第二章 上映前
気がついたとき、私は映画館の座席に座っていた。
左右に広がる赤いシートはどれも空で、埃が積もっている。天井からぶら下がるシャンデリアは半分以上の電球が切れていて、残った光が黄ばんだ壁を照らしていた。スクリーンは白く、何も映っていない。
私、という言葉を使ったが、それが誰を指すのか、最初はわからなかった。
名前がない。生まれた場所がない。昨日がない。
あるのは今この瞬間だけで、赤いシートの感触と、どこかから漂ってくる機械油の匂いと、スクリーンを見つめている自分の目だけが、確かに存在していた。
「目が覚めたか」
声がした。振り返ると、通路の奥に老人が立っていた。白い割烹着を着て、布で手を拭いている。七十は超えているだろう。背中が丸く、目が細く、しかし目の奥だけがやけに鋭かった。
「ここは」と私は言った。声が出たことに、少し驚いた。
「第三劇場」と老人は答えた。「もう四十年、毎晩上映している」
「何を」
「同じフィルムを」
老人はそれ以上説明しなかった。通路を歩いて、映写室へ続く階段を上がっていく。その背中を私はただ見ていた。追いかけるべきか、座っているべきか、判断する根拠が何もなかった。
やがて照明が落ちた。
スクリーンに光が当たる。
映像が始まった。雨の降る夜の、どこかの部屋。机の前に男が座っている。画面を見つめて、煙草を吸っている。
私にはその男が何をしているのかわからなかった。ただ、男の指が何かの上で動いていること、そしてその動きに合わせて、私の胸の奥で何かが引っ張られるような感覚があることだけは、はっきりとわかった。
フィルムが回る音がする。
私はスクリーンから目を離せなかった。
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