第九章
静夜の態度が、明らかに変わった。
これまではメッセージを送ってもすぐに返事が返ってきていたのに、レスポンスが目に見えて遅くなった。
『今日、木村研行きますか?』
尋ねると、
『はい』
二時間後くらいにこれだけが返ってくる。いままでだったら『はい、三峰さんもですか?』だったのに。
あれ? わたしどこで間違った?
もしかして好きと言いすぎた?
心当たりが多すぎる!
なんでゲームみたいに選択肢を提示してくれないんだろう、この世界。
急いで生徒会業務をこなし、木村研に向かう。
「こんばんは」
「はいこんばんは」
木村教授に続いて山口が口を開く。
「三峰、ジュース買ってきてくれない?」
「コーヒーなら淹れますけど」
「今日オレンジジュース飲みたいんだよな」
「はあ、まあいいですよ」
山口さんにそう言われ、百二十円を渡される。
「月岡、着いてってやれよ」
「三峰さんはひとりでおつかいくらいできますよ」
「いいじゃん、学内デートしてこいよ」
山口さん、今それ地雷――。
旭はへらっと笑って言った。
「ひとりで行けますから、大丈夫ですよ。静夜さんは読書を続けててください」
「そうですね。校内なら安全でしょうし」
静夜のその言葉を聞いて、やはり距離感を感じた。いつもならなんやかんや理由をつけて着いてきてくれるのに。
泣きそうになりながら、「行ってきます」と木村研を出た。
扉を閉めたあと、うずくまる。
「ああああ」
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
こんなことなら、
こんなことなら――好きなんて伝えるんじゃなかった、なんて、言えない自分が嫌い。
後悔はしていない。でも間違った気はする。ここからなんとか立て直さなきゃ。
ちゃんと伝わりきっていない気がするのだ。静夜を恋うるこの気持ちが。静夜にわたしを殺してほしくてしょうがないのだ。
立ち上がって、旭はオレンジジュースを買いに購買へ行った。
「月岡、お前三峰となんかあっただろ」
山口に問われ、静夜は本から顔を上げた。
「どうしてですか?」
「雰囲気が違う」
「僕はいつもどおりですよ」
「全然いつもどおりじゃないぞ、気づいてないなら教えてやるけど」
「どの辺りがですか?」
「三峰との距離感」
「――どういうふうに違いましたか?」
「保護者とその被保護者って感じだったのが、意識しあってる男女みたいになってる」
「不本意ですね。僕と三峰さんはいい友人です」
「関係性にどんな名前をつけようが自由だけど、実際の関係がどうであるかとは関係ないぜ。名前をつけて安心してるようじゃお前もまだまだだな」
「仮初でもいいんです。僕たちが僕たちのままで在り続けられるなら」
「その方法が『いい友人』だったとしたら、お前はあとで後悔するかもしれないな」
「……考えておきます」
「おう、よく考えろ」
木村研の扉を開ける。
「オレンジジュース売り切れだったのでりんごジュース代わりに買ってきました」
「おー、サンキュ」
「三峰さん、帰りましょう」
「はい! 今日は早いんですね」
「ちょっと考えたいことがあるので」
「なるほど」
置いたままのスクールバッグを肩にかけて、旭は出ていこうとする静夜に続いた。
「お疲れさまでした!」
「お先に失礼します」
「おつかれー」
「おつかれさん」
帰る時間は、いつもどおり無言だった。でも、いつもと違って息苦しかった。
「静夜さんは、何を考える予定なんですか?」
尋ねてみると、少し黙って、静夜は答えた。
「様々な人間関係の有り様についてでしょうか」
「なるほど。興味があります」
「考え終わったら教えます」
「ほんとですよ」
「僕が嘘をついたことがありますか?」
「結構あります」
「そうですね」
なんでだろう。会話のすべてが空々しく感じてしまう。
何が違う?
恋愛感情を隠しているからか。今までは好きと言って断られてもその感情を持つことは許されていたが、今はそれが許されていないからだ。
隠し通さなければいけないからだ。
静夜に嫌われない方法がそれしか無いからだ。
そして、静夜も旭が静夜を好いていることを知っているからだ。
いままでは『好きになってほしい、好きと言って欲しい』だったのに、今は『嫌われたくない』のだ。
それは天と地ほどの差がある。
「三峰さん」
「えっ? あっ、はい」
「お家に着きましたよ」
「え?」
顔を上げると自宅前だった。
「ほんとだ」
「外を歩くときはぼうっとしていると車に撥ねられるかもしれないので気をつけてください」
実際に撥ねられたことのある旭はそうですねと深く頷いた。
「それでは、失礼いたします」
「はい。おやすみなさい、静夜さん」
「はい」
――おやすみなさいって、言ってくれなかった。
「あーー」
風呂上がりの旭は自室のベッドで転がりながら静夜のことを考えていた。
そもそも黒魔術を使ったのは、純度の高い恋をあのひとに伝えたいからだ。じゃあ純度の高い恋とは何だ、と考えたときに、信仰と崇拝が混ざっているなと認識した。そして一縷の憐れみも。
信仰も崇拝も憐れみもすべて削ぎ落としたらそれは純粋な恋になって、好きになってもらえる?
