第九話 確約を得ず
昧爽の空は俺達の窮地など関係なく、晴れがましく、和やかだった。青空に地上から昇る幾筋もの煙が溶けている。
通常の行軍ではあと二日ほどかかる場所で、禁軍は宿営をしていた。開けた台地に簡易な柵が張り巡らされている。朝食の用意が始まっているらしく、煮炊きの煙がそこここに見られた。かすかな人声も漏れ聞こえる。
俺は馬に乗ったまま、宿営地の入り口まで勢いを緩めることなく駆けた。にわかに門の辺りが騒がしくなる。
兵士が数名立ちはだかり、剣先をこちらに向けた。
「何者だ?」
誰何する声は厳しく、兵士たちは警戒心をあらわにしている。
俺は懐から懐中時計を取り出し、先頭の兵士に放った。
「参謀本部所属、ハヤシヒデノリ作戦参謀少佐。グナエウス・グロウメルス・カト及びユーリア・コルネリウス・アルビウス両中将の命を受けて、軍団合流地点から参上した。皇帝陛下に至急ご報告しなければならないことがある、取り次いでもらおう」
兵士たちは明らかに戸惑った様子だった。時計を確かめていた兵士が答える。
「確かに身分を確認いたしました少佐。しかし、皇帝陛下の謁見と言われましても……」
俺はじれったくなって叫ぶ。
「この陣にはフメリニウス・クィントゥス・ファビウス作戦参謀大佐がいるはずだ、彼を呼べ」兵士たちはなおもまごついている。俺は怒鳴りつけた「何をしている、兵卒ども。さっさとしろ。走れ」
後方の二名の兵士は慌てて走り出した。先頭の兵士が時計を返してくる。彼は他の兵士に比べ落ち着いていた、年齢からして軍務に就いて長いのも推量できる、彼が現場責任者なのだろう。
「何かあったようですな」
「ああ、大ごとだ。貴様もすぐ知ることになる」
俺はそれだけ言うと、視線を空に向けた。大神ヘリオガバルスは日の沈んでいる時間は女神だが、日が出ている時間は男神であり、その時は戦争を司る。ここは帝国の地、ヤマトの主神であるヤマトノ国魂神より、彼に祈った方が効き目がありそうだ。ヘリオガバルスよ、何の頼りもない作戦参謀少佐にお力添えを、願いが叶った暁にはヤマトの干物でも捧げます……。
しばらくして兵士たちが戻ってきた。
門から姿を現したのは灰色の髪を固めた壮年の男、俺の直属の上司であるファビウス作戦参謀大佐だ。
「ここで貴官の顔を見ることになるとは思わなかった」大佐は大袈裟に驚いた仕草をした。この大仰な態度が彼の本心を隠すための偽装手段だ「何かあったのかね」
俺は馬を降りて敬礼する。
「はい、大佐。問題が起こりました、非常に繊細な問題です。皇帝陛下の指示を仰ぎたいと思います」
「まずは私に報告するべきだと思うが」
「小官もそう考えます。しかしながら、グナエウス・グロウメルス・カト及びユーリア・コルネリウス・アルビウス両中将より皇帝陛下に直接ご報告申し上げろと厳命されております。何卒お許しください」
大佐は顎に手を当て、首を傾げている。
大佐に考える隙を与えてはならない。俺は言い募った。
「大佐、事態は分秒を争います。いますぐ陛下に拝謁を許していただきたく。カト中将、アルビウス中将に手を掴まれ頭を下げられ頼まれたのです」
嘘も方便だ。
「ふむ、構わんよ。両中将がそこまで言うなら」
大佐はいとも簡単に首肯する。もう少し問答があるかと思ったが、肩透かしを食らった気分だった。
俺は大佐につられて陣中を進んだ、進むほどに警戒中の兵士が多くなる、彼らは我々に鋭い目線を向けていた。ただ皇帝にのみ忠誠を誓う禁軍の兵士にとっては参謀本部の将校だろうが心を許す理由はない。
俺たちは宿営地の中央に円形に張られた陣幕の前で止まった。
「ここで少し待て」
大佐はその中に姿を消した、なかなか戻らない、頭上で雲が流れていった、金粒より貴重な時間が過ぎていく。だが、落ち着かなければ。
ようやく大佐が戻って来た。
「陛下は進言をお許しになられた、私の口添えのおかげだぞ。感謝してくれ」大佐は快活に笑う「ついてこい」
幕をくぐって進むと、さらに陣幕が現れる。その前に椅子が置かれ、将官や官僚が座していた。陣幕に面する位置の椅子には、宮廷長官、禁軍司令官、そして皇帝の家庭教師であり相談役でもある老哲学者が控えていた。彼らは疑わしい目で俺を見ている、属州出の少佐が皇帝に拝謁を望むのは烏滸がましいとその目は言っていた。俺は表面上は動じることなく、その視線を受け止める。内心は緊張で張りつめ、身体は吐き気を催していた。だが、やるしかない。
俺は大佐に促されて、陣幕の十歩ほど前で跪いた。この陣幕の内に世界で最も権力を持つ人間が隠れている。彼は俺の報告に耳を澄ましているはずだ。俺は首を垂れて言葉を発する。
「この世界で第一の御方に拝謁の許可をいただきまして恐懼の至り。臣はハヤシヒデノリ作戦参謀少佐であります。グナエウス・グロウメルス・カト及びユーリア・コルネリウス・アルビウス両中将の命を受けて、軍団合流地点から火急の件について御報告するため参上いたしました」
