序章
わたし、ゾンビになっちゃった。
取れかけの腕をくっつけながら、血溜まりの中に立ち尽くして、どこか冷静な頭で三峰<みつみね>旭<あさひ>はそう思った。
***
――旭が通うのは初等部から大学までエスカレータ式の名門、私立氷鷹学園<ひだかがくえん>だった。そこで旭はつまらない初等部生活を送っていた。クラスメイトに、自分と同等、或いはそれ以上に頭のいい人間が存在しなかったのである。授業で出される問題も解き終わるのは一番早いのは旭だったし、クラス全員が解き終わるのを待つ時間は退屈だった。勝手に教科書を先取りして設問を解いたりして時間を潰していたが。
同じような日々、旭にしてみれば私立でも公立でも変わらないのではないかと思ってしまうような授業レベル。よく誘われるドッジボール? をやったところで旭より運動神経が優れている人は居なかったから結局最後にぽつんと取り残されているのは旭だった。誘っておいてなんだよ、少しさみしいじゃないか。みんなわたし以下なのだ。ドッジボールを楽しくやっている同級生たちも幼く見えて仕方がない。同じ言語レベルで会話ができた試しがない。
少しでもこの退屈な日常を面白くしようと、五年生になった旭は生徒会に入ることにした。放課後に残って雑務をこなす日々。ああ、やっぱり変わらないかもしれない。そう思っていたが、今日この日から旭の学園生活はがらりと刺激的なものとなる。
きっかけは、生徒会の雑務を生徒会長と二人でこなしながらの些細な雑談だった。
「自分より賢いひとが居なくて学校がつまらないんですよね」
ホチキスで紙をまとめる。すると、先輩はこともなげに言った。
「大丈夫ですよ、あなたが僕より賢くなることはないと思うので」
パチパチ、と見開く瞳の中で火花が散ったようだった。自分よりも秀でた傲慢さに痺れた。旭はそのたった一言で彼に対して強烈に恋と憧れを抱き、叶うなら一生側に居たいとまで思った。彼の名前は月岡<つきおか>静夜<せいや>。一学年年上の先輩である。黒髪に眼鏡がよく似合っている、ひょろりと背の高い少年だ。
この人なら、わたしと同じ言語で会話してくれるかもしれない。
生徒会業務が終わって、先輩とは帰る方向が同じだったので一緒に帰った。その間も変なことは言わないようにしようとずっと心臓がどきどきしていた。
叶うならこの人に自分のことを好きになってほしいと願った。
「ただいま」
「おかえり、旭」
「お父さんもう起きてるの?」
出迎えてくれたのは旭の父親であった。彼は児童書の職業小説家だったので生活リズムが一般人と逆転している。下手をすれば一日会わないこともあった。
制服の帽子を衣類掛けに引っ掛けて、艶のある黒いツインテールを揺らして旭は父親に今日のトップニュースを伝えた。
「あのね、今日は学校が楽しかったよ」
「本当? それは良かったね」
「面白い先輩が居たの」
「へえ、どんな人?」
「わたしより頭がいい人」
そう言うと父親は笑った。
「そうかそうか、やっと旭がそう思える人と出会ったんだね」
次に先輩と二人になるのは一週間後の水曜日だ。今からその日が待ち遠しかった。
「すみません、遅くなってしまいましたか?」
終業後のホームルームが長引いたせいで競歩で教室から生徒会室へと訪れると、先輩は見覚えのある児童書を読んでいた。
旭の姿を見た先輩は本に栞を挟んで閉じた。
「いいえ、大丈夫ですよ」
「よかった……。月岡先輩、その本お好きなんですか?」
「ええ。この作者のファンです」
「その本書いたの、わたしのお父さんなんですよ」
「ええ?」
先輩はぐるりとこちらを向いた。
「嘘をついているんじゃないでしょうね」
「こんなハイリスク・ローリターンな嘘つきませんよ」
「……こんな偶然が……」
「サインとかいりますか? お願いしたらくれると思いますよ」
「ちょっと悩ませてください」
悩むようなことなのだろうか、と思いながら旭と静夜は業務を開始した。
その日の作業は少し遅い時間までかかった。
「送ります」
「え、大丈夫ですよ」
先輩にご足労かけるわけには、と思った旭に、静夜は厳かに口を開いた。
「すみません、口実です。送ったついでにあなたのお父さんにサインを頂きに行きたいんです」
「なるほど。起きてるかなあ……。お父さん、昼夜逆転生活を送ってるのでもしかしたら起きてないかもしれませんが、それで良ければ」
「もし起きていなかったらまた明日送ります」
父よ眠っていろ。
帰る途中で、旭は少し前を歩く静夜の手にばかり集中していた。繋ぎたい。無理だけど。ああ、ただ一緒に歩いているだけなのにどうしてこうも幸せな気分になるんだろう。家まで二キロくらいあったらいいのに。
帰宅すると、残念ながら父は起きていた。出迎えてくれた父に先輩を紹介する。
「お父さん、こちらがわたしの先輩の月岡静夜さん。お父さんのファンなんだって。サイン書いてくれる?」
「はじめまして、月岡と申します。いきなり押しかけてすみません」
「わあ、嬉しいな。ありがとう。何に書いたらいいかな?」
「この本にお願いします」
静夜さんは今日読んでいた本を差し出した。
玄関で先輩を見送る。
「それじゃあ三峰さん、また明日」
