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彗星群

NOB

79,617 字

恋愛小説、成長物語、人間ドラマ

"不器用な二つの星が、互いを照らし、一つの群れとなる物語。"

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第9話 甦る光

 帰宅した志織は、テーブルの上のICレコーダーを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 深呼吸をひとつして、覚悟を決めて、震える手で再生ボタンを押した。
 最初に入っていたのは、三島の声。

「志織ってさ、あんな清楚なふりして――」

 ぷつ、と、そこで録音が切れていた。

「……?」

 次の瞬間、別の声が入った。

『田澤です』
『志織さん、元気にしてますか?』

 呼吸が止まりそうになる、一年前にはいつも聞いていた自分の名を呼ぶ声。
 その穏やかな余韻が、じわりと心に広がって行く。

「……田澤くん」

『ここから先は、とても君に聞かせられる内容じゃなかった』
『だから、勝手に消しちゃった』

 思わず口を開きかけて、閉じた。
 自分が言葉を付け足すことじゃない、田澤の話に耳を傾ける場面であることを、思い出したからだ。

『あの日、俺は君と三島の復縁を祝福してしまった』
『彼がどんな人間か、薄々わかっていたはずなのに』

『君が、あのシュークリームの電話番号を頼って来てくれた時』
『あの時の悲しそうな顔を思い出して、君にとって三島の存在は大きいと思ってしまった』

『俺には、入り込めない間なんだと』

「……あなたを、入りこませなかったのは、私の方だよ」

『君と会えなくなった最後の日、お互いが突き放すようになったよね』
『君が、自分を下げることばかり言ってね』 

『俺は何も言えなかった』
『君は、俺を肯定してくれたのに、何も言えなかった』

 志織は唇を噛んだ。

『君は、俺が見てる自分でいられないと、言ったね』
『だけど、俺はずっと、君のほうが先にいると思ってた』

『追いつけないと、思ってたんだ』
『結局俺たち、相手を見てたつもりで、自分しか見てなかったんだよ』

 志織は、レコーダーを手に取ると、自分の胸に押し当てた。
 瞳からいつの間にか涙がこぼれている。

「……あなた、本当に田澤君なの?」

『人間てさ、綺麗な部分だけじゃないよね』
『マイナスな部分もある』
『自分が憎い俺には、自分にプラスの部分なんてないと思っていた』

 涙が次から次へとあふれだす。

「そんなことないよ……そんなはず、ない」

『だけど、そんな俺でも、自分の好きなもの、好きなこと、好きな人は確かにあったんだ』

 ほんの少し、声が柔らかくなっていった。
 田澤の優しい笑顔が浮かぶ。

『脚本であり、空手であり、以前話した前の恋人……それは、余計だね』
『……ごめん』

「……もうっ」

 泣きながら、鼻で笑う。
 すると、機械の向こうで暫しの沈黙があり、志織は一瞬、眉間に皺をよせた。
 次の一言は、迷いのない、はっきりとした言葉だった。

『そして、多辺志織さんだった』

 胸の奥が熱くなる。
 心臓の鼓動が、はっきりと耳に届くような気がした。

『大切な君を失いたくないばかりに、迷って、飲み込んで、想いを伝えられなかった』

 少しだけ掠れる田澤の声。

『結果、三島の所に行かせてしまった俺を、許して欲しい』

「違うよ……あなたのせいじゃない」

 言っても、返ってこないのはわかっていたのに、それでも口が動いてしまう。

 録音の向こうの声が、前向きな響きになって行く。

『いま、また新しいものがどんどん書けてる。約束したからね』
『俺の書いた映画を、君が見てくれたら、俺の思いは君に届くから』

『約束は守るよ。それもそんなに遠い話じゃない』
『楽しみにしていてね』

 志織は、両手で涙を拭いながら、田澤の言葉ひとつひとつに、笑顔で頷いた。

『もう、三島は君に手出しできない。だから、あいつに、怯える必要はないからね』

『君は、絶対に幸せになってください』

「……これって」

 記憶の中の、最後の二人の時間。
 そして、自分がかけた言葉が、胸に響く。

「……あれ、言っちゃうの?」
「ホントに?」

『俺じゃない、誰かと……』

 両手で顔を覆うと、何度も肩が跳ねた。
 上下に何度も、何度も。
 しかし、声は必死に堪えた。
 最後のひとことを、聞くために。

『志織さん、大好きです』
『……あの日の仕返しだよ』
『じゃあ、元気でね』

 録音が切れたのを合図に、堰を切ったように、声があふれた。
 一番欲しかった言葉。
 田澤の声で聞きたかった言葉。
 過去形ではない、その言葉が落ちて来た。
 自分の胸に落ちて来たのだ。
 一人の部屋で、志織は泣いた。
 泣いて、泣いて、声が枯れるまで泣き続けた。
 嬉しさも、悲しみも、喜びも、切なさも。
 とめどなく流れる涙と、泣き声が、全てを溶かして混ざり合わせて行った。
 確かに存在した、田澤と過ごした時間。
 その思い出の輪郭を、際立たせるように。

