第5話
——なぜ!?
あまりの事態に頭が真っ白になる。
何が何だかまるで分からないが、ここで逃がしてはいけないことぐらいはわかる。
開いた扉の脇で、浅海が床に片膝をついていた。肩を押さえ、顔をしかめている。
今の鈍い音は、彼女が突き飛ばされた音だったのだと遅れて理解する。
「浅海! 追うぞ!」
俺は男を追って駆け出す。
よろめきながらも、浅海は何とか立ち上がり、俺の後ろから続く。
一方で一瞬すれ違った探偵は誰かに無線で連絡していた。
「男が一人降りてくる、確保してくれ。は?法的根拠?それは——」
そう一瞬、一瞬だったが聞こえた。きっと不知火君へ伝えてるのだろう。
この廃ビルへの入り口はいくつかあるが、明確に通れるのは俺たちが入ってきた正面口。
よし、これなら挟み撃ちにできる!
しかし、どうにも男の走る速度が遅い。差はゆっくりと縮まって、もう目と鼻の先までに至る。
それもそうか。数日監禁拘束されていれば、いくら食事が与えられても衰弱する。
階段を駆け下りて、ようやく服の端をつかんだ!——と思ったら破けて逃してしまった。
「くそっ、待て!」
そう言って男へ目を向けなおすと、その男の前に一つの影があった。
不知火君だ。彼は構えるわけでもなく、ただ立っている。だが不思議と隙を感じさせない。
男が彼に近づいて通り過ぎる、通り過ぎた、その瞬間。
「——!」
不知火君は握手のように柔らかく手をつかんで、それを支点に男は半回転した。
「お、おお……」
思わず駆け足が緩んで、そんな感嘆を漏らしてしまうほど綺麗に決まっていた。
一方で浅海はそのまま俺を追い越して男に駆け寄り拘束する。
俺も一足遅れて駆け寄り、浅海に代わって男を抑え、手錠を取り出す。
「くっそ!俺はなんもしてねぇよ!こんな、こんな事していいのかよ!」
男は体をくねらせ、うならせ、何とかもがいている。しかし明らかに力弱く、まるで老人を相手にしているかのようだ。
「そうだな。なにもせず逃げていれば拘束できなかった。だが、うちの部下、職務中の警察官を突き飛ばしたおかげで……。公務執行妨害で22時33分、現行犯だ。」
そう言って彼に手錠をかけた。
いやな刑事になったものだ。まるでドラマに出てくる悪徳刑事じゃないか。
——そういえば探偵は?
と思って後ろを振り返るといた。
息を切らし、顔を真っ青にして座り込んでいる。
……体力なさすぎやしないか?病的な域だぞ。
一方浅海、不知火君は何やら話し込んでいた。
「ご協力感謝します。」
「いえ、追い込んでくださったお陰です。」
「ですが、この場合あなたは暴行罪が成立するのかしら……?」
「……。」
浅海の質問に不知火君は息切れしてまるで瀕死の探偵に目線をやっている。
「はぁ、はぁ、ま、まって。あ、あとで説明するから……。呼吸させて……。」
なかなかにカオスだ。あっちにかかわるよりはこいつを車の中に押し込める作業のほうが楽だろう。
そうして男を覆面パトカーへ押し込み、扉を閉める。
しばらくすると、ようやく巡査が二人降りてきたので彼らに男の対応を任せ、探偵たちの揉め事を収めに向かう。
「あなた……浅海さんかな?あなたが突き飛ばされているのを伝えたから、現行犯人の逮捕に準じた協力として成立するはずですよ。ね?警部。」
「え?あ……うんそうだな。」
着くなり探偵にそう唐突に話しかけられ、しどろもどろになって答えた。
そして探偵は仕切り直すように口を開く。
「さて、警部。人命は助かりました。そして何やら単純な監禁事件ではないようですね?さあどうします?」
わざとらしい口調とニヤついた顔はその身長と容姿によって辛うじて可愛らしく映る。
そして事実、その通りだ。単純な監禁事件じゃない。彼が逃げた理由も、監禁されていた理由も、監禁した犯人もいるかどうかすらわからない。
そして捜査時間も無限じゃない。このまま男がしらを切り続ければこの事件は終わる。
「はぁ。ま、その通りだ。契約を締結しよう。」
「ええ、是非とも。ではお時間ある時にお呼びください。」
そう言って探偵は軽く会釈し、助手に一瞥して共に車へ消えていった。
2026/06/02 23:24 取調室
「たばこ、吸うか?」
取調室へ入った第一声を彼は無視してただ視線を手放している。
「じゃ、俺は吸わせてもらおうかな。」
薄暗い取調室にジッポーの金属音鳴り響く。その余韻はいつもよりも幾分も長く感じた。
一息ついて、俺は話しかける。
「まず聞きたいのは、なぜ逃げた?」
「……」
「……この、sosを出したのは君なんだろう?」
「……」
「sosの血はもう間もなくDNA鑑定が終わる。……見たところ君の右人差し指に血の跡があるな。」
「……」
「何か口止めされていたり、人質を取られているのか?」
「……」
「安心してくれ、警察は必ず、お前たちの安全を確保する。」
「だったら帰してくれ。」
硬い。硬すぎる。だが何よりも堅いのは口じゃない。
彼の目線、態度、細かなしぐさ。そのすべてにおいて隙がない。完璧なポーカーフェイス、動揺を一切感じられない。
俺はこれに似たような奴を過去取り調べた覚えがある。
極道、諜報員、テロリスト。その類だ。
正直、落ち着いてくれればすべてを話して、探偵の出る幕はなく一件落着。とそんな甘い憶測を抱いていた。
それが、素晴らしくきれいに打ち砕かれる。
煙草をふかして天井を見上げる。
……無理だな。脅しても、すかしても、情に訴えても、こいつが吐く未来が見えない。
「……まぁ、また来る。食事とかなにか、ほしいものがあったらそこの記録係に言ってくれ。それじゃあまた。」
そう言い残して、取調室を出る。まるで逃げるように。
いや、実際逃げだ。あの気味の悪い空間から少し離れたかったのだ。
取調室の扉を閉めて、大きくため息をつく。隣の部屋へ移るとマジックミラー越し眺めていた浅海も心底不思議そうに彼を観察している。
「すごいですね、まったく読み取れません。」
「被害者相手だから強く尋問するわけにもいかん。こっちはこっちで手掛かりがないわけでもないからな。」
「……宜しければ私が対応しても?」
「かまわんよ。ただ、時間も時間だ。しばらくしたら彼を寝かせてやれ。お前も帰って寝ろ。」
「承知致しました。」
そう敬礼して部屋を離れようとする背中を見送りながら今後について思考を巡らせる。
時間をかければおそらくはたどり着くだろう、だが時間があるか?
探偵は鑑識結果がないにもかかわらず、男の位置を割り出した。
もし鑑識結果を共有していれば?もっと早く割り出せたか?……たらればはよそう。
だが、今必要なのは協力だ。
部屋を出る浅海を呼び止める。
「明日、朝一で探偵を呼んでくれ。」
最後にあらがう下らないプライドを潰してそう言った。
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