「はい」
思い切って名字ではなく名前を呼んだ。
「はい、静夜さん、また明日」
わたしの名前呼びには特に否定的な反応をせず、ペコリと一礼して静夜は去っていった。距離が縮まった気がして幸せだった。
週末、課題をやり終えた旭は父の書庫に足を踏み入れた。好奇心旺盛な旭は様々な趣味に手を出していた。手芸、絵画、パズル、オカルト。中でもオカルトは読書が趣味の旭とは相性が良かった。両親の影響もあり、幼い頃から読書が好きだった旭は、外で遊ぶのが好きな弟の晴日とは違い、一日書庫にこもってきれいな装丁の本や惹かれるオカルトめいた本を読み漁るのがお気に入りだった。児童書作家の父の書庫にはオカルティックな本もたくさんあって、気軽に読める環境にあったことも要因の一つだろう。
「なにこれ」
今日もはじめましての本がたくさんある中、旭が手にとったのは、何だか禍々しさを覚える魔法陣が描かれた装丁の本だった。開いてみると、黒魔術書の文字。黒魔術。興味を惹かれた旭はその本の目次を読んだ。死者蘇生。なんでも願い事が叶う呪文。使い魔の召喚。
え、なにこれ。胡散臭いけど楽しそう。必要になったとき使ってみようかな。そんなことを思いながら旭はページを捲っていった。
死者蘇生のページに目が止まった。
そういえば昨日の帰り道、首輪のついた猫が車に轢かれて死んでいたなと思い出し、好奇心からその本を持ち出して家の外に出た。
血が必要らしいのでカッターナイフもポケットに入れて。
昨日の猫の死体はまだ同じところにあった。
「ええっと︙︙」
『【死者蘇生】。術者の血を一滴垂らし、呪文を唱える。代償は術者の寿命の半分を支払うこと』
旭はまだ十歳だったので、寿命の半分と言われてもピンとこなかった。平均寿命が百歳に達するこの世の中に旭は十歳にして既にうんざりしていたので、あまり長生きしたくはなかった。だから別にこの首輪のついた猫の飼い主のために寿命の半分を差し出しても構わない。どうせインチキだし。そう思って、カッターナイフを取り出した。ちょっと勇気が必要だったが、左手の人差指をカッターで傷つけて、血をぽたぽたと垂らし、黒魔術書に書いていた呪文を唱えた。
すると、猫の足の先が動いた。かっと開かれたままだった目も瞬きを再開し、ゆっくりと起き上がった。
え、本物じゃん。この黒魔術書。
「ナァ」
猫は一声そう鳴いて、俊敏な動きで塀の向こうへと去って行った。
どうしよう。お父さんとお母さんに怒られるかも。寿命の半分を誰かの猫に使っちゃった。
この本が本物であることは黙っていよう。旭はそう決めて、家路を急いだ。
――四月第三週。季節はゴールデン・ウィークに差し掛かろうとしている今日この頃。十七歳、高等部三年になって生徒会長に就任した三峰旭は、相も変わらず月岡静夜に恋をしていた。かれこれ七年になる旭の初恋は拗れに拗れ切っていた。もうその恋情は筆舌に尽くしがたく、日を増すごとに重くなり、今では静夜のことを看取りたいとまで想っていた。
しかし、その感情が恋と呼べるのかどうか、最近の旭は少し自信を失くしていた。
というのも、旭がしているのは恋ではなくて信仰なのではないか、という疑いがあるのだ。
思い当たる節はいくつもある。
例えば、そう、本当の旭を理解してくれるのは静夜だけだと思っているところとか。静夜に言われたことであれば何も疑わずに実行するところだったりとか。
この信仰心を持ち続ける限り純度の高い恋はできない。極めて純度の高い恋を旭は望んでいた。それに憧れていた。そのような恋ができるなら死んでもいいとすら思っていた。
あなたにちゃんと恋をするために、三峰旭は黒魔術を行います。
初等部の頃に見つけたあの黒魔術書はまだ同じ棚にあった。目次を引いて、【何でも願いを叶える呪文】のページを開いた。呪文を唱え、願いを三回唱えると、何でも願いが叶うという。但し、成就した暁には術者は死んでしまうという代償があるけれど。
静夜さんに好きと言ってもらえたなら死んでもいい。七年経っても相変わらず旭は自分の寿命に対して頓着が無かった。
旭は、その可憐な声で禍々しい呪文を唱えた。願いはこれだ。【先輩と結ばれるまで死にませんように】。
一応覚悟していたが、やはり悪魔が現れるわけでもなくアニメみたいなエフェクトが発生するわけでもなく、旭がただ怪しげな呪文を高校三年生にもなって言い放っただけで終わった。まあ、呪文は効いているのだろう。七年前の猫のときも特別なエフェクトは無かったし。
昨日から見て翌日の今日、今日からは意識を新たに静夜さんに接するぞ、と心に決めた。
高等部の校舎と大学のキャンパスは少し離れたところにあるが、旭も静夜も哲学科の木村研究室に頻繁に出入りしているのでほぼ毎日顔を合わせるのだ。
昨年度までは静夜が生徒会長で、旭が副会長をやっていた。副会長を二年が行うのは異例であったが、旭は素行の面でも成績の面でも優秀だったので誰からも認められていた。ただ唯一、髪色を派手なピンクアッシュに染めていることだけが指導対象であったが。
旭と静夜は氷鷹学園の名物コンビであった。静夜が生徒会長をした次年度は必ず旭がそれを引き継ぐ。初等部も中等部もそうだった。