 やがて、携帯を手に取った。

「里沙子。……いまから行くね」

『そう来なくちゃ、待ってるよ』

 バーの扉を開くと、カウンターに一人、里沙子の姿が。
 マスターも、こちらを見て、笑顔になる。

「久しぶり、志織ちゃん」

「……久しぶり!」

 挨拶を交わした志織は、そのまま里沙子の隣の席についた。

 マスターが、手際よくカクテルを作り、志織の前にグラスを置く。

「これ、オリジナルの試作品だから、サービスね」
「名付けて、『リユニオンナイト』」
「再会の夜、って意味だよ」

「ありがとう」

「え〜私には?」

 里沙子が口を尖らせるが、マスターは華麗にかわした。

「君はいっつもきてるじゃない?」

 軽妙なやり取りを横目に、志織は少し笑顔になり、グラスを上げた。

「じゃあ」

「うん」

 二人は、グラスを鳴らした。

「今日の田澤さん、あんたも聞いていたから知ってるでしょうけど、凄かったね」

「…そうだったね」

 か細い声で反応する志織だったが、その反応に気づかないまま、続けた。

「名誉毀損で訴えるなら会社もサポートするって」
「もうね、スカッとしたー! 三島ももう終わりだね」

 目を伏せて、口を開く志織。

「訴えるのは…..やめとく」

「なんで?あの録音は?」

 志織は小さく息を吸い、バッグの中からレコーダーを取り出し、カウンターの上に置いた。

「聞いてくれる?」

「聞いていいの?」

 志織は黙って頷き、再生ボタンを押す。

 数分後。
 再生が終わり、里沙子はしばらく黙っていたが、やがて、吐く息に言葉を乗せた。

「あんた、馬鹿だねえ」
「こんなに、想ってくれてる人を袖にして、よりによって」

「自分でも、そう思う」
「今にして思えば、どんな私でも、あの人は見捨てなかったと思う」

 そこから志織は、語り出す。

 シュークリームのこと。
 初めて会ったときの、ダサい私服のこと。
 映画が好きだと言った横顔のこと。
 ドライブのこと。
 あの橋の上で、ドラマの真似をして笑ったこと。
 バレンタインの夜のこと。
 そして『彗星群』のこと。

 話せば話すほど、里沙子の表情が曇って行くのがわかる。
 途中で何度も口を開きかけては、閉じた。

 カウンターの奥で、マスターは無言のままグラスを拭き続ける。

 志織はもう止まらない。
 閉じ込めていた言葉たちが、次々と解放されて行くのがわかる。
 最後に唇を噛んだ、悔しげに、掌に力を込めて握りながら。

「でも、肝心な時に、はっきりしないから....」

 里沙子が、びっくりしたように志織を見ると、志織の顔は、もうぐっちゃぐちゃだった。

「里沙子……」
「里沙子〜〜〜!」

「え?何?なに?」

 志織は堪えきれず、里沙子の腕に縋りついた。
 肩が震え、息が詰まり、声をあげて大号泣。
 里沙子は驚きながらも、逃げずにその背中に手を置いた。
 志織の泣き声も、呼吸の乱れも、少しずつ落ち着きを取り戻した。
 それを合図に、里沙子が口を開く。

「はぁ、まったくあんたは.....」

 マスターも被せる。

「やっちゃったね」

 里沙子は志織のぐちゃぐちゃの顔を見て、呆れたように言った。

「馬鹿だねえ。あんたから行けばよかっただけの話じゃん」

「……怖かった」

「なにがよ?」

「……失うのが」

「失ってんじゃん」

 目にまた涙が溜まる、堪えきれない。
 マスターが、ポツリ、と言葉を落とす。

「志織ちゃんと、田澤さんは鏡だったんだよ」 

「鏡?」

「話を聞くと、志織ちゃんと、田澤さんはよく似てるよ、価値観が似てるとさ」
「相手から貰って嬉しい物はわかるけど、相手に何をあげたら喜ぶかが、わからないんだよ」
「……どっちもが、同じ物だから」

