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神の帰還

いらいじゃ

98,495 字

壮大なファンタジー、成長と愛の物語

"神と悪魔が交錯する世界で、少年は愛の力で運命を切り拓く。"

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第一章

1

「準備はいい? クレイ」
 アルミスの何度目かの言葉。そんなに何度も言わないでよ、と思いつつ、それでもやはり不安になってクレイは背負い袋の中をのぞいてしまう。最低限のものだけを持って行く、そう二人で決めたはずなのに、必要だと思うものが多すぎてどうしても鞄に入りきれない。クレイとアルミスはこれから長い旅に出るのだ。
「クレイ」
 背負い袋の中身を確認していたクレイの視界に影が落ちる。先ほどとはうってかわった、消え入りそうな声だ。クレイは目の前に立ちこちらを見るアルミスを見上げる。アルミスの緑の瞳の中に不安がある。いつも自信いっぱいに、こちらをからかうような光をたたえてクレイを見ていたアルミスとは全く雰囲気が違う。その不安は自分も同じだ。自分の心も重くなっていくのを感じ、クレイはその不安を押し出すように顔に力を入れて笑顔を作った。
 クレイの笑顔に、アルミスは小さく瞬きをし、それから笑顔を返した。いつもの大きく声を上げる明るい笑いではなく、唇の両端に小さなしわを作る、少し大人っぽい笑み。アルミスの肩まで伸びたまっすぐな銀髪が戸口からの光に輝いている。クレイは思わず見とれてしまう。きれいだ、とクレイは思う。2歳上の、姉弟そのままに育ったこの少女を自分はいつから異性として意識していたのだろう。
「クレイ……」
 もう一度アルミスはクレイの名を呼びながら、手を伸ばしてくる。クレイは立ち上がり、アルミスの手を握る。アルミスの白くてきゃしゃな手は、クレイの手の中を滑り、指を絡ませる。冷たいアルミスの手がクレイの手の温度で温まっていく。クレイは力を入れすぎないように注意しながらも、手のひら全体でアルミスを感じようと包み込む。アルミスを守りたい。いつも姉ぶり、クレイを子分のように従えていたアルミス。彼女を、これからはクレイが守るのだ。クレイの背に小さなふるえが走る。緊張と、誇りのふるえだ。クレイは背筋をぴんと伸ばす。クレイは15歳の誕生日にようやくアルミスの背に追いついた。それからまだ2ヶ月しかたっていない。
 クレイを見つめていたアルミスの目がそらされ、小さくしかめられる。アルミスの視線を追い、クレイは開け放たれ外の景色がそのまま見える戸口を見る。扉は昨晩のまま、壊れて立てかけられている。
「お父様……」
 アルミスがつぶやく。クレイの師であり、アルミスの父であるボドルフ。入口の扉は昨晩、ボドルフが使う風の精が壊したのだった。

 ボドルフ・ヴァラール、かつて「根の国」に仕え、“神人の使い”という名を王から送られた大魔法使いである彼は、13年前突然すべての役職から退き、「背の国」の辺境であるこの地方に娘のアルミスと、孤児として引き取ったクレイと共に移り住んだ。ボドルフはアルミスと共に実の子供のようにクレイを育てた。ボドルフはクレイとアルミスに魔法を教え、近くの開拓村とのみ接触して、ひっそりと暮らしていた。
 しかし、ここ数年、ボドルフは数日家から出て帰ってこないことがあった。何があるのかアルミスもクレイも聞いてみたが、「そのうちに話す」というのみで、ボドルフは二人に事情を明らかにしなかった。
 しかし、今回は10日たってもボドルフが帰ってこなかった。いつもは必ずしてきた連絡もない。二人は相談しながらも、ボドルフを待ち続けた。
 そして、かつて無い「報せ」が届いたのだ。
 夜、食事の支度をしているとき、ドアを吹き飛ばして入ってきた風の精。こんな乱暴な方法は、ボドルフの風の精は決してしないはずだった。そしていつものように手紙を渡すのではなく、空気がボドルフの顔を形作った。
「アルミス、クレイ、すぐそこを出ろ。私は根の国にいる、連絡はおってする。この場所も危ない、すぐに根の国を目指せ」
 そのまま風の精は消え去った。ボドルフの声を届けた精霊は、緊急の、目的のみを果たすために呼び出されたものだった。
 一方通行のメッセージのみを伝えるこんな方法は、素人の魔術師ならばともかく、ボドルフのような大魔法使いが使う魔法とは思えないものだった。それほどに切迫した何かが、ボドルフに起きた。アルミスとクレイはそう確信した。
 細かいことは全くわからないままで、アルミスとクレイは荷物をまとめ、根の国までの旅に出ることを決意したのだった。

