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彗星群

NOB

79,617 字

恋愛小説、成長物語、人間ドラマ

"不器用な二つの星が、互いを照らし、一つの群れとなる物語。"

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第8話 覚醒からの決着

 数日後――。

 志織は源泉徴収票を受け取りに、銘治鉄工を訪れていた。
 小さな談話室。
 里沙子が、お茶と封筒を持って現れた。

「……心配してたよ、やっと自由になったんだって?」

「色々心配かけてごめんね、もう完全に目が覚めたから」

 志織の声は、電話で話していた頃とは違う。
 前向きで伸びやかな声、里沙子は心底安心した。

「今日仕事は?」

「今日は、お休み頂いたの」
「新しいポスター作るのに、14連勤したから」

 すると、里沙子がまた笑う。

「じゃさ、お昼いこうよ」
「私このあとすぐ、隣で打ち合わせがあるから、ここで待っててよ、この部屋、今日は他に使う予定ないから」

 隣は、薄いパーテーション一枚で仕切られた会議室。
 在職中から、向こうの声はこちらに筒抜けだった。

「いいの?私はもう、社外の人間だよ」

 志織の問いに、里沙子が悪戯っぽく笑って返す。

「新しい工法、図面とか資料、見ないでわかる?」

「それもそうか……打ち合わせの相手は?」

「台蔵組さんだよ」

「……え?」

 言い残して里沙子が退室、志織は膝の上で、掌を硬く結んだ。

「台蔵組……って」
「……まさか、あの人が?」

 すっと、会議室の方に視線を向けた。

 数分後、会議室の扉が開かれて、沢渡の声が聞こえて来た。

「さあ、どうぞ、座って座って」

「ありがとうございます」

 志織は息が止まった、間違いない。
 田澤の声だ。
 薄い板一枚の向こうに、彼がいる。
 彼女は、衝動的に立ち上がるものの、談笑する声を聞くたびに、またゆっくりと腰を下ろした。

 会議室では、沢渡と田澤、里沙子が歓談しながら席を囲む。
 すると、田澤の声が突然、真剣なものに変わった。

「沢渡課長、打ち合わせの前に、三島さんをここに呼んでいただけませんか」

 沢渡が息を飲む。

「……三島が、どうしたんだ?」

「御社の、企業理念に関わることです」
「……本題は、ご本人が来てからお話しします」

 ただならぬ気配に、里沙子に目で合図を送ると、慌てて会議室を飛び出した。
 その足で、談話室の扉を開けた里沙子は、人差し指を口の前に立て、視線を横に流した。
 志織もまた、どこか決意の籠った表情で首を振り返す。

 やがて里沙子に伴われた、三島が入室する。

「お呼びだそうで」

「お前……何をやらかしたんだ?」

 あっけに取られた三島だったが、自分に向けられる視線に気付き、顔を向けると田澤がそこにいた。

「田澤さん、今日もうちでしたか?」
「本当、ご苦労様ですね」

 田澤は返事をせず、胸ポケットからある機械を取り出した。
 当時、市場に出回り始めたICレコーダーだ。
 すかさず再生ボタンを押す。

『ほんと志織って、清楚なふりして——』

 すかさず停止。
 場の空気が一瞬で凍りついた。

「私、なんでもかんでもメモするもんだから」
「訳がわからなくなる時があるんです」
「便利なものができましたよね」
「先日、御社の喫煙室で、試運転してたら、なんとも聞くに絶えないものが入っちゃってね」

