第10話 彗星vs邪神
南海競馬場の厩舎の並ぶトレーニングセンターでは、同競馬場の大レース、潮嵐賞を真近に控え、張り詰めた空気になっていた。
宗森厩舎では、落ち着いた芦毛の競走馬が、悠然とした佇まいで飼い葉桶に頭を突っ込んでいた。
それを、瀧越と宗森調教師が、目を細めて眺めている。
「瀧越、どうな?なかなか順調に仕上っちゅうろう?」
「さすがですね、当日が楽しみですよ」
腕組みをしてその馬、クトゥルフをじっと眺める瀧越。
(お前やったら、勝てるはずや、もうレースの下書きはできちゅう)
(お前はそれを、完璧に絵にできる馬やきねゃ)
武政厩舎では、信吾と仁美が馬房の片付けをしていた。
二人とも、黙々と作業しながら、どこか心ここに在らずな状態だった。
「なんか、広美さんが来んねえ」
「気になるがですか?」
仁美の返しに、信吾は焦って瞬きを早めた。
「い、いやいや、そうやのうて、あの人おらんかったら、なんか、調子狂うなって……」
(若者よ、素直になるんだ)
ヘールボップに宿る万次郎が、じっと信吾を眺めている。
仁美は不思議そうに言った。
「いつも喧嘩しゆうだけやないですか?」
「ま、まあ、そりゃあ、俺も厩舎を守らんといかんし」
きょとんとする仁美を見て、さらに呆れる万次郎。
(娘よ、お前もなかなか鈍いねゃあ)
するとそこに洋平が、顔を出す。
「仁美ちゃん、レースの前に打ち合わせしたいことがあるき、来てくれるか?」
「わかりました、ほいたら信吾さん」
「うん、あとは任いてくれ」
手を上げて、仁美を見送ると、大きな溜め息をこぼした。
「……彼氏、おるろうねゃあ、東京やもんねゃあ」
ヘールボップに向き直る。
「どう思う?」
(そりゃあ、おるろう、あの器量や)
(あの美しい明美の生き写しやないか)
その自分の言葉に、目を曇らせる万次郎。
(明美、会いたいねゃあ)
(完全に向こうに行ったら……なんかねゃあ)
溜め息を連発して、肩を落とす信吾を横目に、馬房の開かれた扉の外に視線を移した。
一方、東京の剣持事務所の会議室に、高部と恵美、広美が集まっていた。
テーブルにボイスレコーダー、恵美と広美は並んで座り、恵美が広美の手を握っている。
吹き込まれた上崎の言葉が続く度に、広美の涙がテーブルに落ちて行く。
恵美がそっと肩に手を添えると、顔を覆ってしなだれかかって行く広美。
高部は眉を顰めて、こめかみを揉みしだく仕草をしていた。
最後の言葉が落ちると、広美は声を上げて恵美に縋りついた。
「……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
背中をさすってやる恵美。
張り詰めていたものが、解けたのだろう。
広美の慟哭は止まらなかった。
「奥様、私はもう、手加減はしませんからね」
高部は震える声だった、手元のボールペンをぎっと握り込んでいる。
恵美は険しい表情で、力強く頷き返す。
広美が落ち着くのに合わせたように、ドアがノックされ、二人の人物が入室してきた。
一人は銀髪で品の良い男性。
もう一人は、あのバーで上崎に声をかけた、探偵の藤村だった。
二人は、広美の前に腰を下ろす。
銀髪の男性が、名刺を差し出した。
「当事務所の所長、剣持要です」
「上崎徳和氏への訴訟の件、私が担当します」
藤村が引き取ると、立ち上がり、体を直角に折り曲げる。
「沖浜さん、この度は、あなたのプライベートを尾行して、調査したこと、本当に申し訳ありませんでした」
「証拠収集を担当した、探偵の藤村清志です」
藤村は着席すると、すかさずカバンから茶封筒を取り出した。
「今回奥様からの依頼で収集した、証拠の全ての複製です、写真はちゃんとネガで焼き増ししております」
「こちらを、無償で提供いたします」
「この証拠は、私が精査して保管いたします」
剣持は、その封筒を預かる。
「向こうも裁判までは望まないでしょう」
