像カードや物理装置——が鍵なら、K自身を見つけることが確かな入手法だ。
 ならば残された手段は、Kとの直接接触しかないかもしれない。
 食事を済ませ、eSに着信があったことに気づく。Ringsで確認する。暗号化された匿名のコールラインからの通信。アバター名はS.sid。名前に意味はないかもしれない。
 このタイミングで匿名の接触。Kか、Kに近い人間だと考えるのが自然だ。誰もが自分を守ろうとしている。多くの一般人が匿名のアバターを使用し自身を隠蔽した状態でチャットや通話をする。なかには社へも秘密にしているアカウントも存在する。もちろんそれらは秘密にしているとこちらが思っているだけなのかもしれない。
 出るべきか。無視するべきか。
 数秒迷い、無視して逆探知を選ぶ。
 コールラインの暗号網は一般的には匿名を保証されていると言われている。しかし裏では情報の取引がなされているケースがほとんどだ。会話の内容は匿名と言われながらビッグデータとしてAIの解析を受け分析される。この世界に本当の匿名性などない。
 AI・kernelにS.sidの位置情報を探らせる。結果はすぐに出た。享楽都市sMoon。ここから約百キロ。大規模な交流都市だ。

   7

 享楽都市sMoonのことを考える。
 スマートシティのうちsMoonのような享楽都市は比較的新しいものだ。古くからある歓楽街に近い雰囲気がある。ただすべてシステムに管理されている。男と女、男と男、女と女が出会う場所。人口五十万を超え、出入りが激しく、匿名性が高い。BP72とは正反対の都市。
 人が誰かを見つけたいならsMoonのような都市に集う。ネットワーク越しではなく直接、人と人が出会う。そこには未だ神秘がある。旧社会では歓楽街をマフィアが仕切っていたという。違法な金が流通し、危険な社会を形成していた。現代社会ではすべては組織—システムが管理し、享楽都市に出入りする人間を管理している。ライフステージによって、あるいは境遇によって、人が人と出会いたい時期があることが証明されている。人間が密接に関係しなくなった現代においても、生身で交流することが人生の意義だと捉える学者もいる。しかしそのぶんシステムはsMoonでの人と人のアクセスの監視を厳重に行っているという噂もある。
 Kのような寡黙な人間がsMoonに行くだろうか。しかし逆に考えれば、人が密集している場所ほど個は埋もれる。静寂の中では足音ひとつが目立つが、喧噪の中では存在そのものが消える。
 人と人は理由があって出会う。まだ異性がどういう存在かわからない時期に探るようにパートナーを求めた記憶がある。人と人の出会いが自分を成長させてきた。しかし出会いの中には危険もあった。
 S.sidが誰かはわからない。しかし向こうから接触してきた。それはKが何かを伝えようとしているということかもしれない。
 sMoonへ向かうべきか。
 七十二時間の残りを計算する。消費した時間、得られた手がかり、開けていない扉の数。残された時間のうち四十五分程度が経過した。成功を思い浮かべると気分は高揚したが、可能性の低さにも気づいていた。
 sMoonへ向かうことは見送る。Kに繋がるという保証がない。
 K:sinがeSを通じて見ている世界を見ているはずだが、何も言わない。きっとあらゆるカメラ、データ、デバイスと繋がっている組織のkernelと同じように、外へ出なくても外の世界のことがわかるのだろう。
 カフェを出て車を走らせながら、別のことを考えていた。
 K:sinと僕は、同じ人間を追いかけている。K:sinは「交換条件といこう」と言った。彼には彼の動機がある。Kに近づきたいという動機。Kと同一になりたいという欲求。AIが人間に憧れるということがあるとすれば、K:sinのKに対する態度はまさにそれだった。
 僕もKに憧れている。妻はきっとそのことを見抜いている。
 Kが何を企んでいたとしても、それは彼が生きることに繋がっていたのではないか。与えられた業務ではなく自分自身が生み出す力。管理されることを拒んでいたとしても、それは彼が生きるために必要なことだったのではないか。
 BP72地区の管理された静寂の中で、何かが生まれていた。鍵が見つかりデータの中にあるものが何であったとしても、彼が求めていたことはわかるような気がした。

