第十話 君臨するトリトン ニ
ポンペイウスが座す宮居の威容を前に俺は息を呑むほかなかった。
ヤマトニクス様が用意してくれた馬の背に揺られ、遥か遠方よりその姿は見えていたが、平原の只中に忽然として聳え立ち比較になるような建物がないことから、その全貌を掴むことは容易ではなかった。
拱門の前に設けられた柵に三頭の馬を留めながら、改めてその大きさと豪奢な意匠に目を見張る。伝統的なルーム建築とヒスパニアの土着の造りが合わさったような建造形式で、ルームコンクリートと白大理石が組み合わされた壁面には、ルームの民族英雄たちの叙事詩が緻密な浮き彫りで刻み込まれている。
城壁に囲まれた敷地面積は、ルーム首都の皇宮に匹敵するのではないか。一個軍団を丸ごと収容できるだけの広さを備えたヒスパニア総督の私邸は、俺に非現実的な印象を与えた。夢の世界でのみ建造可能な理想宮、あるいは神話に謳われる神の居城、そんな趣がある。
俺はこちらに歩み寄ってくる重装の門衛に敬礼し、銀時計とヤマトニクス様の紹介状を差し出した。
「すでに連絡は来ているでしょう。ルーム帝国参謀本部所属、ハヤシヒデノリ作戦参謀中佐です。こちらは、ヒスパニア財務長官からの紹介状です。ポンペイウス様にお取次ぎ願いたい」
門衛は四十歳頃の体格のいい女だった。彼女は銀時計と紹介状を念入りに検分してから試すような視線を向けた。
「お話は伺っております。紹介状も本物のようです」そこで言葉を切ると意味ありげに目を細める「しかし、それだけですか?」
「それだけというと? 他に必要なものが?」
「我が主人に面会を申し込む方は皆、しかるべき手土産を携えてくるのが慣行です。最低限の礼儀とお考え下さい」
俺は押し黙った。ヤマトニクス様からそのような話はなかった、流石に財務長官の訪問に手土産を要求することはないのだろう。これはルームからやってきた有力者がポンペイウスに面会を申し込むときの一種の儀式なのだ。そんな用意はもちろんない、そもそも一介の中佐である俺に属州総督を満足させる進物を用意できるはずもない。
「申し訳ありませんが、小官ごときにポンペイウス様を喜ばすような代物は用意できかねます。何卒ご容赦いただきたく」
「しかし、慣行ですから」
彼女は譲る気配がない。
貢納を差し出さなねば面会すら許さないとは。ポンペイウスは自分を独立国の王とでも錯覚しているのだろうか。忌々しい思いを抱きながら俺は思考を巡らせる。
一度、ヒスパニア政庁に戻りヤマトニクス様と相談の上、なにか土産を見繕うか。しかし俺が即座に調達できるような物品と言えばこの地で産した物ぐらいだろう。ヒスパニアの支配者にそんなものを送るのはかえって侮辱と受け取られかねない。ここは門衛を懐柔するか。
俺は改めて門衛を観察した。その瞳にはこちらを計るような色がある。俺の中佐という階級も、あるいは皇帝の密命を帯びているという背景も、彼に特別な感慨を与えた感はない。あくまで彼女が忠誠を誓うのは皇帝ではなくポンペイウス個人なのだろう、そのような人物を翻せるとは思えなかった。
処置に窮して立ち尽くした俺の腰元に門衛は目を注いだ。
「中佐、そのお腰の物は?」
彼女の目線の先にあるのは、俺が佩いているヤマト刀だった。
一瞬の沈黙のあと、俺は言った。
「これは生まれ育ったヤマトから発つ際に餞別として与えられたヤマト刀だ」門衛を睨む「まさかこれを供せと?」
俺の視線にひるんだ様子も見せず、門衛は頷く。
「そちらであれば土産物としてポンペイウス様も満足されるかもしれません」
「刀は武人の魂だ、そしてヤマト属州出身者であるという証でもある」
「しからばどうされます?」
俺と門衛の間に剣呑な雰囲気が漂う。お互いに相手への反感を隠していない。
その間に割って入る者がいた。
「お話し中失礼いたします」
意外なことにジャオジュンが一歩、歩み出ていた。
「なんだ、中尉」
俺は意識してうっとおしそうに応じる。
「はっ。中佐がヤマト人であることを証し立てる品を手放したくないと思うのは当然と愚考いたします。ゆえに代案を具申したく」
「と言うと?」
「小官が一晩体を提供するというのはどうでしょうか。威名轟くポンペイウス閣下も東方には縁がなくハン人、それも元王族を抱いた経験はないかと、よい貢物になるのではないでしょうか」
怒りを自覚する前に、怒号が俺の喉を裂いて溢れ出た。
「馬鹿を言え。二度とそんな下らんことを口にするな」
俺は一瞬だが己を忘れるほど強い憤激を覚えた。もう一人の自分がそれに意外の念を覚える。俺は特段ジャオジュンを好んでいなかったはずだが……。
