第13話 怨嗟の火種
東京に戻った広美は、剣持事務所を訪れていた。
会議室には、剣持、高部、恵美、そして藤村が揃っている。
「概ねこちらの条件は受け入れました、職場に口外しない、というのが効いたようですね」
「本当に、先生方、恵美さん、藤村さん、皆様にはご迷惑をおかけしました」
あらためて深々と頭を下げる広美。
「だけど、元の会社では悪評が広まったままになるんでしょう?」
恵美が心配そうに、広美の顔を覗き込んだ。
「……そうですね、でも、元々あの人に引き込まれた会社だったから、未練はないです」
「もし、次の職に対して影響がでる、悪評が社外にでて、再就職に影響するなら、次の手を考えましょう」
剣持が、藤村と視線を合わせると、黙って頷く。
「……これからどうされるんですか?」
「高知に帰って、ゆっくり考えたいと思います」
「剣持先生のおかげで、当面の生活には困らないですし」
「まだ目覚めない父のお世話に、専念します」
藤村が顔を伏せた。
一方的とは言え、相当な恩義を感じている人間の容態のことだ。
その身を案ずることは、当然である。
今度は恵美が広美に笑顔を向ける。
「広美ちゃん」
「あなたはまだまだ、若いんだから」
「周りを見て、大切にする人、してもらえる人を、しっかり見極めなさい」
「焦ったらだめよ、今回みたいに」
広美の目に、また涙が溜まる。
「本当に……何から何まで……ありがとうございました」
その場に深々と頭を下げると、剣持と共に退室した。
高部が、そっと口を開く。
「……ひとまずは、一段落ですね」
「そうですね……正直、あの子に対しては、複雑な気持ちもあるけど」
「あの人がやったことや、言ったことを考えたら……申し訳なさが勝っちゃう」
すると、こんどは藤村が新しい書類の束を机に差し出した。
「これは、うちの事務所が独自で調査したものです」
「やっぱり……広美ちゃんだけじゃなかったのね」
高部がその証拠を取り、目を凝らす。
「……なるほど、これは…奥様、どうしますか?」
「もう離婚は成立したんだし、これ以上関わりたくはないの」
「あとは、藤村さんに任せます」
藤村が、封筒に資料の束を収めて立ち上がり、一礼をして退室した。
「藤村さん……ごめんなさいね」
「あなたを袖にして、選んだ相手が、こんなだったなんて」
閉じられた扉を見つめながら呟く。
高部はただ、無言で眼鏡を拭くだけだった。
「うちの取材は受けないとは……どういうことなんですか?」
競馬ナイン編集部では、山田編集長が、電話口で驚愕していた。
『どうもこうもないでしょう、沖浜広美さんは、うちの先代のお嬢さんです』
『先日のお宅の記者の態度、明らかに侮辱行為ですよ、そんな雑誌に答えるつもりはありません』
電話の向こうでは、洋平の淡々とした声が続く。
山田は冷や汗をかきながら、辿々しく返答するしかなかった。
「……それは、沖浜が上司に対するストーカー行為がありまして……」
『それは、事実なんですか?』
『両者から、周りの方たちからも話を聞いたんですか?』
「……いや、その上司から相談を受けまして……」
「そしたら、退職願を出してきたので、真実かと……」
洋平は電話口に聞こえるほどの、大きなため息を吐いた。
『……おたくら、マスコミやろ?裏取りせんのですか?』
『ますます信用できませんね』
「しかし……それは、あまりにも私情を挟みすぎでは……」
『さっき言いましたよね、裏取りもせん雑誌は、信用できんと、何を書かれるかわかったもんじゃない……』
返す言葉を失った山田が、ぎゅっと唇をかんだ。
『とにかく、しっかり社内調査をして、回答してください』
『それがない限り、うちはお宅の取材は受けません』
『ヘールボップの、北林オーナーも同じ意見です』
山田は呆然と電話を切ると、頭を抱えて机に突っ伏した。
近くの若い記者が、声をかける。
「どうしたんですか?」
「……武政厩舎と、北林オーナーが、ヘールボップの取材を断ると……」
すると、上崎が顔を上げ、山田と目が合う。
「沖浜の件、他に誰か、上崎に言い寄っていたところ、見たことあるやついるか?」
誰も返事をしない、やがて大勢の視線が上崎に集まった。
その時だった。
一本の内線が入る。
山田の机だ。
『受付です、山田編集長、実は……』
「わかった、空いてる会議室へと案内してくれ」
電話を置くと、きっと上崎を見て言う。
「お前も来い、来客だ」
「……誰です?」
「日置さん……て、若い女性らしい……」
その名に、上崎の表情が凍りついていく。
「……なぜか、お前と沖浜が親密にしている写真を持っているらしい」
上崎の目が見開かれ、明らかに血の気の引いた顔で、口元は小さく震えていた。
会議室に着くと、すでに着席していた女性が立ち上がり、封筒の中身をばら撒いた。
「あんた、これどういうことよ!」
挨拶もなく喚く女性。
山田が写真を見ると、広美と上崎の親密な関係を立証するものばかりだった。
慌てて写真の広美を指差す上崎。
「……誰に貰った?こいつか?」
「あいつ……会社には言わないって……」
