第10章 僕の言葉
僕の手に、帰りの切符があった。
世界のまんなかは、まぶしくて、大きくて、きれいだ。ずっと夢見ていた場所だ。
でも僕は、背中を向けた。
壁のむこうに、会いたい人がいる。髪の長い少年の声が、聞こえた気がした。「待っているよ」って。
僕は走った。壁に向かって。来たときの何倍も速く走った。砂の道も、枯れた森も、誰もいない平原も、風みたいに走り抜けた。
町が見えた。壁が見えた。
町にもどった僕は、初めてわかった。壁は、外からまもるためにあるんじゃない。壁は初めから、中から開けられるようになっていた。内側に、小さな取っ手がついていた。さびていたけど、動いた。
でも、それだけじゃなかった。
僕は、壁の前に立った。両手を壁に当てた。石の冷たさが、手のひらに伝わった。ごつごつした石の表面。雨のにおい。苔のにおい。
そして、歌った。あの出鱈目の歌。意味のない歌。髪の長い少年とつくった、僕らだけの歌。
声は小さかった。震えていた。でも、出た。
あの夜、のどの奥で固まっていたものが、少しずつ、溶けていくのがわかった。
壁が動いた——外の壁じゃない。中の壁だ。胸の奥で、石が一つ、落ちた。
音がした。
こつ。
あの音だ。あの女の子が聞いていた、あの音。誰かが言葉を探している音。
あれは——僕だったんだ。
僕が、自分の中の壁を、一つずつ崩している音。こつ、こつ、こつ。
外の壁の扉が、開いた。僕が中の壁を崩したから、外の壁も開いたのか。それとも、最初から開いていたのか。もうわからない。どっちでもいい。
光がさしこんだ。朝の光だった。
髪の長い少年のすがたは、もうどこにもなかった。
壁の上にも、丘の上にも、湖のほとりにも。
でも、あの歌が、僕の体の中でなっていた。のどが、おなかが、足の裏が、覚えていた。あの少年が残してくれた、たった一つの贈り物。意味のない言葉が、いちばん大事な言葉だった。
もう「壁の声」は聞こえない。
かわりに、僕の声が聞こえる。小さくて、震えていて、出鱈目で、たぶん誰かに笑われるような声。でも、僕の声だ。
僕は壁の扉をくぐって、外に出た。
そして、振り返って、まだ壁の中にいる人たちに向かって、言った。
「出てきていいんだよ。扉は、中から開くんだ」
誰かが顔を出した。恐る恐る、光の中に。
僕はそのひとに手を差し伸べた。髪の長い少年が僕にそうしてくれたように。
あの歌を歌いながら。
こつ、こつ、こつ。
まだどこかで、誰かが言葉を探している。
その音が止まらないかぎり、世界は変わりつづける。
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