「畳み掛けて……一気にケリをつけましょう」
自分の事なのに、淡々と進んで行く事実に理解が追いつかない。
藤村を見て口を開くのがやっとだった。
「無償って、どうして……」
「まずは、冒頭に申し上げたように、あなたのプライバシーに乗り込んだことへの贖罪と」
険しい表情から、ふっと優しい笑顔に変わる。
「……恩返しです」
「恩返し?」
「私が勝手に感じているのですが、あなたのお父様には、恩があるんです」
広美は眉間に皺を寄せて、次の言葉を待った。
「今から22年前、私は21歳の苦学生でした」
「そんな時、目先の金に目が眩んで、十万円で借金の保証人になったら、まんまと高跳びされましてね」
「1200万円を押し付けられたんです」
広美の喉が鳴った。
「親にも言えないし……大学を辞めた同然で朝晩働いても利息分にもなりゃあしない」
「もう、この世からおさらばしようと決意しました」
「その時はダービーだ、どうせ死ぬなら最後に目一杯、足掻いてやろうってね」
自嘲気味に笑うと、遠くを見つめるような目線になる。
「入ったばかりの給料13万を握って、府中に行きました」
「2着3着は、私の誕生日、一着をどうしようかと、パドックを見ていると、目があったんです」
今度は広美の目を見据えた。
「あなたのお父様と」
「なんだか、"俺に任せとけ"と言ってくれた気がして」
「私は迷わず、手持ちを全額注ぎ込みました」
「頭を、11番人気のコメットハンターにして」
「だから、私は今もここにいられるんです」
広美はまた、目から涙がこぼれて、恵美に肩を抱かれる。
恵美と藤村が目を合わせると、どこか通じ合っている様子で頷き合った。
「と、いうわけで、恩返しですよ」
「あなたのお父様は、少なくとも一人の若者の生命を、救っているんです」
(……お父ちゃん)
広美はまたテーブルに突っ伏して泣き崩れた。
その場の誰も、黙って見守っている。
壁時計の時間を刻む音だけが、慟哭に混ざって響いていたのだった。
南海競馬場には、あふれんばかりの観客が詰めかけ、メインのレースの訪れを待ち侘びている。
煌々と照らす照明が、闇夜の中に、コースの全景を浮かび上がらせていた。
ネット動画の予想チャンネルでは、アナウンサーの矢野吉彦氏が、他の出演者たちにレースの展望を解説していた。
「このレースはなんと言っても、西日本の最強馬、クトゥルフと、かつての中央のGⅠホース、ヘールボップの対戦ですね」
「ヘールボップ、物凄い脚を見せてますよね」
出演者と、矢野氏のやりとりが、リモート状態の中でリラックスした状態で続く。
「まあ、今までは下のクラスが相手でしたから」
「重賞クラスは初めてなので、まだ完全復活か?と言われると、判断はつきませんが、近い状態であることは間違いないです」
「私、あのレース生で見たんですよぉ、勝てなくなってて、悲しかったんですけど、また強いヘールボップが見たいですぅ」
「矢野さんはどう見ますか?」
「はい、まず二頭の脚質、クトゥルフは勝負根性の塊みたいな馬ですから、先行して競り合いになったらかなり有利ですね」
「一方ヘールボップは、爆発的な末脚の持ち主です、ただ、道中差をつけられると、直線短いから、クトゥルフの先行力からしたら、届かない可能性があります」
「ポテンシャルは、ヘールボップが上じゃないかと思いますが、クトゥルフは百戦錬磨の瀧越騎手。」
「ヘールボップは、新人の沖浜騎手、この差がどうでるか、ですね」
レースの開始を見守る洋平が、どこか浮かない顔の広美を見つけて近寄って行った。
「広美ちゃん、今日は記者席やないがかえ?」
「洋平さん、私、もう記者やないがです」
バツの悪そうに、視線を落として呟く広美。
「……何が、あった?」
「今は……まだ、言えません」
「……事情があって」
洋平が広美の両肩を掴むと、かつての競馬ナインの同僚が、記者席に向かいながら広美に侮蔑の表情を向けた。
すれ違いざまに吐き捨てる。
