第15話 獅子の咆哮
夜、宗森厩舎の調教師室にて、宗森と瀧越がテーブルを挟んで向き合っていた。
「しかし、テンペルタットルを送り込んでくるやって」
「中央も去年、おまんにやられたがが、大分応えたみたいやねゃあ、マサ」
宗森の言葉は、どこか感情が籠っていない口調だ。
管理馬のクトゥルフを出走させる予定なのに、どこか他人事のようでもある。
「まあ、どこまで食い下がれるかや」
「結果次第なら、関東や中央へ挑戦する道も、開けるかもしれんねゃ」
茶を啜った瀧越が、湯呑みを置いた。
「……先生、よその厩舎の所属の俺に、あんな強い馬に乗らせてもらえてありがとうございます」
「やけど、今回は、勝つことは、考えてません」
宗森が、眉をひそめた。
「クトゥルフの根性を考えたら、どこまでも、食らいついて行くでしょう」
「けど、やっぱりテンペルタットルに勝つイメージが湧きません」
「ただ、俺らにも意地があります」
「破綻寸前やった南海を、ここまで持ち直した意地、クトゥルフと言う中央に対抗する馬を出した意地」
「けんど、実際問題、俺の見立てでは、今、テンペルタットルを交わせる可能性がある馬は、南海には一頭だけです」
「ヘールボップ、やと言うがか?」
黙って頷く。
「ボップの末脚なら、届くと見てます」
「前が極端に消耗したら」
「先生ならこの意図、わかって下さいますよね?」
宗森はため息をこぼして、目を閉じた。
「……よその厩舎の馬を使うて、自分くのアシストをするつもりながか?」
「気に入らんかったら、騎手を変えてもろうて構いません」
すると、宗森は高らかに声をあげて笑い出した。
「こりゃあ傑作や、自分から言うてくれて、手間が省けたわ」
瀧越が、意外そうに宗森を見る。
「おまんの言う通り、先行して競り合うクトゥルフは、テンペルタットルには相性が悪い」
「それから南海の意地」
「これは、わしにもある」
「自分の所、よそ、そんなもん関係あるか」
「南海の馬が勝つことに、意義がある」
瀧越は立ち上がり、深々と頭を下げて退室した。
宗森は、その背中を見送ると、茶を啜り独りごちる。
「ああいう正直なところが、万次郎の弟子やねゃあ」
「けんど、クトゥルフの底はわしもまだわからん」
「どんなレースになるか、楽しみや」
宗森はそっと視線を上げた。
南海ペガサスカップ
優勝馬 クトゥルフ
昨年獲得した賞状を、ただ無言で見つめ続ける。
未だに残る、そのレースの余韻に浸るように。
夜が明けて、レース前日。
騎手たちは外の世界との一切の連絡を断つべく、調整ルームへと入る。
仁美を見送ったあと、広美は職場へと向かった。
編集室では、昨夜の竹のインタビューと、その録音を確認した編集長が舌を巻いた。
「沖浜さん、流石やねえ、専門的なこともちゃんと掘り下げて聞いてくれて」
「発行は週明けやけど、レース結果と一緒に載せたら目玉記事になるね」
「……ありがとうございます」
胸が弾む。
競馬ナインの編集部にいた時は、常に殺伐とした空気が漂っていた。
日曜のレースが終わったらすぐに記事を書き、月曜には発行される。
広美は地方担当だったので、そのサイクルには組み込まれてはいなかったが、それでもフロア全体が飲み込まれ、気の休まる暇はなかった。
現在の環境とは大きく異なる。
「あと、沖浜さん、ちょっともうひとつ頼みがあるがやけど」
「なんですか?」
編集長が、頭をかきながら、申し訳なさそうに続ける。
「入社早々で申し訳ないけど、明日は競馬場のグルメとか、注目スポットを取材して来てくれん?」
少し身構えた広美だったが、拍子抜けしたように、笑顔になった。
「お安いご用ですよ」
「言うたち、私にとっては、実家みたいなもんやき」
しかし、編集長の本題は、それではなかったようで、まだ言い辛い事を隠しているみたいだ。
「……編集長?」
「ごめん!実は、動画配信で、アナウンサーさんやタレントさんが、予想大会やりゆうがしっちゅうろう?」
「はい……あの、矢野アナウンサーのですよね?」
咳払いをする編集長。
「出演予定やったタレントさんが、スケジュールが押して、出れんなったがやと」
「ほんで、特集をやりゆうウチに話が回ってきたき」
「知識があるがは君だけながよ!」
両手を合わせて懇願する。
「わ、私がですか?動画で、世界中に配信されるがですよね?」
「そう、大袈裟に考えんと、皆さんと話しながら予想したらえいだけやき」
「えい"だけ"やったら、編集長が……」
「そこをなんとか!頼みます!」
机に額をつける編集長に、広美はもう、反論する言葉を持つことができなかった。
「……そんなあ」
開催初日、ペガサスカップ前日。
遊具の並ぶ場所や、競走馬の慰霊碑。
馬頭観音堂などを、写真に収めて、メモを撮る。
パドックの写真を撮る際に、スポイルクーラーに跨る仁美と目が合った。
表情は崩すわけにはいかない仁美。
レース開催中は、外部との接触が一切禁止されているため、眉ひとつ反応するわけにはいかない。
馬を引く信吾も、強張った顔で、前だけを見据えていた。
「ふたりとも……頑張ってよ」
ひとつ微笑むと、体を翻し、競馬場を後にした。
明日は、いよいよ南海ペガサスカップ。
その瞬間が、刻一刻と迫っていた。
駐車場を出る際、競馬場に搬入される馬運車が目に入った。
「いよいよ、到着か……」
馬運車の荷台には。
「テンペルタットル」