 根の国までは背の国を横断し、さらに海を越えなくてはならない。1ヶ月以上の旅になるだろう。クレイもアルミスも背の国の国境地帯であるこの山奥の小屋から、開拓村までしか出たことはない。ボドルフが使っていた旅の道具と、ボドルフが書いた覚え書きだけが彼等の旅の指針だった。覚え書きの細かい内容や旅の道具の使用法は旅を続けながら学んでいくことになるだろう。
 不安に押しつぶされそうになる一方で、クレイの中には胸が高鳴るものがあった。「外の世界」、幼い頃からクレイは旅立つことを夢見てきた。そしてもう一つ、クレイには夢があった。
 クレイとアルミスは身体に合わない大きめの外套を着込み、大きなバッグを背負う。荷物を詰め込んだバッグは重い。アルミスはもちろん、クレイ自身も身体は細く、同世代の子どもと比べて華奢だ。それでも、何とか動けるように荷物は調整した。
 クレイとアルミスは戸口に立つ。昨晩壊れた扉から、今まで暮らしていた家の中が見える。広いと感じていた家が、急に小さく感じる。急いで旅支度を調えた家の中は雑然としたままだった。掃除をしていきたい、というアルミスを、家にいる時間が長くなれば旅立つ機会を失ってしまうと、クレイは何度も説得していた。
 クレイは懐から翡翠の玉を取り出す。その玉を地面に置くと、
『土の精よっ!』
 甲高い精霊語で呼びかける。精霊界と契約を結び、才能と、何年もの修行をすることで習得する精霊と人間の間で交わされる言葉だ。翡翠の球は、まるで水面に投げ込まれたかのように土の中に沈む。次の瞬間、土の柱がつきだし人の形を模した1メートルほどの土人形になった。クレイは土人形に命令する。
『入口を塞げ、そして僕らが帰ってくるまで、この家を守るんだ』
 土人形は戸口まで移動すると上に伸び、ぴったりと扉のあった部分を塞ぐ。もし侵入しようとする者があった場合、地の精は人の形となってそいつに立ち向かうだろう。
 クレイとアルミスは、生まれたときから共にボドルフから教えを受けた魔法使いなのだ。戸口を塞ぐ地の精を見ながら、アルミスがクレイに手を伸ばしてくる。クレイはその手を強く握る。アルミスを、守る。それがもう一つのクレイの夢だ。この旅でいつも姉ぶっているアルミスを自分の魔法の力で守る。それができれば、自分の中の想いをアルミスに告げることができる。大きな不安と共に、希望を持って、もう一度クレイはアルミスの手を握った。