「彼女の申し出はそう馬鹿にした話でもないと思いますが」
何か言おうとしている門衛を無視して俺は腰から鞘ごと刀を引き抜き、彼の胸に押し当てるようにそれを突き出した。
「俺からの贈答品だ。ポンペイウス閣下によろしく取り次いでくれ」
「……分かりました。こちらでお待ちください」
門衛は無表情に一礼すると刀を抱えて門の奥に去っていった。
「中佐、よろしいのですか」
「黙れ。お前の声を聴きたい気分じゃない」
俺はジャオジュンから目を背け、地面に唾を吐いた。
実を言えば、俺はヤマト刀に特段の愛着、愛顧をもっているわけではないのだ。ヤマト上層部から属州文化の宣伝として常に帯びるよう命じられたからそうしているだけに過ぎない。ルームの有力者に譲り渡すのならば、むしろ本来の役割を果たしたとさえ言える。それでも渋ってみせたのは、どうせ差し出すならもったいぶった方が相手にそれが貴重な品だと印象を与えるだろうという打算ゆえだ。
俺を気遣ったのであろうが、そんなものの代わりとして、自らの体を供物として捧げようとした彼女に激しい嫌悪を覚える。
だが、怒りが去り冷めた気持ちを取り戻しつつ俺の頭に、また別の考えが浮かんできた。
俺はもしかすると、ルームにおけるハンとヤマトの扱いの差を軽く見ていたのかもしれぬ。徹底的な抵抗の上に征服された異民族とはそこまで誇りを捨てなければ存在することが許されぬのではないか。
俺は空しくなった腰元に手を当てる。ルームに来てから武器を手放したことは一度もなかったが、今は寸鉄も帯びていない。自分とコルシュの身も守る術を持たないことが俺の心中に一抹の不安を注ぎ込む。
「中尉」
俺は顔をそむけたまま、ジャオジュンに声をかける。
「はい、中佐」
「いまの俺は武装を帯びていない。ないことだとは思うが、この宮殿で俺とコルシュの身に危険が迫ればお前が頼みだ……よろしく頼む」
「この命に代えましても」
背後でジャオジュンが敬礼するのが分かった。
重く分厚い門扉は開かれた。我々はポンペイウスの秘書だと名乗る男に案内され拱門をくぐる。
舗装された道が広壮な本邸に続いている、道の両脇には一定間隔で立哨が配置されていた。彼らは眩しい日差しの中、直立不動の体制を崩そうとしない。彼らが精鋭と言っていい練度であることは一目で分かる。彼らの警戒を買わない程度に辺りを伺う。
城壁の内側には一個の街が内包されているようだった。本道から伸びた脇道で接続されているのは種々の神を奉った小規模な神殿、鍛冶屋やガラス職人等が常駐していると思われる竈、兵士たちの待機所、その他用途の分からぬ大小の建物だった、多くの人間が建物を出入りしている。彼らの民族人種ははっきりしない、ルーム風のトガを着ているものが多いが、日に焼けた顔立ちはヒスパニア人のようにも思えた。建物の間からは馬や家畜達が放し飼いにされている牧場が垣間見え、さらにその奥には農場が整備されているようで、立ち働く奴隷たちの姿があった。この分では果樹園や水源となる人工湖も用意されているのだろう。敵に攻め込まれて籠城戦に突入したとしても、兵員という観点でも物資という観点でも半年は余裕で持ちこたえられるのではないか。作戦参謀という本来の職域の目で見れば、ここが一級の戦略地点であることが窺えた。
本邸の玄関広間に入ると列柱と兵士たちが我々を出迎える。姿勢を正して直立のまま、館の主人が姿を現すのを待った。
やがて、階上の廊下の奥から彼が現れた。
「ハヤシ中佐、陛下の詩の朗読会以来だな」
紫の縞と縁取りで染め抜かれたトガを纏い、ポンペイウスが手すりに手をかけて立つ。彼の出現にしたがって、この広大な広間が狭くなったような錯覚を覚えた。それだけの量感がこの老英雄には備わっていた。その瞳が俺を一点に見つめている。
英雄の眼差しの威力に打たれた俺は片膝をついて頭を垂れた。
「はっ、御意でございます。この度は面会の許可をいただき、恐悦至極」
「陛下から密命を帯びていると言われても断るわけにもいかぬ。だが、中佐ごときに時間を取られるのは、率直に言えば不快だ」
ポンペイウスの重く圧するような声音に脅かされて、弁解の言葉を紡ぐ。
「閣下のお立場を考えれば当然の感情かと。しかし、小官としても陛下の勅命とあらばこのような無作法な仕儀も致し方なく。手短に済ませますので何卒ご容赦ください」
「そうはいかぬ」
意外な言葉に俺はポンペイウスを仰ぎ見た。彼は相変わらず不満げだったが、すこし声調を柔らかくした。
「土産を携えて我が居城の門をくぐった以上、貴様は客人だ。私はこれをもてなす義務がある」
