第9話 マリオネット
人の往来の激しい都内の目貫通り。
街路樹が初夏の陽射しを遮り、歩道に日影を作る。
そんな状況をガラス越しに眺めながら、喫茶店の窓越しの席に広美はいた。
中層マンションの一階、落ち着いて、ゆったりとした雰囲気。
特に音楽などはない。
景色を眺めているようで、広美の心は、不安で押し潰されそうになっている。
そんな時、窓越しにとある女性と目が合った。
女性は、広美を見ると、冷たい意味あり気な微笑みを向けて、隣のスーツの男に何やら耳打ちをして頷くと、店内へと足を踏み入れた。
(あの人が……徳和さんの?)
広美は直感的に理解した。
恋人上崎の妻。
女性から目が離せない。
彼女は、真っ直ぐ広美の席に近づいてくる。
思わず立ち上がり、背筋を伸ばす広美。
硬直したまま、息を飲んだ。
広美の前に立った女性は、一言声をかける。
「……沖浜、広美さん?ですよね」
帯同していた男性は、眼鏡をそっと上げる、一瞬反射した光がその目を隠す。
「……あの……私、わたし」
女性は、先ほどの冷たい笑みを、もう一度広美に向けて口を開いた。
「上崎徳和の妻、恵美です」
その瞬間、恵美の視界から広美が消える。
驚いて視線を落とすと、膝と両手をついてこちらを見上げる広美の姿があった。
「この度は、大変なことをしてしまいました」
恵美は左右を見回して、焦っている。
そのまま、広美は床に額を擦り付けるかのように頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
その姿勢のまま、肩を震わせている。
恵美はため息を吐いて、もう一度男に向き直った。
「随分、良い子みたいだけど、どうしよう?」
「奥様、そういうことは、思ってるだけにしてください」
少し吹き出すと、恵美はそっと膝を折り、優しく広美の肩に手を添えた。
「広美さん、お気持ちはわかったから、とりあえず座りましょうか?」
思わず顔を上げる広美、血の気が引き、口元が震えているのがわかる。
すると今度は、先ほどまでの冷たい微笑ではなく、温かい、慈愛のこもった目で、広美の手を取った。
「お話を聞かないと、分からないこともあるから……ね?」
「はい……」
真っ直ぐ広美の目を見る恵美。
手を引かれて力無く立ち上がった。
帯同してきた男が、苦虫を噛み潰したように、ため息を吐いて名刺を差し出した。
「剣持法律事務所の高部と申します」
「この度、上崎徳和氏とあなたの……」
「不貞行為に伴う慰謝料請求協議」
「こちらを担当致します、まずはおかけください」
早口気味だが、しっかりと聞き取れる口調だった。
促されて腰をかけると、高部が鞄から、封筒を取り出して、広美の前に差し出した。
「ここ数週間、興信所に依頼して集めた証拠です、ご確認をお願いします」
封筒の中の写真を見ると
空港での車内の写真。
広美の自宅に二人で入室する写真。
歓楽街を、腕を組んで歩く写真。
先日のバーでの写真。
コピー用紙には、生々しい会話の記録が、赤裸々に綴られていた。
目を見開いた広美は、それらを凝視。
手が震え始める。
そして、証拠ひとつひとつを見るたびに、恵美の顔を見比べるように視線を上げる。
「奥様も……ご覧に……なったんですよね?」
「ええ、もちろんよ」
真顔で頷く恵美とは対照的に、広美の顔が崩れはじめた。
「……お子様が、6歳の男の子と、4歳の女の子って……」
恵美がもう一度、頷いた。
「私……わたし、ほんとうに、とんでもないことをしました」
高部がまた、口を開いた。
「他にも、音声と映像の証拠もあります」
「それで、慰謝料の金額の……」
「払います」
被せるように、広美が告げる。
顔を見合わせる、恵美と高部。
「金額は、幾らでも構いません」
「奥様と、お子様達のお気持ちを考えたら、お金に変えられるものじゃありません」
「全額一括は無理でも、必ずお支払いします」
「一生かかっても!」
恵美がため息を吐いた。
「あなた、知らなかったんでしょ?」
口を挟もうとした高部を制す。
「妻とは、別れてるって、だから結婚しようって、言われてたんでしょう?」
「それは、でも、関係を持ったことは事実で……」
「聞かれたことだけ答えて!」
今度は、恵美が厳しく言葉を告げる。
決して荒げる訳ではなく、胸を突き刺すような口調で。
「あなたは、知らなかったのよね?」
広美は黙って頷くだけだった。
高部は眼鏡をハンカチで、拭き始める。
「うちの夫が、ごめんなさい」
呆れたような高部。
「全く、こうなると思ってましたよ」
「奥様も、本当、お人が良いから」
