第十二章 交差
選択書が届いたのは、新法成立から三日後だった。
一、無期懲役。
二、仮想処刑執行。執行後、反省が認められるまで継続。
由理恵は、書類を机に置いた。
光希。お母さんはどちらを選べばいい。
一を選べば、人権活動家として筋が通る。加害者にも人権がある。それが私だった。
でも。あの男は十年間逃げた。私を人権ばあさんと呼んだ。
由理恵は、ペンを取った。手が、止まった。
光希。お前ならどちらを選ぶ。
返事はなかった。窓の外に、黄色い蝶がいた。
由理恵は、ペンを握り直した。気がつくと蝶はいなかった
選択書を送った翌朝、担当者から電話が来た。確認です。第二選択、仮想処刑執行でよろしいですか。
はい、と言った。声が、思ったより静かだった。
一度目の執行が終わった。担当者から報告書が届いた。被執行者の反省度、表面上は良好。謝罪の言葉あり。涙あり。
由理恵は報告書を読んだ。表面上、という二文字が目に入った。
面会を申請した。影山は、別人のようだった。うつむいて、声を震わせた。本当に申し訳なかった。光希さんのご冥福を、心からお祈りしています。
由理恵は、その顔を見た。テレビで見た顔だった。目が、笑っていなかった。
帰り際だった。影山が小声で言った。
「早くしろよ。人権ババア」
由理恵は、振り返らなかった。
その夜、請願書を書いた。反省が認められない。再執行を要請する。
ペンを置いた。光希。お母さんはまだ、正しい側にいると思っている。
部屋は、二つあった。同じ構造だった。同じ白さだった。同じモニターが、置かれていた。
一つの部屋に、由理恵がいた。もう一つの部屋に、利勝がいた。
モニターが、同時に点いた。一方の画面に、影山がいた。もう一方の画面に、飯島がいた。どちらも、同じ光の中にいた。朝だった。
由理恵は、影山を見ていた。利勝は、飯島を見ていた。
机の上に、スイッチがあった。幸福度。
由理恵の指が、動いた。影山の幸福が、上がる。穏やかな顔。涙が、落ちる。
利勝の指も、動いた。飯島の幸福が、上がる。同じように。
影山の記憶は、ろくなものではなかった。
小学二年。貧乏。いつも同じ服。臭い、汚い、気持ち悪い。そう言われる側だった。
いつもひもじかった。寒かった。痒かった。時々痛かった。そしていつも寂しかった。
楽しい思い出は無かった。
突然、その瞬間はやってきた。母と銭湯に行った。
銭湯の湯は熱く、心地よかった。身体を洗ってもらった。シャンプーしてもらった。
もう上がろう 母について行った。湯上がりの「コーヒー牛乳」を初めて買ってもらった。
自然に腰に手がいった。痒くなかった。寒くなかった。そして 寂しくなかった。
家に帰ると、父親が土産を持って笑っていた。些細な幸福だった。こんな幸せ初めてだった。影山は、笑っていた。
由理恵は、それを見て腹が立った。
光希は、もう笑うことさえできないのに。
怒りで手がこわばる 右廻り目一杯
光希と繋いだ手が 光希を撫でた手で
回れ回れ回れ回れ
回せ回せ回せ回せ
叫び続ける もっと もっと
消えろ 消えろ 消えろ
利勝も目盛りをあげた、止めなかった。さらに上げた。制限まで。押し切った。
飯島の表情が、変わる。不自然なほどの幸福。理解が追いつかない顔。しかし それは
一瞬だった。そのまま壊れた。明らかな戸惑いの表情。こんなに早く崩れるとは思いもしなかった。
由理恵の画面でも、同時に影山が壊れていた。だが 見守る二人は違っていた。
由理恵は、泣いていた。利勝は、泣いていなかった。
由理恵は、止めなかった。利勝も、止めなかった。
次が、始まる。同じ朝だった。同じ光だった。
影山が、また笑った。飯島も、笑っていた。さっきと同じはずだった。しかし違っていた。ほんの少しだけ。崩壊が始まっていた。
かつて、職場で揶揄された「Mr.クロム」の輝きは、そこにはなかった。
今の利勝は、完全な「六価クロム」へと変質していた。まるで黄色を混ぜてしまったみたいに幸福という猛毒を、飯島の脳内に静かに、しかし致死量まで注ぎ込んでいく。暗黒が全てを飲み込んだ。
利勝の指が、動いた。わずかに。数値が上がる。ほんの少し。それだけだった。だが。壊れ方が、加速した。
飯島の目が、揺れた。理解が追いつかない。幸福が先に来る。その後に、壊れる。順番が、
逆か正しいか境目がなくなった。
由理恵は、回していた。泣きながら。止めようとは、思っていた。思っていた。それでも。
しかし止めなかった。
利勝は、調整していた。差をつけていた。ほんの少しずつ。飯島の幸福を。影山より、わずかに高く。その差で。壊れ方が、変わる。早く。深く。理解できないまま。壊れていく。
利勝は、それを見ていた。初めて。目を閉じた。一瞬だけ。
翔太の顔が浮かんだ。
スイッチを、さらにまわした。もう限界だった。それでも、続けた。意味はなかった。それでも気がすまなかった。数字は変わらない。でも続けた。
利勝は、何も言わなかった。
次が、始まる。止まらない。止めない。二人は、今、ようやくその呪縛から解き放たれる。
これでいい
こレ……言葉が重力の底へ引きずられ、意味を失っていく。
同じ場所に、立っていた。
誰も、止まらなかった。止める必要がなかった。
足元を舞っていたはずの、黄色い蝶のことなど、もう、どうでもよかった
震えた。
由理恵が、声を漏らした。
かつての「白色の象徴」は、今や光さえ捉えて離さないブラックホールに飲み込まれた。
光の三原色が重なって見せていた「正義」という名の白い幻灯は消え、赤と青と黄の絶望が混ざり合い、逃げ場のない黒い塊となる。
私は何でここにいる
光希の服を直した手を
頭を撫でた手を
汚す?やり遂げる?戻す?