と、書かれていた。
そして、当日を迎える。
広美は会社の会議室で、ノートパソコンに向かっていた。
配信開始前に、出演者たちと、軽くリモート打ち合わせをしていたのだった。
中心となる矢野吉彦アナウンサーが、広美に優しく声をかける。
「沖浜、広美さん?沖浜騎手とはご関係が?」
「はい、私が姉になります」
「じゃあ、万次郎騎手の……?」
「はい、長女です」
「前職は、競馬ナインの地方競馬担当部署にいました」
「矢野様には、ナインでコーナーも持って頂いて、お世話になっております」
すると、他の出演者たちもいろめき立ちはじめた。
「騎手、調教師の娘で競馬記者」
「私、全部乗っかっちゃおうかな」
「あはは、よろしくお願いします。」
和やかな雰囲気のまま、配信が始まる。
時に雑談も交えながら、広美は当初の緊張がほどけ、出演者たちとも打ち解けて行った。
「そういえば、武政厩舎の松崎厩務員」
「ゲームが好きで、ウィニングスタリオン8では、実名で出ていた森長さんに、ずっと秘書をしてもらっていたらしいですよ」
「え〜!やだ懐かしい、ありがとうございます〜」
そんなこんなで、いよいよ南海ペガサスカップの出走が近づく。
パドックは黒山の人だかり。
みな、テンペルタットルをはじめとする中央競馬からの参戦馬をお目当てに、スマホや、望遠レンズを構えていた。
あたりはまだ日が落ちていない。
遠い高知の地。
中央の騎手や、スタッフに配慮して前半の第4レース、まだ明るいうちに出走される。
やがて、各馬がパドックから本馬場へと移動する。
3頭目に、白い馬体。
クトゥルフが入場して、ゲートに向かう。
さらに8頭目の入場の際、客席がわれんばかりの拍手で迎えた。
淡い栗毛の馬体。
四肢の先が靴下を履いたように白く。
鼻筋には、ヘールボップのような流星模様。
水色のシャドーロール。
威風堂々として、どこか気品の漂うたたずまいに、観衆からはため息がこぼれた。
竹が首筋をさすると颯爽とゲートまで駆け出していく。
そして、11番目にヘールボップが姿を表すと、また大歓声が巻き起こった。
場内アナウンスも、声が弾む。
『さあ、現在高知最強コンビと言っていいでしょう、ヘールボップと沖浜仁美』
『無敵の不沈艦、テンペルタットルをどう迎え撃つか……おや?』
他の馬のように、ゲートに駆け出すことなく立ち止まる姿に、客席からどよめきが聞こえた。
コースでは、仁美が目を閉じて深呼吸をしている。
深層心理では。
勝負服に身を包んだ万次郎が、コメットハンターと対峙していた。
「……いよいよやねゃあ」
馬具を装着したコメットハンターが、無言で頷いた。
「……裕、十六年越しの約束」
「ゴルフは、わしのもんじゃ!」
颯爽と跨ると、現実のヘールボップが脚を動かせて、駆け出した。
『さあ、ヘールボップ、一瞬立ち止まり、心配しましたが、元気よくゲートに向かいました』
配信では矢野アナウンサーが語る。
「ヘールボップ、今回は外枠ですね」
「大丈夫かな?」
森長が不思議そうに問う。
「前回の潮嵐賞の時は、外枠有利って言ってませんでしたか?」
すかさず広美。
「今回はまだ四レースなんで、最内がそんなに荒れてないんですよ」
納得する森長。
矢野アナウンサーが続ける。
「テンペルタットルが単独逃げると、もう他の馬は追いつけません」
「クトゥルフあたりが仕掛けてくれると、面白いんですが」
「果たして、ついていけるか、ですね」
森長が、急に話題を変えた。
「ところで、テンペルタットルって名前、どういう意味なんだろう?」
広美が答える。
「獅子座流星群の、母天体の彗星の名前らしいです」
「よく知ってますね」
「これも、松崎厩務員に教えてもらいました」
「いろいろ知識が偏ってる人なんです」
森長が、にやけて話す。
「ずいぶん仲が良いんですね」
「あ、いやいや、たまたまです」
「年も近いんで、よく話すだけですよ」
最後に、矢野アナウンサーがまとめた。
「ヘールボップも、1997年だったかな?」
「なんでも2500年に一度、地球に接近する彗星でね」
「当時はずいぶん話題になってましたよ」
「彗星同士の対戦……楽しみですね」
ゲート前、出走する人馬が輪乗りをして競走馬を落ち着かせている。
竹はリラックスをした状態で、テンペルタットルに跨り、その一歩一歩の感触を確かめているようだった。
仁美は、後ろからその姿を見逃すまいと凝視している。
彼女の目には、他の馬の姿は映っていない。
テンペルタットルの足音が、大きく耳に届くほど、神経を研ぎ澄まして集中している。
客席の洋平がまた、靴を鳴らして、隣に座る北林オーナーに咎められていた。
コース脇の信吾は、砂を踏んで唇を噛み締める。
広美は、両掌を結んで、無言で画面を見つめており、その光景を他の出演者たちが、画面越しに見守っていた。
スターターを乗せたゴンドラが、ゆっくりと競り上がっていく。
各馬は輪乗りを止めて、ゲートに歩き出した。
テンペルタットルも、力強く一歩目を踏み出した。
竹がゴーグルをゆっくり下ろす。
その中の目は、穏やかに見えて、どこか冷徹に光る、刃物のようだった。
「さあ、お手並み拝見だよ、仁美ちゃん。」
「獅子座の彗星に、ついて来れるかな?」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。