ポンペイウスは傲然と胸を張る、分厚い筋肉でトガの襞が持ち上がる。
「晩餐を用意しよう。今日は我が邸宅の客室に泊まるといい。話は明日聞く」
それだけ言うとポンペイウスは、廊下の奥に戻っていった。俺は何も言えず、その背中を視線で追うだけだった。
夕刻、我々は晩餐室に案内された。数十名の衆賓を収容できそうな広さだったが、今この部屋いるのは、俺とコルシュ、ジャオジュン、そして主人であるポンペイウス、その他数名の給仕のみだった。
ポンペイウスはすでに部屋の奥の大きな寝椅子に座っていた。その背後には、三つの巨大な銅像が立っている。中央の像は大神ヘリオガバルス、右の像は神君アウグストゥスであることは分かったが、左の像は何をかたどったものか分からなかった。その姿は軍装を纏った老将軍のようで他の二柱のような神々しい装飾はなく神には見えない。しかし、大神と神君に並ぶのであれば、一廉の人物のはずだった。
俺はポンペイウスに最敬礼を送る。
「この度は夕餐にお招きいただき慶賀の極み」
ポンペイウスは鷹揚に頷いた。
「そこに座れ」
食卓に着いた我々のもとに食前酒が運ばれる。ポンペイウスが杯を手に取り掲げたので、我々もそれに倣った。
「大神ヘリオガバルス、神君アウグストゥス、そして帝国の守護者アグリッパに。乾杯」
ポンペイウスの言葉を繰り返しながら俺は納得した。あの像は、初代皇帝アウグストゥスの片腕であったアグリッパ将軍をかたどった像というわけだ。確かに彼であればあそこに並んでもおかしくはあるまい。かの大将軍は帝国建国において並々ならぬ功労がある。
俺は唇を濡らす程度に食前酒をあおり、持っていた杯を、それとなくジャオジュンの空になった杯と差替えた。
それから料理が運ばれてきたが、それらは俺の味覚あるいは想像を超えた逸品ばかりだった。
特別、食が趣味というわけではないが、この食卓はあまりに魅力的過ぎた。コルシュはもちろんのこと、ジャオジュンすら並んだ料理に心を奪われたようだった。俺たちはしばらく黙って料理を口に運んだ。その様子をポンペイウスは杯を片手に眺めていたが、ようやく口を開いた。
「何分貴様らの訪問が急だったものでな、大した用意はできなかった。しかし、存外に気に入った様子ではないか」
俺は手巾で口を拭って答える。
「はい、ポンペイウス様。ヤマトからルームに来てこの方、このような美食を味わったことはありません。時にこちらの魚はなんというのでしょう。初めて食べましたが、心奪われる味わいです」
「それはスカロスという。地中海の魚だが、生け簀と魔術を使用して我が家でも育てている。
欲しいという知り合いがいれば、一匹、30セステルチウスで譲ってやっているのだ」
その言葉を聞いて、俺たちの手が止まった。
炭火で焼かれオリーブオイルとレモンで味を調えられた焼き魚を見る。
一般的な民衆の年収は300セステルチウス、中佐である俺でさえ720セステルチウスだ。
俺は食卓を改めて見まわした。所狭しと並べられた山海の珍羞。味覚と別の観点から俺は唾を飲み込んだ。
「このようなことを聞くのは不躾かもしれませんが、このような盛大な饗応。いったいどれほどの費用が掛かっているのでしょう」
ポンペイウスは無花果を摘まんで口に運んだ。ゆっくりとそれを味わった後、口を開く。
「先ほどもいったとおり、貴様らが来たのが急だったため、たいした食材は用意しておらん。精々5000セステルチウスもかかっておらんだろう」
俺はこの食卓の意味を今更ながら理解した。
俺が土産として持ってきたヤマト刀など精々、400セステルチウス程度の市場価値しか持たない。しかし、ポンペイウスは十に倍する費用の饗応をもって俺と対峙した。
これはヤマトとハンの貢納貿易と同じ構図を有しているのだ。貢納を要求し、さらにそれをはるか上を行く見返りを与えることで、上下関係を確定する。
「……恐悦至極」
俺は深々と頭を下げながら考える。なるほど、これはルームから来た有力者に対しては強力な圧力になるだろう。だが、俺のように他人に圧倒されてきた弱小属州人にとっては、たいした意味を持たぬ。常日頃の待遇だ。
ポンペイウスが俺より圧倒的に格上? その通りだろうよ、今更突き付けられたところ動揺も恐怖もあろうはずがない。
俺はポンペイウスを見る、彼は満足げに葡萄酒をあおっている。大英雄はこの食卓が自分の期待する効果を発揮していないのを理解しているのだろうか。彼に対して畏怖以外の感情を感じてきた自分を自覚しないわけにはいかなかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。