第13話 ユズ、覚醒
昼食を終え、いずみ亭を出ると、一行は二台の車に分かれて山道へ入った。
先導するのは幸弘の軽バンだ。
久羽乃の町並みを抜けると、道はすぐに細くなり、ゆるやかな上り坂から林の中へ入り、カーブをいくつも越える。
しばらく走ると、幸弘の車のブレーキランプが光った。
開けた場所に出る。
そこには、小さな校庭と、古い校舎が静かに佇んでいた。
鉄棒と滑り台は色褪せているが、草はきれいに刈られていて、校庭はしっかり手入れされていた。
車を降りた幸弘が、校舎を振り返る。
「ここは、廃校になった学校でね」
「今は集落活動センターとして使われていて、宿泊施設にもなっているんだ」
一同が見上げる先には、二階建ての校舎と、小さな体育館。
裏手には山が迫り、蝉の声があたり一面から聞こえてくる。
幸弘は続けた。
「ここで祭りまでの一週間、君たちには合宿してもらいます」
「食事は私が届けるから安心してほしい」
一同は校舎の中へ入る。
最初に声を上げたのはミナだった。
「すごい……」
「教室が畳敷きになってる」
靴を脱いで上がった峯岸も、辺りを見回す。
「図書室も、本がそのままやん」
本棚の前で、ユズが厚めの一冊引き抜き、宮坂がそれを覗きこむ。
「ごんぎつね……こんな長い話やっけ?」
「短編集なんだよ、きっと」
聡志が、興奮気味に声を上げた。
「すげえっす! お父さん。お世話になります」
聡志の顔を見て、少しだけ口元を緩める幸弘。
「なんとなく……君には、お父さんと呼ばれたくないなあ」
「すいません、じゃあ……」
「マスターで、お願いします」
幸弘はひとつ咳払いをすると、掌を廊下の奥に向けた。
「じゃあ、女性陣はA組、男性陣はB組だ」
「荷物を置いたら、稽古場へ行こう」
「澄水座のみんなも、もう集まっているはずだ」
集落活動センターの体育館に入ると、広い体育館の中央に、三人の男性が並んで立っている。
そのうちの一人の顔を見た瞬間、杏奈の表情がぱっと明るくなる。
「健作にいちゃん!」
呼ばれた男が笑って手を挙げた。
がっしりとした体つき。
肩幅も広く、腕は丸太のように太い。
「おう、杏奈」
「久しぶりじゃの、元気にしとったか?」
その様子を見て、峯岸が小声で杏奈に聞く。
「知り合いなん?」
幸弘が代わりに答えた。
「彼は私の従兄弟でね」
「杏奈と梨夏も、ずいぶん可愛がってもらったんだよ」
「でも健作にいちゃん、自衛隊は?」
「今は帰って来て、ホームヘルパーをさせてもろうとる」
「にいちゃんムッキムキやから、介護の人も助かるね」
健作が照れ笑いを浮かべる。
杏奈はその隣の男性へ視線を移した。
作務衣姿で、髪の毛は綺麗に剃り落とされて、体育館の強い照明に反射して輝いている。
「……和尚さん?」
「禿谷秀然(かむろだにしゅうぜん)です」
「詮覚寺(せんかくじ)という寺の住職をしております」
「学生時代は落研にいましてね」
「面白そうだなと思って、こちらの劇団に参加させてもらってます」
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げると、幸弘がうなずいた。
「うちの墓も、秀然さんの寺にあるんだ」
そして、三人目へ視線を向ける。
「それから、もう一人、高梨雄吾くん」
背の高い男が、静かに一歩前へ出た。
「高梨雄吾です」
「五年前に地域おこし協力隊でこちらに来て、そのまま移住しました」
「三十二歳です、今は農業をしています」
まっすぐに頭を下げると、その仕草を見て、ユズはなぜか一瞬だけ目を外しそびれた。
幸弘が一同を見渡す。
「この三人が、島の青年団役だ」
三人がそろって、もう一度頭を下げる。
「よろしくお願いします」
それを合図に拍手が起こった。
雄吾が台本を軽く持ち上げて、一同を見渡した。
「それじゃあ、皆さんお疲れだろうから、今日は軽く、セリフ合わせをしてみようか」
その落ち着いた声に、自然と全員の視線が集まる。
健作が一歩前へ出て、ミナを見た。
「梁本美奈世(やなもとみなせ)さん」
「はい」
「あなたは僕と、秀然さんと、あっちの方でやろうか?」
そう言って、体育館の隅を指差す。
ミナが頭を下げると、秀然が穏やかに応えた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いしますね」