 苦笑する志織に、里沙子が、また明るく声をかけてきた。

「ま、今夜は飲もう!」

 マスターがグラスを置きながら言う。

「ちょっと見たい番組があるからテレビつけるね」

「また? こんなおしゃれなバーで時代劇?」

「いいじゃん。君らはお客さんじゃないから」

「じゃあ今日はただにしてよ」 

「それはやだ」

 小さく笑いが落ち、志織の胸の奥に固まっていたものが、ほんの少しだけほどける。
 テレビが点くと、スポットニュースだった。

「本日、全日本映画協会脚本賞で、なんと初の大賞受賞者が……」

 おもわず顔を起こす。

「彗星群の……コンクール」

 マスターが、番組を変えようとしたその手に向かって、志織の声が飛ぶ。

「待って!」

 テレビのニュースは、淡々と告げた。

「大賞受賞作は」
『彗星群』

「受賞者は」

「田澤幸弘さん」
「都内在住の会社員の方です」

 画面がインタビューに切り替わると、田澤が映る。
 口元が引きつった顔だった。
 志織はテレビに釘付けになる。

「田澤君……」

 次の瞬間、志織の中に田澤から、渡されて読んだ『彗星群』の景色が浮かび上がって光を放ち、彼女の心を一瞬で照らし出して行く。 

「....田澤君がいる」

 涙を拭うことを忘れて、テレビに映る田澤から目が離せない。
 アナウンサーとの受け答えが始まる。

「おめでとうございます」

「あり、あ、ありがとうございます」

 不器用に、言葉を噛む田澤。
 以前と変わらない姿を見て、胸がぎゅっと縮む。

「……田澤君の声」 

 田澤の声が聞こえたのを合図に、色を失っていた景色が鮮やかに彩られて、広がりはじめた。

「どなたにお気持ちを伝えたいですか」

 田澤は一瞬だけ視線を泳がせ、次の瞬間、表情を引き締めた。

「いつも頑張ってる姿を見せてくれて、私を導いてくれた人です」
「いつか私の映画を見せる約束をしていたので、ホッとしました」

 里沙子が、何も言わずに志織を見る。
 志織は唇を開けたまま、言葉にならない。

「あ、あ…あぁ…」 

 ニュースは最後の一言で締められた。

「受賞作『彗星群』は映画化され、来年の夏に公開されます」

「……田澤君の、映画」

 田澤が紡いで来たセリフの数々が響き始める。
 一字一句、克明に。

「……重圧は苦しかったし、しがらみはきつかっただろう……」

 かつて志織の心を打ちのめし、田澤に背を向けさせた言葉たちが、壊れた志織の心を繋ぎ合わせはじめた。

「どこで何をしても、毎日笑って生きてくれ」

 そして、最後のあの言葉。
 志織の脳裏にまた、田澤の声で再生される。
 しかし、今度はその声に言葉にして、呼応した。

「あなたは、わたしの、人生の、全てだから」

 その言葉は志織の閉じていた心を開いた。
 暗い檻の中に、閉じ込められていた感情が次々と溢れ出してゆく。
 それは皆、田澤への想い達だった。

(よかった、本当によかった)
(もっと、ちゃんと向き合えばよかった)
(どんな私でも、あなたなら受け入れてくれたはずだよね)
(私はまた、あなたに救われました)
(私の灰色の毎日が、綺麗な色に染まっていくのが、わかります)
(暗くて、見えなくなっていた行く先も、あなたが照らしてくれた光で、歩いていけます)
(おめでとう?)
(ありがとう?)
(どっちを、先に言えばいいの?)
(私にはわからないよ)
(でも、どっちを先に言っても、あなたは言ってくれるよね)
("志織さん、やったよ!"って)

 志織は鼻を啜りながらテレビから目を離さない。
 画面はCMに変わったが、志織の目にはさっきの田澤の残像が残り続けている。

(これからあなたが、描く映画が)
(あなたが見てる世界を、私にも映してくれる)
(あなたの紡いだ言葉が、私に、届く)
(近くにいなくても、話ができなくても)
(あなたの側に、居れる気がする)
(ゆきひろくん)
(本当におめでとう)