ふわふわに巻いたピンク色のツインテールを揺らしながら、陽光差し掛かる通学路を歩く。
しかしあの黒魔術、効いてるかどうかわかったらいいのになあ。
なんて考えながら信号が青になったので、黒魔術書を読みながら横断歩道に差し掛かる。その時、信号無視した車が旭に突っ込んできた。
直後、右半身に途轍もない衝撃が走った。
一瞬意識を失っていたらしい。地面に転がり、横向きになりながら流れ行く血溜まりを見て、ああわたしは死ぬのかな、とやけに明瞭にそう思った。まあ思い残すことは――いやめちゃくちゃあるけど。ふざけんな。先輩にまだ好きって言ってもらってないじゃん。
そう思った途端に活力が湧いてきた。地面に右手をついて起き上がろうとすると右手の肘から先がもげた。使えない右腕め。左手をついて起き上がり、右前腕部を肘にくっつける。変な方向に曲がっている脚を無理やり戻し、立ち上がる。人体解剖学の本を読んだことがあって良かった。多分正しい方向に接着できている。
あたりを見渡すも車はどこにも居なかった。轢き逃げかよ。血溜まりの中で立ち尽くす。痛みはどこにも感じない。無理やりくっつけた右腕も動く。握っては放しを繰り返すも支障はない。気づいたら血も流れていなかった。
ああ、わたし、たぶんあの呪文のせいで先輩と結ばれるまで死なない身体になっちゃったんだ。わたしゾンビになっちゃった。やっぱ黒魔術効いてんじゃん。わかりづらいなあ。
静夜さんに驚かれちゃうかな。
このまま立っていても仕方がないので自宅へ引き返す。
スクールバッグに入れていたため奇跡的に無事だった携帯で学校に交通事故に遭った旨を連絡する。今日は遅刻します、と言うと休めと言われたが静夜の顔を拝むまでは旭の一日は始まらないし終わらない。
せっかく朝早く起きて巻いている髪に血糊がべったりついている。帰ってシャワーを浴びないとな。
昨日効果があるとわかっている黒魔術を行っていたので自分がゾンビになったことに対して特別な感情は抱かなかった。しかし、一点。
――確か、成就したら代償として術者が死ぬんだよな、あの儀式。
まあ想いが報われて死ぬならいっか。
いやでも、告白して報われるためにギリギリのところで踏みとどまったのに上手く行ったら死ぬんじゃん。
困ったな。
旭はその明晰な思考回路に電気信号を走らせる。
そもそも旭は先輩と結ばれてどうしたいのだろうか。
とりあえず帰路を辿りながら旭は考えた。
結婚したい? できるならしたいけど別にしなくてもいい。
付き合いたい? 付き合いたい。
付き合いたいのはどうして? 一番側にいたいから。
だとしたら告白して成就しなくても一番側にいる存在になれれば旭の目的は達せられるのではないか。
あわよくば一番の目的である先輩を看取ることができるのではないか。
てくてくと歩きながら旭は解を出す。
つまり、先輩に恋愛感情を抱かれないように、最も近い存在になることが旭の目標となる。
それなら割と簡単だ、先輩はいままで観測してきた人類の中で最も恋愛から遠い存在だったから。悲しいことに。
奇跡的に誰ともすれ違わずに着いた家の鍵を開けてローファーを脱ぐ。自室から着替えを持ってきて台所の横を通り過ぎる。
「旭? 忘れ物かい?」
リビングから父の声がした。この時間帯、母は既に仕事に行っている。
「いや、交通事故に遭ったから一旦帰ってきた。あとゾンビになったみたい」
「交通事故? 怪我はしてない? 相手は? あとゾンビって何?」
「轢き逃げされたからわからない。けどどうでもいいや、動けるし」
父が廊下にやってきた。歩くと乾燥した血液がパリパリと音を立てた。
「血まみれじゃないか! 何を平然としているんだ!? 早く救急車を呼ばなくちゃ」
父は持っていたマグカップを取り落して旭に駆け寄った。
「待って待ってお父さん、大丈夫だから」
「大丈夫なわけないだろう。左脚も傷ついているじゃないか。病院に行こう、さあ、とりあえず横になって」
「聞いて聞いてお父さん、わたしゾンビになったから大丈夫なの」
「ゾンビ? 頭も打ったのか」
「ちーがーいーまーすー。黒魔術を使ったの!」
黒魔術と聞いて父がようやく聞く耳をもってくれた。
「書庫にあるやつかい?」
「そう。あれの【絶対に願い事が叶う呪文】を使ってゾンビになったの」
「本物だったのか︙︙?」
「そうだよ。こんなすぐバレる嘘つくわけないでしょ。救急車呼んでゾンビだってバレたら解剖されちゃうかもしれないから、呼んじゃだめ」
「証拠は?」
旭は制服のブレザーを脱いでブラウスの袖を二の腕まで捲り、右前腕部を取り外して再接着して見せた。
「ね? 痛くもなんとも無いよ」
父は口に手を当てて息を呑んだ。顔面蒼白である。もしかしたら少し刺激が強かったのかもしれない。心配になって声をかける。
「お父さん大丈夫?」
「うーん。かろうじて大丈夫︙︙だけど、他の人はきっと大丈夫じゃないから、誰にも言ってはいけないよ。家族にすらも気づかれてはいけない。お父さんと旭だけの秘密にしようね」
「わかった」
「あと、安易にオカルトに手を出さないこと」
「うっ」
旭はうつむいた。昔猫を生き返らせたことについては黙っておこうと思った。
