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光と影の魔術師

奥井晴弥

14,333 字

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 エピローグ

1670年代、アムステルダム。 運河から吹きつける冬の風は老いた身にはいささか酷な冷たさだった。
私は、杖を突きながらクローフェニールスドゥーレンの広間へと続く石段を、一段ずつ上がった。
アムステルダムを離れたあの日から三十年の時が流れた。
私の手はもはや重い練り棒を握る力もなく、節くれ立った指先には今も消えない鉛の白濁した痕跡が染み付いている。

広間に入ると、そこにはかつての活気は微塵もなかった。壁面には埃を被った古い肖像画が並び、暖炉の煤と湿った空気が沈黙と共に澱んでいる。
そしてその奥に、あの「闇」はあった。

「……ひどい有様だな」
思わず独り言が漏れた。

広間の奥に鎮座する巨大なキャンバスは今や見る影もなく煤けていた。
暖炉の煤がレンブラントが描き出した白日の劇場を、底なしの暗闇へと引き摺り込んでいる。
かつて黄金に輝いていた少女のドレスは今や深夜の月光のような色調に変わり、隊員たちの顔も意図せぬ影に沈んでいる。

「親方。……あなたは晩年、ついに完璧な調和を手に入れた。だが皮肉なものだ。世界は今、この脆く傲慢だった頃のあなたの魂を、別の名前で呼び始めているようです」

広間の隅で、若い組合員たちがこれを夜の見回りを描いた絵のようだと言う声を、私は耳にした。

「ふふ……『夜』か。悪くない」

私は自嘲気味に笑いながら、震える指で漆黒に沈んだ自分の「鎧」を確かめた。
指先に伝わってきたのは、硬質で、一点の揺らぎもない、物質の手触りだった。

「ほう……」
私は、その冷たい感触に息を呑んだ。

三十年。ヘルストたちの描いた「明るい傑作」たちが湿気で下地から悲鳴を上げ、無残な剥離を始めている中、この巨大なキャンバスだけは煤にまみれながら、皮一枚の下で強靭さを保ち続けている。

親方。
あなたが晩年に手に入れた「理」は、確かに美しい。

だが、あの時あなたが放った「魔法」をこの地上に繋ぎ止めているのは、他でもない。私がこの布に染み込ませた無骨で重い、鉛の層なのです。

「……いいでしょう。人々はこれを契約違反と謗り、その劇場は煤の闇に沈む。それなら、それでいい」

私は杖を突き直し、ゆっくりと背を向けた。

これからこの絵は数世紀を旅するだろう。いつかこの煤を剥ぎ取り、その奥に眠る光を掘り起こそうとする者が現れるまで。

その日が来るまで、私の鉛の鎧が、この狂気を塵に帰すことを許しはしない。
自らの理を売り渡し、魔術師の共犯となった。
その職人として、これ以上の誇りはない。

私は、出口の扉を開けた。
アントウェルペンへと続く道は、もうすぐ雪に閉ざされる。
アムステルダムの闇の奥には、私が打ち込んだ鉛の音が今も静かに、しかし確かに、響き続けていた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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