 志織は、田澤を突き放してしまったあの時以来、忘れていた笑顔を取り戻した。
 里沙子が肩を小突きながらにやける。

「何してるの?」
「……え?」
「早くしなよ」
「なにを?」

 里沙子はまたため息だ。

「電話だよ、田澤さん、いま一番誰に『おめでとう』って言って欲しいかわからないの?」

「……消しちゃった」

「何を?」

「連絡先」

「何で?」

「あったら、電話したくなるから」

 里沙子とマスターが顔を見合わせ、声が重なる。

「やっちゃってるねえ」

「しかも、鏡の二人だと」

「向こうもたぶん、」

 もう一度、マスターと里沙子は視線を合わせる。

「消しちゃってるよね」

 里沙子はすぐに切り替えるみたいに、指を一本立てた。

「来週の火曜の十一時」

「……?」

「田澤さんの最後の商談、教えとくね」
「どうするかは、あんたが決めな」

 志織は急に顔を伏せた。

「怖いよ」

「なにが?」

 声を振るわせながら、首を振る。

「あんな凄い人、支えられない」

「あんたが支えて貰えば良いじゃん」

 それでも、胸の奥の怖さを押し戻せない。

「それに、もう誰かがいるかもしれない、それを聞くのも怖い」

「ないね」

「なんで?」

「誰かがいたら、あんなに怒らないよ」

「でも」

 里沙子が、ため息まじりに遮った。

「あーわかった! じゃあ、私が行っちゃうよ! 」
「だって、脚本家でしょ? かっこいいじゃん」「カンヌとかハリウッドとか連れてってくれるかもだし」

 マスターも「それいいんじゃない?」と軽く頷く。
 志織が口を尖らして呟く。

「だから肝心なこと、言ってくれないよ」

「そんなん、私が毎日言ってあげるからいいもん」

 からかうように返す里沙子。

「ダメ」

「だって、早くしないと、これからいっぱい綺麗な女優さんとか、かわいいアイドルとか、モデルさん達と仕事するんだよ」

 ガバッと顔をあげて里沙子を睨む志織。

「とにかく、絶対、ぜーったい、ダメ!」

「ほら、覚悟できたじゃん」

 見つめ合って吹き出す二人は、思わず同時に吹き出した。

「それ、ずるいよ」

 バーには和やかな笑い声が響いた。
 志織にとってそれは、田澤と離れる決心をして以来、初めて心の底から笑える夜となったのだった。

最終話 あの橋の上で

 一週間後。

 田澤は引き継ぎのため、後輩と連れ立って沢渡のもとを訪れていた。
 退職の挨拶の割に、空気が明るいのはニュースのせいだと分かっている。

「辞める理由はああいうことだったんだね。ニュースを見てひっくり返ったよ」

「申し訳ありません、前回ちゃんと内容までお話できなくて。」

 隣で後輩が、堪えきれないように口を挟む。

「なんか社内でも時の人なんですよ」
「うちの社長なんて、しっかり社名を使って会社の話を書いてくれって頼んでました」

「そいつはいいなあ、うちもお願いしたい」

 その一言で、部屋の空気がふっと緩んだ。
 自分がいま話題とされていることに、くすぐったさを覚えて仕方がない。
 沢渡は書類に目を落としたまま、思い出したように言う。 