「ごめんなさい︙︙」
「反省してるならもう使わないように。あと、その成就したら死ぬおまじないの条件は?」
「そ、それは」
言いたくなかった。何が悲しくて七年来の拗らせた初恋を父親にバラさなければいけないのか。
「ひみつ︙︙」
「旭」
「秘密! これは言いたくないの」
「旭」
「これだけはお父さんにも言えないよ!」
「︙︙そうか。でも、いつかは話してもらうからね」
「︙︙︙︙えぇうぅ」
父には曖昧な擬音を残したまま、旭は風呂場へ向かった。
静夜さんはゾンビになったわたしのことをどう思うだろう。
さっきは驚くかなとそればかりだったが、嫌いになってしまわれたらどうしよう。
案外普通に受け入れてくれそうな気もするし、完全に拒否される気もする。
後者だった場合怖いので決して彼だけにはバレないようにしなければ。根本的な解決にはならないけれど。
熱いお湯を浴びながらそれだけ思った。
シャワーから上がった旭は血糊がすべて流れてきれいになった身体にオーバーサイズのパーカーとスキニージーンズを纏った。ドライヤーで長い髪を内側から乾かして、ツインテールにしてからヘアアイロンで巻く。
制服を大きめの紙袋に突っ込んで、クリーニングに出すために家を出る。そのまま登校するつもりだったのでスクールバッグも肩にかけた。
クリーニング屋は通学路の途中にあるため都合が良かった。
「あれ、三峰さん?」
背後から世界で一番愛しい声がした。
ぱっと振り返って返事をする。
「静夜さん」
旭の今日が始まった。
「こんな時間に会うなんて珍しいですね。サボりですか?」
「わたしがサボるような人に見えますか?」
「生徒会時代、時折上手にサボってましたよね」
「否めませんけど」
「どうしてこんな時間に?」
「朝、交通事故に遭ってしまって」
「怪我は?」
「ありません」
嘘です。後ろめたくて視線を逸らす。
「一生分の幸運使い切ったみたいですね」
「そうですね」
旭は複雑な気持ちで答えた。どちらかと言えば悪運なのである。いや、あの呪文を使ってしまった時点で旭は死か永遠の命かの二択を迫られてしまっているのだが。
「これから登校ですか?」
「クリーニング屋さんに寄ってからになりますけど」
「じゃあ一緒に行きましょうか。僕は三限からで余裕がありますし」
「是非!」
制服をクリーニングに出した後、旭は静夜と並んで通学路を歩いた。静夜はいつも一人だったので、静夜の隣を歩くのは旭くらいだった。それが旭の独占欲を適度に満たしてくれていた。
「怪我は本当にしなかったのですか?」
「してないみたいですねえ」
嘘をつくのが心苦しくて明後日の方向を向いて歩いていた旭は、側溝に引っかかって無様に転んだ。
「うわっ」
思わず利き手の右手をついて体勢を整えようとしたが、右腕がもげて転がった。そのまま旭の身体はアスファルトに叩きつけられる。
やべえ。
永遠にも思える静寂が訪れた。
ちら、と静夜の顔を伺う。真顔。何の情報も得られない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。なんて思われるかな。拒絶されるかな。最悪通報とかされちゃうかも。見間違いだと思ってくれないかな――。
「三峰さん」
静夜の静かな声がいやに鮮明に聞こえた。
「――はい」
「その右腕について、正直に話してもらっていいですか?」
「うっ……はいぃ……」
即バレ――。ごめんなさいお父さん。
旭は右腕を接着しつつ、昨日から今日にかけてあったことを、おまじないの内容だけ省いて正直に話した。
「親御さんや学校には知らせましたか?」
「理解がありそうだったので父親には一応伝えました。学校には事故に遭ったこと以外は知らせていません。母と弟にも隠すつもりです」
「まあそれが妥当ですね」
「っていうか、静夜さんは信じてくれるんですか? 通報とかしないんですか?」
父よりも早く順応している静夜に問いをぶつける。
「僕の家にも昔古本屋で買った黒魔術書があるんですよ。オカルトに興味があって。まさか信じて実行する人間が居るとは思いませんでしたが。しかも効くとは思いませんでしたが。顔に出ていないだけで結構困惑もしていますが」
「実は初等部の頃に一度実験しているんです。死者蘇生を猫に試しました」
「あなたは自分の寿命を何だと思っているんですか?」
「すみませ︙︙ん? なんで対価が寿命だと識っているんですか?」
「僕の持っている黒魔術書にもその項目があったからですよ。違う術式でなければ、あなたは自分の寿命を半分差し出したのではないですか?」
「そうです、そのとおりです」
「もうしないように」
「はい」
先輩はゾンビに興味があるようで、いくつか質問をしてきた。
「血は流れないんですか?」
「流れないみたいですね。凝固しているんでしょうか。でもそれにしては皮膚を押してみても柔らかいんですけど」
「死後硬直は……死んでないからしないのかな。現実離れした存在になったものですね」
「そうですね。ハロウィンにはまだ早いですよね。あ、わたし今年のハロウィンもしかしたら何もしなくても仮装とみなされるのでは?」