「チーフだけじゃなく、今度は調教師か?」
「どんだけ男好きなんだよ」
洋平が思わずその記者の肩を掴む。
「おい……そらあ、どういうことや?あぁん?」
記者は慌てて目を泳がせた。
「この子は、俺らにとっちゃあ家族同然ながぞ、その口、引き裂いちゃろか?」
慌てて間に入る広美。
「洋平さん!良いがです、良いがですよ」
「広美ちゃん……」
思わず手を離すと、広美は記者に向き直った。
「あなたも、早く行きなよ」
「レース、始まっちゃうよ」
記者がその場を去ると、今度はメッセージの着信音が連続してなり続ける。
「洋平さん、私、一般客ですからこれ以上入れんき……」
深く一礼をしてその場を離れた。
洋平は、その背中を無言で見送るだけだった。
歩きながら、スマホを取り出すと、上崎からのメッセージの山。
【てめえ、今日風呂屋の面接つったろうが】
【なんで行かねえんだよ】
【なめてんのか?】
【引越しまでしやがって】
【既読ついてんだから返事くらいしろ】
すかさずスクリーンショットを取る。
その顔は笑っているものの、目からは涙があふれていた。
「……こんな馬鹿やったがや、この人」
「自分の首を絞めゆうとも知らんと……」
そのまま電源を切り、鞄に仕舞った。
いよいよレースが間近に迫った。
スターターの合図に、ファンファーレが鳴り響く。
場内アナウンスが、レースへの興奮を高めるかのように、流れ始めた。
『いよいよ、本日のメインレース、第十一競走、第24回、潮嵐賞です』
『人気はやはりこの2頭』
『六枠七番ヘールボップ3.8倍』
『七枠九番クトゥルフ4.3倍』
『人気を分け合っています、他の各馬は単勝人気が、二桁です』
深く息を吐き、ゴーグルを下ろす仁美。
その二つ横のゲートで、様子を伺いながら、薄笑いを浮かべる瀧越。
深層心理では、コメットハンターと万次郎が、様子を見守っていた。
「今日も、騎乗しないのですか?」
「おう、それはなんの意味もないことや」
「あいつらがやらんと……」
「おっしゃる通りですね……」
意識の中の人馬は、ゆっくりと目を合わせた。
ゲートが開く。
揃ったスタート、その時……
パシィ!
いきなり鞭が入り、クトゥルフが物凄い勢いで飛び出した。
「さあ、ついてこい!仁美ちゃん、ポップ!」
「喰らい付け、俺の……」
口角をにんまりと上げる。
「釣り針に!」
すかさずヘールボップも追いついて来た、すると、クトゥルフが若干外に持ち出し、その内側にヘールボップが収まる。
「かかった!」
今度は、クトゥルフが外から身を寄せて、ヘールボップを最内の埒沿いへと押し込んだ。
ネット画面では、矢野氏が呟くようにこぼした。
「あ〜、内へ入っちゃったか……」
「何か悪いんですかぁ?」
「もう十一レースでしょう?最内は荒れ放題なんですよ」
「て、ことは、道中かなり消耗しますね」
「このまま直線の叩き合いになると」
「完全にクトゥルフのレースになります」
万次郎とコメットハンターも、展開を見守っている。
「やっぱり乗ろうか?」
「意思が弱すぎますよ」
苦笑いの万次郎。
並ぶ瀧越の横顔を覗き込む。
「わが弟子ながら」
「なんとも、意地の悪いやつや」
その時、心理の記憶に、新たな景色が浮かぶ。
並走する芦毛馬が、自身を突き離した瞬間、外に持ちだして、スパートする映像。
「あれは……」
「息子が、息子が自分で、レースを組み立てている」
万次郎がコメットハンターに目を向けた。
「お前、これ……」
「はい、あの時の」
「ダービーの……」
三コーナーを回った瞬間、瀧越が掌で鞭を回転させて持ち替えた。
「さあ、叩き合いや」
鞭が入り、クトゥルフが加速していく。
「競り落といちゃらあ、ボップ!」
クトゥルフの足運びが苛烈になり、その一歩一歩が砂埃をあげて、矢のようなスピードに乗り始めた。
「……ボップ」
(はい、仁美さん)
(僕はもう)
(……"たっすい"じゃない!)
