第一章 十二の革命
およそ五十年前。
クレメンスはまだ二十歳だった。隣国ガリエンの王立大学に籍を置いていた。
外交官の子息として送り込まれた留学だった。学ぶべきは学問ではなく、隣国の空気だった。
その朝──
クレメンスは大学の講堂で数論の講義を聞いていた。
ガリエンの数学者は十四進法の非効率を論じていた。
「七は素数であり、割り切れないことが体系全体の冗長性を生む」
講義は明快で、論理的だった。
そして何かが欠けているような気がした。
クレメンスにはそれが何か、まだ言葉にできなかった。
講義が終わる前に、扉が開いた。
「国王の第七指が、広場の中央、無数に集まった公衆の面前で切り落とされた。片手六本、両手十二本。王は十二進法の身体になった。そのセレモニーに、民衆は熱狂した」
これが、その一報だった。
「切り落とした?」
クレメンスは報せを持ってきた学友の顔を見た。
「比喩ではないのか。何かの政治的な宣言を、そう表現しているのではないのか」
学友は首を振った。
「切り落とした。王の両の手の第七指を。聖別の刃で。王は自ら手を差し出したとも言われている」
クレメンスは黙った。言葉が追いつかなかった。
第二報は、その日の夕刻に届いた。
「王都の民衆が、王に続いて自らの第七指を切り落とし始めた。広場に刃物が持ち込まれ、順番を待つ列ができた。血を流しながら、人々は笑っていた。六本の指を掲げ、互いに見せ合い、抱き合った。十二の手になったことを祝った」
「……狂っている」
クレメンスは思わず呟いた。
だが、と考えた。狂っているのは民衆か。それとも。
七本の指が、十四進法が非効率だと、今朝の講義で聴いた。論理的に、明快に。
学者が理論を説き、民衆はそれを肉体をもって実行した。
論理の帰結としては、あり得る。
自分が髭を剃るのは何故か。邪魔だからだ。美しくないと思うからだ。
では、指を切り落とすのは。
──寒気がした。
クレメンスは自分の手を見た。七本の指。紛れもない、今朝と同じ手だ。だが、今朝とは違って見えた。
翌朝、学友のヴァルターが興奮した顔で部屋に来た。
「聞いたか、クレメンス。いや、聞いたに決まっている。凄いことが起きた」
「凄いこと、か」
「十二進法は世界の夜明けだ。考えてもみろ。七の、十四の呪縛から解き放たれる。割り切れる。決まる。閉じる。これが進歩でなくて何だ」
クレメンスは答えなかった。ヴァルターの目は輝いていた。昨日の第二報を、この男も聞いたはずだった。血を流しながら笑う民衆の話を。
それでも目が輝いている。あるいは、それだからこそなのか。
「俺たちも続くべきなんじゃないか?」
ヴァルターの言葉に、クレメンスはしばし沈黙した。
「……指を切り落とすのか?」
「指は象徴だ。本質は体系の転換だ。十二進法が、割り切れる世界がどれほど明快か、お前にもわかるだろう」
わかる。それが問題だった。わかってしまう。十二がいかに効率的に世界を変え得るか。それは想像に余る。
だが、美しくない。ヴァルターもきっと、そう感じている。
だから、自らの指を切り落とす気はないのだ。
自分の代わりに王が、民衆が、指を切り落とした。そういうことだ。
大学の空気は、数日で割れた。
回廊で交わされる声が二種類になった。
「進歩だ」と言う者と「蛮行だ」と言う者。
貴族の子弟が多い学校だ。大勢は守旧派だった。だが彼らの怒りは、十四への愛ではなかった。
それは王が傷つけられたことへの怒りであって、七本の指がそこにあることの意味を語る者はいなかった。
身体に刻まれた、割り切れない均衡。曖昧であることの強さ。美しさ。
それらについては語られない。
クレメンスにはそれが一番堪えた。
本当に守るべきものを、守る側が知らない。
父からの手紙が届いたのは、七日目だった。
文面は短かった。「帰れ」。理由は書かれていなかった。外交官の子息には、理由は不要だった。隣国の情勢が自国に波及する前に、人質になりうる者を回収する。それだけのことだった。
クレメンスは荷物をまとめながら、ヴァルターの部屋を見た。灯りがついていた。別れを言うべきだろうか。何を言う。「指を切られるなよ」とでも言えば良いのか。
ヴァルターの部屋の前で足を止めた。扉の下から、細い光が漏れていた。中で何かを書いているらしい物音がした。
ノックしようとした右手が、途中で止まった。七本の指が、扉の前で宙に浮いていた。
ヴァルターには届かない。届く言葉がない。言葉にならないものを、言葉にしないまま持ち帰ること。それが今の自分にできる、ただ一つのことだった。
クレメンスは手を下ろし、静かにその場を離れた。灯りは、最後まで消えなかった。
国境を越えたとき、クレメンスは御者に道を変えさせた。
街道を外れ、古い村を抜ける道を選んだ。急ぐ理由はなかった。急がないことが、今の自分にできる唯一の抵抗だった。
村々の風景は何も変わっていなかった。
十四の区割り、曖昧な境界、誰のものでもない草地。
この風景が、いつまでもつか。
二十歳のクレメンスはこの世界の守り方に、考えを巡らせていた。
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