2

 「アルっ、早くっ!」
 クレイはフードを跳ね上げ、アルミスに叫ぶ。二人は手を取り合い、足を速める。
 クレイは走りながら後ろを振り返る。森の闇の中に二つの小さな緑の光が見える。獣の目だ。クレイはパニックに陥りそうになる自分の心を必死になだめる。訳が分からなかった。家を出るのを待ちかねたように、森の闇から何かが現れ、明確な敵意を持って自分たちを追いかけてきたのだ。せわしない呼吸と、下生えを踏む音が聞こえる。クレイはもう一度振り返り、追跡者を確認する。黒く短い毛並みを持つ、大型の猟犬だ。
 クレイは猟犬の緑の目に残忍な知性を見つける。『全力で走ればすぐ追いつけるのに、こいつは僕たちが疲れるのを待っているんだ』。クレイは追跡者の意図を悟ると、足を止めて追跡者と対峙する。
「クレイ?」
 クレイは手を伸ばして、アルミスを後ろにかばう。
 獣が足を止める。追跡者の全身が二人にもはっきりと見えた。猟犬の姿をしているのは獣の上半身のみで、下半身は羽毛の生えた黒い鶏の足を持っている。獣は地面に伏せ、威嚇の叫びを上げる。
「グゥエーッ」
 猟犬の口から、鶏が絞められるときの声が上がる。それと共に獣の背中に生えたコウモリの翼が大きく広げられた。
「キマイラ……」
 アルミスのつぶやきに、クレイは彼女を見ずに頷く。猟犬の上半身と、鶏の下半身、コウモリの翼を持った生物。こんな生き物は自然には絶対生まれない。魔法使いが“混沌の次元”より呼び出し、使役する生き物。キマイラはその総称だ。混沌生物は呼び出されると、その特性に近い生き物の姿を借りる。それは部位ごとに異なるため、様々な生物のパッチワークのような外見となる。
「グエェェッッ!」
 もう一度怪物は絶息寸前の鶏の声を上げる。クレイはその声が嫌いだった。祝いのために殺されなくてはいけない恨みの声だ。猟犬の形をした怪物の眼が、むき出しの悪意を持ってクレイを睨む。クレイは恐怖で全身がこわばる。いや、クレイの右手だけが震えている。クレイはアルミスが彼の右手を強くつかんでいることに気付く。アルミスの身体は激しく震えている。右手からアルミスの怯えが伝わってくる。クレイはアルミスを見る。アルミスの緑の瞳は恐怖に大きく見開かれている。
 クレイの心は決まる。クレイは手を伸ばし、アルミスの手をしっかりと握る。
「大丈夫だよ、アル」
 両足に力を込め、懐から翡翠の球を取り出し、握りしめた。クレイの背に、興奮のふるえが走る。アルミスを守るのだ。
 クレイは手のひらにのった翡翠の球を怪物に見せつけるように突き出す。怪物はクレイの動きに警戒し、足を止める。クレイは地面に向かって球を投げつけ、
『土の精よっ!』
 笛のように甲高い精霊語で呼びかける。次の瞬間、枯れ葉を吹き上げて土の柱がつきだした。柱の先端に五本の指が現れ、さらに土の柱が大きくなると共に肩、頭と形作られ、地の精が出現する。クレイは、手を伸ばして土人形に命令する。
『行けっ!』
 目も鼻もない土人形の頭がまっすぐ怪物に向けられる。拳を振り上げ、地面を滑るように移動し、怪物につかみかかろうとする。怪物は背中の翼を羽ばたかせ、身をかわす。地の精の腕の当たった木が大きくえぐれる。
「グェッッ」
 叫びを上げて怪物が地の精の腕にかみつく。猟犬の牙が地の精の肩に深々と食い込む。地の精は身体を振り回し怪物を引きはがそうとする。
 ボトリ、怪物によってかみちぎられた地の精の腕が落ちる。怪物は地の精から離れる。クレイは怪物の口が獲物に苦痛を与えた笑みに歪むのを見る。
 しかし地の精を見た怪物の目は驚愕に見開かれる。切断された地の精の腕に新しい土が盛り上がり、瞬く間に再生している。地の精は再生した腕を怪物に突き出す。手の先が槍のように鋭く変化し、細く、長く伸びる。針と化した地の精の腕が、怪物の足を貫いた。怪物は高く悲鳴を上げ、倒れる。
「やった!」
 クレイの身体に興奮が駆けめぐっている。地の精をこのように攻撃に使ったことは初めてだった。力への実感がこみ上げてくる。クレイは地面にはいつくばった怪物を指さし、地の精に命じた。
『とどめを刺すんだ!』