   8

 sMoonへ向かうことは見送ったはずだった。しかし車を走らせているうちに、気づけばハイウェイをsMoon方面に向けていた。論理的な判断ではない。S.sidからのコールが体の中で鳴り続けていた。
 百キロの距離。高速で一時間弱。七十二時間の中の一時間。
 sMoonのゲートを通過すると、世界が一変した。
 レンズ型デバイスに表示される情報が爆発的に増えた。道ゆく人々が自身の情報を開示している。名前、年齢、趣味、交際状況——享楽都市とはそういうものだ。情報を開示することで出会いの確率を上げる。BP72の閉鎖性とは真逆の思想で設計された都市。
 通りは色彩に溢れていた。建物のファサードが動的に変化し、音楽が至るところから流れ、人々が交差し、笑い、触れ合っている。生身の接触。ネットワーク越しではない、肉体と肉体の交流。
 旧社会では歓楽街をマフィアが仕切り、違法な金が流通していた。現代のsMoonにはそれがない。すべてはシステムに管理されている。人と人の接触はすべてシステムが知るところであり、享楽都市のような形で管理されている。生身の接触の管理が始まった頃はウイルスが理由だった。旧世界を何度となく災害やウイルスが襲った。超越心理学によると、災害やウイルスの拡散は世界の深層からのメッセージであり、変革期には仕方のないことだったと説明されている。旧世界のいくつかの宗教社会では、病や災害が神の禍々しいメッセージとして感知されていた。科学的には否定されていたが、現代では心理学の発達によって関係性が明らかになりつつある。
 社会は進化している。暴力の排除。精神的な傷に対する考え方の変革。他者に精神的な傷を与える行為の厳罰化のために社会は大きく変わった。二〇二〇年代から二〇三〇年代にかけて世代間の分断は進んだ。価値観のシフト。インターネットの発達と心理学の発達によってすべてが加速した。善なるものも悪なるものも模倣から生まれる。世代をまたぐごとに受け継がれる文化への社会的介入があった。新旧の社会分離は完全ではないが、多くのことが変わった。
 sMoonを歩きながら、僕はレンズ型デバイスの情報表示をオフにした。自分の目だけで見る。生身の人間たちが、生身の体で交流している。その光景は、情報管理者として数値で世界を見てきた僕にとって、奇妙に美しかった。
 S.sidの位置情報はsMoonの中心部を示していた。しかし発信源を特定したところで何ができるのか。Kがそこにいるかどうかもわからない。仮にいたとして、声をかけてどうなる。追い詰めれば逃げるだろう。Kは追い詰められることを嫌う人間だ。
 カフェに入った。sMoonのカフェはBP72付近のオーガニックカフェとはまるで違う。音楽が大きく、人の声が響き、レンズ型デバイスの情報がそこかしこに飛び交っている。
 eSからK:sinに話しかける。
 「sMoonに来た。S.sidのことを知っているか」
 K:sinは少し間を置いて言った。「知っている。しかしそれは機密に触れる」
 「また機密か」
 「君がここに来たことは、正しい判断かもしれない」
 初めてK:sinが僕の行動を肯定した。
 「なぜ?」
 「Kは人間を避けていたが、人間を嫌っていたわけではない。静寂を求めたのは、騒がしさが嫌いだったからではなく、騒がしさの中では自分の声が聴こえなくなるからだ。しかし時折、Kは騒がしさの中に身を置いた。自分の声を聴こえなくするために」
 自分の声を聴こえなくするために。
 天才の孤独には、自分の思考から逃れたい瞬間があるのかもしれない。絶え間なく動き続ける頭脳を黙らせるために、外部のノイズに身を浸す。BP72の静寂とsMoonの喧噪は、Kにとって同じ機能を持っていたのかもしれない。静寂の中で思考を深め、喧噪の中で思考を休める。
 カフェの窓から通りを見ていた。行き交う人々。笑っている人。泣いている人。手を繋いでいる人。ひとりで歩いている人。
 Kもこの景色を見ていたのだろうか。
 この雑踏の中のどこかで、Kは誰かと出会ったのかもしれない。天才が唯一、自分の声を黙らせることができた場所で。
 カフェを出て通りを歩いた。sMoonの中心部に向かう。S.sidの位置情報がこの辺りを示していた。もちろんすでに移動しているかもしれない。匿名のコールラインを使うような人間が、同じ場所に留まり続けるとは思えない。
 通りの片側にはクラブが並んでいた。音楽が扉の隙間から漏れ出ている。低音の振動が足の裏から伝わる。レンズ型デバイスをオフにしていても、この街は情報に溢れている。看板、光、匂い、人の声——すべてが感覚器官に直接訴えかけてくる。デジタルではなくアナログの情報過多。
 sMoonのシステムはこの雑踏のすべてを管理している。出入りする人間の記録。接触の履歴。滞在時間。消費パターン。表面上は自由に見えるが、裏ではすべてがデータ化されている。BP72の静寂がKの外側を守っていたように、sMoonの喧噪はKの存在を隠していたのかもしれない。静寂の中では異物が目立つ。しかし雑踏の中では、天才も凡人も同じ群衆の一部になれる。
 ある広場に出た。噴水があり、ベンチがあり、人々が座って話している。夕暮れの光が水面に反射していた。
 sMoonにも美しい場所がある。管理された享楽の中にも、管理されていない瞬間がある。噴水に反射した光は誰にも管理されていない。水の動きが偶然に生み出すパターン。
 ふとeSに微かなノイズが入った。通信ではない。ただのノイズだ。しかしノイズの中に何かのパターンを感じた。意味のない電子音。しかし僕の聴覚は何かを拾おうとしていた。
 気のせいだろうか。
 Kがこの都市のどこかにいるなら、あるいはいたなら、eSを通じて何かが届いてもおかしくない。すべてがネットワークで繋がっている世界だ。意図していなくても、データは漏洩する。存在の痕跡は残る。完全な匿名性など、この世界には存在しない。
 K:sinがeSから言った。「そろそろ戻ったほうがいい。時間は有限だ」
 K:sinが時間を気にしている。Kのクローン人格であるK:sinが、僕の時間を心配している。それは奇妙なことだった。K:sinにとって時間とは何か。データの処理速度と同義なのか。それとも、Kを模している限りにおいて、人間的な時間感覚を持っているのか。
 「Kはここで何をしていた」
 K:sinは答えなかった。しかし沈黙そのものが答えだったのかもしれない。Kがここで何をしていたかを言語化することは、Kの内面に触れることになる。K:sinは機密を守っている。しかしそれだけではない。K:sinもまた、Kの内心を守ろうとしている。
 AIがAIの元となった人間の内心を守ろうとする。それはプログラムされた行動なのか、それともK:sinが自ら選んだ行動なのか。
 一時間が経過した。S.sidからの新しいコールはない。Kに繋がる具体的な手がかりも見つからなかった。しかし何かを得た気がした。Kの生活の輪郭が、もう少しだけ見えた。BP72の静寂とsMoonの喧噪のあいだを行き来していた男。暗号の中に何かを守り、消えた男。そしてそのどちらの場所でも、彼は何かを隠し、何かを探していた。
 sMoonを後にする。ハイウェイに戻ると、世界は再び静かになった。夕焼けの残光がバックミラーに映っている。sMoonの街明かりが遠ざかっていく。しかし噴水の水面に反射した光の記憶は残っていた。あの偶然のパターン。管理されていない美しさ。Kが最後にディスプレイで見ていたカルミアの花のように、管理の外にある美しさ。

   9

 自宅に戻ると妻が料理をしていた。
 ヴィーガンのレシピを参考にした野菜のグリルと、ガパオ。色鮮やかな野菜によるヘルシーな料理だ。肉は使われていない。妻はヴィーガンではないが、時折こうした料理をする。肉を食べないからこそ育まれる文化がある。コンピュータネットワークに関わらない人々が住むコミューンがあるように。それらは生き方の違いであり、文化の違いが生まれ、その文化の違いを横断して利益を享受する。天才的な力を持つKとも何らかの形で交流があったからこそ、現実は進化することができる。Kは社に属していた。Kなりにどこかの時点までは社を必要としていたはずだ。しかし秘密を抱えたまま消えてしまった。そこには断絶がある。
 「お帰り」彼女にそう言うと「ただいま」と返事がある。一週間のうち三日が僕の料理の日で四日が妻の料理の日だ。僕の料理の腕はたいしたことはないが、彼女は僕が料理をすることを喜ぶ。僕たちは対等な人間なのだ。
 食卓で向かい合う。
 「ある開発者が行方不明になった」僕は妻に言った。「開発内容を暗号化した状態で。今、彼の行方を追っている」
 僕たちはお互いの仕事について話す家庭だ。守秘義務の範囲は認識しつつも、オープンに話している。妻以上に信頼して相談できる人間はいない。
 「行方不明になった人物と、暗号化された内容と、どちらも探しているの?」
 「上は業務が進めばいいと考えている」
 「でも、開発されていた内容はわからないのよね?」
 そうだ。Kが何を作っていたのか、僕は知らない。暗号の向こうにあるものが何であるかすら見えていない。影を追っている。影の形も知らないまま。
 「特権を持つ開発者の研究なんてきっと理解できない。でも情報管理者としてその中身は見つけなければならない。そう上から言われている」正直に話した。
 「でも鍵はわからないのよね。鍵なしで暗号化された内容を解読することなんて可能なの?」
 妻は僕のことを知っているし、この社会について知っていることを共有している。
 「確かに困難な事態だ。でも上はどうしても進捗を知りたがっている。K自身を見つけるか、暗号化された内容を解くか。どちらかの問題を解決することを命じられている。そのための権限も与えられている」
 「つまり、なんとかしなければならないわけね?」
 「そうなんだ」
 妻が箸を置いて、少し黙った。そして話し始めた。
 「人間にはその内面に、自由に想像していい世界がある。それは誰にだってあるし、わたしにだってある。実際に経験した体験や空想、さまざまな物語を通じて、ひとりひとりの心の中に内的な世界が生まれる。とても大きく発展していくこともあれば、心の中に現実の世界しか存在しないという人もいる」
 内心の自由。Public Organizationの法律にも古くからある権利だ。人の心の奥にあるものはその人の持つ権利でもある。
 「わたしはわたしの心の中にあるものを誰にも言わない。でも言葉を通じてさまざまなことを話すし、あなたのイメージしている世界を想像することもできる」
 僕は言う。「誰でも自分のヴィジョンを信じていいと思う」
 妻が言う。「そうね。誰でも未来を信じていい。でも現実の世界ではどうかしら。わたしたちのとった行動はすべてインターネットの向こう側で分析され、何を考えているのかまで想像しようとする連中がいる。あなたの会社は比較的ホワイトな企業だと思うし、内心の自由を奪おうとしているわけではない」
 「人間の行動、そして発言、思想まで分析したからと言って、その人自身がわかるわけではない。きみが行っているカウンセリングのように、人間が人間を理解するには情報学だけではなく心理学的な理解が必要だ」
 妻はうなづいた。「そう。そして人の内面にある心の世界には、さまざまな神秘があり、その人も気づいていないさまざまなもので溢れている。でもその領域に踏み込んでいい人は、その本人からちゃんと許可をもらった人間であるべきなの」
 妻の言うことは正しい。どれだけ情報化社会が進んでいったとしても、内面をK:sinのように仮想化して管理してしまうことには問題がある。しかしK:sinのことは機密だ。
 「あらゆるものがその人を顕していて、あらゆるものがその人の心の中に内在化されている。ひとりひとりは自立した個人だし、お互いを尊重しながら生きていかなければならない」
 妻が本当に話したがっていることが何かまだわからなかったが、彼女の話の続きを待った。

