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光と影の魔術師

奥井晴弥

14,352 字

芸術小説、歴史ドラマ

"魔術師の狂気を支え、闇に永遠を刻んだ職人の物語。"

目次(10 章・いまは第 2 章)
  1. プロローグ
  2. 第一章 アントウェルペンの冬
  3. 第二章 泥と黄金の都
  4. 第三章 サスキアの光
  5. 第四章 商談の不協和音
  6. 第五章 崩れゆく光
  7. 第六章 破壊の果ての深淵
  8. 第七章 祭りの終わり
  9. 第八章 北からの便り
  10. エピローグ
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第一章 アントウェルペンの冬

1640年、レンブラントのアトリエがこの熱病にうかされる二年前。
私はまだ、別の神の下にいた。アントウェルペン、画家の王ルーベンスの工房。
そこには「理(ことわり)」によって完璧に統治された世界があった。

「親方が、亡くなった……」
あの日、工房に響いたその言葉は私にとって世界の終わりの合図だった。
ピーテル・パウル・ルーベンス。
画家の王であり、外交官であり、このアントウェルペンそのものを支えていた秩序。その心臓が止まった瞬間、私が信じていた理はただの「遺物」へと成り下がった。

喪が明けぬうちから、工房には「実務」という名のハゲタカたちが押し寄せた。遺族、弁護士、そして不吉な帳簿を抱えた事務員。彼らが数えるのは親方が遺した未完成の傑作の数ではなく、主を失った工房の「維持費」だった。

私は自ら練り上げた「不滅の下地」の処方箋を手に、事務員の前に立った。

「この影を作るには、一ヶ月の乾燥と、最高級のラピスラズリを焼いた灰が必要です。それがあって初めて、親方の絵は呼吸を始める」

事務員は顔も上げず、冷ややかに帳簿を叩いた。

「ヤン、君は勘違いをしている。故ルーベンス卿という『看板』があったからこそ、その不経済なこだわりは至高のものとして許容されていた。だが、その看板がなくなった今、それはただの無駄遣いだ。市場が求めるのは、もっと早く、もっと安く、もっと分かりやすい『ルーベンス風』の絵だ。君の仕事は、重すぎる」

私は言葉を失った。私という部品は、親方の影の下、完璧な理の中でしか機能しない。
看板を剥ぎ取られた途端、私がこの一身を賭してきた技術は、誰にも理解されない、ただのガラクタへと成り下がった。

「これからは効率こそが理だ。君のような『影の技術者』に払う金はもう、この工房にはない」


空っぽになった工房で、私は一人、親方が愛した深い黒の顔料を見つめていた。ここではもう、光と影の真実を追うことは許されない。
そんな折だった。
親方の生前から出入りしていた画商が、音もなく私の隣に立って言った。

「ヤン。アントウェルペンの灯は消えた。だが、北のアムステルダムでは今、一人の画家が血眼になって、腕の良い職人を探している」

画商は哀れむような、それでいて縋(すが)るような笑みを浮かべ、一枚の書簡を差し出した。
アムステルダム。欲望と喧騒が渦巻く、節操のない、俄仕立ての都。
正統を自負するアントウェルペンの職人にとって、そこは成金たちが虚飾を競い合う場でしかない。

「レンブラントという男だ。『本物の闇』を作り出せる技術者を、求めている」

私は、画商の手にある書簡を黙って見つめた。


自分からあのような場所へ行くつもりはなかった。だが、ここにはもう私の居場所はなく、北の地には私の技術を必要とする男がいるという。
私はあの顔料を、小壺に隠した。
冷え切ったスヘルデ川を下り、かの敵地へと移る決意をした。

理によって統治されたアントウェルペンを去り、喧騒のアムステルダムへ。


私はそのレンブラントという魔術師に、ルーベンス様が私に遺した神の御業を、貸し与えることにした。

── 第2章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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