第二章 会議
広間に重臣たちが揃うまでに、頼賢にはすでに結論があった。だが、すぐに出すつもりはない。結論を先に示せば、家臣は賛否を述べるだけの役になる。そうしないために、手順を踏まねばならない。
四人の重臣。頼賢は末席から順に顔を見た。それぞれの表情に、それぞれの警戒があった。急な召集の理由を測りかねている者。おおよその見当をつけて、すでに腹を据えている者。
「民の口食が足りておらぬようだ」
頼賢がそう切り出したとき、広間の空気が微かに動いた。政にはつきものの、居心地の悪さ。知らぬふりができなくなったのではない。知っていたことを、知っていたと認めねばならなくなったのだ。最初に口を開いたのは、頼賢の予想通りの人間だった。
「新田の開墾をお許しいただければ」
江木清十郎。家臣の中ではもっとも若い。声に力がある。まだ何かを変えられると信じている者だ。北の山裾を切り開けば、三年で実りが出る。水路を引き直せば、既存の田の収量も上がる。藩の未来に賭けるべきだ──
頼賢は最後まで聞いた。最後まで聞くのは礼儀であり、論の弱さを話す者自身に気づかせる時間でもある。
「北の山裾は石が多い。切り開いたとして、土が実りを返すまでに何年かかる。その間、むしろ多くの口食が必要になる」
江木は黙った。黙り方に悔しさがあった。答えが足りないことを自分でわかっているのだ。頼賢はこの男が嫌いではなかった。だが今日は、好き嫌いの話ではない。
「水路の件はどうか。普請の入用と人手は賄えそうか」
頼賢が重ねて問うと、江木はしばらく考えてから、正直に首を振った。具体の算盤を持っていなかった。頼賢はそれ以上は追わなかった。
次に声を上げたのは、成瀬喜左衛門だった。成瀬は穏やかな声で言った。
「年貢を軽くされてはいかがか。民の口食が足りないのであれば国の取り分を減らすのが道理」
頼賢は頷いた。頷いたのは同意ではなく、その意見が出ることを待っていたからだ。
「年貢を軽くすれば、たしかに民は楽になる。だが藩の蓄えはどうなる。飢饉のとき、備えがなければ救えるものも救えぬ。年貢を下げた年に不作が来れば、藩ごと傾く」
成瀬は反論しなかった。反論する気がなかったのだろうと頼賢は思った。この男は案を出したのではない。案を出したという事実を作ったのだ。退けられることを見越して、しかし黙っていたとは言われぬように。頼賢はそうした振る舞いを責める気にはなれなかった。家臣とはそういうものだ。責めるべきは、その程度の対案しか出ない状況の方だった。
「恐れながら申し上げる。長幼の序は天の定めたる道理にございます」
堀江帯刀。儒学を修めた家臣だ。白髪の、背筋のまっすぐな男で、周囲の信頼が厚い。この男が長幼の序を持ち出すのは、道徳の話をしているようでいて、実は壁を立てているのだと頼賢にはわかっていた。「長幼の序」と言えば、老いた者を切り捨てる案はその先に進めない。進めなければ、議論は別の方向へ流れる。別の方向に流れれば、この男自身が考えたくないことを考えずに済む。
だが頼賢は、この家臣の言葉を正面から受けた。
「長幼の序を言うのはいささか勇み足ではないか。まあそれは良い。たしかに長幼の序は道理だ。だが道理で腹は膨れぬ。道理を守って民が飢えるのと、道理を曲げて民が生きるのと、いずれを取る」
堀江は目を伏せた。頼賢の問いに答えることは、どちらを答えても自分の立場を危うくする。道理を取ると言えば民を見殺しにする覚悟を問われ、民を取ると言えば自ら道理を捨てることになる。
広間が静かになった。
三つの案が出て、三つとも退けられた。頼賢はそのことを確認するように、一人ずつ顔を見た。目が合った者は視線を外した。視線を外しながら、何かを待つ目をしていた。
誰も次の案を出さなかった。
頼賢がもっとも注意深く見ていたのは、この沈黙だった。四人の重臣がいて、全員が口をつぐんでいる。案が尽きたのではない。まだ案はある。それを誰も口にしないのだ。
頼賢にはわかっていた。彼らの何人かは、頼賢と同じ場所にたどり着いている。口を減らすしかない。民はおそらく、いや間違いなく、赤子を殺すことで口を減らしている。しかし減らすならば赤子ではなく、老いた者の方が理に適う。だがそれを口には出せない。言えば、自分がその案を考えたことになる。考えたということは、年長者の命を秤にかけたということになる。秤にかけたのが自分だと知られることを、この広間の誰もが恐れている。
中には、別の恐れを抱いている者もいるだろう。この広間にいる者の中で、若いと言えるのは一人だけだ。残りは壮年から老年にかかっている。老いた者を捨てるという案を口にすることは、自分の親を、あるいはいずれ自分自身を、その秤の上に載せることだ。
だが誰もそうは言わない。言わない代わりに、黙っている。黙ることで、何も考えていないふりをしている。頼賢はその沈黙を見ていた。
「棄老の制を設ける」
頼賢が言った。声は静かだった。
