第十一章 1993年・3月:滲みの消失点
1993年、3月。
奥三河の山々には、まだ冬の名残のような冷たい霧が立ち込めていた。校庭の桜は、もうすぐ誰にも見届けられなくなることを知っているかのように、ひっそりと枝を震わせ、まだ固い蕾を蓄えていた。
学校では『思い出を絵に残そう』というイベントが行われていた。
大輔は、誰もいない理科室にイーゼルを立てた。
そして「完璧な絵」を描き上げた。
夏目から授かったあらゆる技法が、その四つ切りの画用紙に注ぎ込まれていた。窓枠から実験台の端へと収束する、一点の狂いもない透視図法。瓶の中の光の屈折さえも捉えるヴァルール。それは、最高傑作の「檻」だった。
夏目は、大輔の背後でその完成を見守っていた。
だが、大輔は筆を置いたまま、動かなくなった。彼の肩が、小刻みに震え始める。
「……先生、これじゃないんだ」
大輔の声は、ひび割れたガラスのように掠れていた。
「本に書いてある通りに描いた。先生に教わった通りに線を引いた。でも、これだと、ただの理科室なんだ」
大輔は、ステンレスの定規を床に叩きつけた。
カラン、という冷たく高い音が静まり返った理科室に響き渡る。
「先生? 僕は、あっちの学校へ行っても、こうやって、みんなを黙らせて、自分を、見られないようにはできるよ。でも、今は、僕の……僕の……気持ちを描きたい。見られてもいい。……でも、描き方がわからない」
大輔の目から、大粒の涙が溢れ出し、完璧に塗り分けられた画用紙の理科室に、無残な染みを作った。計算され尽くしたヴァルールが、涙によって滲み、崩れていく。
夏目は、胸の奥が引きちぎられるような感覚を覚えた。
かつて長久手の丘で、吉良の奔放な「赤」を前にして、自分の「正解」を抱えて震えていた十九歳の自分。それを今、目の前の少年が繰り返している。夏目は大輔の傍らに膝をつき、その震える肩を強く抱きしめた。
「……ごめんね、大輔くん。僕もずっと怖かったんだ」
「ちょっと待っててくれるかな」
夏目は涙をこらえながら裏手の寄宿舎に戻り、あの紙の束を手に取った。
アルシュ水彩紙の粗目。
夏目はそれを抱えて理科室に戻ると、大輔の前に広げた。
定規を跳ね返し、緻密なパースも拒絶する、圧倒的なマチエールを持った白。
「これに描こう。定規も、教科書も、僕の言った正解も、全部、ここに置いていこう」
夏目は最高級のチューブから一番鮮やかな赤と青をパレットに絞り出した。
大輔は、震える手で筆を握った。下書きの線はない。消失点もない。
大輔の手は震えたまま、宙の一点で浮いていた。
「大輔くん、思うままに、色を置くんだ。誰にも、見せなくていい」
夏目がそう言うと、大輔は小さく頷いて、言った。
「いいんだ、見られても」
そして、震える筆を落とした。
その瞬間たっぷりと水を含んだ色彩が、アルシュの荒い肌の上を意志を持った生き物のように走り出した。
大輔の筆が、強張って止まった。一瞬、目を上げて夏目を見た。
だが、再びアルシュに向き合い、筆を動かし始めた。
それは理科室でも、図書室でもなかった。
あの日、転んで泥にまみれた夏目の背中。
都会の授賞式で感じた、視線の渦。
分校を去らなければならない、逃げ場のない焦燥。
そして、暗い寄宿舎で冷たい技術だけを共有してきた、歪な愛着。
それらすべてがアルシュの上で泥のように混ざり合い、溢れ出した。
大輔が筆を置くリズムは、何ともつかない、一つのかたちを創っていく。
大輔は、声をあげて泣きながら筆を動かし続けた。
夏目もまた少年の隣で筆を手に取り、その「野原」を共に汚していった。
消失点は、もうどこにもなかった。
そこにあるのはただ二人の呼吸と、混ざり合う絵具の匂いだけだった。
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