第16話 天馬の競演
スターターが旗を振り、ファンファーレが鳴り響くと、場内アナウンスが流れ始めた。
『お待たせいたしました』
『第二十一回、南海ペガサスカップ、各馬ゲートに収まります』
『1800m、人気はなんと言ってもテンペルタットル1.8倍』
『二番人気はヘールボップ、3.4倍……』
ゲート内。
竹がまた、馬の首筋を軽く叩く。
瀧越が、ゲートの先のコースから目を離さない。
仁美が、大きく息を吐き、ゴーグルを下ろして、鞭を握り込んだ。
その瞬間、数日前の記憶が蘇る。
仁美が調教前に洋平に呼び止められると、一本の鞭が差し出された。
「仁美ちゃん、調教師室の片付けしよったら出てきた」
「おやっさんが、ダービーを勝った時の鞭や」
「私が持っちょって、良いんですか?」
「よう見てみ?しっかり手入れしちゅうろう?」
「おやっさん、仁美ちゃんに渡すつもりやったがやろう」
「ペガサスカップ、使うたら良い」
(お父ちゃん……一緒に走ってよ)
(……力を貸してよ!)
万次郎もまた、コメットハンターに跨り、鞭を握り込んだ。
「仁美、一緒に走るぞ」
「お父ちゃんと」
さらに、ヘールボップの声も響く。
(僕と仁美さんはもう、誰にも負けないよ)
(裕さんにも)
(テンペルタットルにも)
(僕は、「たっすい」じゃない)
(僕は、ヘールボップだ!)
その声に、コメットハンターも言葉を詰まらせた。
「……息子よ、その意気だ」
「父は……常にお前と共にある!」
ゲートが開いた!
その瞬間、中枠のテンペルタットルが流れるように抜け出し、スピードに乗ってグングン加速して、他馬を突き放すように先行していく。
「ようし、1コーナー手前で、最内に入るよ」
竹の指示で、埒寄りに詰めようとしたその時、テンペルタットルの内側に、すっと割り込む白い影があった。
「簡単に、先頭は取らせませんよ」
瀧越とクトゥルフだった。
「面白い、じゃあ、ついてこれるかな?瀧越君」
テンペルタットルがさらに加速するが、クトゥルフも譲らない。
激しい鍔迫り合いに、レースのペースがどんどん上がっていった。
『クトゥルフが果敢に食らいついていきます』
『前半のタイムは……これは、凄いハイペースです』
『そして、ヘールボップはそこから五馬身ほど離れた位置を走ります』
「ボップ、ここで良いきね、あのペースに巻き込まれんと……」
「二頭の脚の運びを、観察しながら走れる、ギリギリの位置や」
「脚の運び、巻き上げる砂の量で、脚色の鈍るタイミング」
「そこで、勝負をかけるぞ!」
万次郎と仁美の意図、位置取りの感覚が、全く重なっている。
先頭の二頭から離れて、ポツリと一頭。
その視線は、じっと前二頭の後ろ脚を見据えていた。
「なかなかしぶといね、こりゃあ、一頭抜け出すのは無理かな?」
竹はまだ余裕だった。
対照的に、瀧越は必死だ。
「とにかく、できるだけ脚を使わせる!」
チラッと後方に目をやる。
「あの位置からなら、届くはずや!」
客席では、洋平に宗森が近寄ってきた。
「まっこと、マサのやつ」
「ひとんくの馬を、捨て駒にする言いよったぞ」
洋平が苦笑いで、頭をかいた。
「……えらい、すいません」
「けんど、存外捨て駒で終わらんかもしれん」
洋平が真顔になると、宗森がニヤリと続ける。
「関東や中央にも、行こう言うけんど」
「オーナーが嫌がってねゃ」
「……わしは、いけると思うがやけんど」
先頭二頭が、あっという間に向正面を駆け抜けて、第三コーナーの手前。
かき上げる砂の高さが、若干衰えたのが見えた。
「ここ!」
「いまや!」
仁美が思い切り手綱を引いた。
ヘールボップの黒い瞳が輝き、その差を一気に詰めて行く。
「……やるね、本当にまんじくんにそっくりだ」
「けど、簡単には抜かせないよ!」
竹がそっと鞭を構えた。
「……さあ、役目は終わった、すまんかったねゃあ、追いすぎて」
瀧越は、手綱を緩めようとしたが、クトゥルフの手応えは衰えない。
「……クトゥルフ、お前」
瀧越が、口元を上げる。
手綱に、底知れない闘志や、意地、激情のようなものが伝わってくるのを感じた。
白い馬体で、よく目立つ黒い瞳の輝きは、全く衰えてはいなかった。
「すまん、相棒は、信じ合わんとねゃ」
「相当な負けず嫌いや、俺らは……」
掌で鞭を回転させて構える。
「迷うな!二連覇取るぞ!」
「クトゥルフ!」
テンペルタットル、クトゥルフ、同時に鞭が入り、熾烈な叩き合いが始まる。
「思わぬ強敵もいたもんだ」
「競り落とすよ!テンペルタットル!」
二馬身遅れてヘールボップも直線を向く。
「走れ!」
「ボップ!」
仁美、万次郎の鞭が同時に振り下ろされた。
ヘールボップの足元の土煙が、猛然と舞い上がる。
地面を掻き込む脚の運びが、一層力を増し、宙に浮いて、飛行しているような、錯覚を覚えるほどだ。
(テンペルタットル、クトゥルフ!)
(二頭まとめて、抜き去ってやる!)
(僕は……)
(ヘールボップなんだーーー!)
