第一章 アントウェルペンの冬
1640年、レンブラントのアトリエがこの熱病にうかされる二年前。 私はまだ、別の神の下にいた。アントウェルペン、画家の王ルーベンスの工房。 そこには「理(ことわり)」によって完璧に統治された世界があった。
「親方が、亡くなった……」 あの日、工房に響いたその言葉は私にとって世界の終わりの合図だった。 ピーテル・パウル・ルーベンス。 画家の王であり、外交官であり、このアントウェルペンそのものを支えていた秩序。その心臓が止まった瞬間、私が信じていた理はただの「遺物」へと成り下がった。
喪が明けぬうちから、工房には「実務」という名のハゲタカたちが押し寄せた。遺族、弁護士、そして不吉な帳簿を抱えた事務員。彼らが数えるのは親方が遺した未完成の傑作の数ではなく、主を失った工房の「維持費」だった。
私は自ら練り上げた「不滅の下地」の処方箋を手に、事務員の前に立った。
「この影を作るには、一ヶ月の乾燥と、最高級のラピスラズリを焼いた灰が必要です。それがあって初めて、親方の絵は呼吸を始める」
事務員は顔も上げず、冷ややかに帳簿を叩いた。
「ヤン、君は勘違いをしている。故ルーベンス卿という『看板』があったからこそ、その不経済なこだわりは至高のものとして許容されていた。だが、その看板がなくなった今、それはただの無駄遣いだ。市場が求めるのは、もっと早く、もっと安く、もっと分かりやすい『ルーベンス風』の絵だ。君の仕事は、重すぎる」
私は言葉を失った。私という部品は、親方の影の下、完璧な理の中でしか機能しない。
看板を剥ぎ取られた途端、私がこの一身を賭してきた技術は、誰にも理解されない、ただのガラクタへと成り下がった。
「これからは効率こそが理だ。君のような『影の技術者』に払う金はもう、この工房にはない」
空っぽになった工房で、私は一人、親方が愛した深い黒の顔料を見つめていた。ここではもう、光と影の真実を追うことは許されない。
そんな折だった。
親方の生前から出入りしていた画商が、音もなく私の隣に立って言った。
「ヤン。アントウェルペンの灯は消えた。だが、北のアムステルダムでは今、一人の画家が血眼になって、腕の良い職人を探している」
画商は哀れむような、それでいて縋(すが)るような笑みを浮かべ、一枚の書簡を差し出した。
アムステルダム。欲望と喧騒が渦巻く、節操のない、俄仕立ての都。
正統を自負するアントウェルペンの職人にとって、そこは成金たちが虚飾を競い合う場でしかない。
「レンブラントという男だ。『本物の闇』を作り出せる技術者を、求めている」
私は、画商の手にある書簡を黙って見つめた。
自分からあのような場所へ行くつもりはなかった。だが、ここにはもう私の居場所はなく、北の地には私の技術を必要とする男がいるという。 私はあの顔料を、小壺に隠した。 冷え切ったスヘルデ川を下り、かの敵地へと移る決意をした。 理によって統治されたアントウェルペンを去り、喧騒のアムステルダムへ。
私はそのレンブラントという魔術師に、ルーベンス様が私に遺した神の御業を、貸し与えることにした。
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