「頭を上げたまえ、大佐に聞いたが分秒を争うのだろ?」
老哲学者が言う。
「恐悦至極」
俺が頭をあげると宮廷長官の鋭い視線にぶつかる。
「報告というが中将からというのがそもそも解せんな。二人の大将はどうしたのだ」
彼は厳しい口調で言った。
「はっ、両大将は陣に合流しておりません。確証はありませんが、得られた情報から考えると戦死したものと思われます」
俺の言葉に陣が騒がしくなる。居並ぶ者が隣の者と小声で何かをささやきかわす。
あえて衝撃的な情報から報告し、続きを聞かざるを得なくした。ここからが勝負だ。
「何があったか報告しろ」
動揺する宮廷長官が言葉を発する前に禁軍司令官が俺に命令した。
俺は、二軍団合流予定時刻を過ぎても到着しなかったこと、斥候の未帰還とその全滅を確認したこと、そしてエンヴィルの裏切りが発覚し、彼女が衝撃的な事実を発して死んだこと、その他、合流地点で判明した内容を説明した。
幕内は静まり返った。宮廷長官は顔を引きつらせている、老哲学者は瞑目し溜息を吐いた、禁軍司令官だけが表情を変えず落ち着いた態度で座している。
「……なるほど、我々は速やかに撤退する必要があるようだ」
老哲学者が静かに呟く。
「いえ……いえ。グナエウス・グロウメルス・カト及びユーリア・コルネリウス・アルビウス両中将及びハヤシヒデノリ作戦参謀少佐は皇帝陛下にご進言申し上げます。二軍団は合流地点にて防衛戦の最中です」
俺は居並ぶものに宣言した。
「至急、禁軍に来援をいただき、かの地で蛮族どもと決戦を行いましょう。これぞ帝国を救う唯一の策です」
皆が驚愕の表情を浮かべる、数瞬後、驚きは怒りと批難に変わった。
「貴様は自分が何を言っているのか分かっているのか!」宮廷長官の顔は激怒で真っ赤になっていた「皇帝陛下を勝敗が不確実な戦場に引きずりこもうとしているのだぞ!」
昨夜のアルビウスの言葉と同じだ、俺は宿営地での軍議の様子を思い出していた。
「小官は両中将に具申します。我々はここで防衛戦を行い、禁軍に至急の来援を要請するのです。これが最善の策と愚考します」
天幕が静まりかえった。皆が俺の言葉の意味を掴みかね、ゆっくりと咀嚼している。しかし咀嚼が終わったあとの反応は激的だった。
「断固拒否(ノン・ポスムス)!」アルビウスが怒号を発した「貴様は自分が何を言っているのか分かっているのか。二個軍団が全滅、敵のことは氏族と数しか分かっていない、そのような状況で皇帝陛下の来援を願うだと? ふざけたことをぬかすな!」
軍団の別なく将校たちがアルビウスの言に同調して俺を散々に罵る、愚か者、不忠者、能無し……能無し? 俺はエンヴィルの言葉を思い出す。死んだエンヴィルよ、見ているか。俺はこの提案でお前の評価を覆すつもりだ。
この反応は予想ができていた、援軍により兵数を敵に匹敵させて決戦、これはむしろ、軍事の常道、しかし彼らがこの案を思いついた様子はまったくなかった。なぜか。それはアルビウスの態度が示すところが答えだ。帝国生まれの彼らにとって皇帝は至尊の存在。その身を危険にさらすなど、そもそも発想の外。これは比較的最近に帝国に組み込まれた属州の出身者ではなければ、言ってしまえば、心の中ではけして陛下と敬称を使わず、皇帝と呼ぶような人間でなければ思いつかない策なのだ。
罵声に耐えながらカトを瞥見する。カトは他の人間と違って怒りをあらわにしていない、腕を組んで俺の提案をじっくりと検討している様子だった、良い兆候だ。ここから俺の提案を通すにはカトの協力が必要なのだ、冷静さを失ってもらっては困る。
俺は大声張り上げる。
「カト中将が陛下のお命を守るため殿軍を務めようとされているのは理解できます。しかしアルビウス中将の言うように、軍団の損失による皇帝権威の失墜は防がねばなりません。でなければ誰かが皇帝位の簒奪を狙うかもしれない」アフリカヌスがとはさすがに言えない「そうなれば、最悪の場合、帝国内戦です。そのような事態はなんとしても防がねば」
長机を叩く「恐れながら両中将の提案では、陛下の生命、陛下の権威の両方を守ること能わず。しかるに、小官の策はいかがでしょうか」いつの間にか天幕が静まっている、皆が黙って俺を見つめていた「ことは単純な足し算、軍事の正道です。第四軍団、第十二軍団、合わせて一万六千人、禁軍は一万二千、合算すれば、二万八千の兵力、蛮族とほぼ同数です。加えて禁軍は精鋭を集めた、帝国において……いえ、世界最強の軍団です。第四軍団、第十二軍団も実戦経験が豊富な歴戦の軍団、これらが合流できれば、敵集団に後れを取るとは思えません。我々の勝利は約束されたようなもの、陛下の身に危険は及びません」俺は最後の一押しをする「この決戦に皇帝陛下が勝利すればどうなるでしょう? 二個軍団を壊滅させた蛮族連合を初陣の御親征で撃滅した……陛下の御稜威は帝国全土に轟きます。これが私の提案する陛下の生命と権威も守る起死回生の策です。何卒ご認可いただきたい」