「そういや、片桐が君に話があると言ってたな」「ここは後輩君と詰めとくから、行ってきたまえ」

 促されるまま、田澤は席を立った。
 廊下に出て、営業部のオフィスに赴くと、デスクの里沙子と目が合った。

「片桐さん」

「田澤さん。この度はおめでとうございます」

 田澤は紙袋を差し出す。

「これ、先日のお詫びです」

 里沙子は受け取るや否や、笑って覗き込んだ。

「うわ、シュークリーム、大好きなんです。」

 紙袋を受け取り、中身を探る。

「あれ?ないな」

「?」

 里沙子が顔を上げて、意地悪そうな笑顔になった。

「私には電話番号頂けないんですね。」

「なぜ、それを?」

「聞きましたよ、志織から」

 その名前が出た瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。

「折角だし、社食でも行きましょうよ」

 里沙子に促された田澤は、社員食堂のテーブルに座っていた。
 二人の前には、それぞれ紙コップのコーヒーが、湯気をたてていた。

「うわっ!ほんとにでかっ!」

 紙袋から取り出したシュークリームに、目を丸くする里沙子だったが、一旦テーブルに置いた。

「あなたは、志織を、どう思ってましたか?」

 率直に、返答する。

「芯がしっかりしていて、自分の目標のために努力して、高めている人かと」

 里沙子は即座に首を振った。

「ないない、あの娘は繊細で臆病な子ですよ」
「だから、三島みたいなのに引っかかっちゃって」

 田澤は言葉を失う。
 反論ではなく、理解の遅れだ。
 自分が見ていた志織と、里沙子が語る志織の距離が、思った以上に近いのに遠い。 

「……」

 里沙子は淡々と続ける。

「背伸びして、支えが欲しいから縋ってしまう、弱い子なんです」

「なんか、自分のことを言われてるみたいです。」

 思わずうつむいて頭をかいた。
 里沙子は、少しだけ口元を緩める。

「そう言ってた」
「十分しっかりしてるのに、弱気で自信がなくて、思いは感じてるけど肝心なことを言わないって」

 田澤は苦く笑う、痛いところが綺麗に当たっていたからだ。

「耳が痛いです」

「ねえ、田澤くん、私と付き合わない?」

「お断りします」
「今は新しい仕事のことでいっぱいなんで、というかなんでいきなりタメ語なんですか?」

 里沙子は肩をすくめる。

「同い年なんでしょ?」
「もう会社の関係も無くなるし、てか即答?志織には、そういうのはっきり言えなかったくせに」

「好きと......き、そうじゃないは、違いますよ」

 里沙子が一瞬、むっとした表情になった。

「いま、嫌いって言おうとしなかった!」

「違いますよ!つい咄嗟に、慣れてる言葉が出そうになっただけで」

 里沙子が、今度は吹き出した。

「わかってるよ、ちょっと意地悪しただけだよ」

「今は、志織さんに喜んでもらえる映画やドラマをたくさん描きたいんで、他のことに目が回らないんで」

 里沙子は一度だけ息を吐く。
 怒っているのではなく、腑に落ちたような呼吸だった。

「私わかったかも、志織が言うには不器用で自己評価が極端に低いのがあなた」
「あなたは志織は、未来を見据えて自分を高めてると見えた」

 田澤が黙って聞いていると、里沙子は言い切った。

「私からは、はっきり言ってそれ、逆」
「二人はお互い本当の自分を見てたんだよ、だから惹かれあったんだろうね」
「志織言ってたよ、自分が支えて行こうと思っていたあなたが、とんでもない物を渡してきて、それが重荷になったって」

「俺は俺で、志織さんの未来や人生を背負って行けるように、頑張ってたんだけどなあ」

「志織はわかってるよ」

 田澤は、やっと小さく頷いた。

「そうだと、いいんですけどね」

 里沙子は話を畳むように、最後だけ柔らかく笑った。

「まあ、帰り、あの橋渡ってみな、いいことあるかもよ」

 田澤は後輩と並んであの橋を歩いていた。

「あとは頼んだよ」

「ほんとに、辞めちゃうんですね田澤さん」
「なんか挨拶の話聞いていたら、寂しくなっちゃって」

「ありがとう。嬉しいよ」

 後輩が一歩だけ距離を詰める。

「ハグしていいですか?」

「ここでだけはやめて」

 橋の中ほどまで来ると、人の流れが少し途切れた。
 田澤は欄干の方へ視線をやる。

「じゃあ先に帰ってて」

「なんでですか?」

「一人でちょっと浸りたいんだよ」

 後輩は少しだけ口を尖らせて、頷いた。

「わっかりました」

 後輩の足音が遠ざかると、欄干に肘をつき、ゆっくり川面を眺めた。

 その時――

 田澤の耳に、女性の声が引っかかった。

「ちょ、まてよ」

 一瞬で背中が硬くなる。
 田澤は息を止め、顔だけを僅かに上げた。
 振り向くと、そこに志織がいた。
 息が切れているわけでもないのに、胸だけが上下している。
何かを求めるように、目を見開き、顎を上下させている。

 田澤は辺りを見回した、後方から、トラックが接近してくる。
 背を向けた頭が頷く。

(あれは.....嫌な予感が...)