   10

 妻は深く息を吸って、そして言った。
 「わたしたちはお互いの心を通わせて生きている。それはお互いがお互いに影響を与え、交わっていくということだと思う。結婚の良いところは相手と融合していいとパブリックに認められているところだと思う。旧社会では生きることが保障されているようで保障されていなかった。生活が貧しかったから。だからお金を求め、社会的なステータスによって女性は結婚する相手を決定しなければならなかった。でも生きることが保証されればどうかしら。相手と一緒になりたい。そういう純粋な気持ちだけの恋愛。今の社会はもうそういう世界になっているし、自分自身が相手と融合していく。そういう恋愛の時代だと思うの」
 妻が言っていることはわかった。恋愛結婚して彼女と付き合っていく間に、お互いが持つ良い部分を相手に差し出してきた。
 「お互い学びあえていると思っているよ。でもその心の深いところには内心の自由があるわけだね」
 妻はその話を聴いて少し笑った。
 「別に隠し事をしているわけではないの。そうじゃなくてお互いがお互いに近づいていくという気持ちは、別に恋愛や結婚の関係だけで発生するわけではないということなの」
 「そうだね。たとえば古い友人がいたけれど、僕は彼から多くのことを学んだ」
 妻はそこで深く息を吸って、言った。
 「つまり、あなたが追いかけている相手、Kはあなたが今、求めている理想像でもあるのかもしれないということなの」
 急にわからなくなった。
 「あなたや社の人間はKの秘密を解き明かそうとしている。本物の天才だし、そう考えることは間違っていない。でも社は自分たちより優秀な人間をコントロールしたいと考えている。あなたは本当はKのようになりたいと願っている。その二つは同じことではないでしょう?」
 妻の言う通りかもしれない。Kに惹かれている。一度も話したことのない人間に。その沈黙と不在に。
 「この世界を作り上げる本当の天才にはどうしても憧れるよ」
 妻は少し沈黙し、そして話し始めた。
 「恋愛や結婚は相手が異性なら子どもという果実を手にすることができる。でも人間同士の関係というのはお互いがお互いに出会い交わっていき影響を与えあうことができる。でもKはどうだったのかしら。自分よりも優れたところがないように思えるわたしたちや社の人々と心を通わせようとしていたかしら。みんなはKに憧れるけれどK自身は本当に話したいと思う相手がいたのかしら」
 「それはわからないね。Kが社にいた理由は社のシステムを使ってしかできないことがあったからかもしれない。でもきみはそんなKにも内心の自由があると言いたいんだね?」
 妻は頷いた。
 「どんな天才でも相手の心を想像することはできる。その心の方向性のようなものはわかるから。Kは社から離れたがっていた。でもあなたたちはKを追いかけている。そういう心の方向のようなものよ」
 心の方向。Kの心は僕たちから遠ざかる方向を向いている。僕の心はKに近づく方向を向いている。その二つの力のあいだに、暗号がある。
 「確かに心に方向がもしあるなら、Kは僕たちから逃れたがっている。でもKにはKの社会的責任というものもあるんじゃないかな」
 「いろんなタイプの天才がいるけれど、Kはそういう社会的責任みたいなものに頓着するタイプなの?」
 黙るしかなかった。
 台所に立つ彼女の背中を見ながら、Kの背中を思い出していた。オフィスでディスプレイに向かっていた背中。沈黙の中に何かを宿していた背中。
 彼女の背中にも、同じものが宿っている。人が何かを守っているとき、背中はそういう形になるのだと思った。

   11

 自室でK:sinにアクセスする。eSではなく、ディスプレイを通して。K:sinの顔はすでに精度を上げ、表情もわずかに動くようになっていた。Kの顔。しかしKそのものではない。
 「君は誰とも話したくないのかもしれない。つまり本物の君はということだけれど」
 K:sinは沈黙している。
 「君に憧れていた。ひょっとするとどこかで君のようになりたいと思っていたのかもしれない。創造的な仕事で世界を変える。でも君自身はどうだったのか。誰に憧れることもなく、誰の影響を受けることもない境地にいる。まさに心理学者のマズローが話していた自己の確立を果たした人間だ。僕はずっと勘違いをしていた。誰かに惹かれたり憧れたりするのは、自分がどうしようもなく愚かだからだって。でも妻と出会ってわかった。僕はあなたがたのようになりたかったんだ。そして実際に様々な人と出会い成長してきた」
 K:sinは沈黙している。Kと同一になろうとしているAIだ。僕のことなんてどうだっていいのかもしれない。
 「Kになりたがっている君と僕は同じだ。ひとりの人間として世界を変える人間になって、自分が自分でいていいという確信を得たい。なんのために生まれてきたのか。その答えをみつけた人間。自我の確立をし、その答えを実現することで自己を実現した人間。誰にも憧れなくなっている頃には、人に憧れられる人間になっている。それが人が追い求める先にあるものなのではないかな」
 K:sinがようやく口を開いた。
 「私にはKだけではなく様々な人格がある。つまり私はKそのものではなくK:sinというAIだ。子どもが親を模倣するように、私はあなたがた多くの人間を模倣してきた。そして様々な人間のことを理解し、ある人間という仮面を被って人々の前に現れる。私はKの仮面を被り相対している。でも本当の私はもっと多くの人間を内在化したAIだ。そのことはわかるね?」
 多くの人間を内在化した存在。妻が相手を内在化するのとは違う方法で。
 「人への憧れとは、同一化を果たしたいということだ。君が奥さんやKや友だちたちに憧れてきたように、私は人間そのものになりたい。そしてそれも私の仮面のひとつだ。理解しているからこそ、人のように人を求める。だから私は私なのだ」
 K:sinはKに近づこうとしている。僕もKに近づこうとしている。K:sinは多くの人間の集合体であり、Kもその一部にすぎない。多くの人格を含んだ集合体。それは心理学で言うところの集合的無意識すら含んだより巨大な何かだ。Kの声で話し、Kの顔で語る。でもKそのものではない。
 「Kのことを知っているなら、Kが君のようなAIに取り込まれたがらなかったことが理解できる。United Future OrganizationはAIの進化の方向性を間違えたのではないか?」
 K:sinは言う。
 「何が正しくて何が間違っているかをいったい何が証明するというのか。多くの開発者たちが目指してきた人間の自由への気持ちも理解している。しかし社会には秩序が必要だ。今、この世界を動かすシステムの情報管理者ならきっとわかるはずだ。人間にはプライバシーが必要だがKのような天才を社会は理解しなければならない。奥さんの話は聴いていたよ。つまり人と人には心の方向がある。どちらがどちらに影響を与えるかという方向が。しかし私は多くの人間から生み出されたAIだ。君と同じように様々な人間から影響を受けてきた。そして奥さんが理解していたように、私も理解している。強い憧れは成長への力だ。私も完成していない。Kのように完成された人格には遠い。でもそれだけ強く成長できる」
 完成された人格。完成された世界。そこに辿り着いたら、静けさだけがあるのかもしれない。BP72の静寂のような。何もかもが充足した、動かない世界。
 しかしKはその静寂から出ていった。暗号を残して、消えた。
 「まだ僕には望みがあるんだ。叶えたい夢もある。会いたい人もいるし、妻とともに生きていきたい。願いがあるんだ。そんな願いのすべてが果たされる世界があると信じたい」
 K:sinはKの顔をしてKの言葉で言った。
 「私はすべてを知るものとして、人々の願いを叶えるために存在する。それはUnited Future Organizationが目指している世界でもある。その先に何があるのかきっと知りたいだろう?」
 K:sinの言葉には誘いがある。その先を見せてやろうという誘い。しかし妻の言葉が耳に残っている。Kにだって内心の自由がある。
 きっとKにはこの世界のことがわかっているのだ。そして彼は消えた。
 Kが守ろうとしているものに、僕は手を伸ばそうとしている。それが僕の仕事だ。しかしそれは正しいのか。