 左の後ろ足から緑の血を流しながら怪物が立ち上がる。眼には激しい憎悪の光がある。勢いよく迫る地の精に向けて、怪物はかっと口を開けた。怪物の真っ赤な口腔の中に、クレイは緑の光を見た。
 怪物の口から、緑の炎がほとばしり、地の精を包みこんだ。
「ああっ!」
 クレイは叫び声を上げる。全身を緑の炎に覆われた地の精は、顔を天に向け、のたうち回りながら徐々に地面に沈み込み、消えた。地の精の身体のあった場所には煙を上げている翡翠の球だけが残った。クレイは全身の力が失われていくのを感じる。地の精は彼が使える最も強い魔法だった。他の方法を考える余裕もなく、頭が真っ白になった。
 怪物がクレイに目を向ける。怪物と眼があった瞬間、クレイの視点が下がった。目の前に自分の足が見える。クレイは腰を抜かしてしまったのだ。
「うわあっ」
 クレイは悲鳴を上げる。怪物から離れようと動く足が、むなしく地面を滑る。力が込められず、立ち上がることができない。怪物は一度身をかがめ、翼を広げてクレイに向かって跳躍した。
「クレイっ!」
 アルミスの声。
 クレイの目の前が不意にふさがれる。アルミスがクレイをかばい、怪物の前に立ちふさがったのだ。クレイの目の前で二つの影がもつれ合う。クレイは怪物がアルミスを組み敷くのを見る。麻の外套から、アルミスの白い腕が出ている。その腕に、怪物は牙を打ち込んだ。アルミスの白い腕から飛び散った血がクレイの顔にかかった。
 認識と叫びは遅れてやってきた。
「アルっ、アルっっ!」
 クレイは叫び、手を伸ばす。しかし、足が動かなかった。怪物はアルミスの腕を放し、クレイを見る。怪物と眼が合い、クレイは自分の伸ばした手が力を失って下に落ちていくのを認識する。
 絶望がクレイの心を覆う。怪物に組み敷かれるアルミスの前でクレイは何もできなかった。怪物は舌で口の周りのアルミスの血を舐める。クレイは自分に向かって怪物が嘲笑を浮かべるのをはっきりと見た。
 突然、怪物がびくりと身を震わせる。アルミスの身体の上から跳びのき、あらぬ方向に向かってうなる。クレイは怪物の眼の先を追うが、闇が広がっているだけで、何も見えない。
 眼の隅に捕らえていた怪物が突然かき消え、背後で木に何かを叩きつけた大きな音が響く。後ろを向いたクレイは思わず自分の目を疑った。
 怪物が一本の剣で、樹木に昆虫の標本のように縫い止められている!
 怪物を貫く剣は刃の部分が30センチほどの比較的小さめな剣だが、それを投げナイフのように投げて怪物を木に縫い止めるなどという力と技量は、クレイの理解を超えていた。
 首を剣に貫かれても、怪物は生きていた。怪物は四肢をバタバタと動かし、翼を振って剣ごと自分の身体を木から引きはがした。剣が刺さったままの首から大量の緑の血が落ちる。
「ほう」
 闇の中から野太い男の声が上がった。再び正面を向いたクレイは目の前に巨大な男が立っているのを見た。その男は、今までクレイが見たどの男よりも大きく、鍛え上げられた身体を持っていた。短い黒髪と意志の強そうな眉、がっしりした顎をしている。クレイが自分を見ていることに気がつくと、男は歯をむき出しにしたどう猛な笑みを浮かべた。男の笑顔は一見恐ろしいが、目の光に見る者を安心させる優しさがあった。
「大丈夫か?」
 男の質問に、クレイは頷くことしかできない。男はクレイから目を離し、怪物を見据え、肩にかけていた袋と上に羽織っていたマントを地におろす。金属で補強された革鎧に包まれた身体が現われる。鎧から出た腕、首の筋肉の盛り上がりがすさまじい。マントを脱ぎ、逆に一回り身体が大きくなったように見える。男は、緩やかに弧を描く、長い刀を背負っていた。クレイが見たこともない異国の剣だ。
 男は無造作に怪物に近付く。怪物は憎悪に燃え上がる目で男を見て、かっと口を開ける。クレイは男に警告しようとした。
 緑の炎が男に伸びる。男は背の刀を引き抜きざま炎を斬った。
 クレイは目を見張る。刀身に触れた炎が一瞬で消滅したのだ。
 必殺の炎を一瞬で消された怪物もまた動けなかった。刀を下段に構えたまま男は一瞬で距離をつめ、地から跳ね上げた刀で怪物を両断した。
 二つに分かれた怪物の身体が緑の炎に包まれ、やがて消滅した。
 そのときようやく
 「アルっ!」
 クレイはアルミスに駆け寄ったのだった。