 ひらひらとレコーダーを向けると、三島は額に汗を滲ませていた。
 沢渡は二人に交互に視線を移す。

「……一体、なんの話をしていたんだ?」

「人の尊厳を、相当貶める内容ですよ」
「正直言って……」

 きっ、と三島を睨みつけた。

「……胸糞悪いんだよ、あんた」

 里沙子は顔を赤くして、目も充血している。
 沢渡はこめかみを押さえた。
 三島は肩をすくめる。

「でもこんなの、ただの雑談じゃん」
「下ネタだよ」

 沢渡は低く息を吐いた。

「……もうすぐ21世紀だぞ、そんな言い分が通る時代じゃない」

「それを、わざわざ取引先の前で言いますか?」
「御社の品性、疑います」

「耳が痛いな」

 沢渡が頭を抱えて短く吐き捨てると、三島が舌打ち混じりに笑った。

「やること汚ねえよ、録音とかよ」
「んなこと言って、アンタもそれ聞いて喜んだんじゃねえの?」

 田澤の肩が、ぴくりと跳ね、握った拳が机の下で震える。

「やんのか? なんなら外出るか?」

 その瞬間、沢渡が声を張る。

「やめんか!社会人だろ?」
「……それに、そんなことしたら……」
「お前、殺されるぞ」

 三島は吹き出すように笑いだし、また蔑むような目を田澤に向ける、しかし、この日はいつもとは違っていた。

「何言ってんすか。こんな根性な——」

 一瞬の出来事だった。
 田澤が、襟首をつかんで引き上げたのだ。
 沢渡が、ため息をこぼした。

「彼は空手の有段者だぞ」

「はあ?」

 三島の声が裏返ると、田澤は薄く笑い、口を開く。

「……インターハイも、行きました」

 今度は笑みが消えて、鋭い眼光に、重い低い声がこぼれた。

「あんた、板切れみたいに、粉々に、しちゃろうか?」

 シャツの襟首が、ギリギリと音を立てて搾り上げられて行く。

 がくがくと震え始めた三島を見て、またにやりと笑い、椅子に向かって投げつけるように手を離した。

「なんてね」
「あんた殴ったら——俺、やばいことになりますから」 
「あんた、素人だから」

 言葉を失っている三島に、田澤は休ませることなく畳み掛ける。

「これは明らかな侮辱行為による名誉毀損です」 
「立派な……犯罪ですよ」

「そうだな、お前、その時誰に話してたんだ?」

「……田崎です」

「片桐、田崎を呼んできてくれ」

「わかりました」

 里沙子は返事だけ残し、三島を一度だけ鋭く睨みつけて退室した。

 もう一度、談話室の扉を開ける。
 今度は、先ほどよりも赤い目で、より勢いよく首を振るが、志織は、決意の籠った表情で頷くだけだった。

「犯罪? そんな馬鹿な」
「名誉毀損っつったって、嘘言ってねえし」

 田澤は、間髪を入れない。

「本当の事でも、他人を貶めることを、流布するのは名誉毀損ですよ」
「しかも、内容が、全部本当なら、あんたは……」
「強制わいせつかな?強要罪かな?下手をすれば……」
「強姦罪の自白をしたわけだ」

「なんだと、お前…」

 沢渡が、奥歯を噛み締めながら、三島を睨みつける。

「そ……そんなこと……言ってねえよ!」

 すると、また田澤がレコーダーを掲げてほくそ笑んだ。
 三島の体が、わなわなと震え始める。

「っざけんじゃねーよ! あんたは盗聴じゃねえか!」

「さっき、言いましたよね」
「試運転だって」

「ふざけんじゃねーよ!」

「それしか言えないんですか?」

 ほんの少しだけ首をかしげた。

「語彙力が、ないですね」

 三島は怒りで紅潮しながらも、その目は泳いでいた。
 そして、苦し紛れに口を開く。

「あー、わかった、はいはい、仕返しか?」
「だったらさ、俺のおもちゃ、あんたにやるよ」「あいつは俺のモンだから、なんでも言うこと聞くから言っとくよ」

 その瞬間、眉間に深い皺が刻まれ、目も血走り始める田澤。

「……もういっぺん、言うてみい」
「あの人は、モノやなかろうが?」

 ちょうどその時、扉が開いて、里沙子と田崎が入室する。

「だめだ田澤君! 挑発に乗るんじゃない」

 沢渡の声が飛ぶが、三島は止まらない。
 むしろ愉悦に満ちた笑みを深めた。

「志織は俺のおもちゃなんだよ」
「こないだポイしたけど、いつでもまた拾える、おれの従順なおもちゃ……」

 田澤の拳が、小刻みに震え始めた。

「その頭……ぶち割ったる、覚悟せえ」

 一歩踏み出し、顎をしゃくりだす三島。

「やってみろよ! 手を出したらやばいんだろ?」

 沢渡に羽交締めにされながら、田澤は声を震わせた。

「あの人を、踏み躙ったお前を……絶対に許さんけえの!」

 その刹那、乾いた音が会議室に響いた。

 ――パチン。

 三島の頬が横に弾ける。
 打ったのは里沙子だった。

「あんた、それでも人間なの?」

 震えながらも、まっすぐ睨み据える。

「あんた、あの子と付き合ってたんでしょ?」
「なんで田澤さんがあんたに言わなきゃいけないの?」
「本当は、こういうことは、全部あんたが言うべきことなんじゃないの!?」
「田澤さんとあんたじゃ、人間の質が違うんだよ」