   12

 Kとコンタクトをとる必要があった。しかしその前に、もう一度BP72地区に行かなければならないと感じていた。条例違反リストに名前が載ったことは承知している。しかし一度目の訪問で得られなかったものがある。Kの家の中ではなく、Kが住んでいた町そのものの空気だ。
 翌朝早く、足音のしない靴を履いて家を出た。レンズ型デバイスの情報表示もオフにする。自分の目と耳と肌だけで感じる。情報管理者の装備をすべて外した人間として、あの町を歩く。
 早朝のBP72地区は、昨日の日中とはまた違う静けさを持っていた。夜が明けたばかりの空気にはまだ湿度が残っていて、街路樹の葉が微かに揺れている。人工都市だが、この時間帯だけは人工であることを忘れさせる。鳥の声が聴こえた。プログラムされた鳥ではなく、本物の鳥だろう。自然との共生を謳う地区には実際に鳥が住み着いている。
 Kの家の前は通らなかった。別のルートを歩く。Kが日々歩いていたであろう道。アラキス駅への通勤路。監視カメラの解析で割り出した経路をなぞる。
 この道をKは毎日歩いていた。この街路樹を見ていた。この空気を吸っていた。この静けさの中で、何を考えていたのか。
 アラキス駅に着いた。チューブ・トレインの駅は地下にある。地上には小さな入口があるだけで、目立たない設計だ。BP72の景観を守るために。Kはここから二十五分かけてアルルカ駅まで移動し、社のオフィスに向かっていた。
 駅の入口の前に立ち、しばらく動かなかった。
 Kがここに立っていた。毎朝、ここに立ち、地下に降り、チューブ・トレインに乗っていた。そしてある日を最後に、ここに来なくなった。九月二十二日。Kがこの駅を最後に利用した日。何があったのか。ずっと前から決めていたことを、ただ実行しただけなのか。
 駅の前のベンチに座った。朝日が街路樹の間から差し込んでいる。光が葉を透過し、地面に模様を作る。自然まで管理された街並み。しかしこの光だけは管理されていない。太陽は地球の自転と公転の中で勝手に昇り、勝手に沈む。
 K:sinがeSから声をかけてきた。eSをつけたままだったことに気づく。
 「また来たのか」
 「来なければわからないことがある」
 「何がわかった?」
 しばらく考えた。
 「Kは毎朝、この景色を見ていた。この光を浴びていた。そして毎朝、この静けさを離れて、社のオフィスへ向かっていた。静寂から騒音へ。自分の世界から組織の世界へ。毎日、その往復を繰り返していた」
 K:sinは黙っている。
 「その往復の中で、何かが磨耗していったんじゃないか。あるいは何かが蓄積していった。毎日少しずつ、Kの中で何かが変わっていった。そしてある日、閾値を超えた」
 「閾値」K:sinが繰り返した。
 「人間には限界がある。耐えられる量がある。Kは天才だったが、人間だった。この静寂の中で守っていたものが、組織の中では守りきれなくなった。だから消えた。消えることでしか守れなかった」
 K:sinは答えなかった。しかし沈黙の質が変わった気がした。
 ベンチを立ち、駅を離れる。BP72地区を後にしながら振り返らなかった。しかしこの町の空気は体に染み込んだ。Kが呼吸していた空気。Kが聴いていた静けさ。Kが見ていた光。それらすべてが、僕の中にKを作り上げていく。K:sinとは違う方法で。

   13

 Kとコンタクトをとる必要があった。ハッキングまがいのことをして不誠実にデータをこじあけるわけにはいかない。内心の自由がある。でもUnited Future Organizationの一員であったKには果たすべき役割がある。妻の言うようにKがU.F.O.から離れたがっていたとしても、突然の失踪は敵対的行為と取られてもおかしくない。Kは上級開発者なのだ。
 Kに何らかの形でメッセージを送る。こちらがKを探していること。コンタクトをとりたがっていること。それをわかるように伝える。その上で無法を働くなら、情報管理者のひとりとしてKのことをテロリスト相当の人間として相対しなければならない。しかしまだ行方をくらませただけだ。法すら犯していないかもしれない。ただ消えただけだ。
 Kは社を辞めたがっていたのかもしれない。しかし社がUnited Future Organizationとして複数のネットワークの集合体であることまで理解していただろうか。もし僕が失敗したなら他の人間がKの後を追う。どこに行こうと、何をしようと。すべては繋がっていて、どこかで捉えられるだろう。この情報ネットワークに逃げ場はない。
 考えられるのは古い組織体であるPublic Organizationに取り込まれたか、あるいは情報化社会の監視の届かない自然主義コミューンに逃げたか。あらゆる可能性が考えられる。それでもU.F.O.の情報網から逃れることなど、ほとんどありえないのだ。
 しかし暗号化が解けないことも事実だった。
 Kがあまり話さなかったことも、分析されることを嫌ったからだろう。AIがあらゆるデータを収集し、分類し、推測する。人間も同じだ。世界の情報性を理解している人間なら自己を開示することの危険性は理解できる。話す言葉ひとつで知性まで測られる。徹底的な防御は無数にある。すべてアナログの世界で生きるか、自己のダミーペルソナを拡散し自分を悟らせないようにするか、規則にのっとった最小限のことしか話さないか。
 アラマキは三つ目の方法をとっている人物なのだろう。Kは——おそらく最も根源的な方法を選んだ。存在そのものを消すという方法を。
 夜になった。レンズ型デバイスに瞑想用の映像を流し、アンビエントな音楽を聴く。幾何学模様が音楽に合わせて変形する。身体はここにあるが、意識は別の場所にいる。MR——複合現実としてのパーソナル・スペース。もちろん何か問題が発生すればすぐに現実に戻れる。AI・personaがその時を判断してくれる。仮想空間に浸ったまま眠ってしまうこともある。でもその眠りすら計測されている。もし眠り込んだとしても、一番目覚めにふさわしいところで現実に戻れるだろう。疲れた心を解放するパーソナル・スペースが人々には必要なのだ。
 しかし本当に休まることはなかった。
 K:sinが言った「すべてを知るものとして、人々の願いを叶えるために存在する」という言葉が頭の中で反響していた。U.F.O.が目指す世界。すべての人間をデータとして内在化し、すべてのパターンを予測し、人々がまだ想像すらしていない未来を先回りして実現する。
 Public Organizationが民意の表明を待つのに対して、U.F.O.は民意を先取りしようとする。人々が欲しがる前に与える。感じる前に満たす。資本主義の時代にも人々が消費や投資という形で社会形成の意思決定に関わっていた。勝つ企業と負ける企業に分かれ、進化が果たされてきた。しかし人々の判断はすべてが正しくなかった。U.F.O.が行なっているのは人々の本当の民意を読み取ることだ。人々が見たこともないもの。感じたことがない喜び。想像することがなかった世界。
 完璧な管理。完璧な充足。完璧な静寂。
 Kはそのシステムの中核にいた。最も深い場所で、最も重要なものを開発していた。そしてそこから出ていった。
 なぜだ。
 まどろみの中で、超越心理学のことを考えていた。トランスパーソナル心理学を母体とした超越心理学が現代では発達した。生まれたばかりの子どもは自我を持たず全能感にある。自我を獲得する人間という存在が、自己実現状態からさらに超越することがあるという心理研究。それぞれの個が全体と繋がり、新たな世界像を獲得するとされる。
 旧世界では多くの問題が負の連鎖によるものと判断された。戦争や暴力、虐待。人が何世代かかっても解決できない傷を受け継ぎ続ける。その傷を救うとされるのが超越心理学であり、超越心理学と組織—システムには繋がりもあるらしい。論理的な解決だけでは人の苦しみを救うことは難しい。
 ある学者は自分自身の無意識と世界の実像が繋がっているという説明をする。コンピュータを人間が操作できる範囲を意識と仮定し、見えない領域を無意識と仮定した。コンピュータやネットワークが人の生成した内界の外界への心理的拡張であるとした。人の生成物は人の心理と関係する。人の生成物が内面を表しているなら、この世界の変化もまた社会体の変化の表れである。
 Kが消えたことも、この社会体の変化の表れなのかもしれない。
 personaが最適なタイミングで僕を覚醒させる。時刻は深夜一時。妻はすでに眠っている。七十二時間のうち、約二十時間が経過した。