「それ、つまらないんじゃないですか?」
「まあ、そうですね。腕の一本でももいでおきますか?」
「軽率に腕をもごうとするのをやめなさい。秘匿すると約束したんでしょう」
「そうでした。すみません」
高等部の校舎の校門に着いた。
「じゃあ、ここで。くれぐれも不必要なときに腕をもがないように」
「わかりました、指とかにしておきますね」
「何もわかっていないことがわかりました」
ひとつため息を落として、静夜さんはキャンパスへと向かった。
わたしは昇降口へと足を向けた。
怖くて聞けなかった。
ゾンビになったわたしを嫌いになったかどうか。
放課後、木村研に行ったときにでも確認しよう、と思った。
当面の目標はこれ以上ゾンビバレしないことだな。よし。
職員室で、わたしは担任の三沢先生に今日あったことを伝えた。
「すみません、事故なんかに遭っちゃって」
「轢き逃げだったんだろう? 三峰は悪くない。事故の影響で普段の生活に支障はないのか?」
「少し後遺症が残ったので、体育だけ少し不安がありますね。内容によっては見学にさせてもらいたいです」
「わかった。体育担当の中西先生に伝えておく」
「お願いします。あと、制服はクリーニングに出しているので返ってくるまで指定ジャージ登校になります。今日は用意がなかったので私服で授業を受ける許可をください」
「わかった。授業は三時間目の現国から参加するように」
「はい。失礼します」
三時間目までは生徒会室で仕事をして過ごした。
半月後に控えた体育祭に向けて仕事はいくらでもあった。目を通した書類に判を押すのを繰り返す。
それを繰り返していれば、二時間目が終わるチャイムが鳴った。書類を片付けて、スクールバッグを持って生徒会室を出る。
「あれ、会長今日私服?」
教室まで歩いていると同じ三年生に声を掛けられた。
「ちょっと事故っちゃって制服クリーニングに出してるの。これは真似しちゃだめだよ」
「なんだ、また改革起こすのかと思ったのに」
改革とは、旭の代から高等部の髪の色が自由になったことを指す。生徒会長になってから、旭は髪をピンクアッシュに染めた。そのことについて指導を行った生徒指導の教員に対し、『初等部から今に至るまで、課題も授業も怠ったこともなく、素行にも成績にも問題のないわたしが髪を染めたくらいで変わるとお思いですか』と過去の所業から証明して見せて生徒の髪色の自由を勝ち取った事案のことである。だから氷鷹学園の高等部の生徒は髪色がばらばらだ。
「しないよ、わたし氷鷹の制服気に入ってるもん」
教室に着き、後ろの扉から入る。
「おはよう」
「あ、会長おはよう」
「今日私服?」
「そのパーカーかわいいね」
「おはよう。ありがとう、私服はちょっと事情があってね。明日からはジャージだよ。ところで今日の現国は小テストだった筈だけどみんなおさらいはしたのかな?」
そう尋ねると旭を囲んでいた同級生がわっと散って行った。
ふうと息を吐き、教室の最後列の真ん中の自席に座った。現代国語の資料集を出してぱらぱらと捲る。
授業開始五分前に担任であり現国担当である三沢が教室に入ってきた。その手にはプリントが抱えられている。
「お、みんなちゃんと勉強してるな、偉いぞー」
その日の授業は小テストだけだった。後半は先生がテストを採点し、生徒は自習になったのだ。
「三峰旭」
順々に呼ばれて前に出る。
「満点。さすがだ」
「ありがとうございます」
静夜さんに褒めてもらおう、と内心で思いながら小テストを受け取る。
何故か食欲が無かったので昼食は取らずに生徒会業務を行った。
放課後、生徒会業務に一区切りつけた旭は大学のキャンパス内にある木村研へと足を運んだ。
扉に手をかけ、中に先輩がいるかどうかを考える。シュレディンガーの静夜さん。いま静夜さんは重ね合わせの状態にあった。
えい、と扉を開くとそこには生きた静夜さんが椅子に座って本を読んでいた。旭は毎日シュレディンガーの静夜さんをやっていた。いまのところ全戦全勝である。静夜さんに対してのみセンサーがついているのだ。
「お疲れさまです」
数人居るゼミ生と木村教授、静夜さんに挨拶をする。
「こんな時間まで生徒会業務してたんか?」
教授に問われる。今は十九時をすこし過ぎたところ。
「体育祭前なので少し忙しいんですよ」
「器用にほどほどにやりや。上手いこと人使ってな」
「ありがとうございます」
静夜さんと旭は家が近いので帰るときはだいたい一緒だった。だから帰りが遅くなってもあまり気にしていなかった。
「コーヒー淹れますけど、飲む方いますか?」
合計六人手を上げた。自分を含めて七人分のお湯を電気ポットで沸かして、インスタントの粉をマグカップやタンブラーに淹れていく。
お盆に乗せて、コーヒーを配っていく。ミルクの数もゼミ生ごとに記憶しているので、適宜お盆から各自取っていってもらった。
最後に自分の席(静夜さんの隣)に戻り、コーヒーを置く。旭はブラック党だった。
「そういえば今日、交通事故に遭ったんですよ」
「怪我とかは?」
「ありますけど大したことはありません。歩けます」
「事故に遭ったって、どんな感じだった?」