仁美の呟きに、ヘールボップが呼応した。
(……仁美)
客席の広美が祈るように、胸の前で両手を握る。
第四コーナーを回った瞬間、内側から近づく蹄音に、瀧越が反応する。
「さあ、かかってこいや!……んなっ?」
右側を振り向くと、埒沿いの馬を見て瀧越は絶句した。
「ボップや……ない?」
すると、左側の方から、襲いかかる脚音。
「おぉぉぉ!!」
仁美が雄叫びを上げながら、ヘールボップと共に豪快に砂塵を巻き上げて、猛然と迫って来ていた。
顔面に砂粒を浴びるも、ゴーグルの下の目の輝きはひとつも衰えていない。
動画の矢野氏が語る。
「4コーナーで遠心力を使ってうまく外に持ち出しましたね、これで荒れていない馬場ですから」
「届く可能性は十分ありますよ」
場内実況も声に力が籠る。
『さあ!外7番ヘールボップすごい脚、しかし内9番クトゥルフも粘ります、二頭横一線』
クトゥルフがヘールボップの、馬体に寄せて並走する。
鐙がぶつかりそうな距離。
一進一退の攻防が続く。
吠える瀧越。
「リーディングジョッキーを、なめんな!」
どちらも交わせない、全くの横並び。
首の上下運動を繰り返し、馬体を合わせたまま二頭はゴール前を駆け抜けた。
ほぼ同着、掲示板の表示は灯らず、勝敗は写真判定へと持ち込まれた。
二頭はゆっくりと減速し、やがて並んで、結果を待つ。
滋賀県栗東町の、とある邸宅、その広いリビングのソファに腰を下ろす男性が、足を組み、口元を抑えながら、レース動画を観戦していた。
「う〜ん、これはどっちだろう?」
「それにしても」
壁に並んでいる数多くの写真。
その中に、ヘールボップに跨り、手を高々と上げる自身の姿を見つけて微笑む。
「あの頃に戻って来たじゃないヘールボップ、それに」
今度は、若き男性と、万次郎、幼い広美、赤ん坊を抱く明美の姿の写真を見つける。
そこに、男性の妻が、コーヒーを携えて現れた。
「レース、どうでした?裕さん」
「ヘールボップとクトゥルフ、写真判定だよ」
すると、妻も同じ写真を眺めた。
「……あの赤ちゃんがねえ、僕も歳をとるわけだ」
「明美さんが元気だったら、喜んだでしょうね」
その時、携帯が震えてすかさず電話に出る。
「はい、竹です」
「……わかりました、よろしくお願いします」
「どうしたの?」
「いや、テンペルタットルの次のレース」
「南海での交流重賞になったよ」
竹が、まだ確定しない掲示板の画面を見つめた。
「今度は、敵同士だよ」
「ヘールボップ、仁美ちゃん」
南海競馬は、沈黙に包まれていた。
誰しもが掲示板に表示される、番号を見逃すまいと固唾を飲んで見守る。
広美は両手を合わせて額につける。
洋平は落ち着かず、カツカツと靴を鳴らす。
信吾はダートの上で、両手両膝をついている。
瀧越と仁美は、騎乗のまま無言で見つめる。
そして……
確定のランプが灯った!
『第十一レースの着順をお知らせします』
『一着……』
一瞬の静寂が、どこまでも長い時間に感じる。
『七番』
『二着、九番……』
その瞬間、客席から割れんばかりの歓声が上がった。
『やった、やりました』
『沖浜騎手、新人で重賞初騎乗、初勝利』
『これは、瀧越真光騎手が記録して実に十二年ぶりの快挙』
『奇しくも、その瀧越騎手を破っての記録達成です』
広美はその場にうずくまり、洋平はへなへなと椅子に腰を下ろす。
信吾は、雄叫びを上げながら両手を夜空にかかげて、そのまま背中から砂に倒れ込んだ。
仁美はぼろぼろと涙をこぼして、ヘールボップの首をなでつけた。
「なあ、ハンター?」
「なんですか?」
「わしら……要るか?」
「私も、思っています」
瀧越が、仁美に近づき、肩をぽんと叩く。
「ほら、どうしゆう?」
仁美が顔を上げると、大歓声の客席を顎で指す。
「お客さん、待たいたらいかんろう?」
「……はい!」
袖で涙を拭いた仁美は、そのままコースをかけだした。
その背中に、瀧越が自嘲気味にほくそ笑みながら呟く。
「壁……あっさり破られてしもうた」
「どこまで走るやろうねゃあ、あの子」
スタンド前を、手を掲げて走り去る仁美に、地方競馬では珍しく、
「ヘールボップ」
そして
「仁美」
二つのコールが混ざりあってこだまする。
そして、南国の星空に、吸い込まれるように鳴り響き続けたのだった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。