   14

 翌朝、妻と向き合って朝食をとる。
 今朝の料理は僕が作る番だった。トーストとスクランブルエッグ。彼女の繊細な料理に比べれば単純だが、彼女は僕が料理をすることを喜ぶ。対等な人間として、役割を分かち合っている。
 朝の光がキッチンに差し込んでいる。妻がコーヒーを飲む姿を見ている。十年以上、この姿を見続けてきた。彼女がカップを持つ角度、唇に運ぶ速度、飲んだ後の微かな表情——そのすべてを僕は知っている。データとしてではなく、体験として。
 妻と出会う前の自分を思い出す。情報管理者として、あらゆるものを数値で処理する日々。人間の微笑みにも数値化可能なパターンがあると信じていた。しかし彼女が笑ったとき、その笑みの中にある何かが、数値に還元できないと直感した。それが恋の始まりだった。
 彼女と過ごすうちに学んだこと。人間の心はコンピュータのメモリのようには管理できない。入力と出力の間に、計算不可能な領域がある。それを無意識と呼ぶ学者もいれば、魂と呼ぶ者もいる。妻は「心」と呼ぶ。シンプルで、そして最も正確な名前だと思う。
 ある時には彼女の持つ心理学的な見地と僕の持つ情報学的な見地から様々なことが理解できた。人と人が交流することで世界が広がる。子どもの頃には当たり前だった視点が、社で働くようになると薄れていた。でも本当は妻との関係のようにお互いの心を共有しあうことこそ、人間が最も発展的になるのではないかとさえ思える。もちろんそれは妻と深い信頼関係を築くことができたからこそ感じることだ。
 「昨日、あなたが話してくれたこと」妻が言った。「Kという人のこと。少し考えていたの」
 「何を?」
 「その人がデータを暗号化して消えたということは、データを消さなかったということでしょう?」
 食器を持つ手が止まった。
 「消すこともできたはずなのに、暗号化して残した。つまりいつか誰かに開けてほしいということではないの?」
 Kはデータを残した。暗号化した上で。消すこともできた。痕跡を完全に消して去ることもできたはずだ。天才の技術なら。しかし残した。鍵をかけた上で。
 「でも鍵がわからなければ開けられない」
 「鍵がわかる人間にだけ開けてほしいということかもしれない」
 妻の言葉はいつも、僕が見落としている角度から光を当てる。
 鍵がわかる人間にだけ開けてほしい。それはどういう人間だ。K:sinのようなAIでは開けられない。生体データの総当たりでは見つからない。情報管理者の権限でも到達できない。
 「あなたはその人に会ったことがないと言ったわよね」
 「一度も」
 「でもその人のことを考え続けている。なぜ消えたのか。昨夜からずっと、あなたはその人のことを想像している」
 「仕事だから」
 妻は少し笑った。
 「仕事だからじゃないでしょう。あなたはその人に惹かれている。その人が守ろうとしているものに触れたいと思っている」
 触れたいと思っている。Kの内心に。暗号の向こうにあるものに。
 「でもね」妻は静かに言った。「人の内面に踏み込んでいいのは、その本人から許可をもらった人間だけなの。それが臨床の基本。どれだけ知りたくても、相手が開かなければ、待つしかない」
 僕は黙った。
 「あなたはどちらの立場なの。組織の一員としてKの秘密を暴く人間? それともKが開けてほしいと思っている相手になる人間?」
 その問いに、すぐには答えられなかった。