 田澤は一瞬、ぽかんとした顔をした。
 里沙子が向き直り告げる。

「私と多辺は、同期で親友なんです」
「あの娘のために、志織のためにありがとうございます」

 三島は頬を押さえながら、里沙子を見る。
 沢渡が腕を組んだまま、田崎に視線を投げた。

「田崎。お前、三島と――多辺君のことを、随分不適切な会話をしてたんだって?」

 田崎は顔色を変え、慌てて首を振る。

「い、いや、それは……主任が一方的に……」

「おい!」

 沢渡は動じない。
 ちらっとICレコーダーに目をやり

「お前が証言すれば、こんな証拠は――少なくとも社内的には必要ない」

「そんな!」

 三島の声が裏返ると、その横で、里沙子が一歩前に出た。

「私も人事に行ってきます。手を、出してしまったので」

 沢渡は眉ひとつ動かさず、首を傾げる。

「さあ? そうだっけ?」

 視線だけで田崎を見る。
 田崎は、無言のまま、首の動きだけで答えた。
 沢渡は満足したように息を吐く。

「……だ、そうだ」
「君は行く必要はない」

「三島、早くしろ。田崎、連れていけ」

「いやだ、俺どうなるんですか?」

 情けない声が出ると、沢渡の目が鋭く細まった。

「いい加減にしろ!」
「こんな話が内外に広がってみろ」
「会社の良識や品格が地に落ちる」

 三島に詰め寄った沢渡は、その顔をじっと近づけて凄む。

「お前は……会社を潰す気か?」

 三島の顔から血の気が引く。
 何か言い返そうとして、言葉が出ない。
 視線を逸らし、乱暴に踵を返した。
 田崎も慌てて後を追い、二人は退室した。

 志織は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、談話室のドアノブに手をかける。
 何度も涙を拭いたであろう、赤い目で。

 扉が乱暴に開き、三島が廊下へ出て来た。
 遅れて田崎も、続く。
 数歩進んだところで、三島が振り返り、田崎の胸元を掴みそうな勢いで顔を寄せる。

「余計なこと言うなよ、てめー」

 すると、田崎も負けじと睨み返した。

「……あんた、ええかげんにせえよ」
「上役やから、言うこと聞いとったけど……」
「あんた、存在自体が迷惑なんや」

 思わぬ反抗に、言葉を失ったその時、談話室の扉が静かに開き、志織が出てくる。
 三島が一瞬、固まり、志織は田崎に視線をむけた。

「田崎くん、ありがとう」
「人事、私も、一緒に行くから」

 体が小刻みに震え始めた三島を、志織は一瞥した。

「言ったよね、あんたじゃ、あの人の足元にも及ばないって」
「それと」
「私、決めたから、あんたを訴えるから」

 三島の眉が跳ねる。

「は……?」

 志織は目を逸らさない。

「私さ、ずっと日記つけてたの」
「あんたに言われたこと、やられたことも、やらされたことも、全部」
「それ、証拠になるみたいだから」

 三島はその場に勢い良く、両手をついて、顔を床に擦り付ける。

「悪かったって……ほら、ちょっとやりすぎただけだって」

 媚びへつらうように、涙目になりながら、懇願を始めた。

「……なあ、ほら、男なんだし、自分を大きく見せなきゃって……なあ、わかってくれよ」

 志織は、無表情で見下ろしている。

「ほら、なんだかんだ言って、まだ俺が好きなんだろ?あんなに愛し合ってたじゃん?また、気を引いて……戻って欲しいだけなんだろ?」

「まだ言うの?あんた」
「そんなわけ、ないじゃん」

「……志織!なぁ、志織ぃ……」

 足元で喚く三島に、ゆっくりと言葉を落とした。

「あの人に、あんな思いさせたあんたを」
「私、絶対許さないから」

 いつしか、数名の社員が様子を伺っていた、やがて田崎の合図で、複数人に無理矢理引き起こされて、泣き喚きながら人事に連行されて行く。
 もはや、いつもの傲慢さは完全に消え失せていた。

 志織はゆっくりと視線を上げた。
 閉まったままの会議室の扉。
 その向こうにいる人の姿が、はっきりと浮かぶ。
 胸の奥がじんと熱くなり、ほんの少しだけ目を閉じた。

 ――ありがとう、田澤くん。

 瞼の裏に、かつての姿が浮かび、一筋の涙が頬を伝う。
 やがて、目を開くと、自分も後を追うのだった。

 会議室で沢渡は、苦笑して田澤を見ていた。

「見苦しいところを、見せちゃったね」

 そして少しだけ声を落とし、内情を吐き出すように言う。

「君のおかげで、やっとあいつを放逐できる」

「お役に立てたのなら、よかったです」

「いやあ、普段温厚なやつを怒らせたらいけない、てのは本当だね」

「お恥ずかしい話です。今日は取り乱して申し訳ありません」

 沢渡は、手のひらで軽く制した。

「あいつも、会社に入った頃はあんなんじゃなかったんだけどな」
「真摯に仕事に向き合っていたんだ、バブル真っ最中でなまじ仕事ができる分、独占欲と支配欲に取り憑かれてしまった」

