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迷子の天使

奥井晴弥

18,388 字

日常系連作短編、人生の機微、静かな発見

"街の片隅の花屋が、迷える魂たちにそっと手渡す、人生のささやかな花束。"

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   第二話 チューリップの背丈

ポストの中に、心当たりのない封筒が一通、混じっていた。
白い封筒に、銀色の菊の模様。御会葬御礼、と印刷されている。
宛名は個人名で、住所はこの近所だった。
裏に差出人の名前があり、知らない名前だった。
真鍋麻奈は封筒を裏返して、もう一度宛名を確認した。
やはり自分の家の宛名ではない。誤配だろう。
近所のどなたかが葬儀に参列して、そのお礼の手紙が間違えてうちに届いた。
麻奈は封筒をダイニングテーブルの上に置いた。
テーブルの上に何かが置いてあるのを、麻奈は気にする方だった。
郵便物はすぐに仕分けるし、娘の彩乃がスマートフォンを置きっぱなしにすれば注意する。
宛名の住所を調べると、商店街の中だった。花屋。花よし、という店名に覚えはなかったが、地図を見ればだいたいの場所はわかった。買い物のついでに寄れる距離だ。早めに届けてしまおう。そう思った。
午後になって、麻奈は封筒をバッグに入れて家を出た。スーパーに寄る前に、先に届けてしまうつもりだった。御会葬御礼を「うちのポストに入っていて」と手渡すのはなんとなく気が引けた。ポストにこっそり入れて帰るのが一番良い。
商店街を歩きながら、麻奈は結婚してからの年月のことをぼんやり考えた。
真鍋麻奈。まなべ・まな。婚姻届を出した日、夫は申し訳なさそうに笑っていた。麻奈自身は笑えなかった。電話口で名前を言うたびに聞き返されるし、病院の受付で呼ばれれば視線が気になる。もっとちゃんと考えてから結婚すべきだったと、最初の数年は本気で思っていた。でも彩乃が生まれて、保育園に通うようになって、「彩乃ちゃんのママ」になったら、いつの間にか自分の名前で呼ばれることが減った。気にならなくなったのではないが、自分の名前を気にする場面が少なくなった。
花屋は商店街を少し入ったところにあった。間口の脇にポストがあり、麻奈は封筒を取り出しポストに入れた。そのまま立ち去るつもりだった。
だが店先のバケツに並んだ花が目に入って、少しだけ足が止まった。黄色やオレンジの花が陽の光を受けて、商店街の灰色の空気の中でやけに明るかった。
奥の作業台に、男性が一人いた。五十代くらいで、エプロンをしている。大きなアレンジメントを作っているところだった。深い緑の葉の間に、赤やオレンジのチューリップが鮮やかに並んでいるが、全体のバランスに対してチューリップだけが少し低い位置にあるように見えた。
男性が、麻奈の視線に気づいて顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「すみません、見てただけなんですけど」
「いえいえ、どうぞ。移転祝いなんですけど、もう少しかかるんで」
「お仕事の邪魔しちゃってすみません」
「いやいや、全然。むしろ人に見られてる方がはかどるので」
男性は笑いながら、チューリップの位置を微調整していた。
「あの、ちょっと気になったんですけど」
「はい」
「チューリップ、他のお花に比べて少し低くないですか」
男性は手を止めて、少し嬉しそうな顔をした。
「よく気づきますね。これ、わざとなんです」
「わざと?」
「チューリップって、切花でも首が伸びるんですよ。茎が成長し続けるんで。今ここで完璧に揃えても、明日にはチューリップだけ飛び出してバランスが崩れる。だから少しだけ、低めに入れておくんです」
「へえ。切ってからも伸びるんですね」
「ええ。ただ、どのくらい伸びるか、どの方向に伸びるかは、正直計算しきれないんですけどね」
男性は手元のチューリップの茎に触れながら、少し困ったように笑った。