誰も、止まらなかった。止める必要がなかった。
幕引きの前に
もう一つの物語 ー青木裕也
遠くで何か聴こえる なんだろう
頭の霧が少しずつ晴れていく。
電話か。今何時? 朝六時三十分
ちょっと早すぎ だれ?
そこにはネーチャンの文字
もしもし 今、羽田空港
お土産何がいい? トップスのケーキ
十一時空港着 あれ トップスは第一だっけ?まあいいわ じゃお迎えよろしく
速攻切れた。あと一眠り出来る
羽田空港 アナウンス ただ今より優先搭乗を開始します。三歳未満の小さなお子様·······
行こう うん カウンターの前 麻生様三名様ですね
家族で初の遠出
もう一つの物語 ー麻生光一
やっとここまでこれた。ベンチに腰掛ける。この頃ちょっと働きすぎた。
ぼんやりとした頭がいつもの事を思い出す。
もし翔太がここにいたら
あの事件を聞いたとき自分自身が分からなかった。友達の死に対して当然の悲しい悔しい辛い等の感情と共にチャンス到来とほくそ笑むいやらしい自分。そう僕は美波の事が好きだった。でもその前に立ちはだかる壁 それが翔太だった。男の自分から見てもこんなカッコいいやつ 他にいなコペルニクス的転回がおこった。でも当時の僕は決して下心ではない。本当に美波を心配した。
潰れそうな心を支えてくれたのは翔太のお父さんの言葉だと思う。完全ではないが
多少吹っ切れた時四人で集まった。
研二が言う
そういえば翔太って素材探査能力が凄かったと思わない?
千尋も続く
そうそう前にこのCD聴いてみってわたされた 大塚博堂の詩 電車の中で泣いちゃった
光一は唇を噛みしめる 今なんか言うと感情に流されそうだった。
研二が言う,哀しみを通せんぼする、か
泣きそうな気持ちを抑える
それと ダスティン・ホフマンになれなかったよ
もし千尋の結婚式に俺が強奪にいったらどうする?
その場合は間違いなく警察に突き出す、ストーカーとして。
美波は という言葉は飲み込まれ最後まで出なかった。
時が解決しようとしていた。少しずつ少しずつ
そして僕は結婚した。
式当日は花嫁が攫われないか本気で心配した。
ダスティン・ホフマンが現れないかと
そして、ついに美波が妊娠した。
男の子みたいだ。名前どうしよう 康平、智 、雅也
いくつもの名前が候補にあがった。なかなか決まらない。
遠くで誰かが叫んでいる。海のバカヤロー
行ってみると翔太だった。満面の笑顔で
「よろしく」ハグされた。そして バカヤローと言いながらいなくなった。
よし決めた
美波の決めたことなら 全て受け入れる。そう思った。
美波に言う。
「美波が名前を決めてくれたら僕は一番嬉しい」
じっと見つめられる。瞳の奥まで
目をそらさなかった。
美波が一言 「ありがとう」
出産立ち会い
緊張で落ち着かない。裕也に
少し落ち着けと怒られた。年下のくせに生意気な
そして日曜日の三時三十分
第一声は「ンギョー」
元気な産声
涙が止まらなかった。
「美波ありがとうね」
そして我が子に問いかける 二人揃って
はじめまして そして おかえり
「翔太」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。