「違うよ!私が頼んだんだよ!探偵に」
山田と上崎が、女性、日置を凝視する。
日置が続ける。
「……奥さんと別れるのに、金がいるっていうから……」
「……あんなところで働かせて……」
「……上前跳ねて……」
「おい!やめろ!それ以上は……」
掴みかかろうとする上崎を、山田が制止する。
「どうぞ……おかけになって」
「続けてください」
上崎はひざまづいて、頭を抱えることしかできなかった。
夕刻、ビルを出た日置は、真っ直ぐにとある喫茶店に入る。
そこには、藤村の姿があった。
恐る恐る、向かいの席に腰を下ろす。
「首尾はどうでしたか?」
「はい、彼は謹慎、その間正式な処分が決まるそうです」
藤村は満足そうに笑うと、メニューを開いて薦めた。
「はっきり言って、あの男があなたにした行為は犯罪です」
「あなたの分の証拠をお渡しすれば、訴えることも可能です」
「弁護士の先生も、紹介できますが……」
冷静に話す藤村だったが、日置は首を振る。
「もう、何もかも忘れたいです」
「訴えたりしたら、故郷の両親にも、私がやっていた仕事がバレてしまいますから」
藤村は、コーヒーに口をつける。
そして、口角を上げた。
「それも良いでしょう」
「全てを忘れて、新しい人生を始めれば良い」
日置は、不安そうに藤村の顔を覗き込む。
「それで……奥様は……」
「奥様は、これ以上彼と関わる気はないとおっしゃっています」
「ですので、今回のことは、私からの依頼でした」
「あの男を、地獄の底まで叩き落とすための……ね」
にこやかな表情で話す藤村の姿が、逆に畏怖の念を抱かせる。
日置は思わず顔を伏せた。
「これで……」
「あなたは……自由だ」
この言葉が、上崎のコントロールから、彼女を完全に切り離した。
長いため息を吐き、肩を落とす。
「今は……心底ほっとするだけです」
「時間が経てば……色々思い出して」
「泣いちゃうんでしょうね」
藤村は、もう何も言わない。
立ち昇るコーヒーの香りを楽しみながら、そっと口に運ぶだけだった。
数日後、上崎は編集部ではなく、出版社全体の査問委員会に呼び出され、会社上層部からの詰問に、ひとつひとつ答える。
途中、何度も問いただされ、言葉に詰まるとまた、別の言葉で責められる。
下った処分は、懲戒免職。
さらに、社内に流布させた悪評の訂正。
他にも、いくつかの処分が重なっていた。
ひとり残された上崎。
呆然と椅子に座り、自分の足元を見つめる。
(なんで……なんでこうなった?)
(あいつが、あの店にいなかったら……)
(あいつが、沖浜万次郎の娘じゃなかったら……)
(……そうだよ、全部あいつが、あいつが悪いんだ)
乱暴に立ち上がり、座っていた椅子を思い切り蹴り飛ばした。
「……広美、お前だけは、絶対に、許さねえぞ!」
人のいない大会議室に、上崎の叫びだけがこだまするのだった。
「……そう、お疲れ様でした」
恵美が、自宅で電話を切る。
祖父母と共に無邪気に笑う子供達。
その明るい笑い声に、恵美の傷んだ心が、絆されていくのを感じながら。
恵美への電話を切った藤村は、ビルのベランダから外を見下ろして目配せをし、軽く頷いて、バーの扉を開いた。
そのバーのカウンターでは、上崎が一人酒を煽っている。
その隣に、藤村の姿が腰を下ろして話しかける。
「今日はお一人ですか?あの情熱的な彼女さんは?」
虚ろな目を向けた、上崎が、またグラスを煽った。
「……あんた、あの時の…」
藤村の存在に気づいた上崎は、しばしの沈黙のあと、ぽつり、ぽつりと身の上を話し始めた。
「……そいつぁ、ひどい」
「大変な目に遭いましたね」
同情をされた上崎は、機嫌を良くしたのか、口が滑らかになって行った。
「あのクソ嫁とガキどもに、二千万、あの女に一千万だとよ、ふざけんなっつうんだよ」
「でも、払うもん払わないと、あなた刑務所行くんでしょ?そうなったら大変だよ?」
「そんな金は、ありませ〜ん!」
藤村が、急に真顔に変わり、上崎の肩に手を置いた。
「だったらさ、いい金貸し知ってるよ」
「3000万くらいぽーんって出せる」
「紹介しようか?」
泥酔している上崎の声が大きくなって行った。
「そいつぁいいや!頼んでいいかい?」
「じゃあ、今から呼ぶよ」
しばらくして、フラフラになった上崎は、震える手でサインをし、しっかりと拇印をついた。
現れた二人の男が、スーツケースと共に上崎の両脇を掴んだ。
「……おい、なんだよ、これ」
「あんたさあ、借りた金って返さなきゃ行けないの、知ってるよね」
藤村は、グラスに口を付けて向き直る。
「安心しろ、奥さんと沖浜さんへの送金は、この人達がやってくれる」
「騙しやがったのか?」
その一言に反応した藤村が、上崎の襟首を掴んだ。
「それはてめえだろうが……てめえは、一生山奥の飯場でくらすんだよ」
「自業自得だ、クソ野郎」
その後、上崎は喚きながらも無理やり店から引きずり出されるように、姿を消した。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。