「お前の提案は穴だらけだ!」アルビウスは激情をあらわに叫ぶ「エンヴィルは敵数を三万と言ったが、蛮族が奴に全ての情報を打ち明けていたかは分からない、いや、エンヴィルを信用しきっていないために数を偽った恐れは十分考えられる、明日の朝この陣を取り囲んでいる蛮族が倍の六万だとしても私は驚かない。加えて、二つの軍団を撃滅したことから考えても敵の強さは侮れないではないか、質の点でも我々が彼らを凌駕している保証などどこにもない」彼女は同意を求めるように室内を見渡した、諸将が頷く「これはすでに勝利が約束された安全な御親征ではない、明日の命が保証されない危険な戦場だ。そんな場所に陛下を招くなど断じてありえない。少しは見所のある軍人かと思ったが、とんだ見込み違いだ。所詮は属州出の蛮人か。皇帝陛下は至尊の地位にあるお方、万が一にも危険にさらすわけにはいかないと分かっていない。重ねて言おう。断固拒否(ノン・ポスムス)!」
アルビウスの反論に勢いを得て、将校たちが次々と反論の声をあげる。俺はその一つ一つに耳を澄ませていた。その反論の中に、俺の提案が認められるための決定的な要素が紛れ込むことを、俺は確信をもって予期していた。その発言があるまで、俺は傲然と胸を張り、批判を黙殺する。
そして。
第四軍団の騎兵大佐が唾を飛ばしながら俺が待っていた台詞を言った。
「そもそも我々が来援を要請しても皇帝陛下が危険を冒してこの場に来る可能性は限りなく低いではないか、その程度のことも分からんのか!」
俺は静かに大佐を見つめた、内心を喜色に染めながら、大佐は俺の視線にたじろぐ。その言葉を待っていたのだ。
「なるほど、大佐の発言はごもっともです。確かに、我々がこの陣で皇帝陛下の来援を待ちながら必死の防衛戦を戦っていたとしても、陛下が要請を断っていた……という事態は十分考えられますね」
そう言って俺はカトをじっと見た。カトは俺の視線の意味が分からず怪訝な表情をしている。
俺は願いを込めて視線をカトから離さない。気付け、カト、アンタなら、俺の提案の利用価値が分かるはずだ。俺と取引をしよう。
カトは大きく目を見開いた。ゆっくりの口の端が吊り上がる。彼は椅子を倒しながら立ち上がった。大きく溌溂とした声が天幕に響き渡る。
「ハヤシ少佐の献策を至当と認め、第四軍団グナエウス・グロウメルス・カト中将の名において陛下の至急の来援を要請する。陛下が到着するまで我が軍団はここで防衛戦を敢行する。今すぐ兵士たちを叩き起こし防御陣地を形成しろ、技術将校、投石機も組み立てを急げ!」
将校たちが息を呑んだ。
「何を言っているカト中将!?」
アルビウスが悲鳴に近い声をあげた。明らかに狼狽している。
「陛下の安全が最優先だと言っていたのは貴方ではないか」
「考えを改めた。我々は陛下のお命だけでなく、その権威をも守らねばならん。それを満たせるのはハヤシ少佐の立案した計画だけだ」
アルビウスは言葉に窮して立ち尽くす。カトは追撃をかけた。
「さて、第十二軍団は如何する? 各軍団長には独立した権限がある。私と行動を共にする必要はないが」
アルビウスはしばらく呆然としていたが、目をかっと剥いた、怒りで形相を一変させる。射殺すような瞳でカトを睨んだ。
「貴様……」そして俺を見る、憎悪に燃える瞳で「貴様らあ」
彼女は気づいたのだ、カトが皇帝に来援を願うとどういうことになるか。
その場合、第十二軍は撤退が不可能になる。もし皇帝が援軍の要請に応じたならば、軍団はその時、防衛戦の最中でなければならないのだ。もし、皇帝が来援したのに第十二軍団は撤退中などということになれば、間違いなくアルビウスは敵前逃亡により軍法会議で処分される、彼女の氏族にも累が及ぶかもしれない。
カトの理想は、皇帝軍に援軍要請を行い第四軍団及び第十二軍団がこの陣地で防衛戦を決行、そのうえで援軍要請は却下される、という展開だ。結果的に第十二軍団を殿軍に巻き込め、皇帝陛下の撤退が安全のうちに行われる。
大佐が言った通り、俺の提案が皇帝の幕僚に承認される可能性はけして高くない。カトはそれを諒解したからこそ俺の提案を受け入れた。確かにこれはカトにとって一種の賭けだ、それにもし皇帝が来援の要請を受諾したのならば、それはもはや皇帝の意思だ。彼は忠実な帝国軍人として勝つために戦うだろう、やることはさして変わらない。だからカトはこの提案を呑んだ。
アルビウスは俺達の真意を理解した……だが、取りえる手段は何もない。この最後の軍議における勝者は俺とカトで、敗者はアルビウスだ。それはもはや覆らない。
アルビウスはしばらく俺たちを睨んでいたが、我慢ならずといった体で悲鳴とも怒号ともつかない叫びをあげた、そして拳を天板に叩きつける、拳を中心に長机は真っ二つに破砕された。大理石の細かい粒子が彼女のかんばせを隠す。