今度は、雄吾がユズへ視線を向けた。
「じゃあ、大橋柚乃さんは、僕と丘の上の場面を合わせようか」
「お願いします」
「あと……ユズって呼んでください」
「呼ばれ慣れてるんで」
「わかった、よろしくね」
「ユズさん」
その言い方に、ユズは一瞬だけ息を止めた。
(なんやの?この包容力……)
体育館の端のベンチに、雄吾とユズが並んで腰掛けた。
雄吾が片手に台本を持ち、手振りで状況を解説していた。
「いいかい?今、僕らは島の丘の頂上にいる」
「周りは三百六十度、海だ」
「そこで、売れないアイドルのユズちゃんが、悩みを吐露するんだ」
「イメージできる?」
「なんとか……」
「大丈夫だよ」
「最初は難しいよね」
「何回かやっていくうちに入っていけたらいい」
「じゃ、やってみようか」
「お願いします」
雄吾が、すっとユズの隣に腰掛けた。
ユズの顔を覗き込む。
その瞬間、空気が変わった。
「……あんたに、この景色、見せたかった」
ユズの体が一瞬、固まる。
「え?」
「な、なんで……ですか?」
雄吾は、遠くを見るように目を細めた。
「ずいぶん疲れた顔、しとったからな」
「わしらには想像もつかんもんを、色々抱えとるんじゃろ」
「あなたには関係ないです」
ユズの声が少し強くなる。
雄吾は、かすかに笑った。
「そらそうや」
「やから、俺に言えることは、なんもない」
(やば……何この人)
雄吾は作り笑いのような表情を浮かべ、ため息をこぼした。
「この場所はな、わしら島の人間には、珍しゅうもなんともない場所や」
「……じゃけど」
「悲しい時とか、悩んだ時とか、みんな、なんとなくここに来る」
ユズは立ち上がり、周りを見渡すような素振りを見せる。
「私には……珍しいです」
「こんな一面の海」
雄吾の眉が動いた。
(……へぇ、この子なかなか……)
「珍しゅうもないが、島の人間はみんな知っとる」
「ここに来たら、ちょっとだけ楽になるってな」
そして、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「……あんたに、この景色、見せたかった」
ユズの目が、急に熱くなる。
次の瞬間、涙がぶわっと溢れた。
ユズの喉が、ひとりでに開いた。
(やばっ)
「小さい頃からの憧れだったんです」
「だけど、いざ入ったら、メンバー同士の競争で……騙し合いとか、足の引っ張り合いばっかりで」
「ほうか」
雄吾はただ、それだけを返した。
「この前も、控室の扉の向こうから、他のメンバーが私の悪口言ってて、聞こえたんです」
「私が扉を開けたら、何もなかったみたいに笑って、お菓子あるよ、って」
「もう……人が信じられなくなってて」
(……ちゃんと、自分の役を理解してるな)
(少し、突っ込んでみるか)
雄吾がポツリと、台本にないセリフを付け足した。
「ミナさんもか?」
「あの子は、同期で入って、一緒に住んでます」「一番信頼してるんです」
「ずっと一緒に頑張ってきたし……だけど、正直、疑ってしまってる自分もいて」
次の瞬間、雄吾の声が変わった。
「――はい、カット」
さっきまでの男とはまるで違う、落ち着いた声だった。
ユズは涙をこぼしたまま、瞬きを繰り返す。
「良いセリフ、出たね」
ユズは、泣いたまま頷いた。
「ミナさんのくだり、台本にはないよね」
「でも、自然な言葉だったよ」
「……はい」
雄吾はうなずく。
「君が、実際のミナさんを信頼してるのがよくわかったよ」
「だけど、この役のユズちゃんのキャラクターとして、すごく自然なセリフだった」
「疑ってる相手への怒りじゃなくて、疑ってしまう自分への憤りが、ものすごく出てた」
ユズはしばらく声が出せず、ようやく小さく言った。
「ありがとうございます」
「これ、使おうね」
「あとでマスターにも話しておくよ」
雄吾はやわらかく笑った。
「役に入るって大変だよ?」
「君はそれが自然にできてる」
「このアイドルのユズちゃんとして、彼女が置かれている状況なら、言うであろうセリフがナチュラルに出た」
「役を理解して、なりきってる証拠だよ」
「凄いことだ」
終始穏やかな口調で続ける雄吾。
「君は、いい感性を持ってる」
「初めてのセリフ合わせで、そこまで気持ち、入れられないよ」
ユズは目元を拭いながら、小さく首を振った。
「それは……雄吾さんが、リードしてくれたからで」
「ほんとに?嬉しいな」