ゼミ生の一人、ホラー映画サークルに入っている山口さんがそう言った。
「えー、感想を言わなくちゃいけないんですか? 嫌です」
「何でさ」
「なんとなくです」
「宿題代わりにやってあげるから」
「自分でやらなきゃ宿題の意味ないじゃないですか」
「そういえばこいつ生徒会長だった、畜生」
「品行方正と書いて三峰旭と読むのです」
ということで今日の課題をやりますね、と宣言して旭はスクールバッグから英語のワークを取り出した。
ワークも終わり、コーヒーを飲みながら黙々と予習をやっていると、隣の静夜さんがぱたんと本を閉じた。時刻は二十時半になっていた。
「そろそろ帰りましょうか、三峰さん」
「そうですね」
数学のワークを閉じて、スクールバッグにしまう。筆箱も入れて、立ち上がった。
「お疲れさまでした」
「お先に失礼しまーす」
挨拶をして木村研を出る。廊下の電気は消されていた。最近は節電の影響で旭たちが帰る頃にはあちこち真っ暗だ。
「お化け屋敷みたいですね」
「ゾンビも居ますしね」
静夜さんと二人でお化け屋敷に行くことができたら楽しそう。いつか誘ってみたいなあ。
「そういえば、今日あった小テスト、満点でした」
「すごいですね。偉いです」
「えへへ」
頬が緩んだ。
「あとあのー、静夜さん」
「なんですか」
「わたしがゾンビになったことで、静夜さんはわたしのことを嫌いになったりしませんよね?」
「しませんよ、それくらいのことで」
「良かった」
心の底から安堵した。ゾンビになるという突拍子もないことを「それくらい」と言い切ってくれる静夜さんのとんでもない価値観が途方もなく嬉しかった。あと嫌いじゃないという言質が取れた。
先輩の一番に近づいた。
しかし――。
旭は前を歩く先輩を見て思った。
この人、やっぱり変人だなあ。
静夜さんの家は旭の家より学校に近い。にもかかわらず、彼はいつも家の前まで送ってくれた。初等部の頃、父にサインをもらいに来て以来毎日彼は旭を家まで送ってくれるのが習慣になっている。
玄関の門をくぐって、家の扉に手をかける。
「それじゃあ今日もありがとうございました。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
家に入ると、高等部一年の弟、晴日がバタバタと足音を立てて出迎えてくれた。
「姉ちゃん晩ごはんハンバーグだよ!」
「おかえりなさいはどうした。ただいま。うーん食欲ないな」
「食欲ないの? なんで?」
「︙︙ダイエット、始めたんだよね」
「え? そんな太ってなくない? 姉ちゃん。むしろ細いと思うけど、俺が本気出したら折れそう」
「女子は複雑なの」
「つーか何で急にダイエット? 夕食抜くって相当じゃない?」
「あー、聞きたい?」
「まあ一応」
旭は少し迷って、しかし旭が使った黒魔術の本は自室に隠してあるので見つからないはず。適当な理由をつけた。
「好きな人に好きになってもらうためかな」
「ごめん聞いてもわかんなかったわ」
「理解力に欠ける弟だな」
「説明力に欠ける姉だな」
「コンビニ行くか?」
財布を見せる。
我が家からコンビニまでは徒歩十分という絶妙に面倒な距離があった。
「すいませんお姉さま」
「よろしい」
「あれ? つまり姉ちゃんのハンバーグ俺が食べていいってこと?」
「いいよ。お母さーん、わたし明日から晩ご飯いらない」
喜んでリビングに入る成長期の弟を追いかけ、旭はソファにかばんを放った。そのまま自分もソファに倒れ伏した。その拍子に右腕がごろんと落ちた。あぶねえ! 急いで右腕を回収し肘にくっつける。
「姉ちゃんほんとに食べていいの?」
晴日が振り返るすんでのところで接着できた。
「いいよー」
「食欲がないの?」
母に聞かれて、否、と首を振る。
「ううん、ただのダイエット」
母は心配そうに旭を見た。
「大丈夫? 成長期の無理なダイエットは身体に悪いのよ」
「死なないから大丈夫」
「必要な栄養素があるのよ? あなた胸が無いとか騒いでたじゃない、ダイエットしたら胸も大きくならないわよ」
「そういうの晴日の前で言わないでくれる!?」
「姉ちゃんの胸が無いのなんて見たらわかるって」
「おいコンビニまでアイス買いに行ってこい」
「なんで急にダイエットなんか?」
母の問いに、旭は黙秘権を行使した。
「恥ずかしいから言わない」
旗色が悪くなってきたので旭は立ち上がった。
「静夜さんに関すること?」
母親の言葉でわたしは躓いた。
「な゛、なななんで!?」
「あー姉ちゃんの彼氏?」
「そんな関係じゃありません。訂正しなさい」
「だって毎日一緒に帰ってきてるじゃん」
「それでも違うの。送ってくれるのは静夜さんが優しいだけなの。あの人の彼女になんかなれるはずないの、わたしが」
ぽそぽそと呟いた。なりたいけどなったら死ぬし。
「あの人、今勉強以外に興味ないんだから」
「姉ちゃんめんどくせえ」
「うるっせえなしばくぞ」
「生徒会長のDVだ、新聞部にネタ提供してやる」
それにこの恋は成就させたらいけない恋だ。静夜さんがわたしに興味を持ってもらったら困るのだ。――って一人のときなら思えるんだけどな。静夜さんに会うと好きって言葉が欲しくなっちゃうんだよな。
