第二章 失われた教室、漂う日常
コンクリートの壁面に雨だれの黒い跡が幾筋も流れる廃校の校舎は、島そのものが泣いているかのようだった。
校庭の隅の錆びた手洗い場に行き、真鍮の蛇口をひねってみる。乾いたきしみ音のあと、ゴボゴボと赤錆の混じった濁った水が滴り落ち、特有の鉄臭い匂いが鼻を突いた。かつては、この蛇口の周りにたくさんの子どもたちが群がり、冷たい水を掛け合って笑っていたはずだった。玄関のガラス戸には大きなひびが入り、蜘蛛の巣が幾重にも張られている。
誰もいない二階の廊下を歩くと、西日に浮かぶ埃だけが、空虚な足音に応えた。音楽室に入り、埃をかぶったピアノの蓋を開けた。人差し指で真ん中の「ド」の鍵盤を叩くと、濁ったうねりを伴った音が教室に溶けていく。かつてここで健介が鍵盤を乱暴に叩き、里美が呆れたように笑っていた日々が、遠い昔の出来事に思えた。
教室を見渡すと、小さな木製の机と椅子が整然と並べられたままになっていた。黒板の隅には、最後の日に子どもたちが書いた「ありがとう、またね」という掠れたチョークの文字が残っている。
祖父もかつて、この学校で教鞭を執っていたのだと聞いたことがある。同じ廊下を、同じ黒板の前を、祖父も一日の大半を過ごしていたのだと思うと、埃っぽい空気の中に、まだ祖父の声が残っているような気がした。
閉校式のあの日のことを、今でもよく覚えている。たった三人の子どもたちが、声を合わせて校歌を歌った。あの日以来、この島に子どもの声が響くことは一度もない。
ギィと木を軋ませる足音が響いた。軍手を付けた左手に、錆びついた鎌を持った健介だった。一度向けた顔を黒板に戻して、健介に声をかける。
「学校が廃校になってから、島の時間が急に早くなったように感じます」
「わんには、むしろ時間が完全に止まってしまったように思えるが。本土に行く準備ばしよると、一日が一年みたいに長く感じるよ」
健介は校庭に下りると、隅に生い茂った雑草を刈り取り始めた。ザクザクと硬い茎が切れる音が響いてくる。健介は、ふと手を止め、刈った草の匂いを嗅ぐように顔を上げた。
「なあ、一樹にい。その黒板、覚えとるか」
「何をです」
「わん、漢字がまるっきり書けんかったろうが。そこで、一樹にいに『健』の字ば教えてもろたんじゃ。何回書いても横棒が一本足りなくて、あんた、腹抱えて笑いよったな」
健介は照れ隠しのように鎌を振り、また雑草へ向き直った。
祖父から漢字を教わったときのことを思い出す。台風で停電した夜、ろうそくの灯りだけを頼りに新聞の音読を聞いていた祖父は、読めない字に黙り込む私を急かすことなく、ただ静かに次の文字を指さした。
「言葉覚えるのに、近道はないよ。一文字ずつ、丁寧にすればいいどぉ」――標準語を崩さないはずの祖父が、ふとした瞬間にだけ見せる島の言葉だった。あの眼差しをいつの間にか自分も健介に返していたのだと、今になって気づく。
健介は、しばらく無言で草を刈っていたが、ふと思い出したように続けた。
「そういえば、あの岩場でよ、泳ぎ方も一樹にいに教えてもろったん。最初は溺れかけて、あんたに首根っこ掴まれて引き上げられたわ」
小さく笑った拍子に、鎌を持つ手から力が抜けた。それだけ言うと、二度とその話には触れなかった。
「来月にはこの重苦しい空気を吸わんで済むと思うと、寂しいというより、ホッとするのが本音ど。一樹にいは、この島で一生、あの
古い日記ば読みながら暮らすつもりな?」
突然の問いに、一呼吸おいて答える。
健介が羨ましかった。島を捨てる理由を、はっきりと持っていることが、羨ましかった。その感情に気づかれたくなくて、いつもより低い声で答えていた。
「私は『記憶の番人』なんです。私がここを離れれば、島を記憶する者はいなくなります」
「記憶の番人ねえ……」
健介は刈る手を止め、じっと見つめてきた。哀れみと諦めの混ざった眼差しだった。