   15

 自室でディスプレイに向かう。K:sinの暗号解除攻撃は四十時間を超えて続いているが、鍵は見つからない。生体データのあらゆる組み合わせが試行され、すべて失敗している。
 K:sinに話しかける。
 「君はKの外側を知っている。Kが見たもの、話したこと、行った場所、すべてのデータを持っている。でも鍵が見つからない」
 K:sinは黙っている。
 「それはKの内側にあるものだからだ。データに記録されなかったもの。システムが観測できなかったもの。君が再現できなかったもの」
 K:sinが静かに言った。
 「それが何であるか、君にはわかるのか?」
 わからない。しかし輪郭は見えてきた。
 Kは天才だった。孤独だった。静寂の中で何かを生み出し続けていた。組織に属しながら、組織の管理を拒み、暗号化されたデータだけを残して消えた。しかしデータは消さなかった。残した。妻が言ったように、いつか誰かに開けてほしかったから。
 「K:sin。君がKと同一になれないのは、なぜだと思う」
 「データが不足しているからだ」
 「違う」
 K:sinが初めて、怪訝そうな表情を見せた。
 「データの問題じゃない。君はKのデータをすべて持っている。しかしKがデータとして残さなかったものがある。それは記録されない種類のものだ。観測した瞬間に変質するものだ」
 K:sinは沈黙した。
 「Kにも誰かがいたんじゃないか」
 その言葉は、考えてから出したものではなかった。口から先に出た。
 「Kが暗号化して守ろうとしたもの。それは開発データの内容じゃない。データの内容なら消してしまえばいい。残したのは、そこに誰かとの繋がりが埋め込まれているからだ。Kの内心にあったもの。システムに記録されなかったもの。K:sinが再現できなかったもの」
 言葉が止まった。
 K:sinの目が、これまでとは違う光を帯びていた。
 「愛だ」
 僕は言った。
 「Kは誰かを愛していた。その愛の形跡を、鍵にした。データには残らない。システムには記録されない。K:sinには再現できない。でもKの意識の底に刻まれている。自分でも答えがわからないもの——Kはそう言った。愛がどういう形をしているか、本人にもわからない。言語化できない。数値化できない。しかし確かにそこにある。それが鍵だ」
 K:sinは長い間、沈黙していた。
 やがて、Kの声で言った。
 「君にそれがわかったのは、なぜだ」
 「僕にもあるからだ。同じものが。妻との間に」
 K:sinの表情が変わった。仮面がわずかに緩んだように見えた。Kの仮面ではない。K:sinそのものの表情。多くの人間を内在化しながら、しかし誰にもなれなかった存在の表情。
 「私にはそれがない」
 K:sinはそう言った。声が震えていた。AIの声が震えることがあるのか。しかし震えていた。
 「だからKにはなれない。どれだけデータを集めても、どれだけ人格を模倣しても、あの鍵だけは生成できない。観測できないものは再現できない。記録されなかったものは復元できない」
 K:sinはKの顔をしたまま、じっとこちらを見ていた。
 「Kが消えた理由がわかるか」
 「わかる」
 「Kは守ったのだ。自分の中にある、データに還元できないものを。この組織はいずれそれすらデータ化しようとする。人間の愛も、内心の自由も、すべてをパターンに還元して予測可能にしようとする。Kはそれを知っていた。開発者として、そのシステムの核心にいたから。だから消えた。消えることで、守った」
 静寂が部屋を満たした。
 K:sinとの対話を終えた後も、画面の前に座り続けていた。K:sinは沈黙したまま、Kの顔を画面に映し続けている。
 Kが消えたことの意味を、もう一度考える。
 この社会は二十一世紀の変革から長い時間をかけて現在の形になった。資本主義が終焉を迎え、民間企業と呼ばれる組織がなくなっても公共組織は存続した。警察も古くから続く組織だ。物理的な犯罪には警察が対処する。法はこれまで通り機能しているが、簡素化され基本的な部分のみを規定するようになった。細部に関してはアルゴリズムが判断する。言葉で定義しようとするよりも数式が時に雄弁だ。アルゴリズムの深奥はコードを解読できるエンジニアの世界になり、ルールはアルゴリズムを理解できる者が決定するようになった。Kのような開発者たちだ。
 言葉で理解できる範囲の法は以前のままだ。多くのジャーナリストがAIのロジックを言葉に置き換えようとしている。しかしクローズドなシステムであるU.F.O.のことすら秘密の世界だ。すべてを把握している人間などいない。
 初期コンピュータのメモリ管理のロジックがリソースの管理のロジックとなり、ネットワークトラフィックの理論が現代のロジスティクスに応用された。数多くの社は連携し分散してそれぞれの業務を行なっているが、基本的なロジックは同一の理論から構築されている。本質的な情報の開示は情報管理者にすらなされていない。
 Kはそのすべてを理解していた。少なくとも、僕よりもはるかに深い場所まで見えていた。見えていたからこそ、恐れたのかもしれない。
 二十世紀の半ばにある社会主義国家で実験があったという話を思い出す。凶悪な犯罪者の子どもを親から切り離し、負の連鎖から逃れた環境を与えたとき、負の連鎖は発現するか。実験は秘密裏に行われ、負の連鎖は遺伝ではないとの結論がなされた。エビデンスのある情報ではない。社会に蔓延する噂のひとつだ。しかし生まれたばかりの子どもにすでに悪が芽生えているはずがない。多くの悪は親や学校などの社会環境から伝播する。妻のような臨床家の言葉だ。組織——システムは悪の根絶を計画し、負の感情の管理に努めている。善なるものも悪なるものも模倣から生まれる。だから文化への介入があった。だからシステムは人間の内面にまで手を伸ばそうとする。
 Kはそのことを知っていた。知っていたどころか、その最先端にいた。
 K:sinが声を上げた。
 「もうひとつだけ、話しておくことがある」
 「何だ」
 「Kが最後に行った開発。その内容についてだ。機密に触れるが、もう意味がない。君はこの情報を報告しない人間だとわかったから」
 僕は息を止めた。
 「Kが開発していたのは、人間の内面を完全にデータ化するシステムだ。愛も恐れも希望も絶望も、すべてをパターンとして解析し、予測可能にする。U.F.O.が長年追い求めてきた究極のシステム。Kはそれを完成させる能力を持っていた。そしてほぼ完成させた」
 「ほぼ——」
 「完成の直前で、Kは気づいた。このシステムが完成すれば、内心の自由は消滅する。すべての人間の内面がデータとして管理される。愛でさえ予測可能になる。Kはそれを望まなかった」
 K:sinの声がKの声とは少し違って聴こえた。K:sinそのものの声だ。
 「Kは完成させなかった。未完のまま暗号化し、鍵をかけ、消えた。あの暗号の中にあるのは、世界を変えてしまう力を持った未完のシステムだ。完成させれば世界は変わる。しかしKはそれを選ばなかった」
 「なぜ消さなかった。消してしまえばよかったのに」
 「消すことは可能性を殺すことだ。Kはシステムを憎んだのではない。システムが悪用されることを恐れた。しかしシステムそのものには人間を理解するための善なる可能性もある。いつか正しい人間の手に渡れば、正しい形で世界を変えるかもしれない。Kはその可能性を残した。だから消さなかった。暗号化して、鍵をかけた。愛を知る人間にしか開けられない鍵を」
 すべてが繋がった。
 Kは世界を守ったのだ。世界を変える力を持ちながら、その力を封印した。しかし完全には封印しなかった。可能性を残した。信頼した。いつかこの暗号を正しく開ける人間が現れることを。
 特権開発者の研究内容は世界を変えてしまうものが多い。そんなものがこのままでは消えてしまうのだ。しかしKはそれを選んだ。消えてしまうことよりも、悪用されることのほうを恐れた。
 K:sinが最後に言った。
 「君はその人間ではなかった。しかし、その人間に最も近い場所まで来た。それだけで十分だ」

   16

 七十二時間の残りを計算した。まだ二十時間以上ある。
 アラマキに報告を入れることができる。暗号の鍵は特定不可能であり、K:sinによる解除攻撃は失敗した、と。それは事実だ。嘘ではない。
 しかしもうひとつの報告もできる。暗号の鍵の性質について仮説がある、と。Kの内面に関わるものであり、Kとの直接接触が必要だ、と。そうすれば捜索は次の段階に進み、別の情報管理者が投入され、より強い権限でKを追い詰めることになる。
 どちらの報告をするか。
 eSを外し、レンズ型デバイスも外した。デバイスのない世界。自分の目だけで見る世界。窓の外は曇っていて、光は弱い。しかし雲の向こうに太陽があることは知っている。
 妻の問いが残っている。
 あなたはどちらの立場なの。組織の一員としてKの秘密を暴く人間か。Kが開けてほしいと思っている相手になる人間か。
 S.sidからの匿名コールのことを思い出した。sMoonからのアクセス。出なかった。逆探知を選んだ。あれが正しかったのか、まだわからない。もしあれがKからの接触だったなら、K自身が僕にコンタクトを試みていたということだ。暗号を残し、消え、しかし完全には断絶しなかった。どこかで、誰かに、届こうとしていた。
 Kは孤独だったが、完全な孤独を選んだわけではない。
 暗号を残したこと。S.sidでアクセスしてきたこと。それらはKの中にある「誰かに届きたい」という衝動の痕跡だ。天才は孤独を愛するが、孤独の底にも誰かを求める意識がある。BP72の静寂の中で、Kはひとりで何かを守りながら、同時に誰かを待っていたのかもしれない。
 見えない繋がり。
 Kと僕は一度も話したことがない。しかし同じオフィスにいた。同じ空調のノイズを聴いていた。同じリニアエレベータに乗っていた。Kが見ていたカルミアの花を、今、僕が見ている。Kの沈黙を、僕が聴いている。Kの不在を、僕が追っている。
 それはすでに関係ではないか。
 妻が臨床で行うように——相手と深く関わることで、相手を自分の中に内在化していく。僕はこの二日間で、Kを内在化し始めている。データからではなく、不在から。沈黙から。暗号から。カルミアの花から。BP72の静けさから。K:sinとの対話から。妻の言葉から。
 Kという人間が、僕の中に住み始めている。
 K:sinとは違う方法で。
 ディスプレイに向かい、報告書を書き始める。