「計算できないんですか」
「できないです。温度とか日当たりとかで。だからまあ、ある程度は伸びることを前提に、あとはもう、届いた先で馴染んでくれたらいいな、って感じです」
「届いた先で」
「ええ」
麻奈は作業台の上のアレンジメントを見た。赤とオレンジのチューリップが、他の花よりわずかに低い位置で控えている。数日後にそれがどう変わるのか、この花屋の主人も正確にはわからないらしい。
「これ、移転祝いとおっしゃいました?」
「ええ、息子の会社の。IT関係で、何をやってるのか正直よくわからないんですけど」
男性は少し照れたように言った。
「事務所が大きくなったらしくて。まあ、親としてできることなんて花を届けるくらいですから」
「お花屋さんの息子さんだと、そういうお祝い事は全部お花なんですか」
「そうなりますね。不器用なんで、他に手段がないだけなんですけど」
麻奈は少し笑った。花を届けることを「他に手段がない」と言えるこの人は、たぶんそれが一番、たしかだと思っているのだろう。
「息子さん、おいくつなんですか」
「二十六です。もう一人、下に娘がいて、こっちは大学生で」
「うちも娘が一人いて、二十七で」
「じゃあ近いですね」
「ええ」
麻奈は何か続けようとして、やめた。彩乃についてはいくらでも話せる。生まれた時のこと、保育園で泣いたこと、高校の時に反抗期がなかったこと。でもこの数年、いつの間にか、知らないことが増えた。毎日同じ電車で帰ってきて、夕飯を食べて、自分の部屋に上がる。何を考えているのか、何が楽しいのか。聞けばたぶん答えてくれる。でも聞かなければ出てこないことが増えた。
レジの横の壁に、小さなコルクボードが目に入った。写真が何枚か貼ってある。子供たちが並んでいる。たぶん卒業式だ。その中の一枚が、コルクボードではなくカウンターの上に置かれていた。最近届いたものだろう。写真の右上に小さく印字された学校名は——南陽小学校。彩乃が通っていた小学校だ。この男性の?いや、違う。この、卒業生たちが持っている花。
麻奈は何も言わなかった。この花屋が娘の卒業式の花を納めていたのだとしたら。彩乃が受け取った花を、この人が用意していた。十五年前の三月。まだ寒かった。泣いた。花のことは覚えていない。
「チューリップ、いいですね」
麻奈は気がつくと言っていた。
「よかったら何本か。お持ちになりますか」
「じゃあ、五本くらい。黄色、かわいいですね」
男性はバケツの中からチューリップを選び始めた。一本ずつ茎を確かめて、蕾の膨らみを見て、選んでいた。麻奈はその手つきを見ていた。息子の移転祝いに使うのと同じ花を、名前も知らない客のために同じ丁寧さで選んでいる。
「これくらいの蕾のやつが、家で開いていくのが一番楽しいと思いますよ」
男性は薄い紙でチューリップを包みながら言った。
「伸びますからね。気がついたら最初と全然違う感じになってると思います」
「楽しみにしてます」
麻奈は花を受け取って、代金を払った。
スーパーへ向かう道すがら、紙の隙間からチューリップの蕾が覗いていた。黄色い蕾が五つ。これが数日後にどう開いて、どう伸びるかは、花屋の主人にもわからないらしい。
家に帰って、麻奈はチューリップをダイニングテーブルの花瓶に挿した。少し低めに、と思ったのは伸びると聞いたからだったが、花瓶の丈が足りなくてあまり意味はなかった。
夕方、彩乃が帰ってきて、テーブルの上のチューリップを見た。
「あ、花買ったんだ」
「うん。商店街の花屋さんで」
彩乃は一瞬だけ何か言いかけたように見えたが、「かわいいね」と言って自分の部屋に上がっていった。麻奈はその背中を見送りながら、チューリップの蕾をもう一度見た。まだ固く閉じている。明日にはどうなるかわからない。あさってにはもっとわからない。
でも、たぶん、伸びる。

── 第2章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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