粉塵が収まる頃にはアルビウスは威儀を正している、彼女は血に染まった拳を拭いもせず告げた。
「失礼。いささか動転していたようだ。お見苦しいところを見せたね」いつもの気だるげな態度を取り戻している。「第十二軍団軍団長、帝国中将ユーリア・コルネリウス・アルビウスはハヤシ少佐の進言を受け入れ、カト中将と連名で皇帝陛下に来援の要請を行う、よろしいかカト中将?」
「無論だとも」
二人は笑みを浮かべた、勝者の勝ち誇る笑みと敗者の破れかぶれの笑みがぶつかる。しかし、決着を見た彼らの表情はどこか爽やかで相手に敬意を払っているようにも見えた。
俺はこの陣に来て初めて気持ちがすいた。両中将相手に俺の意を通したのだ、胸が騒いで、指先が熱い、これが勝利の感覚か。
「さて、ハヤシ少佐」カトは俺に向き直る、その視線に精神が引き締まる「事は重大だ、すでにこの陣が蛮族に囲まれている恐れもあることも考えると、伝令兵は50名ほど送り出そうと思う」彼は不思議な笑みを浮かべる「だが陛下の幕僚団がこの作戦に抵抗を示すことは容易に想像できる、彼らを説得するのなら貴官でなければ難しいだろうな。分かったなら、早急にこの陣から出発したまえ。健闘を祈る」
そして、いま俺は皇帝の陣にいる。
皇帝の幕僚の非難と拒絶の声に、両中将を前にした時のように自らの策の利点を主張する、俺は自説の正しさを粘り強く説く。だが昨夜と今朝の会議では明らかに異なる点がある、それはカトを味方につけることができたような、討論に勝ち抜くための要素を今の俺は手中にしていないという事だ。
議論は続いたが形勢は俺の不利だった、彼らは俺の献策を認めるつもりが毛頭ない。やはり、俺は勝利者にはなれないのか……すぐ目の前に待つ敗北を悟って目の前に暗闇が広がっていく。
「話にならん、議論はここまでだ、急ぎ撤退しなければ。禁軍司令官、指揮をお願いする」
宮廷長官がしたくもない議論を打ち切るため、大声を出した。
俺は叫んだ。
「伏してお頼み申し上げます! 二軍団は陛下の来援を待ち望んでおります!」
宮廷長官が叫び返す。
「黙れ!」
「いや、長官。貴公が黙れ」
その声が陣幕の奥から響くと周囲は静まり返った、けして大きくはない若い声だったが、他人を圧する響きを含んでいる。
幕が割れ、一人の青年が姿を現す。紫の寛衣を身に纏い、頭上には貴石を嵌めた黄金の帝冠、右手には自身が帝国総軍の司令官であることを表す短い指揮杖を持っている。
ルーム帝国五代目皇帝、ネロ・ユリウス・カエサル・アウグストゥス。その人だった。
彼は俺に目を向けた、その白皙の美顔には皇帝の責務からくる疲労のためか濃い隈が浮かんでいる。しかし、その目は16歳の青年らしく強く輝いていた。
「ハヤシ少佐、話は聞いていた。貴公の忠心を嬉しく思う。私は貴公の献策を要れようと思う」
宮廷長官は落ち着き払った態度で進言した。
「陛下、臣は反対です。御身に危険が及ぶかもしれません」
皇帝も落ち着いて答える。
「そなたの危惧は分かる。しかし、帝国を救うにはこれしかないのではないか」幕僚たちを見回す「初陣の親征で四個軍団を失うとなれば、皇帝の権威を維持できない。そうなれば、別の誰かを皇帝に担ぎ出そうと考える不埒な者も出てくるだろう。帝国を二つに割っての争覇戦などという事態が生じれば、罪のない命が多く失われる。それは許容できない」
俺は彼の態度に皇帝としての義務感だけではなく、若者らしい分別のない高潔心を見た。彼はまだ夢の世界に生きる若者なのだ、俺はそれを利用する。
「陛下のおっしゃるとおりであります、ただいま防衛戦を敢行中の兵士達は陛下と帝国を信じております」
「うむ、その期待を裏切るわけにはいかない」
皇帝は頷いた。そして禁軍司令官を見る。
「よもや負けるとは言わんだろうな、司令よ」
禁軍司令官は深々と首を垂れた。
「ただ勝てと御命じください、御身に勝利を捧げます」
「よし。皇帝として命じる、ただちに第四軍団、第十二軍団の来援に向かう。さあ、かかれ」
将官は皇帝の命令を受けてすかさず立ち上がり行動を始めた、官僚たちもそれに続く。宮廷長官が去りざまに俺の顔を瞥見したが、意外なことにその顔に怒りは見受けられなかった。
「ハヤシ少佐」
ファビウス大佐に肩を叩かれる。
「さあ、忙しくなってきたぞ。貴官も手伝ってくれ」
俺はファビウス大佐に連れられて参謀本部用の天幕に移動した。
「思い切った提案をしたなあ」
彼は従卒に用意させたコーヒーを俺に勧めながら、感心とも呆れともつかない声音で言った。
「申し訳ありません、火急の事態でしたので、事前に大佐に相談することも出来ず」
「いやいや、相談してくれなくてよかったよ。相談されていたら止めざるを得ないからね」
彼は笑いながら言った。