「そんな綺麗な言葉で飾ってもよ、誰もいなくなった島で一人で喋っとっても、それはただの独り言じゃがな。あんたがどれだけ正しい言葉で日記ば書いても、それを読む子どもはもう一人も生まれんのよ。これ以上、誰に語りかけるわけ?」
その通りだと思った。それでも、絶望を見せるわけにはいかなかった。
「聞く者がいなくとも、書くことをやめる理由にはなりません」
健介は小さくため息をつき、視線を外した。
「一樹にい、あんたは本当に、不器用な人じゃや」
健介が再び雑草を刈る作業に戻る。その鎌の音は、一定のリズムを刻んで私の耳の奥に届いた。
昼過ぎ、里美が握り飯を包んだ布を提げて校庭に現れた。木陰にビニールシートを広げ、私たちを手招きする。梅干しの酸味が、汗をかいた体に染み渡った。塩気の効いた海苔の香りが、乾いた喉に心地よかった。
しばらくの間、三人とも無言で握り飯を頬張った。蝉の声と、遠くの波音だけが響いていた。
「なあ、里美ねえ」
健介が海苔のかけらを口の端につけたまま言った。
「区長がいなくなったら、この島、誰が継ぐんかいね」
里美は手を止め、少しの間、答えを探すように視線を泳がせた。
「さあ、どうじゃろうね」
それ以上は語らず、遠くの水平線をじっと見つめていた。作業を終えた健介と二人で帰り道、集落唯一の商店の前を通りかかった。シャッターは三年前に下ろされたきり、赤茶けた錆の縦縞を走らせている。ガラスの奥には、色あせた清涼飲料水のポスターがまだ貼られたままだった。笑顔の子どもの顔は、日焼けと湿気ですっかり白く飛び、もはや誰の顔とも分からなくなっている。
「ここが、わんきゃのたまり場だったな」
健介がシャッターの取っ手を指先で弾いた。乾いた金属音が短く響いて消える。
「駄菓子と、釣り餌と、灯油ば売っとった。今はもう、誰もここば通らんもんな」
店の奥には、埃を被ったガラスケースがまだ残っていた。かつてはそこに、色とりどりの飴玉や小さな花火が並んでいた。店主のおばさんが、釣り銭を数えながらいつも同じ小言を言っていたのを思い出す。「甘い物ばっかり食べよったら、歯が全部溶けてしまうど」――その声も、もう二度と聞くことはない。
返す言葉もなく、ただポスターの白い顔を見つめていた。無数の小さな結び目が失われていくことへの割り切れなさが、喉の奥に残った。
その夜、忘れ物を取りに港の待合所へ寄った。灯りを点けようとして、壁に貼られた古いフェリーの時刻表の前で里美が一人、動かずに立っているのに気づいた。声をかけそびれ、戸口の陰から見守った。
里美は指先で時刻表の一番上の便――島から本土へ渡る、朝一番のフェリーの欄をなぞっていた。何度も、何度も。まるでそこに書かれた数字を、身体のどこかへ刻み込もうとしているかのように。やがて彼女はポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出した。しばらくその紙を見つめたあと、静かに四つに折り直し、待合所の隅にあるゴミ箱へ落とした。
振り返ることなく、港の暗がりへ歩き去っていく後ろ姿を、声をかけられないまま見送った。
彼女が完全に見えなくなってから、待合所に入った。一瞬の戸惑いの後、私はゴミ箱の中の紙をそっと拾い上げた。皺の寄ったそれを広げると、本土の水産加工会社の求人広告だった。「経験不問、寮完備」という文字の上に、里美の指先で押さえたらしい小さな折り目が、幾重にも重なっていた。胸の奥に浮かんだものが何だったのか、考えないことにした。彼女もまた、島を出ようとしていたのだ。その事実に、胸の底が冷えていくのが分かった。それが島のためなのか、それとも自分のためなのか、私自身にも判然としなかった。その紙を元通りに畳み、静かにゴミ箱へ戻した。
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