 志織が、一瞬、眉間に皺を寄せる。
 田澤が背を向けたまま、歩道の真ん中で両手を広げた。

(よかった、車道には出なかった...じゃあ次は...あれよね)

 志織の表情が和らぐ。
 田澤は勢いよく、志織に向き直り、口を開く。

「僕はしに.....」
「違うでしょうーーー!!」

 どちらからともなく、二人は笑い出し、お互い歩み出し、二人の距離が近づいてゆく。

「お前、好きなやついんのか?」

 志織の目が見開かれる。

「せーのっ」

 「あっ!」
 言葉より先に、腕が動いた。
 手の届く場所に向き合うと、勢いに任せてお互いの背中に両手を回す。

 「決まったね」

 「もう、めちゃくちゃだよ」

 ふたりの呼吸が同じ速さになっていく。

「会いたかった.....」

 どっちが言ったのか分からないくらい自然に重なった。

「……ごめんね」

 今度は志織の声だった。
 田澤は、志織の背中をもう一度強く抱きしめて、短く言う。

「ごめん」

 抱きしめたまま、少しだけ力が緩む。
 それでも腕は離れない。

 田澤が、息を吐くように言った。

「……夢みたいだ」

 その一言は、噛み締めるように、彼の胸に深く刻まれるように落ちた。

「まさかもう一度、君と会えるなんて」

 指先に力がこもる。

「こうやって、君を抱きしめられる時が来るなんて、思わなかった」
「信じられないよ」

 志織の肩が、小さく震える。
 そのまま、田澤の胸に額を押し当てて、
 かすれる声で返した。

「ごめんなさい」
「あなたを怖がって」
「あなたを傷つけて」

 もう一度、強く抱きつく。

「本当にごめんなさい」

 その言葉のあと、志織の声は止まる。
 田澤は、首を横に振った。

「謝ることないよ」

 少しだけ体を離して、志織の顔を見る。

「君は俺に、大切なものをくれたよ」

 志織の目が、揺れる。

「大切なものって?」

「あの日の握手」
「あれで自分に自信を持てるようになったんだ」

 思い出すように、少しだけ視線を落とす。

「だから――彗星群の物語を、描けた」

 志織の唇が、わずかに震える。
 そのまま、もう一度、田澤の胸に顔を埋めた。
 田澤は、もう一度だけ、言葉を重ねた。

「あの時、俺の気持ちは決まってたのに」
「『大切にする』ことの意味を間違えてた」
「一番近くにいることなんだって」
「やっと、わかったんだ。」

 志織の目から、涙がこぼれる。
 それでも、笑っていた。

「うん、そうだよ」

 小さく頷く。

「本当に、そうなんだよ」

 橋の上を吹き抜ける風の中で、二人はずっと離れられないままだった。

 公開初日。
 劇場のスクリーン前には、監督と出演者、そして田澤が並んで立っていた。
 司会者がマイクを向ける。

「今回は新人の脚本家の方でしたが、いかがでしたか?」

 監督が笑って受ける。

「いや、彼いま緊張してるでしょ? でも編成会議の時は演出にズバズバ言ってくるから、何遍も喧嘩しちゃったよ」

 主演も乗る。

「そうそう。若いのにね」

 田澤は小さく頭を下げた。

「すいません」

 客席の少し後ろのほうに、志織がいた。目立たないように座っているのに、田澤は視界の端でそれを何度も探してしまう。
 司会者が話を進める。

「改めて田澤さん、ついに公開されますね。以前、映画を見せる約束をされた方がいると言われましたが――その方は女性ですか?」 

 田澤はきっぱり言った。

「秘密です」

 主演が横から即答する。

「女性だな」

 会場が、わっと沸く。
 司会者も笑いながら続けた。

「その方は、どういったご関係ですか?」

 田澤は一度だけ息を吸って、わざとらしい口調で答える。

「志織は、恋人です。……あっ」

 主演がすかさず声を張った。

「志織さんだって! 志織さーん! 来てますかー!」

 会場がきょろきょろと探し始めると、志織は、はにかんで手を軽く上げた。

「あ、あそこだ!綺麗な人じゃない、田澤先生」

 主演が指差し、志織に拍手が集まる。
 志織は肩をすくめるみたいに笑って、もう一度だけ小さく手を振った。
 劇場に暖かい拍手や祝福の指笛が響き渡る。
 締めに入ろうとする司会者。

「じゃあこれからもたくさん素晴らしい作品を書いて、恋人の方にも――」

 主演が重ねる。

「志織さんだよ」

「……失礼しました。志織さんにも、映画を見せてあげてください」

 田澤はもう限界だった。顔の熱が上がって、目が泳ぐ。 

「はい。あの……みなさん早く映画ご覧になりたいと思うので、もういいですか? いっぱいいっぱいです」

 会場が笑い、また拍手が起きた。
 田澤は照れ隠しに頭を下げ続けた。
 暗転して、映画が始まる。
 志織の隣に、田澤が座っている。
 スクリーンの光が二人の頬を白く照らした。
 志織が小さく言う。