「貴官の献策は、帝国を救うための最善。しかし、上官としては承認できない類のものだ。貴官と両中将が全ての責任を被ってくれるなら有り難いよ」
随分率直にものを言う人だなと呆気にとられる。
「参謀本部としても、貴官の提案を正しいと認めるだろうよ」
「しかし、陛下を危険に晒す策には変わりありません。果たして、これでよかったのか」
「なんだ、分かっていなかったのか」大佐ははっきりと侮蔑的な笑みを浮かべた、俺は彼の真の表情を見た気がした「陛下が敗死すれば、皇位継承権第一のアフリカヌス殿が何の諍いもなく皇帝に即位する。それだけではないか。帝国の安全は守られる」大佐は身を乗り出す「参謀本部は皇帝陛下に忠誠を誓っているが、戴く皇帝を選ばんよ」
あはははは、と大佐は高い笑い声をあげた。
俺は足元に穴が開いた気分だった。
帝国の上級将校たちはどいつもこいつも化け物どもだ。果たして俺はこの世界でやっていけるのだろうか。
「さあ、我々も幕僚として活躍しなければな、いまはネロ陛下が我々の皇帝なのだ、全力で尽くさねばならん。いくぞ少佐」
天幕を出ていく大佐を追いかける。そうだ、泣き言を言える立場ではない、俺はこいつらの背中に何としても追いつかねばならない。
俺は決意を新たにした。
強行軍により、同日の15時ごろ、軍団合流地点に禁軍は到着した。
我々は勝った。記録的な大勝利だった。
最終話 真実を得ず
首都ルームの郊外に借りた高級集合住宅(インスラ)の自室の牀上で、俺は腕を枕に天井を見つめていた。
先月の蛮族平定を目的とした皇帝親征は四つの部族連合を破り帝国の支配地域の大拡張を果たすという当初の目標を大幅に超えた大戦果で幕を閉じた。
首都で行われた凱旋式では、花弁がまかれた大通りを輿に乗り厳粛な表情をした皇帝を先頭に進み、目立った功績があった将官が馬に乗って続く。カト、アルビウス、蛮族の族長を打ち取った第十二軍団の中佐、そのあとに続いた俺は民衆から万雷の拍手と大歓声を受けながら、白く輝く真昼の太陽のなかを行進した。
戦いの後の論功行賞で俺はこの度の戦争で四番目に功績のある人間として評価された。万座に居並んだ諸将には何かいいたいことがありたげだったが、カトの強い推薦、そして皇帝から賞賛の言葉が俺に投げかけられたこともあり、彼らは渋々ながら譲歩した。
一夜にして、俺は帝国の英雄の仲間入りをした。ヤマトの有力者からは言祝ぎが届き、帝国におけるヤマト属州人の地位向上がこれで果たされると激賞された。
そして、今まで属州出身の少佐を歯牙にもかけなかった、視界にも入れてなかった連中からの賞賛と阿諛の嵐が俺を待っていた。
帝都に帰還し、凱旋式と祝宴を終えた後、俺は参謀本部に詳細な報告書を提出した。参謀本部はそれを受け取ると、恩賜の休暇を俺に与えた、疲労の極致にあった俺はその期間に骨を休めようとしたが、来客は引きも切らなかった。彼らは俺に利用価値を見出し、関係を構築、なんとなれば自分たちの派閥に組み込むことを狙っていた。自分より社会的な身分の高い者たちが訪れれば、こちらもそれなりの対応をしないわけにはいかない。再び政治的動物どもと相対する羽目に陥り、体を休めるどころではなかった。彼らは贈り物を携えてやってきたが、私に好意を示すのならば、ヤマトへの支援という形でお願いしますとやんわりと断った。
休暇の最終日である今日ぐらいはせめてゆっくりしていたかった、俺は隣に横たわるコルシュの髪を撫でる、彼はされるがままに笑っている、再びこの笑顔が見れて嬉しい、そのために俺は帝国をも運命の天秤にかける危険な橋を渡ったのだから。
だが、いま俺の心はコルシュにはなかった。戦いが終わってから、一つの疑問が俺の胸にわだかまっている。
それは戦いがあまりにも圧勝で終わったことだ。
禁軍が合流地点に到着したとき、二軍団は防衛戦の最中だったが、その戦いは対等、いや正直に言ってしまえば優勢に推移しているように見えた。そもそも敵の兵数が少なかった。エンヴィルがもたらした情報では、敵軍は三万とのことだったが、実際には二万程度しかいないように見えた。
来援がなかったとしても二軍団で勝利を制しえたのでは? そんな疑いが兆すような状況が目の前には広がっていた。
結局、禁軍による二重包囲が完成し、蛮族は殲滅された。敵部族の族長も第12軍団の中佐が打ち取った。万事上手くいった、望みえる最高の結末。それなのに何かしこりのようなものが心に残っている。
そんなことを考えていると、扉が叩かれた。
「ハヤシ様、お客様が見えられていますよ」
集合住宅の管理人の声だった。
「出る?」
コルシュが体を起こそうとしたので手で制す。
「いや、放っておこう。来客の相手は疲れた」
管理人はしつこく扉を叩くが、俺は黙殺した。
扉を叩く音が大きくなる。
「いるのは分かってますよ。お客はヤマトニクス様ですが、お帰り願っていいんですか?」
俺は跳ね起きた。それを先に言え!