「ま、私も鬼じゃありませんからね」
眼鏡を照明に透かせて、また掛け直す。
「……え?」
意外そうに、広美は二人を見比べた。
「音声に、あなたが、徳和氏がまだ、婚姻関係にあることを知らない証拠があります」
「これじゃあ、慰謝料請求はできません」
高部の言葉に、恵美が受け取る。
「一応、確認はしたかったから、今日お呼び立てしたの」
「あなたがどんな人か、見極めたかったし」
「ガールズバーで、声をかけられたのが最初って言うから」
「偏見だけど、もしかしたら?て気持ちもあってね」
恵美が、広美の手を握る。
「それにしても、これほどピュアな人とは思わなかった」
「あなたは、うちの子達の事も、ちゃんと考えてくれたのよね」
広美の顔が崩れて涙が落ちる。
恵美がハンカチで、その涙を拭った。
「なにが、"浮気と浪費が激しい"よね、本当に、あれは人間のクズよ」
「だめよ、あんなのに、人生の大事な時間を使っちゃ」
恵美の言葉のひとつひとつが、強張っていた広美の心をゆっくりと、説きほぐしていった。
広美の涙はもう止まらない。
高部がまた、眼鏡を上げて言葉を引き取る。
「沖浜さん、私は一応利害関係人であるあなたを、担当できませんが」
「うちの事務所の他の者に、引き継ぎます」
「これ、立派な……」
今度は、弁護士らしい鋭い視線を向けた。
「結婚詐欺ですから」
広美はまた、顔をこわばらせた。
重たい言葉に、手の震えが止まらない。
恵美がまた、ふっと息を入れる。
「あと、あなたには、本当に辛いと思うけど」
「お願いしたいことがあるの」
そう言うと、テーブルにボイスレコーダーを置いた。
「さっきあの人に、証拠の写真一枚と、"今夜お話があります"てメッセージを入れておいたわ」
「そこで、再構築の可能性を匂わせて、あなたと切るように話します」
「あの男は明日にでも、あなたにその話をするはずよ」
レコーダーをすっと、広美に差し出す。
「その会話を、これに録音して下さい」
「音声が録れたら、私に連絡お願いします」
恵美と高部の言葉に、広美は力強く頷く。
最後に、高部が初めて穏やかな顔になった。
「私も仕事柄、色んな方を見てきましたが、あなたほど純粋で潔い方は珍しいです」
「きっと、良いご両親の元で育ったんでしょうね」
両親。
その言葉に、広美の心が揺れる。
「母はともかく……父は……」
その時だった。
幼少期の記憶。
父の背中におぶわれたこと。
その背中に跨り、部屋中を駆け回ったこと。
いつも頭を撫でてくれた笑顔。
風呂で一緒に笑って歌ったこと。
その記憶の中の万次郎は、どれも優しく、自分を慈しみ、見つめていた。
自分も心から信頼を寄せて、父に笑顔で向き合っていた。
(お父ちゃん)
広美はテーブルに突っ伏して、声を上げる。
その姿を、恵美と高部は、優しく見守っているのだった。
「この度は、誠に申し訳ありませんでした」
喫茶店の外は、薄暮の状態で、街には光が灯りはじめている。
深々と頭を下げる広美の肩に、恵美はまた手を置き、優しく声をかけた。
「あなたの世代だと、ああいう男は、刺激があって魅力的に見えるだろうけど」
「やっぱり、真面目で誠実な男の人が一番よ」
「人のことは、言えないけどね」
自嘲気味に笑い、恵美と高部が小さくなるのを見送ると、ふっと薄暗い夜空を見上げた。
「真面目で……誠実か……」
その時、広美の脳裏に、突然信吾が浮かんできた。
「なんで、あんたが出てくるがよ?」
思わず口をついた言葉に、小さく吹き出してしまう。
(まあ、あんたやったら、徳和さんみたいなことは、ないろうね)
(モテんき)
広美は大きく息を吐き、肩の力を抜くと街の光に照らされながら、歩きはじめた。
翌日、競馬ナイン編集部の会議室に呼ばれた広美は、上崎とテーブルを挟んで対面する。
まず、口を開いたのは、上崎だった。
「なぜ呼ばれたか、わかるね?恵美、君に会ったんだって?」
「……はい」
テーブルの下の手を握り込む広美。
「じゃあ、話は早い」
「お前、今すぐ辞めろ」
今までとは違う、突然高圧的な言葉が上崎から発せられた。
「….…それは、急すぎるんじゃ?」
「バカか?お前が同じ職場にいたら」
「勘繰られるだろうがよ」
「んな事もわかんねえのか?あぁん」
言葉を発する度に、語気が強まって行く。
「お前はただの情報源」
「その程度なんだよ、それなのに、結婚だなんだ面倒くさくなりやがってよ」
その時、上崎との出会いが脳裏を掠める。
歓楽街のガールズバー、カウンターの広美の前には、二人のサラリーマン。