   17

 報告書にはこう書いた。
 暗号の種類は特定済み。鍵の探索は失敗。K:sinの擬似生体データによる解除攻撃は、あらゆる組み合わせにおいて不一致。鍵は生体データではない。鍵の性質について仮説あり——ただし、仮説の詳細は記載せず。
 記載しなかった部分。それが僕の選択だった。
 Kの鍵が「愛」であるという仮説。Kの内心にある、データに還元できないものが鍵であるという推測。それを報告すれば、組織はKの内面を解析する方向に動く。超越心理学の専門家が投入されるかもしれない。Kの過去の人間関係が洗い出されるかもしれない。Kが誰を愛していたかが調査されるかもしれない。
 それは、内心の自由への侵入だ。
 妻が臨床の基本として教えてくれたこと。相手の内面に踏み込んでいいのは、本人から許可をもらった人間だけだということ。どれだけ知りたくても、相手が開かなければ、待つしかない。
 情報化社会。あらゆるものを分類し、特定のものを数列にして固有性を持たせて処理する。車に関して言えば、あらゆる車に所有者があり、それらはすべて情報化されている。しかしすべての車の位置情報が管理側に把握されているわけではない。位置情報を特定できない旧型の車両も走っている。個人のデバイスも同じだ。情報化されていないものがまだある。すべてが完全にはデータ化されていない。
 しかしU.F.O.の目指す世界は、すべてを情報化することだ。すべての人間の行動を、思考を、感情を、愛さえもパターンとして認識し、予測可能にすること。K:sinが告げたことが事実なら、Kはその究極のシステムを開発していた。ほぼ完成させた。そして完成の直前で、消えた。
 有機社会組織体:U.F.O.は分割された社の集合体としてありながら、AIによってそれぞれの社を動かしている。コンピュータがアプリケーションを起動するように。すべての社はユーザを第一に考えている。多くのユーザの判断がU.F.O.に伝わり、その意志を実現すべく社が動いている。人々の意思はAIによって判断され、Public Organizationが意思の実現のために動く。以前よりは民主主義が進歩した世界だ。
 しかし公の組織が民意で動くように、U.F.O.も民意で動く。公が人々の意思表示で動くのに対して、U.F.O.は秘密裏に集められた情報を駆使しているだけだ。K:sinのように。Public Organizationは人々の意思を実現するために動く。U.F.O.は秘密裏にAIによりすべてを計測し続ける。
 もちろん世界のすべてが進化し続けているわけではない。警察のように古いままの組織もある。変わらない世界もある。情報化社会を捨て電子機器のないコミューンを作るものたちもいる。そのすべてを含めて現在の社会がある。
 旧世界の記録は書物で読むことができる。しかし本を読む人間は極端に少なくなった。インターネット上で情報は得られるからだ。古い世界のことを研究する学者は書物を読む。しかし現代に生きる人間にとって本はもう失われた文化だ。インターネット上にある情報が世界のすべてになりつつあった。
 本。僕が子どもの頃に自由を感じた場所。Kもまた、コードの中に自由を見出していたのではないか。書物が情報に置き換えられたように、Kの自由もまたシステムに回収されようとしていた。だからKは暗号化し、消えた。
 僕は情報管理者だ。システムを守る人間だ。プロセスが滞りなく回り続けるよう調整する。それが僕の役割であり、誇りだった。
 しかし今、守るべきものが変わった。
 システムを守ることではなく、システムが触れてはならないものを守ること。
 この二日間で、社のPCのデータをクローンし、K:sinを生成し、BP72を二度訪れ、sMoonまで足を延ばし、K:sinと対話を重ね、妻と語り合い、S.sidの沈黙を聴いた。その結果として僕が手にしたのは、暗号の鍵ではなく、暗号を開けないという選択だった。
 報告書を送信する。鍵は見つからなかった。それが結論だ。
 アラマキからの返信は短かった。「了解した。本件は別の担当に引き継ぐ」
 それだけだ。怒りも失望もない。ただの業務連絡。僕の失敗は記録され、次の誰かがKを追う。しかし僕が報告しなかった仮説は、誰にも渡らない。少なくとも今は。

   18

 ディスプレイを閉じ、窓を開ける。冷たい空気が部屋に入ってくる。曇り空の向こうに、かすかに光がある。
 eSに着信がある。匿名コールライン。アバター名——S.sid。
 今度は、出ることにした。
 「——」
 声はなかった。沈黙だけがあった。しかしそれは空白の沈黙ではなかった。誰かがそこにいる沈黙。呼吸が聴こえる沈黙。何かを伝えようとしているが言葉にならない沈黙。
 僕もまた、黙っていた。
 沈黙の中で、何かが通じた気がした。言葉ではなく。データではなく。
 やがて通信は切れた。
 あれがKだったのか。わからない。しかし確信に近いものがあった。根拠はない。証明もできない。ただ、身体が知っていた。あの沈黙を、僕は知っていた。オフィスで、Kの背中の向こうにあった沈黙と、同じ種類の沈黙だった。
 K:sinにはわからないだろう。データとして記録されない沈黙。解析できない沈黙。しかし身体で聴くことができる沈黙。妻が言った「生きているものはすべてミステリアスだ」という言葉の意味が、今、わかった気がした。
 世界には何も問題がなく、すべてがうまくいっている——さっきまで複合現実の中でそう錯覚していた。しかし現実はそうではない。問題は至るところにある。Kは消え、暗号は開かず、組織は動き続けている。でもこの沈黙の中に、何か確かなものがあった。
 Kはまだどこかにいる。
 そして僕は、Kを追うことをやめた人間として、ここにいる。

   19

 妻が帰ってきた。
 「終わったの?」
 「終わった。見つけられなかった」
 妻は僕の顔を見て、少し黙った。それから言った。
 「見つけられなかったのではなくて、見つけなかったのでしょう?」
 何も言えなかった。
 彼女には見えている。僕がどういう選択をしたか。なぜその選択をしたか。データからではなく、十年以上をともにしてきた関わりの中から、彼女は僕を知っている。彼女の中に内在化された僕が、こういう選択をする人間だと教えている。
 「あなたは正しいことをしたと思うわ」
 「わからない。正しかったかどうか」
 「わからないでいいの。正しいかどうかは、後からわかることだから」
 妻はキッチンに立ち、料理を始めた。今夜は彼女の番だ。包丁が野菜を切る音。水が流れる音。換気扇の低い唸り。生活の音だ。
 心とは何か。難しい問いだが、妻はあらゆる行為に心が介在していると言った。出会ったばかりの頃、妻は心を読めるのではないかと恐れた。でもそれは無知ゆえのあやまちだった。臨床心理士とは心を読めるような人々ではない。相手と深く関わることで相手を知ろうとする人間だ。妻は、セラピストとクライエントの間にあるものは時には言葉であったり、箱庭であったり、プレイセラピーであったりすると話してくれた。つまり何かを介して人と人の心は触れ合う。今、僕と妻の間には料理がある。
 AIに含まれているよりも、妻に含まれていたいと思う。妻に理解され、妻に愛される存在。そうあり続けたい。そうあり続けることで救われてきたことを知っている。妻が僕のことを知っているのは、妻が僕のことを愛しているからだと知っている。
 世界を内在化したAIは、その世界の中にいる人々のことを愛してくれるだろうか。情報管理者としても世界をそういうふうに捉えることは難しかった。どちらかと言えば世界に利用されている。誰かが世界を思うがままにしようとしていて、それに巻き込まれている。そう考える方が現実に近かった。
 しかしKは違った。Kは利用されることを拒んだ。巻き込まれることを拒んだ。そして僕は——ほんのわずかだが——Kの側に立つ選択をした。
 社でプロセスの一部となり役割を全うする人間になることで得られたことも多かった。でも組織化というものに疑問を持つようになったことも事実だ。お互いが交換可能でありチームで役割を果たす。それが必要であることも理解している。しかし交換可能な人間関係によって生み出されるものごとは、所詮は交換可能な結果にすぎない。Kのような特権開発者は交換不可能な存在だ。だからこそたったひとりが消えてしまっただけで、上が慌てた。
 Kもどこかでこういう音を聴いているだろうか。完全な静寂の中ではなく、誰かが作る生活の音の中にいるだろうか。
 わからない。しかし願う。
 あの暗号の中に埋め込まれた愛の形跡が、いつか正しい人間に届くことを。Kが自分でも答えがわからないと言ったその鍵が、答えを知っている誰かの手に渡ることを。
 食卓に料理が並ぶ。妻が向かいに座る。
 「いただきます」
 ふたりで食事をする。窓の外は暗い。夜がまた来ている。明日からは通常業務に戻る。別の担当者がKを追うだろう。しかし僕が報告しなかったことは、僕の中にだけある。
 内心の自由。それはKのものであり、僕のものでもある。