「お風呂入ってくる」
そう言ってむくりと起き上がった。
湯船に浸かってふうと息を吐いた。今日はいろいろなことが起きすぎた。轢き逃げ犯は自首しただろうか? 自首したとしても被害者の身体が忽然と消え去っているので警察も首を傾げているだろう。
左足を持ち上げる。ちゃぷん。大腿部に裂傷があった。今日散々もげた右前腕部にも。主な出血はここらあたりからだろう。髪を洗ったときに頭をチェックしたが傷口は見当たらなかったので。
顔に傷ができなくてよかった。
静夜さんと視線が合わせられなくなるところだった。
いや、今でも既に合わせられないけど。恥ずかしいからね。
いやそもそも顔に傷が出来たら社会生活に支障をきたしてしまうわ。そっちが先だった。
まず静夜を第一に考える旭の思考回路は習性のようなものだった。
ざばっと湯船の水面に顔面をつける。呼吸が必要なくなったのでいつまででも水面に顔を浸けていられた。水中で瞬きする。
あー、結婚してえー。幸せな家庭を築きてえ。でも無理だよね、ゾンビだもん。いやそれ以前に静夜さんと家庭を築けるヴィジョンが浮かばないし。
熱いお湯に浸かっている筈なのに、心の中は冷え切っていた。
あーあ、ゾンビか。昨日までは可愛い女の子だったのにな。
「あーがろっと」
ざぶん。湯船のお湯が少し揺らいだ。
アイスアイス、と思いながら冷蔵庫へ向かったがそういえば消化器官が働いていないであろうことを思い出す。
「晴日ー?」
「何?」
リビングでテレビを見ていた晴日がこちらを見た。
「わたしのアイス全部あげる」
「お姉さまどうなさったんですか」
「いや、考えたらわたしそういうカロリー高いもの口にできないし」
「あーそっか。じゃあ新作アイス出たら美味しそうに食レポするわ」
「それはそれでなんか悔しいな」
旭は階段を上って自分の部屋に行った。スクールバッグから数学のワークを取り出し、ゼミでやっていた分の続きを予習する。ノートを作って、わかりやすくまとめる。それはいずれ晴日のためになるだろう、と思いつつ。今、一年のときに旭が使っていたノートが彼の役に立っているように。基本的には弟がかわいい旭であった。
気がついたら深夜一時になっていた。全教科の予習を終えた旭は、うーんと伸びをする。が、あまり身体が伸びなかった。どうやらゾンビの身体は伸縮性があまりないらしい。
まあいっか、と軽く流し洗面台へと向かう。新陳代謝とかするのかなこの身体。歯磨きをしながら考える。スキンケアはどの程度までやればいいんだろう。とりあえず乳液までは叩きこんどくか。
ベッドに横になる。好きな音楽を流しながら目を瞑る。
――眠れない。
おかしいな。いつもこの時間帯には眠気がきている筈なのに。
テレビで何かの動画でも見るか、とリビングに降りると父が居た。
「あ、お父さん」
父は在宅で仕事をしている小説家なので昼夜が逆転しているのであった。一日顔をみないこともざらにある。
「旭、今日はどうだった?」
「ごめんなさい、静夜さんにバレちゃった。でも静夜さんは受け入れてくれたよ」
「月岡くんには驚かされるな」
「静夜さんのことだからきっと誰にも言わないし」
「――なんだか、悲しいな」
「悲しい? わたしまだ生きてるよ? たぶん。どうして?」
「普通の人生を歩むことはできないだろうからね」
「それはそうかも。でも、飢えないし、仕事は選べばできるだろうから、生きては行けると思うんだ」
父の隣のソファに座った旭の頭を父は黙って撫でた。
「もしかして、眠れないのかい?」
「うん」
「それもゾンビ化の影響かもしれないね」
「あっ、そうか。そうかも」
「だとしたら辛いな。いつでも書斎に来ていいからね」
「わかった、ありがとうお父さん」
「その腕の傷は痛くないのかい?」
「全然痛くないよ。痛覚がなくなっちゃったみたい」
「そうか。でも、お母さんと晴日に見られたら大変だから、長袖を羽織っておきなさい」
「あ、そっかあ。そうだね、そうする」
父はまた悲しそうな顔をした。繊細な人なのだ。そこは静夜さんと少し似ている、と感じた。
もしかしてわたしファザコンなのかも。父を静夜さんに投影している? いやそれは違うな。違うと信じたい。
「お父さんの小説の草稿読ませて」
「いいよ。夜はそうして過ごそうか」
朝まで父の書斎で小説を読んで過ごした旭は、紺色の指定ジャージを身に着けて洗面台に向かった。制服が返ってくるのは翌日だ。
「姉ちゃん洗面台独占しすぎ!」
「あんたと違って時間かかるの!」
「コテ温めてる時間だけでいいから貸して」
「仕方ないなあ」
旭は晴日に場所を譲った。
けれど、ふと自分はもう朝ごはんも必要ない身体なのだと思い出した。本当だったら、その時間に髪を巻けばいいのだ。
そうだ。もう朝ごはんを食べる必要もない。
なんとなく寂しく感じた。
昨日の父さんの悲しそうな顔はこれか、と思い至った。
娘が人間離れしたらそりゃ悲しいか。
わたしも少し寂しいし。
朝ごはんのホットサンドを目の前にして、旭はそれが全く美味しそうに感じられなかった。むしろ吐き気すら覚えた。笑顔を作って「いただきます」と言って食べるが、味など感じられなかった。ただ咀嚼して飲み込むだけで精一杯で、牛乳で流し込んで席を立つ。