慌てて扉を開ける。
「すまん、すぐにお呼びしてくれ。くれぐれも丁重に頼む」
「はい。言っときますけど、今の少佐を訪ねるのなんてお偉方ばっかりなんですから、面倒でも居留守はだめですよ」
初老の女管理人は分別のある様子で説教すると、階下に降りて行った。俺は返す言葉もなく、頭を掻いた。
俺とコルシュは分担して慌てて部屋を片付けた。
部屋に足を踏み入れたティトゥス・フラジア・フラウィウス・ヤマトニクスはコルシュに花束を預けると俺を抱きしめた。日に焼けたたくましい体にがんじがらめにされる。
「よくやった、ヒデノリ君。君は帝国の英雄だ。ヤマトに多大なる貢献をしたぞ」
「ありがとうございます、ヤマトニクス様。お褒めに預かり光栄です」
俺は少し苦しかった。
名前が示す通り彼はヤマトと縁が深い人物だ。
彼の父親であるティトゥス・サビヌス・フラウィウスはヤマト遠征軍の総司令官だった。彼の手によってヤマト全土が征服され、ヤマトは帝国の属州となった。そのため彼の一族にはヤマトニクスの二つ名が当時の皇帝より下賜された。
もっともヤマトは帝国と戦争する不利を悟り、形ばかりの抵抗をした後、すぐに降伏し帝国の支配を受け入れた。そのため、ヤマトニクスの一族は当地において征服者というより庇護者として知られている。
サビヌス・ヤマトニクスは現在、総督してヤマト属州に赴任している。いずれフラジア・ヤマトニクスがそのあとを襲うことは確実視されていた。属州の人間にとって属州総督は皇帝に匹敵あるいはそのうえを行く権威。粗相があってはならない。
「コルシュ、また背が伸びたんじゃないか」
ヤマトニクス様はコルシュも抱きしめた。
「ヤマトニクスは顔黒くなったよ。ヒスパニアは日差しが強いの」
俺は軽い嫉妬が心に立ち上がるのを自覚する。ヤマトニクスは俺より頭一つ半ほど長身で、寛衣から突き出した腕は筋肉に覆われている。少女的な風貌のコルシュと並ぶと似合いの二人といった感じだ。
俺はヤマトニクスに椅子と珈琲を勧めて二人を離した。
「ヤマトニクス様はいつルームに戻られたのですか」
「昨日の夜だ、皇帝府に財務の報告のため帰ってきた」
現在、ヤマトニクスはヒスパニア属州に財務長官として赴任している。
「ヒスパニアはいかがでしょうか」
「なかなか大変だよ、総督があのお方だからな。どうも属州の財政を自分の財布と勘違いしているようだ」
俺は苦笑して同意を示して頷く。
現在のヒスパニア総督は、帝国有数の大物が勤めていた。その苦労は十分に察せる。
しばらく、世間話をした後、彼は切り出した。
「昨日の夜、屋敷に帰ってすぐにカト中将の訪問を受けたよ」
「カト中将ですか」
少し驚く。俺が知る前にカトはヤマトニクスの帰還の情報を掴んでいたわけだ。あの老将はルーム中に情報網を構築しているのだろうか。
「大将就任の祝宴を開くのでぜひ出席してほしいとのことだった、ヒデノリ君も一緒にと。彼は君を評価しているみたいだ」
「それは光栄ですね」
俺が苦々し気に言ったので、ヤマトニクスは笑った。敵と見做されるよりずっとマシだが、評価されるのもそれはそれで苦労する相手、それがカトだともう分かっている。
「先日の戦争についても話し合ったが、彼はナジェ・エンヴィル中佐の処遇が気に入らないとこぼしていたよ」
「なるほど」
俺は頷く。ナジェ・エンヴィルはあの戦いの後、蛮族との戦いで戦死したものとして処理された。理由はいくつかあろうが、大きいのは二つ、彼女を裏切り者として裁くのであればアルビウスの違法な自白魔術の行使が明らかになること、もう一つは、アフリカヌス派の蜂起を誘発するかもしれないこと、どちらも非常に繊細な事柄で、とりあえず問題は先送りされた形だ。
あるいは、いつの日かエンヴィルは裏切り者であったと公にされる時が来るかもしれない。皇帝の支配が盤石となった暁にはそういうこともあり得る。しかしいまではない。
「それとカト中将からこれを預かってきた」
彼は私に四つ折りの紙片を渡してきた。
「中身は一人の時にあらためろとのことだ。じゃあ使いも済んだし私は去るよ」
ヤマトニクスはコルシュの頬に接吻し、帰っていた。
いくらヤマトニクス様とは言え、俺のコルシュに口づけするのは越権行為ではないか。手のひらでコルシュの顔をぬぐうと、彼はにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
コルシュに片づけを命じて、俺は気構えを正すと、貰った紙片を開いた。
そこには住所と男性の名前、最後に、「この者、名医」と付け加えられている。
一瞬考えたがそれが何を意味するか、すぐに思い当たる。
俺の私事に踏み込んできやがって、ジジイめ。しかし、まあ、せっかくの紹介だし一度ぐらい訪ねてみるのも悪くあるまい。
俺はその住所を頭に叩き込んで、紙片をばらばらに裂いて窓から青空に放った。ルームの空は嘘のように澄んでいた。
翌日、参謀本部の庁舎に登庁した。
参謀本部は皇宮からさほど離れてない場所にある。ルームコンクリートで作られた飾り気のない巨大建造物で、拱門の両脇にヘリオガバルスを現す太陽と参謀本部を現す双頭の猟犬が染め抜かれた黒い大旆が翻っている。
建物に入り、自分の仕事場である三階まで昇降機を運ぶよう魔術師に頼もうとしたが、彼は首を振った。
「参謀総長が少佐をお呼びです、五階までお運びします」
「参謀総長が?」
俺は面を食らって立ちすくんだ。