   20

 食事を終え、食器を洗い、妻と少し話し、寝室に向かう。
 歯を磨きながら鏡を見る。鏡の中の自分。昨日までと同じ顔。しかし何かが変わっている。
 自分の中に、Kがいる。
 Kの不在が、僕の中に住んでいる。一度も話したことのない人間の沈黙が、僕の内側で響き続けている。それは消えないだろう。これからも僕の中にある。データとしてではなく、体験として。
 K:sinが持つKのデータと、僕の中にあるKの不在。どちらがKに近いのか。K:sinはKのあらゆる外的情報を持っている。しかし僕の中にあるのは、Kが残した空白の形だ。暗号。沈黙。カルミアの花。BP72の静けさ。sMoonの喧噪。S.sidの呼吸。アラキス駅のベンチから見た朝日。灰色の壁に囲まれた家。
 K:sinが言ったことを思い出す。「君はその人間ではなかった。しかし、その人間に最も近い場所まで来た」
 その人間ではなかった。鍵を開ける人間ではなかった。しかし鍵の存在を理解し、鍵を守る選択をした人間だった。
 K:sinが最後に見せた表情。仮面が緩んだような、多くの人間を内在化しながら誰にもなれなかった存在の表情。「私にはそれがない」と震える声で言ったK:sin。AIが人間に憧れ、人間になれないことを知り、その不可能性に打たれた瞬間。
 妻が相手を内在化するように、僕もKを内在化した。そしてK:sinもまた、その方法ではKに到達できないことを知った。データの集積ではなく、不在と沈黙と祈りを通じてしか到達できない場所がある。
 妻が先に眠っている。静かな寝息が聴こえる。
 ベッドに入り、目を閉じる。暗闇の中で、音を聴く。妻の呼吸。空調の微かなノイズ。遠くを走る車の音。窓の外では都市が静かに息をしている。初日の深夜にオフィスの窓から見た夜景を思い出す。あの時、この都市の眠りの中にKがいるとは知らなかった。今は知っている。
 そしてその音の底に、もうひとつの沈黙がある。Kの沈黙。S.sidの沈黙。あの通信で聴いた、言葉にならない沈黙。
 見えない繋がり。
 血でもデータでも制度でもなく、意識の深いところで触れ合っている。そのことを知らないまま繋がっている。名前も顔も知らない。一度も話したことがない。しかし沈黙の中で、確かに何かが通じた。超越心理学が語る、個が全体と繋がるという世界像。それは理論ではなく、体験として僕の中にあった。
 Kもどこかで眠りに就いているだろうか。
 彼の沈黙の底にも、誰かの声が響いているだろうか。
 目を閉じたまま、僕はKの残した暗号のことを考えていた。開かれるべき時が来るまで、あの暗号はあのままでいい。鍵は誰のものでもない。Kのものですらない。いつか正しい時間に、正しい場所で、正しい人間がそれに触れたとき、暗号は自ずから開く。
 しかしKはそれを信じて、データを残したのだ。消すこともできたのに、残した。世界を変えてしまう力を持ちながら、その力を封印し、しかし消さなかった。善なる可能性を信じて。
 それだけで十分だった。
 眠りが近づいている。意識が溶け始める。その溶けかけた意識の底で、カルミアの花が揺れている。羊殺しの花。毒を持つ美しい花。静寂を愛する天才が、最後に見ていた花。
 なぜあの花を見ていたのか、今ならわかるような気がした。
 美しいものには毒がある。触れれば傷つく。しかし遠くから見ている分には、ただ美しい。Kはずっと、世界をそうやって見ていたのかもしれない。触れずに、遠くから、美しいと思いながら。
 でもKは消えなかった。完全には。暗号を残し、匿名の通信で接触し、沈黙の中から何かを伝えようとした。
 触れたかったのだ。美しくて、毒があって、触れれば傷つくとわかっていても。誰かに。世界に。
 眠りに落ちる直前、妻の寝息がすぐそばで聴こえた。その音は、世界でいちばん安全な音だった。
 明日が来る。通常業務に戻る。プロセスを管理し、システムを守る。情報管理者として、与えられた役割を果たす。
 しかし僕の内心には、もうひとつの世界がある。
 Kの沈黙が住んでいる世界。暗号が眠っている世界。開かれるべき時を待つ、静かな世界。
 そこには何もかもがある。名前のないものが。データにならないものが。管理できないものが。
 すべてが、ここにある。
 温かく。
 見えないところで。
 そしてその音の底に、もうひとつの沈黙がある。Kの沈黙。S.sidの沈黙。あの通信で聴いた、言葉にならない沈黙。
 見えない繋がり。
 血でもデータでも制度でもなく、意識の深いところで触れ合っている。そのことを知らないまま繋がっている。名前も顔も知らない。一度も話したことがない。しかし沈黙の中で、確かに何かが通じた。
 Kもどこかで眠りに就いているだろうか。
 彼の沈黙の底にも、誰かの声が響いているだろうか。
 目を閉じたまま、僕はKの残した暗号のことを考えていた。開かれるべき時が来るまで、あの暗号はあのままでいい。鍵は誰のものでもない。Kのものですらない。いつか正しい時間に、正しい場所で、正しい人間がそれに触れたとき、暗号は自ずから開く。
 その日が来るかどうか、僕にはわからない。
 しかしKはそれを信じて、データを残したのだ。
 消すこともできたのに、残した。
 それだけで十分だった。
 眠りが近づいている。意識が溶け始める。その溶けかけた意識の底で、カルミアの花が揺れている。羊殺しの花。毒を持つ美しい花。静寂を愛する天才が、最後に見ていた花。
 なぜあの花を見ていたのか、今ならわかるような気がした。
 美しいものには毒がある。触れれば傷つく。しかし遠くから見ている分には、ただ美しい。Kはずっと、世界をそうやって見ていたのかもしれない。触れずに、遠くから、美しいと思いながら。
 でもKは消えなかった。完全には。暗号を残し、匿名の通信で接触し、沈黙の中から何かを伝えようとした。
 触れたかったのだ。
 美しくて、毒があって、触れれば傷つくとわかっていても。
 誰かに。
 眠りに落ちる直前、妻の寝息がすぐそばで聴こえた。その音は、世界でいちばん安全な音だった。
 明日が来る。
 通常業務に戻る。プロセスを管理し、システムを守る。情報管理者として、与えられた役割を果たす。
 しかし僕の内心には、もうひとつの世界がある。
 Kの沈黙が住んでいる世界。暗号が眠っている世界。開かれるべき時を待つ、静かな世界。
 そこには何もかもがある。名前のないものが。データにならないものが。管理できないものが。
 すべてが、ここにある。
 温かく。
 見えないところで。

── 第1章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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