広間に走ったのは驚きではなかった。驚きとは、予期していなかったものに対する反応だ。この広間にいる全員が、その言葉がいずれ出ることを知っていた。知っていて、自分の口からではなく頼賢の口から出たことに、安堵と恐怖が混じった何かを覚えたのだ。
堀江が声を上げた。
「それは──」
言いかけて、止まった。止まったのは、反論の言葉が見つからなかったからではない。反論はすでに述べた。長幼の序。だがそれは先ほど退けられている。同じ論を繰り返すことの意味を、この男は理解していた。
江木が口を開いた。
「民が従いましょうか」
それは道徳の問いではなく、実務の問いだった。頼賢はこの問いを待っていた。道徳で反対されれば道徳で返さねばならない。だが実務の問いならば、実務で答えられる。
「従うか従わぬかではない。口食が足りぬことは、民もわかっておる」
「わかっていることと、受け入れることは──」
「同じではない。だから制を設ける。個々の家の判断に任せれば、恨みは隣家に向く。藩の触れとして出せば、恨みは私に来る。それでよい」
頼賢がそう言ったとき、広間の空気が変わった。変わった、というより、定まった。頼賢が恨みを引き受けると言ったことで、家臣たちの中にあった抵抗のいくつかが行き場を失った。反対する理由が道徳であるならば、道徳の代償を領主が負うと言った以上、その抵抗は「領主に代償を負わせたくない」という情の話になる。情で政を止めることは、この広間の流儀ではない。
成瀬が口を開いた。
「仔細を伺いたい」
それは賛成の言葉ではなかった。だが反対の言葉でもなかった。仔細を聞くということは、すでに議論を「是か非か」から「どう行うか」に移したということだ。頼賢はこの一言を、採決よりも重く受け取った。
「六十を越えた者を対象とする。捨てに行くのは原則として肉親。できれば長男が望ましい」
頼賢は淀みなく言った。考え抜いてあった。
「なぜ肉親か」
堀江が問うた。声は硬かったが、問い方は冷静だった。この男は理解していた。制度そのものは止められない。ならば制度の中身を削ることで、少しでもましなものにしようとしている。
「他人の手で捨てられるのは、犬の扱いだ。最後まで肉親の手の中にあることが、せめてもの──」
頼賢は言いかけて、止まった。「せめてもの尊厳」と言おうとしたのだ。だがその言葉は、棄老という行為と同じ口から出るには重すぎた。
「──せめてもの作法だ」
作法。頼賢自身、その言葉を選んだ瞬間に、何かが自分の中で一段下がったように感じた。
「六十はいささか若うはないか」
成瀬が口を開いた。その声には、問い方の慎重さとは別の何かがあった。六十。この男は今、幾つなのか。頼賢は知っていた。五十の半ばにかかる歳。六十はそう遠くない。
「七十では遅い。ほとんどの者がその前に死ぬ。六十ならば、まだ山を歩けよう」
頼賢は答えた。答えながら、一瞬だけ立ち止まった。だが一瞬だった。
広間は静かだった。反対の声はもう出なかった。出ないことが賛成を意味するのではない。出せなくなったのだ。案を退ける論理がない。代わりの案がない。領主が腹を括っている。三つが揃えば、家臣にできることは仔細を詰めることだけだった。
「一つ、申し上げたいことがございます」
声を上げたのは、杉山善兵衛だった。これまで一度も口を開かなかった、末席に近い、実務を預かる男だ。頼賢は目を向けた。
「触れを出すからには、まず殿ご自身がお示しになるのが筋かと存じます」
広間が凍った。
頼賢は杉山の顔を見た。悪意はない。この男は本気で言っている。制度を民に守らせるならば、領主がまず範を示す。それが統治の作法だ。この男は頼賢の日頃の言葉をよく聞いていた。足を運べばわかることを足を運ばずに済ませるのは怠慢だ──頼賢自身がそう言ってきたのだ。
頼賢の母は、六十を越えていた。
広間の全員がそれを知っていた。末席の家臣も知っていた。知った上で言っている。頼賢にはそれがわかった。
「その通りだ」
頼賢は言った。自分の声がどこか遠くから聞こえるような気がした。
「触れを出す前に、まず私が母を山に連れてゆく」
広間は沈黙した。先ほどの沈黙とは質が違った。先ほどは言えなかったから黙っていた。今度は、言うべきことがなくなったから黙っている。頼賢は家臣たちの顔を見回した。反対する者はいなかった。反対しないことが、この場では最も重い言葉だった。
散会の後、頼賢は一人で広間に残った。
ここで自分は何を決めたのか。
民を救うために、老いた者を捨てさせる。そのために、まず自分の母を捨てる。論理は通っている。手順も正しい。家臣たちも異を唱えなかった。
それならば、この胸の底にある硬いものは何か。
頼賢は考えなかった。考えれば、明日から先のことが動かなくなる。今はただ、決めたことを動かす。それだけを考えた。
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