参謀本部は階級によって立ち入れる場所が厳密に管理されている。本来、俺の階級だと三階までしか登れない規則。参謀総長に面会できるような立場でもない。
だが、この度の戦いで俺が果たした役割は大きいし、エンヴィルのこともある。参謀総長が直接俺から何かを聞きたがることもあるのだろう。俺は頷いて、五階まで登った。
5階につくと参謀総長の従卒が待っていた。俺を執務室まで案内する。
音が漏れないように配慮された重厚な扉を開く。
「失礼いたします」
「そ、そ、そこに座れ」
部屋の奥に巨大な机が設置され書類の束の向こうに肥満した肉体が制服に包まれて鎮座していた。彼は書簡に視線を落としたまま部屋の中央の応接机を太い指で示している。
「こ、こ、このたびはご苦労だった」
顔を上げる、口は半開きで涎が垂れ、頬が細かく痙攣している。
「はっ、お褒めに預かり光栄であります。クラウディウス元帥」
高位貴族の家柄に生まれながら生来の吃音や身体障碍に悩まされ、生母からも疎んじられた彼は、しかしその優れた能力と鉄のような意思で帝国軍の最高位まで上り詰めた。彼を軽んじた者はみな、高い代償を支払わされる。人臣位を極める帝国最高知性の一人、帝国軍参謀総長ポントス・クラウディウス・リキニウス元帥。その人だった。
俺が腰を下ろすと、彼は足を引きずりながら、対面に長椅子に倒れこむように座った。
「ほ、ほ、報告書は見た貴様の判断はおおむね正しかった。そ、そ、それで他にお前から私に伝えたいことは何かあるか」
「報告書にも書きましたが、エンヴィル中佐の私的懇親会について、対応が必要かと」
あれから考えたのだが、エンヴィルが参加していた私的懇親会は、アナトリア属州の独立を条件にアフリカヌスに対する支援を受諾したのではないか。そのため、彼女は皇帝権威の失墜を図って今回の陰謀を起こした。エンヴィルの死は彼らが活動を止める理由にはならない、放置していては危険だ。
しかし、クラウディウスの言葉は俺の予想を裏切った。
「そ、そ、その懇親会についてはエンヴィルから報告を受けていた」
彼は何でもないことのように言った。
「……何ですと?」
「あな、あな、アナトリアの若手将校の一部に独立への志向すなわち陛下への謀反の動きがあるが自分が事を治めるので時間が欲しいとエンヴィルは言っておった。そ、そ、それを信じて猶予をやったがエンヴィルが死んだ今となっては見逃してやる必要はない。へ、へ、陛下に反逆するものがどうなるかその見せしめの役割を演じてもらおうと考えておる」俺を睨む「そ、そ、そんなことはどうでもいい。ほ、ほ、他に何か言うべきことがあるだろうが」
クラウディウスの鋭い視線に射抜かれて、俺は必死に考える、なにか他に報告すべきことがあっただろうか。しかし、いくら考えても何も思いつかない。額に汗が浮かぶ。参謀総長直々に意見を求められているのだ、自分が有能であることを示さねば。
クラウディウスは失望したように溜息を吐いた。
「て、て、手掛かりをやろう」こちらに意味ありげな視線を向ける「え、え、エンヴィルはアルビウスを内偵するためにあの陣にいた」俺は頭を殴られた気分だった「あ、あ、アルビウスとアフリカヌス派の将校の接触が確認されたためだ、し、し、しかしそれは大した嫌疑ではない。あ、あ、アフリカヌス派は多くの将校に面会している、か、か、彼女に対する調査はあくまで念のためのものだった」クラウディウスは背もたれに体重を預ける。
回転を始めた脳内で、あの日当事者として体験したこと、戦いの後で耳にした情報、そして抱いていた疑念が一本の糸として結ばれる。俺の中に、軍議の夜がまったく別の意味合いで立ち上がってくる。その姿を視認して、俺は戦慄に震える。
「あくまで仮説であり、何の証拠もありません。それでも口に出してよろしいでしょうか?」
クラウディウスは顎の肉を震わせて頷く。
「真の裏切り者はアルビウス。エンヴィル中佐は自白魔術の名目で洗脳魔術をかけられ偽証させられた」
クラウディウスは鼻息を荒くする。
「つ、つ、続けろ」
俺は慎重に言葉を紡ぐ。
「小官は、合流地点を襲った敵の少なさがずっと気になっていました。蛮族の兵数は精々2万、二軍団を撃滅するには心許ない。
しかし、一個軍団が相手ならば十分な数です。すなわち、第四軍団単独の相手ならば。
アルビウスは、斥候部隊に決死の任務を与えた。それはお互いに傷つけあい瀕死の傷を負ったうえで、自分たちを捜しに来た部隊にエンヴィルと蛮族が接触していたと偽の報告をすること。いや、報告を行った兵士は小官の足音を聞いて自らの腹を刺したのでしょう。斥候部隊の遺族を調査すれば、アルビウスから利益供与がなされている可能性がありますが、それはいまは置きます。
小官はアルビウスに目撃者として同行させられ、エンヴィル裏切りの情報を得るという役目が与えられた、アルビウスの裏切りが事実なら、小官はその舞台で一役演じたことになります。
かくして、エンヴィルは裏切り者に仕立てられた。もしかすると内偵によりアルビウスとアフリカヌス派の協力を結び付ける証拠を見つけ、それのための口封じを兼ねていたのかもしれない。しかし、天幕の捕獲劇の際、彼女は抗弁しなかった、なぜならば……」
あの状況で、俺にアルビウスは裏切り者だと告発したらどうなるか、聡明な彼女ならきっと一瞬で理解しただろう。
参謀本部から派遣されていた将校は、二人とも裏切り者だった。
アルビウスは気だるげな顔でカトに報告しただろう。
あの時エンヴィルが俺を不思議な表情で見つめていたのを思い出す。彼女は俺を庇ったのか?