「今日は随分と急いでいるのね」
「そう? おなか空いてたからかも」
吐き気をこらえていつもより早くジャージ姿で登校して、学校のトイレに駆け込んで朝ごはんを吐き戻す。勿体ないが、朝ごはんまで抜くと母にも弟にも疑われてしまうから。
教室で父の書いた児童書を読む。朝は全校朝会が無い限り自由な時間だった。読書はもっぱらミステリか児童書を好んで読んでいた。父親の影響もあったかもしれない。
――集中して読んでいたから気が付かなかったが、肩をトントン、と友人の早見に叩かれた。
「おーい、ジャージ会長」
「人を衣服で呼ぶんじゃないよこの制服庶民が。どうしたの?」
「愛しの先輩が呼んでるけど」
早見の指差す先には、教室の入口で所在なさげに立っている静夜が居た。
「それを真っ先に言え」
わたしはがたんと立ち上がり、静夜さんのところまで一直線に駆けていった。
「教室は走らない」
「はい」
静夜さんはポケットに手を入れた。
「どうしたんですか静夜さん、わたしに会いに来たんですか?」
「それ以外で大学生の僕がこの教室に来る理由がありますか?」
わたしは顔を覆った。
「くー……」
「どうしました?」
「噛み締めています。喜びを」
「倒置法……あ、それで用件なんですけど」
「あ、はい」
「これをあげようと思って」
静夜さんがポケットからとりだしたのは数束の赤い刺繍糸と針のセットだった。
「昔刺繍に凝っていた時期があって、その頃の余りなんですけど。取れやすい部位は縫っておいたほうが良いですよ。それじゃあ」
「優しさの過剰供給ありがとうございます」
九十度の最敬礼で静夜さんを見送って、ジャージのポケットに刺繍糸セットを大事にしまう。
刺繍針は先が丸いので、わざわざ先の尖った針を用意してくれたみたいだ。
細やかな気遣いにもう動いていない心臓がときめく。
初等部の頃、わたしは裁縫クラブに入っていた。そこに静夜さんは居なかった。中等部の頃は旭も静夜も生徒会一本だった。家でやっていたのかもしれないが、自分に都合のいいように考えてしまう。それはつまり、旭のためにわざわざ買いにいってくれたんじゃないか、なんてこと。
だって赤色ばかり数束も残る?
あれ、恋してますって言えないの、結構つらいかも。
机に突っ伏して、刺繍糸を握りしめる。
死なないためには、好きって言って静夜さんが振り向かなければいいだけだ。
でも、ああ、どうしよう。
こっちを向いてもらいたい。
好きって言ってもらいたい。
欲望が生まれてしまった。
否、違う。
欲望に気づいてしまっただけだ。旭はずっと前からこっちを向いてほしかったのだから。だから願い事だって【先輩と結ばれるまで死にませんように】だったのだ。
「生田ぁ」
旭は生徒会副会長、自分の懐刀であるところの生田潤一に話しかけた。生田は初等部の頃に旭が直々にスカウトして副会長にした賢い男子生徒だった。
「何?」
「ゾンビと人間の恋愛ってどう思う?」
「小説の話か? まあ、普通に考えて化け物と人間の恋路は難しいんじゃねえの」
化け物。
その言葉が胸に刺さった。
あ、化け物か。そうか、ゾンビは化け物だ。
この赤い色の刺繍糸、小指と小指に縫い止めたいけど。
でも駄目だよね、先輩は人間でわたしは化け物なんだから。
ああどうしよう。
よく考えてなかったけど、恋人にならずに静夜さんの一番側にいることって、実は結構――つらいことみたいだ。
教室の前のドアが開いた。
「きりーつ」
旭は立ち上がる。
「礼」
授業に集中しなきゃ。
「着席」
眠っていないはずなのに、どの授業でも頭は明瞭に働いた。そろそろ眠くなってくれないかな、と思ったりもしたけれど、旭は本格的に化け物になってしまったのだろう。
ああ、化け物という言葉が頭から離れない。
昼休み、屋上で(鍵を持っているのは生徒会長特権である)静夜さんにメッセージを送った。ツインテールを揺らす風はまだ冷たい気がした。
『静夜さん、わたしは化け物でしょうか』
すぐに既読がついて、返事が来た。
『化け物はそんなことで悩みはしないと思いますよ。』
強張った心がゆるやかに解けた。心做しか風も暖かくなった。
『どうせ生徒会室か屋上にでも居るのでしょう。木村研にケーキがあるので食べに来たらどうですか』
ああ、そういうところが好きなんです、わたし。
そういうところに恋してる。
目を瞑って思う。
わたしは、先輩に恋してる。
まだ信仰との区別はつけられないけれど、少なくとも恋はしていると神に誓える気がした。
その日のお風呂上がり、自室でボディクリームを身体に塗り込んだわたしは、先輩から貰った刺繍糸で自分の身体にステッチをした。針を刺すときに少し勇気がいったが、刺してみると全然痛くなかったので、あとは簡単だった。右前腕部の付け根、右前腕部の裂傷、左大腿部の裂傷。身体の利き手側に針を通すのは難しかったので少し歪になったが頑張った。静夜さんから貰ったものが身体の一部になった気がして嬉しかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。