「ありがとう」
ユズはまだ熱の残る頬のまま、言葉を探す。
「……簡単に、引き出しをあけてくれたからです」
「良い表現だね。よろしくね」
「よろしくお願いします」
頭を下げるユズに、雄吾はやわらかく言った。
「一旦、休憩しようか」
少し離れた場所でその様子を見ていた男性陣がぼそっと呟いた。
「落ちたわ」
「落ちたね」
「陥落だ」
眼鏡をかけた杏奈は、体育座りのまま無言で眺めている。
(……うち、お芝居初じゃのに)
(なに?この役……)
ユズの涙の熱がまだ頬に残っていた。
そして、胸の奥では別の震えが生まれる。
(これやったんや)
(今の感覚……)
(聡志や海斗が、ふっと入っていくゾーン)
(役になりきるって、他人になることやない)
(自分を消すことでもない)
(自分が、自分のまま)
(役になることやったんや)
体育館のベンチで、ユズの心に今までになかった光が、ゆっくりともった瞬間だった。
その夜、校庭の端に設えられた簡易のバーベキュー場では、すでに炭の匂いが立ち上る。
澄水座のメンバーとプラネットランドの一行、そこへ由美加と梨夏も加わり、長いテーブルを囲んだ。
幸弘が缶ビールを掲げる。
「よし! PLANET LANDの諸君!そして澄水座のみんな!今日はよう来てくれた!」
周囲から笑いが起きる。
「乾杯!」
「乾杯!」
缶やコップがぶつかり合う音が広がった。
校庭のあちこちでは、澄水座の面々とプラネットランドのメンバーが入り混じって、賑やかに笑いあっている。
少し離れたベンチに、ユズは紙コップを持ったまま腰を下ろしていた。
そこへ雄吾が歩いてくる。
手には焼き網から外したばかりのとうもろこしが二本。
「はい」
「俺が育てたやつ」
一本を差し出され、ユズは慌てて受け取る。
「ありがとうございます」
雄吾は軽くうなずき、そのまま少し間を空けて隣に腰を下ろすと、ユズが先に口を開いた。
「雄吾さんのお芝居……すごいですね」
「そうかな?」
「さっきのセリフ合わせ、別人みたいでした」
一瞬ハッとした表情をするも、直ぐにまた穏やかな表情に戻した。
「昔、ちょっとやってたからね」
「東京では、劇団にいたんだよ」
ユズの手が止まる。
「劇団?」
「銀河座って知ってる?」
その名前に、ユズは目を見開いた。
全国的にも有名な劇団だ、複数の組があり、それぞれが全国各地で公演を行なっている。
「そこの研究生だった」
「……凄いじゃないですか」
「でもまあ……芽は出なかったけどね」
雄吾は、遠くに見える山の稜線に視線を向けて、淡々と語り始めた。
「才能ある人って、本当にいるんだよ」
「努力とか根性とか、そういう話じゃなくて」
「最初から違う人って、やっぱりいるんだよね」
「それで……?」
ユズが小さく促すと、雄吾は肩をすくめた。
「時々端役は貰えたんだけど、普段はバイトして、稽古して、またバイトして」
「その繰り返しだった」
「ある日ふと思ったんだ。このまま東京で消えるのかな、って」
目線がさらに遠くを見つめていた。
「そんな時、地域おこし協力隊の募集を見つけてね」
「農業……ですか?」
「うん、どうせならまったく違う土地で、違うことをやってやろうと思ってね」
「来てみたら、人も町も、本当にいい所だった」
「じゃあ……そのまま?」
「そのまま」
雄吾はあっさり答える。
「最初は、芝居なんてもうやらないと思ってたよ」
「でも、ここに澄水座があって」
「少し手伝ってって言ってくれたんだ」
「主宰の方直々に」
「主宰の方?」
「もう直ぐお見えになるよ、とにかく凄い人」
雄吾は、とうもろこしにもう一口かじりつき、ユズの手元を見る。
「ユズさん、とうもろこし、冷めちゃうよ」
「今年は自信作なんだ、味見してよ」
我に返ったユズが、慌てて口に運んだ。
「……甘!」
「そうでしょう、昼夜の寒暖差が激しいこの地域だから、メロン並みの糖度になるんだよ」
その味に夢中になるユズを見た雄吾は、嬉しそうに呟いた。
「君は、自分の感情に素直になれるから、自分のままで役に入れるんだろうね」
先程のユズの言葉が、頭をよぎる。
(……別人みたいでした)
次の言葉は、ユズには聞こえないように続ける。
「……俺にもそれができていたら」
「正直羨ましいよ」
「俺は、別人にならないと役に入れないから」
ユズは、あっという間に芯になったとうもろこしに気づくと、恥ずかしそうに、雄吾の顔を見た。