「お疲れ様」

 田澤は即答できず、正直な声だけ落とした。

「うん……しんどかった」

「あれ、打ち合わせ?」

 顔をしかめる田澤。

「わかった? 主演の大御所がわざと名前出せって」

「バレバレ」

「恥ずかしい思いさせたね」

「ほんとに」

 しょげる田澤。
 志織はすぐに笑って前を向く。

「うそだよ、だってあの大御所に何回も名前呼ばれたんだよ、私。嬉しかった」

「ほんとに?」

「ほんと。……始まるよ」

 志織の指が、そっと田澤の指に触れる。田澤もそれに応えて、手を繋いだ。
 終盤、誰かが感動して泣いていた。
 客席のあちこちで鼻をすする音がして、静かな熱が満ちていく。
 上映が終わると、田澤は出入り口のところで観客と握手をして、ひとりずつ送り出していった。
 照れた笑顔で、何度も頭を下げながら。

「よかったです」
「感動しました」
「志織さんとお幸せに」

 そんな声に包まれながら。
 志織は少し離れた場所から、その背中を微笑みながら眺めていた。  

 最後の観客を見送り、扉が静かに閉まる。
 劇場の中に、さっきまでの熱だけが残っていた。

 田澤が軽く息をつくと、その背中に足音が近づく。
 志織だった。

「ねえ、ゆきひろくん」

 田澤が振り向く。

「何?志織」

 志織は、少しだけ首を傾けて、言う。

「これ、現実なのかな?」
「本当は、あなたの書いた物語の中にいるんじゃないの?」

 志織の言葉のあと。
 田澤は、ふと視線を外した。
 ロビーの壁にかかる、映画のポスター。
 そこに書かれたタイトルを、静かに見上げる。

「彗星……」

 その一言で、時間がほどける。

 ――シュークリームを差し入れした日。

 ――映画の帰り、バッテリーが上がった時。

 ――海ほたるへのドライブ。

 ――橋の上から見た、あの夜景。

 ――改札の向こうへ、見送った後ろ姿。

 そして――

(握手、私はあなたをバイ菌だなんて思わないよ)

 胸の奥に、あの時の掌の温もりが蘇る。
 田澤が、小さく呟く。

「彗星は、一瞬の眩い光と、鮮烈な思い出を残して、そして……」

「私にとっても、あなたは彗星だよ」

 田澤が、ゆっくり視線を戻す。

「じゃあ、俺たち二人は」

「うん」

 ふたりの声が、重なる。

「『彗星群』だね」

おしまい

エピローグ兼あとがき

2026年
 風情のある地方の城下町。
 ここにある一軒の、洋食レストランの店内の座席に、この店を切り盛りする、中高年の夫婦が向かい合って座っていた。
 ランチタイムの喧騒が終わり、遅い昼食を取っているのだが、様子がおかしい。
 夫は耳を真っ赤にして項垂れており。
 妻は黙ってスマホをスワイプしては、スクロールさせていた。
 やがて、スマホを置いた妻が、口を開く。