3

 男は、自らの名前をバーノルと名乗った。傭兵であり、東の国での仕事を終えて故郷に帰る途中だという。バーノルに手伝ってもらい気絶しているアルミスの身体を運び、木々の間隔がまばらな開けた場所で火をおこした。クレイは地の精を使って薬草を集め、アルミスの傷口に薬草を塗り込み、包帯を巻いた。
 バーノルはクレイに声をかける。
「交代で寝るぞ。すまんが、先に寝させてもらう」
 クレイは小さく頷く。クレイは、唇をかんで、アルミスの左手に巻かれた包帯を見つめる。包帯には血止めの薬草と、血が混じった茶色い色がにじんでいる。
 バーノルは木の幹に背中を預けて座り、クレイを見る。
「お前ら、何があった。あいつは『ゲスナーの凶猟鶏』だ。ここら辺の山でうろうろしているやつじゃない」
 クレイは驚く。あの怪物の名を普通の人間が知っているはずがない。魔法使いであるクレイですら、本で学んだだけだ。この人は何者なのだろう? クレイはバーノルに質問しようとして、それを飲み込んだ。
 バーノルはクレイを見つめている。クレイは目をそらす。
「……すみません、今はお話しできません」
 バーノルはゆっくりとうなずく。小さく息を吐き、
「まあ、いい」
 身体をずらして、横を向き、目を閉じた。
 静寂が訪れる。
 クレイは、再びアルミスを見る。苦しそうなアルミスの顔。額には汗が浮かび、髪が張り付いている。目は覚まさないが、さっきから何度もうめき声を上げている。クレイは布でアルミスの額の汗をぬぐう。
 こんなはずではなかった。
 アルミスと家を出るとき、自分は確かに“喜んで”いた。アルミスを助ける、その夢が叶ったと彼は精霊の王達に感謝を捧げたはずだった。アルを守り、先生に会わせる。それを確かに誓ったはずだった。二つ年上の、いつも姉ぶっているアルミスに、自分の力を認めてもらえる。自分の想いをこの旅で伝えると、決心したはずだった。
 しかし、実際はどうだった?
 クレイは拳を握りしめる。あの怪物の、自分をあざ笑う眼。自分はあの時、思ったのだ。このまま起きあがらなければ、自分だけは助かるかもしれないと。怪物に腕を噛み裂かれるアルミスの血を感じながら、確かに心で思った。
 叫び声がこみ上げてきて、クレイは口を押さえる。拳を地面に叩きつける。
 自分が許せない。自分が許せない。アルミスに許しを乞うこともできない。どうすればいいのだろう。どうすればいいのか。クレイは胸をかきむしる。いくら願っても時間は戻らない。クレイは涙が溢れてくるのを自覚した。拳を口に当て嗚咽を押し殺す。
 バーノルはクレイの嗚咽を背中で聞きながら、森の闇を見つめていた。
 朝。
 クレイはバーノルに揺り起こされる。眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか寝入ってしまった。肩に毛布の感触がある。
 クレイははじかれたように起き上がる。アルミスは上半身を起こし、左腕を押さえていた。クレイが駆け寄ると顔を上げて小さく笑いかけてきた。その顔は青白く、薄く汗をかいている。
「この先に泉があった。お前達なら水の精を使えるだろう。傷口を洗ってくるといい」
 クレイの後ろから、バーノルが声をかけてくる。アルミスは立ち上がろうとする。クレイはあわててアルミスを支える。アルミスの身体が、熱い。傷口が熱を持っているのだろう。アルミスは傷の痛みに小さなうめき声を上げながら、立ち上がる。
 クレイはアルミスの両肩を抱くように後ろを押す。
「クレイ」
 バーノルが昨日採った薬草の束を手渡してくれる。
「ありがとうございます」
 クレイは受け取り、アルミスを支えて歩く。
 すぐに泉は見つかった。クレイは腰に付けた袋からターコイズを取り出す。研磨されておらず、不純物も多いが、水色が鮮やかな石だ。アルミスを水辺に座らせると、クレイはターコイズを水に落とす。
 クレイが精霊語で呼びかけると、石を落とした水面が沸き立つように激しく動き、30センチほどのガラス細工の少女のような姿を持つ水の精霊が現われる。
