第二章 1990年・夏:長久手の残像
半年前。
豊橋の小学校からこの分校に異動して初めての、一学期の終業式の日。夏目は、この「村」にようやく馴染み始めていた。
「夏目先生。夏休みの間、あの子たちに絵を教えてやってくれないかしら」
そう頼んできたのは、高学年の母親たちだった。
生来の長身に似合う細身のシャツ。清潔感のある身なり。都会的な雰囲気を残す夏目の存在は村の母親たちの間で、静かに、確かな信頼と憧れを持って受け入れられていた。
夏目は自分が担任を務める高学年の子どもたちなら、と引き受けることにした。
低学年の無邪気な落書きには、まだ教えられることが少ない。
自分という人間を意識し、世界との距離に悩み始める時期。
そこで初めて、美術を美術として教える意義が生まれる。
夏目には、そんな自分なりのこだわりがあった。
「わかりました。ところで場所は学校の図工室ではなくて、寄宿舎にしませんか。僕の部屋は、ちょっとしたアトリエみたいになっていますから」
母親たちは安堵の笑みを浮かべた。自分たちの知らない世界を知っている若い先生。その部屋で絵を習えることは子供たちにとって都会の学校では得られない、かけがえのない経験になる。彼女たちは夏目の提案をそのように受け止めた。
夏休みの活動は、予想を上回る評判を呼んだ。
夏目は「描き方」を教えるのではなく自由に制作が生まれる環境を整えた。
畳の上には古新聞が広げられ、描きかけのドローイングや、色の混ざり具合を試した紙の切れ端が散乱している。夏目が豊橋や名古屋の書店で買い込んできた、海外の画集や最新の展覧会のパンフレットはこの陸の孤島に住む子どもたちにとって、鮮やかな「外の世界」そのものだった。
「先生、これって夏休みだけなんだよね?寂しいな、また来たい」
夏休みが終わる頃、子どもたちが口々に言った。その言葉と母親たちの相談を受けて、二学期以降も土曜日の放課後に教室を続けることにした。
当時、土曜日はまだ半日授業があった。午後の手持ち無沙汰な時間、この山奥で子どもたちにテレビゲームではない、文化的な楽しみを与えられる場ができたことは、保護者にとっても好都合だった。
こうして毎週土曜日の午後、寄宿舎の一室は「夏目教室」になった。
畳の上で思い思いに色を重ね、画集のページをめくる子どもたち。
夏目はかつて長久手の丘のアトリエで自分を導いてくれた樋田先生の姿を、今の自分に重ねていた。
(樋田先生。僕は今、あの時先生が仰った『野原の自由』をこの山奥の子どもたちに伝えています)
そんな「寛容さ」で、子どもたちを包み込んでいるという全能感。
あの時代の挫折を、この僻地での教育という「使命」で塗り潰していく高揚感。夏目は、自分がようやく正しい場所に立てたのだと、誇らしい充実感に酔いしれていた。
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