「君、かわいいね、ひろみちゃんていうの?」
広美は、強張った表情。
「……あ、ありがとう、ございます」
「へえ、なんだかウブな子だね」
サラリーマン達は、広美の態度に機嫌を良くしたようだった。
その様子を、少し眺めていたのが上崎だった。
二人が帰ると、今度は上崎が広美の前に座った。
「君、東京の人じゃないでしょ?訛りがある」
「あ、あはは……お客さん、鋭いですね」
慣れない会話で、広美の頬が染まる。
「きみ、あまり男慣れてないよね?なぜこの仕事を?」
「私、ライターになりたくて、その専門学校に通ってるんですけど、学費が足りなくて」
上崎の眉が動いた。
「おれ、雑誌記者なんだよ」
「競馬専門誌の」
「競馬ですか!?」
この時、店長からの指示が思い出された。
「いいか?お客さんが振った話題で、得意なジャンルが来たら思いっきり乗っかって、話を広げるんだぞ」
「私の実家、南海競馬の厩舎なんです」
上崎の肩が跳ねる。
目を見開いて、広美の顔を覗き込むように顔を上げた。
「え?誰先生の所?俺、地方の担当なんだよね」
「私、姓は沖浜なんです」
「えっ!じゃあ、あの、ダービージョッキーの?」
「長女です」
「もっとも、父とは縁を切ってるんですが」
上崎がいきなり、広美の掌に自分のそれを重ねた。
「……あの」
困ったように、慌てて手を引こうとするが、力が籠り、離せない。
上崎の目元が、陶酔したような甘ったるいものに変わっている。
「君、うちの編集部来るかい?」
「何を、言ってるんですか?」
グラスに一口。
今度は両手で、広美の手を握り込んだ。
「専門学校?いやいや、現場で覚えるのが一番だよ」
名刺を広美の手に握らせる。
「明日、直接来ると良い」
「悪いようにはしないから」
上崎が、右手の人差し指と中指を、足運びのようにして、広美の腕に沿って登り始める。
思わず屈んでゆく広美。
肩に辿りついたら、その手が広美の左頬を押さえて、その顔を自分に引き寄せた。
「俺が一から教えてあげるよ」
「いろいろ、ね」
「おい、聞いてんのかよ」
記憶の映像は、上崎の声で停まり、広美の意識は会議室に戻される。
「とにかく、今日、今すぐ荷物片付けて帰れ」
「わかり……ました」
無言で頷き、退室しようとした上崎が足を止めた。
「あ、そうだ」
身を翻し、広美の顎を掴んで自分に向けさせる。
「明日から何の仕事するか知らないけど」
「カミさんからの慰謝料、きっちり一括で払えよ」
「俺は再構築するからチャラだけど、あのクソ嫁が、弁護士だの探偵だの無駄遣いしやがったから」
「本来の俺に請求予定だった分も合わせて頼むわ」
「六百万」
心底楽しそうに話す上崎の言葉。
先日までの、甘く優しい言葉との落差に、現実と夢想の境を見失い、思考が停止していく。
「そうだ、あとで良い風呂屋、紹介してやるよ」
「お前にゃ、みっちり仕込んでやったんだ」
顎に当てた手の親指を、広美の下唇にあてがい、めくりあげるようにして、口を開かせる。
広美はなされるがまま、虚な目をしているだけだ。
「感謝しろ、それもスキルだ」
「売り上げ二割くらい、回してもらうからな」
「がっつり稼いでこい」
広美の顎から手を離すと、愉悦に満ちた笑みを浮かべて背を向けた。
「じゃあな、言う事聞きゃしねえ」
「マリオネットちゃん」
会議室の扉が閉まった音が落ちると、胸ポケットから、恵美から預かったレコーダーを取り出し、耳にあてがった。
最小の音量で、中の声を確認する、手の震えが激しくなるが、表情は冷めたままだった。
それを、胸ポケットに戻したら、今度はスマホにメッセージを打ち込んだ。
会議室から、デスクに戻った広美は私物を整理して、編集部を一礼すると廊下に出た。
すれ違う人々がみんな、冷ややかな目を向ける。
背中越しに聞こえる声は、耳を疑うものばかり。
「チーフに色目使ってたんだって?」
「既婚者だって知ってたのにだよ」
「ストーカー紛いのこともしてたらしいよ」
「もうこの業界じゃおしまいだな」
言葉を身に刻む度、広美の足がだんだんと早くなって行った。
会社を出て、街を歩くと、小さなショーウィンドウ。
そこには、高級な財布が、繊細でありながら、しっかりと存在を主張していた。
それを眺めていると、妹にインタビューをした夜を思い出す。
(操り人形やか、あの男の)
「仁美、ごめんで」
ショーウィンドウに手を添え、そこに映る自分の目を、じっと見つめる。
「操り人形は……お姉ちゃんの方やった」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。