「息子よ、父も……」
「共に、行こう!」
仁美と万次郎、ヘールボップとコメットハンター。
四者の息がぴったり重なった。
あとは、ただひたすら進むのみだ。
前へ、前へ。
そのまた向こうへ。
『テンペルタットル、クトゥルフ、どちらも一歩も譲りません』
「クトゥルフ……なかなか、しぶといな」
「行けるところまで追い詰めちゃれ!」
『そして、ヘールボップ、怒涛の追い上げ!』
竹が、迫る気配を察知して、ニヤリとほくそ笑んだ。
「来たね、ヘールボップ、仁美ちゃん!」
瀧越は、風車のように鞭を連打し、クトゥルフが懸命にテンペルタットルと並走する。
もはや、後ろは気にしていない。
「行け行け行け行け!粘れ!クトゥルフ!」
『残り50m、その差は半馬身』
『二頭一気に交わすか?』
仁美は、前二頭は視界に入っていない。
ただ、ゴール板だけを目指していた。
「ボップ!もう直ぐ、もう直ぐ」
「……そのまま」
「差し切れーーー!」
『しかし、前二頭も踏ん張る』
『あと、10m、ヘールボップ並んだ!』
「まとめて交せ!」
「簡単に抜かせるか!」
「最後まで喰らい付け!」
「勝つがは……わしら父娘や!」
竹、瀧越、仁美、そして万次郎。
思いは違えど、目指すものは同じ。
それは、勝利以外の何物でもない。
万次郎が、その目を大きく見開く。
「裕……マサ……」
「……えい勝負を……ありがとう」
『そのまま三頭横一線でゴールイン!』
三頭の鼻先が並んで、ゴール前を駆け抜けた。
『勝負の行方は、写真判定に持ち込まれました』
「また写真判定か〜」
頭を抱える矢野アナウンサー。
森長が、広美に声をかける。
「……沖浜さんは、3、8、11の三頭での三連単ボックスだから、どの組み合わせでも的中ですね」
「………」
「あれ?沖浜さーん!?」
広美は、両手で口元を覆い、涙ぐんでいた。
「仕方ないですよ、妹さんだもの」
「それもそうですね」
「……ほんとに、ごめんなさい」
客席では、靴を鳴らそうとした洋平の太ももを、北林と宗森が左右から止めて、顔を見合わせた。
信吾はまた、砂の上に座り込む。
レースを終えた三頭が、並び、互い違いに握手をした。
「仁美ちゃんも、瀧越くんも、やるね」
竹が二人に声をかけて、ヘールボップに目を合わせる。
「君も……もう、なんの心配もいらないな」
「二歳の時の脚、いや、それ以上だよ」
潮嵐賞の時以上の判定時間。
画面越しの広美は、その場に突っ伏してしまう。
やがて、掲示板に、着順が表示された。
順番は……
3、8、11。
「クトゥルフ?」
信吾が肩を落とす。
洋平は顰めっ面で、両手を後頭部に回して、天を仰ぐ。
しかし、場内がまたどよめいた。
一着と二着の着差表示に「同」の文字。
「同着ですか!」
配信の森長が、思わず声を上げた。
しかし、今度は歓声が巻き起こる。
二着と三着の着差表示にも「同」の文字が現れたのだ。
アナウンスが、流れる。
『ただ今のレースの結果をお知らせします』
『一着、3番、8番、11番、三頭同着』
誰もが言葉を失った。
三頭一着同着。
奇跡に近い結果となったのだ。
「たしか、二十数年前に、今は無くなった北関東の競馬場であったかな?」
「それ以来ですね」
矢野アナウンサーが、にこやかに話す。
広美はもう、肩を震わせて声にならない。
森長がもらい泣きで、拍手を送る。
洋平が、北林とガッチリ握手をして、肩を叩き合う横で、宗森が立ち上がって呟いた。
「今日の結果を見たら、オーナーも重い腰をあげるやろう」
そして、洋平に振り向いた。
「その時は、マサを、借りるぞ」
「なんぼでも、使い倒してください」
信吾は、腰が抜けて立てなくなっていた。
「いかん、早ういかんと行かんのに」
「けんど、やったで、広美さん」
「……俺も、決めたで」
まだ、明るい青空を見上げて叫んだ。
「……結婚しよーー!広美さーーーん!」
竹が鼻で息をして、視線を落とす。
「長いことやってきたけど、こんなこと、初めてだよ」
「瀧越君、二連覇おめでとう」
手を差し出すと、瀧越がしっかりと握り返した。
「仁美ちゃんも……本当にまんじくんにそっくりだったよ」
「ありがとうございます」
仁美も差し出された手を握る。
「そりゃあ、そうやろう、ワシが乗りよったがやもん」
「万次郎さん、気づいてましたか?」
「……わかっちゅう」
「わしの乗り方、まったくシンクロしよったねゃあ」
「いよいよ、わしの出番も終わりか……」
その日、南海競馬場のウィナーズサークルでは、前代未聞の三頭での表彰式が行われた。
口取り式の後、仁美の元に、竹が声をかけてきた。
口調はあくまでも穏やかだ。
「約束、またお預けになっちゃたね」
仁美は返答せずに、頷いた。
竹の目線が鋭くなる。
「次は、芝のコースでやろうよ」
「ジャパンカップあたりかな?」
仁美は、固唾を飲んで、竹を見つめる。
「……ジャパンカップ……まさか?」
「……そう、アマノガワと待ってるよ」
その言葉で、ヘールボップの深層心理の、最後の景色が蜃気楼のように、ぼやけて浮かび上がってきた。
府中競馬場。
芝2400m。
父、コメットハンターが制した、日本ダービーと同じ距離、クラシックディスタンス。
その、ゴール板だった。
【閲覧注意】
今回は、残酷描写、暴力描写が含まれます。
苦手な方は、閲覧をお控えください。
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