「話を進めます。エンヴィルは自白魔術の名目で洗脳魔術をかけられ偽証させられた、敵数は三万、明日にも合流地点を襲うつもりである。アルビウスは撤退を、カトは殿軍を主張した。
カト中将の案は、率直に言って素晴らしいものです。軍事的にも、忠誠という点でも、あの場で帝国の将官が思いつける最善の作戦、しかしそれは逆に言えば同じ能力を有する将校であれば、その提案を予期できるということでもあります。
アルビウスはカトの考えを読んでいた、第四軍団が単独で殿軍を務めるなら、蛮族は二万の軍勢でまず間違いなく勝利を制する。自分の軍団を温存したうえで、三つの軍団を滅ぼし皇帝の権威を失墜させる、おおよそアフリカヌス派にとって最高の結末が待っているはずだった。言うまでもありませんが、カト中将がもし撤退に同意したのなら、撤退中の第四軍団だけを襲えばいいだけのこと」
「だ、だ、だが」クラウディウスが口を挟む「アルビウスの完璧だったはずの計画は破綻した、き、き、貴様の手によってなハヤシ少佐。あ、あ、アルビウスは一般的な帝国軍人の思考の枠から外れて物を考えることができなかった、し、し、思考の硬直化と独創性のなさは帝国軍人の宿痾だ。し、し、しかし属州出身の貴様はその宿痾から逃れ純粋に軍事的な観点から皇帝陛下すらも戦力として考えて来援を提案した、そ、そ、それが結果としてアルビウスの陰謀を破砕した、も、も、もっとも」身を乗り出す「これはあくまでただの推論だ。え、え、エンヴィルがアフリカヌス派で両軍団を死地に追いやろうとしていたとしても辻褄は合う。て、て、敵の数が少なかったのは第八軍団と第二十軍団の抵抗が激しく予想外の損害を受けたなどが考えられるだろう……ゆ、ゆ、ユーリア・コルネリウス・アルビウス、や、や、
奴は本当に裏切り者か
それを探るのが次の貴様の任務だ」
クラウディウスは一枚の紙を懐から取り出す。
「だ、だ、第十二軍団への出向辞令だ。き、き、貴様は中佐としてアルビウスに仕え奴が本当に裏切り者か確かめなければならない。も、も、もし裏切り者ならば」クラウディウスの目が妖しく輝く。「裏切りを決行させるな。ほ、ほ、本心で翻意を抱いていても実際に裏切らないのならば忠臣と変わらない」
俺は前途にある待つものを考え、興奮と恐怖を感じた。参謀総長から直々に任務を与えられるというのは名誉なことだ、出世もできるだろう。しかし、アルビウスという難敵相手にどこまで立ち回れるものか。もし彼女が本当に裏切り者ならエンヴィルに無実の罪を着せて処分したように俺もあっけなく殺されるだろう。この任務、果たして俺の能力で務まるだろうか?
「さ、さ、参謀本部へようこそ少佐」
クラウディウスは無表情に告げた。
人生に転機というものがあるならば、あの軍議の夜がそうだったのだろう。俺は帝国という深い沼に足を踏み入れる、その先に何が待つか想像もできない。願わくはヤマトの畳で死にたいものだが、今となっては望み薄か。
しかし、俺は絶望していなかった。あの軍議の夜、俺は帝国の有能な軍人達の振舞を知ることができた。
軍事と政治に通じる忠実な軍人、グナエウス・グロウメルス・カト。
気だるげな仕草で他者を支配するユーリア・コルネリウス・アルビウス。
そして、何よりも、ナジェ・エンヴィル。
エンヴィル、奴の視界には世界はどう映っていたのだろう。いまはもう聞くことができないそれを、俺は痛切に知りたがっている。
あるいは、俺がこの世界で生き抜くことができれば、同じ光景を見られるのだろうか。
俺はその時が来るのを、怖がりながら、楽しみに待とうと思う。
我が胸に宿れエンヴィル、竜の魂を持った女よ、無能な俺を導いてくれ。
第一部完
第二部 先日病死された高貴なお方の死因が実は毒殺であるという不敬な噂に関する調査報告
序文 彼は本当に病死なのか
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