 クレイはアルミスの左腕に巻かれた包帯をほどく。何重にも巻いたはずなのに、表面まで血と薬草の汁がしみ出していて、まだらの模様が浮き出している。乾いた血と薬液ははがすときにぱりぱりと音がする。昨晩すりつぶし塗り込めた薬草と血の混じった赤黒いものが、アルミスの傷口をべったりと覆っている。周りのなめらかなアルミスの皮膚のコントラストがクレイには一層痛々しく感じた。
『傷を洗うんだ』
 クレイは水の精に命じる。水の精は手を伸ばしアルミスの腕を両手で抱く。水の精の人型が崩れ、巨大な水の玉になる。水の玉はアルミスの腕をすっぽりと飲み込み、ゆっくりと脈動する。その動きに合わせ固まっていた血が洗い流され、傷口が露わになる。黒い血がこびりつき、肉がえぐれている傷跡。傷口周辺の黄色い膿も洗い流されていく。その無惨さにクレイは思わず目をそらしてしまう。しかし、すぐに気を取り直し傷口を正面に見る。この傷はクレイをかばってできたのだ。
 アルミスは右拳を口に当て、ぎゅっと目をつぶって水の精が傷口を洗っているのを耐える。古い血が溶け出し、透明な水の精を黄色く変えていく。
 傷口が清められる。クレイは新しい薬草をすりつぶし、アルミスの腕に塗る。その痛みにアルミスの身体が動く。アルミスは声を上げそうになるのをこらえている。
「アル……ごめん」
 傷口に包帯を巻いたとき、クレイの目からは耐えきれず涙がこぼれた。傷口に触れないように、そっとアルミスの手を取る。
 アルミスは無言のままクレイの髪に指をすべらせてきた。クレイの茶色い髪は縮れていて、細い。アルミスは子供の頃からクレイの髪を触るのが好きだった。いつもはいやがるクレイだったが、今は顔を上げることもできなかった。
 しばらくしてから、アルミスは手を止める。
「クレイ……あの人…」
 アルミスの声にクレイは涙をぬぐって顔を上げる。
「バーノルさんの事?」
「うん…どう思う?」
 アルミスはクレイの背後、バーノルがいる森の奥を見ている。
「アル?」
「あの人、私達のこと助けてくれたのね……」
「そうだよ」
「普通の人があんな、『混沌の怪物』に会うなんて事はない。それなのに、あの人は落ち着いていて、こちらに事情を聞くこともしない。水の魔法で傷口を洗えとあの人は言った。そんなことを知っている人がいるなんて。それにあの刀……。この国の近くで使われている物じゃない。あの人は何者なのかな、クレイ、私達は、安全に、出来るだけ早く『根の国』につかなくてはいけない。彼に気を許すのはいけないと思う。彼がお父様の敵に雇われていたとしたら……」
「まさか、そんな」
 アルミスはクレイの目をのぞき込む。その眼の中にクレイは疑惑の光を見る。
「偶然と考える方が不自然だと思わない?」
「アル…」
 アルミスはこんなに人を疑う性格だっただろうか。いや、それほどに今の状況が不自然なのだ。すべての支えであった人が突然いなくなり、生まれ育った家からたった二人で、外の世界へ行かねばならない。そう決心して、すぐに彼らは混沌の怪物に襲われた。疑心暗鬼になるのが当然だ。心配のしすぎだとアルミスをなだめることはクレイには出来ない。
 クレイは1つの結論を昨晩、眠りに落ちる前に出していた。今こそアルミスにそれを言わなくてはならなかった。
「アル……バーノルさんに頼んでみようよ。彼が傭兵だというのなら、雇って、守ってもらおう」
「クレイ?」
 クレイはアルミスの背に周りながら、アルミスの手を吊る布を縛る。クレイはアルミスの背から声をかける。アルミスに自分の顔を見られたくなかった。
「僕たちは根の国に行かなくてはいけないんだ。でも、昨日の事で分かったよ。僕たちの力だけでは、少し無理だ。バーノルさんに会えたのは偶然かもしれないけど、僕たちにとってはいい偶然だったと思う。彼に頼もう。僕たちを守ってもらおう」
 クレイの言葉の語尾がふるえる。自分の無力を認める言葉に、出てこようとする嗚咽を必死に押さえる。
「クレイ……」
 アルミスは振り返らずに、肩にかけられたクレイの手に自分の手のひらを重ねる。
「わかったわ。そうしましょう。私達が頼れる人は、今は誰もいないのだから」