「……投稿交流アプリ、ねぇ」

「時間があったら、真剣な顔してスマホばっかり操作してると思うたら」

「……」

「いま、目の前におる、白髪まみれの腹ボテの、典型的なステレオタイプの、キングオブおっさんが」

「こんな、そこそこロマンチックな、綺麗な話を書いとったなんて」 

「色々、聞きたいことはありますが」

「まずは、なぜ、あなたの妻はここでは、幽霊なのでしょうか。ゆきくん」

「すまん、由美加。このときは、わし、まだ東京からUターンして、お前と世帯持つなんて、考えもしてなかった。ほじゃから、その……友情出演言うことでな」

「では、なんで彗星群、彗星なのでしょうか?」

「その、本物の志織さんと、初めて行った映画が」

「映画が?」

「地球にぶつかる隕石をぶっ壊すやつで、隕石群やとロマンがないし、流星群はもうあるし、じゃあ彗星に」

「ちなみにどっち?」

「三冠馬じゃ、ない方」

「はい、わかりました」

「あなたは洋食店経営で、脚本家ではないですよね」

「けど、最終選考30は本当や。総数12016は盛り過ぎたけど」

「本当は?」

「1236、賞は取ってない」

「ま、まあ。それもすごくないことはない」 

「では、実話ですか?」

「一割弱、くらい。行った場所ぐらいで、中身の会話内容は全然違います。そして、5話が最終回です」

「ほいで、本物の志織さんとは?」

「指一本触れてません」

「会ってからどれくらい?」

「半年くらい」

「……あんた、それは逆に失礼や」

「要するに、奥手なあなたがモタモタしている間に、この人に彼氏ができて、あなたはフラれた。と」

「いま、胸に杭打たれた」

「それだけの事をよくもここまで、話広げられましたね」

「返す言葉もございません。」

「後半は?」

「当時の、若い時の.....願望です」

「恥ずかしくないですか?」

「とても、恥ずかしい、です」

「お義父さん、こんな熱いひとじゃった?」

「いや、それ、今のわし」

「つまり、昔の貴方に叱咤したと? 妻の私を巻き込んで?」
「私の何倍も何倍も。幸せにしてあげんさいね?」
「今の生活にご不満が?」

「すいません。つい、勢いと言うか、筆が、乗ったと言うか」

「その人との連絡は?」

「もう、連絡先は消してます。その人に最後に電話したのは、フラれてから3年後、こっちに帰ることになって」

「ありがとう、元気でね、幸せになってね。と連絡しました」

「それっきりです」

「ふ〜ん」

「その時、俺がフラれた時の彼氏さんと、結婚して、お子さんももうすぐやったらしい」

「俺、旦那さんを、ボロカスに書いてしもうた。どうしよう」

「まあ、貴方にとっては、憎い恋敵やから、仕方ないでしょう。もう30年近く前の話ですし。」

「正直、びびってます」

「実際は、会ったことも、話したこともないし」

「では、本物の志織さんに言われて、心に残った言葉は?」

「今のままだったら、あなたは、この先、何人と出会って、何回恋をしても、全部”いい人”でおわっちゃうよ。男が”ただのいい人”になったらおしまいだよ。と言われました」

「無節操で軽薄もやけど、鈍感で奥手も、ある意味女泣かせやね」

「今なら、意味がわかります」

「まあ、その本物の志織さんは、私にとっては恩人やね」

「なんで?」

「帰ってきた貴方に、見つけてもらえて、貴方は不器用にグイグイ来て、杏奈と梨夏にも会えて、幸せにしてもろうてます」

「…..ゆみかん」

「杏奈もこの春から大学生、梨夏は高校生、2人とも、どんな恋愛をしていくんじゃろうねえ」

 由美加と幸弘は遠い目でつぶやいた。

「あの、改札の向こうのホームに降りていく後ろ姿は、よう忘れんわ。けど悲しい思い出と言うよりは、今の毎日の幸せをくれた、大事な思い出やな。」

「けど、ゆきくん」

「なんでしょう?」

「せめて、妻とのエピソードも入れんのん? 普通は」

「お前とは、現在進行形、アイ、エヌ、ジーじゃから」

「恥ずかしくないですか?」

「とても......恥ずかしいです」

「けど、ひとつ入れとるぞ」

「どこに?」

「お前は俺の人生の全てじゃ」

「それが、28年前にできてたらなあ、ま、私にとっては、良かったけど?」

「お前じゃから、言えるんじゃ。20年一緒におるけえの」

「何で今更、書こうと思うたの?」

「心残りやったんやろうな。もっと早よう伝えるものは、伝えたらよかったって。どっかに棘が刺さったままで、ケリをつけたかったんやろ」

「棘は抜けましたか?」

「抜かんで良いじゃろ、と思うた。今の幸せの為に必要なもんやと、実感できたからの」

「これからも、頼みますよ」

「ほじゃあ、夜の部の仕込み、始めるか!」 

 同じ頃。
 東京のとあるオフィス街にあるデザイン事務所。
 所長室のデスクに腰を下ろした女性が、スマホ画面を見つめて笑顔をつくる。
 それを置いて、視線は窓の外へ、眼下に伸びるあの橋へ視線を落とした。
 そして、誰に聞かせるでもない声で呟く。

「よかった。元気そうで」
 
 
本物の志織さんへ。
届かないことを知りつつ、楽しい思い出と、今の幸せな毎日を貰った、感謝の気持ちをこめて。
 
どうか。幸せでありますように
 
                  田澤幸弘

彗星群 ほんとのおしまい
 

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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