「雄吾さん、美味しかったです」
「うん、ありがとう」
「一気に食べてもうた……恥ずかしい」
頬を染めるユズに、雄吾は噴き出してしまう。
「いやいや、生産者としては最高に嬉しいよ」
「また取って来るから待っててね」
立ち上がり、煙の立ち昇る方に向かおうとして、もう一度振り返る雄吾。
「君となら、良いお芝居ができそうだ」
「よろしくね、ユズさん」
雄吾の笑顔は、夜の照明にその輪郭を縁取られ、日に焼けて精悍な顔立ちを際立たせた。
ユズは釘付けになってしまう。
「……はい、よろしゅう……お願いします」
「……雄吾さん」
テーブル席では宮坂が座った目で黙々と作業を始めていた。
紙コップを折りたたみ、積み上げていく。
その様子にミナが頭を抱えた。
(……ま〜た、始まったよ)
峯岸が恐る恐る尋ねた。
「……ゆうま?それ、なんや?ライオンか?」
座った目をゆらりと峯岸に向けると、ニタリと薄笑いを浮かべる。
「……この頭を乗せたら、わかるよ」
胴体の上に、そっと頭を置くと、聡志が目を見張った。
「スフィンクスだ……紙コップの……」
「バリエーション、豊かだな」
ご満悦な表情をして、ミナをじとっと見つめ始める宮坂。
ミナは目を逸らし、先回りして気のない返事をする。
「あー、すごーい、すごいすごい」
すると、現れた幸弘が覗き込んできた。
「へえ〜、器用だね〜」
宮坂は気を良くしたのか、表情を変えず幸弘を向く。
「……マスター」
「ん?なんだい?」
「……好きな映画って……なんですかぁ?」
その瞬間、聡志が幸弘と宮坂の間に割って入った。
「あ、あはは、なんでもないんです!なんでもないですから」
慌てた峯岸も加わった。
「ほんま、気にせんといてください、今の彼はほんまの彼とちゃうんで」
二人が声を揃える。
「飲んで、飲んで、飲まれて、飲んでますんで!」
少し離れた場所で肉を焼いていた杏奈と梨夏が、その様子を見て顔を見合わせる。
二人は同時に小さく呟いた。
「……むしろどうなるんじゃろ」
「宮坂さん」
ヘラヘラとした宮坂を前にして、腕組みをして視線を落とす幸弘。
「映画、お好きなんですよね〜、素晴らしい脚本書かれてるし……」
「ちょっと、ゆうまあんた!」
たまりかねて、立ちあがろうとしたミナだったが、幸弘が顔を上げた。
嬉しそうに、目を輝かせている。
「それ、聞いちゃう?」
その一言に、弾んだ声で矢継ぎ早に言葉が重ねられていった。
「それはいい質問だ」
「まずね、親父の影響で西部劇から入ったんだ」
「イーストウッド、ジョン・ウェイン」
「宮坂くんは誰が好きかな?」
「僕は――」
しかし、すぐに遮られる。
「それから三十年代の大映映画、邦画なのにスケールが違う」
「あと市川雷蔵」
「あの色気、すごいよね」
「……あの」
一向に口を挟めない宮坂。
「ベンハーとか、十戒とか、あのスケールで今見ても色褪せない」
「海が割れるシーンなんて、圧巻だよ」
「日本の特撮技術もね、今はみんなCGだけど、八十五年版ゴジラのあの質感は見事だよ」
「マスター?」
「それから八十年代、九十年代のハリウッド映画音楽なんか最高じゃない?」
『♪ネバーエンディングストーリー』
「……」
「映画はね、人生そのものを映すよね」
「私は『ショーシャンクの空に』が一番だね」
「頑張って死ぬか、頑張って生きるか」
「おれは、生きるぞ」
「……てね」
聡志がポツリ呟いた。
「ゆうまの絡みが、全く通用しない」
「杏奈といい、マスターといい」
「田澤家、すごい」
その時。
校庭の入り口の向こうから、車のヘッドライトがまっすぐ差し込んできた。
焼き網の前にいた団員の一人が、小さくつぶやいた。
「……お見えになったな」
何人かの団員が、ぱっと顔を上げる。
次の瞬間、数人が車の方へ駆け寄った。
杏奈が振り向き、父を見る。
「お父さん、誰が来たん?」
幸弘はビールを片手に、どこか楽しそうにその様子を眺めていた。
「この劇団の主催者」
「かつて、国際映画祭を受賞した映画監督」
車のドアが開き、ゆっくりと一人の老人が降り立った。
「久保崎慎二さんだ」
ユズは無意識に隣の雄吾を見ると、彼はほんの少しだけ目を細めて、その老人を見つめていた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。