 二人がバーノルの元に戻ったとき、バーノルは火を踏み消しているところだった。
「食っておけ」
 バーノルは湯で柔らかくしたパンに、乾燥肉を挟んだ朝食を二人に渡す。バーノル自身もパンを手にし、二口で平らげ、革袋に入った水で流し込む。
 パンを受け取ったまま、クレイの目はバーノルの顔を見つめて止まってしまう。バーノルの右の耳の下から喉にかけて、大きな傷が付いている。ずいぶん古い傷だ。昨日の夜に気がつかなかったのは、首に布を巻き付けていたからだろう。首の半ばまでのびるその傷は、命に関わるほどの物だったことを想像させる。
「どうした?」
「あ……いえ」
 バーノルの問いに、クレイは視線を無理矢理引き剥がす。傷のことを問いかけることは出来なかった。このような大きな傷を負って、さらにそこから生き抜いた戦士の物語は、簡単に聞いてはいけないような気をクレイに起こさせたのだった。
 バーノルは口をぬぐう。アルミスがじっとバーノルを見ている。アルミスはクレイに一度目を向けてからバーノルに向き直り、はっきりと告げた。
「貴方を雇いたいのです。バーノルさん」
「雇う?」
 バーノルは声に面白そうな響きを混ぜながら聞き直す。アルミスは真剣な表情でバーノルを見つめている。クレイは背嚢から小さな袋を取り出し、無言でバーノルに手渡す。
 バーノルは袋を空ける。袋の中から黄金の光が漏れた。バーノルの目は、光に吸い寄せられる。表情が真剣なものに変わる。
「それは、金です。今はこれくらいしかお渡しできませんが、もし私達を守っていただけるなら、これの五倍…いや十倍の金を差し上げます」
 バーノルはアルミスを見る。その目が一瞬だけ鋭い光を帯びた。バーノルは短い時間、自分の考えに沈む。
 袋一つ分の黄金、それがどれだけの価値か、アルミスが分かっていないのは明らかだった。まだ成人したばかりの様に見える小娘が、これだけの金を出す。この袋1つで街ならばしばらく豪遊できるだろう。魔法使いの子供達が必死の表情で差し出す本物の金。大きなトラブルのにおいがする。
 彼らがこのまま人里に出れば、どんな災難に巻き込まれるか、バーノルには簡単に想像できた。関わってしまった以上、彼らをそれから守ってやりたいという気持ちもある。そして、この子どもたちの正体に強く興味を引かれる自分がいる。無関係を貫けばいいものの、バーノルの心はすでに決まっていた。お節介焼きの自分に、自嘲の笑みが浮かぶ。
 バーノルの表情を見つめながら、アルミスは更に言葉を続ける。
「私達は、ボドルフ・バラールの命で根の国に行かなくてはならないのです」
「アル!」
 クレイが慌ててアルミスの肩に手をかける。クレイを振り返り、アルミスはほほえみを浮かべた。
「クレイ、私達の正体はすぐに分かってしまうと思う。お父様の名こそが、報償への最大の保証になる。そうでしょう、バーノルさん?」
 バーノルは自分の顔色が変わっていることを自覚する。声も自然に潜めたものになる。
「お父様、だと? 根の国の〝神人の使い〟と呼ばれたあの魔導師の、娘?」
 バーノルの声に、アルミスがゆっくりと頷く。