「多辺さんはきっと、あの人の真摯な部分を信じてたんじゃないですか?」

「いや、まあ、それもあるだろうけど、結局彼女は、自分が信じた自分を、信じたかったんだろう」

 田澤の脳裏に、あの最後の別れの日の志織の言葉が響く。

(あなたの人生が、私みたいな人間と同じ価値があるはずない)

 その言葉を胸に刻み、そっと視線を落とした。

「そうですね、思いが強そうな方だったんで」

「そうなんだよなあ、でも田澤君、君は多辺君と何かあったの?」

 田澤は恥ずかしそうに、笑顔を作る。

「実は少々……というか、かなり憧れていまして」

「なんだ? 言ってくれたら繋いであげたのに。君だったら安心して紹介したのに」 

 田澤は小さく首を振る。  

「私では、きっと無理だったでしょう。私はあまり配慮の足らない人間なんで」

 沢渡の隣に座る里沙子が、心底残念そうに長いため息をこぼした。

 そして、田澤がまた意を決したように、話題を変える。

「それから、私、退社することになりまして」
「次回は引き継ぎの者を連れてきます」

「え? 辞めちゃうの?」

「はい、やりたい仕事がありまして」
「その準備と勉強をしたくて」

 沢渡は残念そうに笑った。

「君はおっちょこちょいだけど誠実だし、仕事は遅いけど丁寧だから信頼してたのに」

 田澤は、その言葉を受け取るように頷いた。 

「ありがとうございます」

「では、打ち合わせを始めましょう」

 そう言って、淡々と資料を机に並べた。

 人事課のフロアを出ると、廊下の空気が少しだけ違っていた。
 さっきまで胸の奥に張りついていた熱が、歩くたびに冷えていく。

 志織は、談話室に置き忘れた源泉徴収票を取りに戻ると、それを手にした里沙子と鉢合わせた。

「……帰って、なかったんだ」

「うん、人事、行って話して来た」

「全部……聞いてた?」

 志織は小さく頷いた。

「……あの人、田澤、さん?」
「なんで、私のことであんなに一生懸命になってくれたのかな?」

「なんでも、あんたが気になってたんだってさ」

 志織の胸が弾む。
 あの時、田澤の才能に魅せられて抱いた、恐怖や不安が薄れていくのがわかった。

「それくらいで……あんなになるかなあ?」

 里沙子が肩で息をするように、言葉を出した。

「沢渡課長、あの人をあんたに紹介しようとしたら、断られたって言ってたよ」
「あんたも、惜しいことしたね」

 志織は視線を落として、無言で頷くことしかできなかった。
 里沙子が少しだけ目を泳がせて、封筒と細長い機械を差し出した。

「あんたにって預かったの」

 志織の指先が、反射で受け取る。

「これ……」

「うん」

 里沙子は、真面目な顔になった。

「訴えるなら証拠になるから、辛いだろうけど必ず確認してくれって」

 レコーダーを握りしめると、掌の中でずしりと重い。
 胸の奥でだけ、名前を呼んだ。

 ――田澤くん。

 里沙子は、志織の顔を横目で見た。

「あの人、彼女いないんだって」
「いいなあ、私、行っちゃおうかな?」

「それはダメ!」

 間髪入れず声にだしたあと、我に返って口元を抑えると里沙子が意地悪く笑った。

「あんた、絶対、田澤さんと何かあったでしょ」

 言葉が出ないまま、視線を落とした。

「……」

 里沙子は肩をすくめて、軽く笑う。

「まあ、いいや」
「私、今夜マスターの所に朝までいるつもりだから」
「気が向いたら、おいで」

 志織は小さく頷いた。

「……ありがとう」

 志織の掌の中で、レコーダーだけがずっと熱かった。 

 帰り道、田澤は人通りの少ない歩道で立ち止まり、携帯電話を取り出した。

「田澤です」
「はい、順調に良い方向に進んでいます」
「申し訳ありませんが、私は予定どおり、このまま直帰します」

 受話口の向こうで、上司の声が間髪を入れずに返ってくる。

『違うだろ、これから大仕事が待ってる』
『社長から通達だ、会見ではちゃんと社名を出すんだぞ』

「承知しました。努力します」 

 夕方。
 カーテン越しの光が、田澤の部屋を橙色に染めている。
 机の上にはワープロ。
 使い込まれたキーの角だけが、少し擦れていた。

 その横に、封を切られた封筒がひとつ。

 印字された差出人の行に――

 『全日本映画協会』

 の文字があった。 

── 第10章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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