そこが間違っているのかもしれない。
旭がどれだけ相手のことが好きでも何を捧げても何を擲っても、相手がそれを受け入れなければならない義務なんてないのだ。
どうして好きになった人は自分のことを好きになってくれないんだろう。
これまで欲しかったものは勉強も見た目も運動神経も総て手に入れてきた旭が初めてぶつかった壁が静夜の心だった。
やっぱり旭の初めてを奪うのはいつだって静夜なのだ。
この壁を回り込むのか穴を開けるのか飛び越えるのか、そもそも壁がある限りそんなことは不可能なのか。
どうしよう、なんにもわかんない。
人の心ってどうしてこんなにわけがわからないんだろう。
そのとき、初めて静夜の気持ちがわかった気がした。彼も恋愛感情に対して同じような認識なのかもしれない。初めてぶつけられた恋愛感情は彼にとってはどれだけ考えても理解の及ばないものなのかも。
だとしたら、旭が何を考えても無駄だ。
旭も先輩も恋愛体験というものがお互いしか存在しないのだから。旭の初恋は静夜だし、静夜はそもそも恋をしたことが無いと言っているのだから。
先輩に恋愛体験をさせてみないと、恋心というものを一生理解してもらえない気がする。だって本当は初等部から中等部の頃に済ませておくべき感情だもの。それが大学まで無かったということは先輩側も旭と同じく相当内面を拗らせているに違いない。
先輩の心に絡まっている恋の糸を解きたい。
それが今の旭がするべきことかはわからないけれど。
翌日、木村研には佐々原准教授からプリンの差し入れがあった。旭ひとりだけ食べられないのだが、にこにこして静夜がプリンを食べるところを見ていた。
「三峰さん、食べにくいのですが」
「あっ、すみません」
慌てて手元のワークに視線を戻し、問題を解き始める。
集中して解いていたら、気づくと木村研には静夜の姿が見えなくなっていた。
「っ、え」
思わず立ち上がる。
「山口さん、静夜さんは」
「飲み物買いにさっき出てったけど。そろそろ帰ってくるんじゃね?」
「ああ、そうですか」
置いていかれたかと思った。
貧血のような感覚でふらりと旭は椅子に座って、顔を覆った。
怖かった。
静夜さんが怖かった。
彼が何を考えているのかわからない。
木村研の扉が開いた。
「戻りました。――三峰さん? 何をしているんですか」
旭はぱっと顔を上げる。
「何もしていません!」
「いや、何かはしていたでしょう。さっきまで集中してワークをやっていたじゃないですか」
「はっ、そうでした」
「僕がこれを飲み終わったら帰りましょうか」
「はい、そうしましょう」
――わからないなら、わかるまで聞くまでだ。
帰り道、やはり空虚な時間が旭と静夜の間に流れていた。
旭は、それを打開するように昨日考えたことを話した。
「先輩は、恋愛経験がないんですよね」
「はい、ありませんし、恋愛について考えたこともなかったです。今はあなたのせいでたまに考えますけれど。それがどうかしましたか」
「わたし、先輩が初恋で、それ以外の恋をしたことが無いんです」
「そうなんですか?」
「そうなんです。だから信仰とか崇拝とかが混じっちゃって大変ややこしいことになっているのですが。そして、先輩も初恋をしたことが無いんですよね?」
「おそらくありませんね」
「つまり、わたし達はふたりして恋愛初心者なんです。なのに、交際とかいう高等技術をしようとしていたわけです」
「しようとしていたのはあなただけですけどね。それで?」
「つまり、お友達から始めようという先輩の提案は正しいルートなのだと思います。なので、わたしも心の底から先輩をお友達だと思って接してみようと思いました」
旭がそう言うと、静夜は少し黙った。
「――そうですか」
「いい友人としてよろしくお願い致します」
「僕は、別に――あなたが僕のことを好きでいても、構わないのですけれど」
え?
旭は隣を歩く静夜の顔を見上げた。
「あなたが僕のことを好きなまま友達になってくれるなら、それが一番うれしいのですけれど」
「それ、本当ですか?」
「本当です。あなたに好かれていること自体は嫌ではないんです。ただ表面に出してほしくないだけで」
静夜が立ち止まったので旭も立ち止まった。
「家につきましたね」
「あ、本当だ」
「それでは」
「静夜さん」
静夜さんは一瞬惑ってから振り返った。
さっきの言葉が本当なら、あなたはきっとわたしのことが好きだと思います。
わたしに向ける感情は恋だと思います。
そして、わたしに負けず劣らずのエゴイストだと思います。
――こんなタイミングで吐けるセリフじゃないな。
「ごめんなさい、なんでもありません。おやすみなさい、静夜さん」
「はい。失礼いたします」
おやすみなさいって言ってくれなかった。
たったそれだけのそれは、心に穴が空いたような喪失感を旭に与えた。
静夜さんは今何を考えているだろう。
もしかするとわたしは、あの人の唯一だったのに、自分からその立場を崩してしまったのではないか。
恋愛感情なんてもののために、先輩をより孤独な存在にしてしまったのではないか。
だったら恋愛感情なんてもの捨てればいいのに、捨ててしまえない自分可愛さに腹が立つ。期待を捨てられない自分に腹が立つ。
表面上の『いい友達』を装って、先輩の側を、薄氷<うすらひ>の上を歩く毎日を止められないでいる。一歩踏み込んでしまえば薄氷は割れて旭は水中に落ちてそのまま失恋の海に沈んでいってしまうだろう。それでもいいか。もともとくらげのような存在だ。
旭は踵を返した静夜の背中が見えなくなるまでじっと見送っていた。
午後十一時。静夜さんにメッセージを送る。
「おやすみなさい」
返事は返ってこなかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。