 十年以上前に、根の国に仕えていたという、大魔導師ボドルフ。かつて神人が使っていた〝魔法〟を人の時代が始まって以来、最も多く発見、体系化したとして根の国の王より〝神人の使い〟という名をもって呼ばれるようになった人物だ。ある理由により彼は根の国から放逐された。しかし、彼の魔法の数々は吟遊詩人の歌となって今でも語り継がれている。
「……追放されたあの大魔導師が、こんな山の中にいたとはね」
 バーノルは周りを見回す。魔法国と呼ばれ、恐怖と、秘密と、繁栄でもって周辺国家に君臨する根の国の王都と、開拓民の村さえも遠い、山と森の国といわれる背の国の国境沿いのこの場所はあまりに違いすぎる。
 根の国までは背の国を横断し海を越えなくてはならない。1カ月以上かかる旅になるだろう。
 バーノルはクレイと、アルミスの手を見る。彼らの手には常人とははっきりと違う、「青い」爪が生えている。魔法使いは、子供の時から精霊との交感を行うために少量であるが毒物を採取し続ける。
 魔法とはかつて人類を支配していた「神人」と呼ばれる存在が使っていた力だ。神人は青い肌と、縦長の瞳を持つ生き物だった。彼らはある日を境に人類の前から姿を消した。人類は神人の庇護された環境から突然放り出された。人々は神人の遺跡に入り込み、わずかながら彼らが使った魔法を発掘したのだ。魔法使いの青い爪は、人間の身体を神人に近い体質に変えるため生み出された方法の副作用だ。そして、権力者達が魔法使いを管理するための印でもあった。
 バーノルにはかつて魔法使いの友人がいた。友人はその爪を隠すための化粧を常に欠かさなかったが、この二人はそういうことも知らないだろう。それだけではない。関所、道、天候の読み方、地方の風習……旅のためには覚えなくてはならない事がたくさんある。そういったことを何も知らないままクレイとアルミスは長い旅に出ようとしている。彼らの状況はよほど切迫しているのだろう。
 そしてあの怪物。あれはこの世界をうろつく野生化した魔法生物ではない、久しぶりに見た“純粋な”召喚によって異界から呼び出された魔物だった。そしてボドルフだ。何か大きな事件が起こりつつあるのを感じる。
 バーノルの唇に笑みが浮かぶ。面白い。目的を失い、ただ故郷へ帰るための西への旅。こんな寄り道するのも、悪くない。
 バーノルは、クレイを見る。クレイは、ただ、アルミスを見つめている。バーノルの耳には、昨日のクレイの魂をきしらせるような嗚咽が残っている。男ならば、声を殺して泣く夜もある。バーノル自身たくさんのものを失い、自分の無力を呪ってきた。“先輩”としても、彼を助けてやりたい。確かにあの時、バーノルはそう思ったのだ。
「いいだろう、お前らと“契約”してやろう」

 こうして、三人の旅がはじまったのだった。

── 第2章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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