第1話 その名はヘールボップ
南国高知にある地方競馬の南海競馬場場、日の出がすぐそこに来ているのだろう。
周囲の景色が、本来の色を取り戻しつつあった。
控えめに差し込む日の光が、冷たい空気を溶かして、辺り一面の朝霧を漂わせる。
車椅子に腰掛ける男、調教師、沖浜万次郎は、白い吐息を吐きながら、コースの最終コーナーを凝視している。
側には厩務員、武政洋平が時計を構えた。
「そろそろやねぁ」
万次郎が呟く。
その視線の先から聞こえる蹄音。
それが徐々に近づいてくるのを感じていた。
「来た」
万次郎の呟きを合図に、洋平の親指が、ストップウォッチのボタンを押す。
蹄音は轟音となる、二頭の競走馬が朝霧の中から最後の直線コースに姿を現した。
馬体を並べて、直線を駆け抜ける二頭、しかし、外側の馬が楽に半身抜け出し、二人の前を駆け抜けた。
万次郎は苦い顔で舌打ちを一つ
「あら、なんぞ」
洋平が、手元のストップウォッチを確認すると、ため息をこぼした。
「13秒4、強うに追うた割には、あのクラスの馬のタイムとしたら物足りんですね」
万次郎の視線が、調教を終えて下馬した内側の騎手に向かう。
「軽めに追いよったやないか?」
「洋平、おまんならわかるろうが」
洋平は、口を歪めて視線を落とすと、鼻から息を吹き出した。
「まあ、そうでしたね」
万次郎の騎手を見る目が鋭くなる。
ギロリと射抜くような視線だ。
「......仁美」
ゴーグルを外すと、まだあどけない少女のような表情をした騎手
沖浜厩舎の新人騎手。
沖浜仁美だ。
「洋平、あとは任せる」
「ほんで、仁美をわしのところへ呼んでくれ」
「あっ!おやっさん!一人で帰れますか?」
無言で片手を上げる万次郎。
振り向きもせず、厩舎に向けて車椅子を漕ぎ出した。
「やれやれ、ま〜た、カミナリや」
「いらんこと、せんかったら良かったがやにねゃあ」
洋平の視線の先には、併せ馬のもう一頭に騎乗していた、同厩舎所属の先輩騎手、瀧越真光のアドバイスを熱心に聞く仁美の姿があった。
太陽はすっかり高く上がっている。
季節は春とはいえ、南国の日差しは眩しく輝いていた。
厩舎の調教師室では、机に座った万次郎の前に後ろ手に腕を組む仁美の姿があった。
「さっきのはなんな、説明してみい」
「......」
「わしは、強うに追い込め言うたぞねゃ」
「......はい」
目を合わさず、不服そうに呟く仁美。
その態度に、苛立ちを増したのか、万次郎の声が震えながら大きくなっていった。
「スポイルクーラーは、今週レースながぞ!身体もあんまり絞れてない!今のままやったら、レースに出せる状態やないやろうが!」
「けんど、お父ちゃん......」
万次郎の拳が、机に振り下ろされた。
仁美は肩を跳ね上げ、驚いた表情を万次郎に返すしかできない。
「違う!」
「違うやろうが!お前はもう騎手ながぞ!もう親子やない!わしは、お前の師匠や!」
「はい、すみませんでした」
万次郎が長いため息をついた。
「で、なんでな?追い切らんかった理由は?」
仁美が重い口を開き、一言一言を、恐る恐る発した。
「絞れてなかったきです」
万次郎はまた眉間に皺をよせて、口を開こうとしたが、飲み込んだ。
言い分を全て聞くつもりなのだろう。
「今の状態で、強う追うたら、脚と心肺に負担が、かかり過ぎるがです」
「やき、息を抜きました」
万次郎はまたため息をこぼし、咥えた煙草に火をつけて、ゆっくり煙を吐き出した。
「スポイルクーラーは、お前の馬か?」
「お前が買うて、飼葉代も、お前がだしゆうがか?」
「......」
もう一度煙草を咥え、煙を音を立てて肺の奥まで吸い込んだ。
「調教師も、厩務員も、騎手も、馬を勝たすために存在するがぞ」
「オーナーさんから預かっちゅう馬や、ペットやないがぞ」
仁美はまた視線を落として、深々と頭を下げた。
「......申し訳、ありませんでした」
万次郎は煙草を揉み消して、壁に飾られている古い写真に目をやる。
自身がかつて騎手時代につかみ取った栄光の数々。
中央競馬のGⅠレースの口取り式。
中には日本ダービーの写真もあった。
「仁美、お前は正しい」
意外そうな表情を、万次郎に向ける仁美。
万次郎は無表情で、写真を眺め続ける。
「けど、そればっかりやとどうにもならんががこの世界や、よう覚えちょけ」
「馬房の掃除、今日は全部お前がやれよ、わかったかや?」
「はい......わかりました」
仁美は、もう一度深々とお辞儀をして退室した。
残された万次郎は、栄光の数々の写真から視線を下に移す、そこには穏やかな笑顔をたたえる女性の姿があった。
「……明美、すまんねゃ」
「わしはもう、あいつらとは、親子には戻れんなってしもうた」
万次郎の脳裏に浮かぶ、間近で唸る自動車のエンジンの音。
「まんじさん!」
悲壮感漂う妻の叫び声。
「お父ちゃん!」
「お母さん!」
「お母さーん!」
悲鳴にも似た娘たちの泣き叫ぶ声。
飛び込んできた妻に、車椅子ごと突き飛ばされて土手を転がった感触。
そして
ドン!
と言う鈍い音
救急隊員に両肩を担がれて、這い上がった土手、そこで見たもの。
担架に横たわる妻の姿。
慌ただしく動く隊員たち。
母の姿を見せまいと、妹に覆い被さるように抱きしめる姉。
賑やかしく灯る、パトカーと救急車の赤色灯。
(明美......明美ーーーーー!!)
「は、はぁ、はぁ!」
荒い息は止まらない。
万次郎は両手で、頭を掴み、髪の毛を掻きむしる。
そして、引きちぎらんばかりに握り込んだ。
掌の震えが止まらない、机の隅にあるウィスキーの瓶に手が伸びる。
慌てて栓を開けて、口へと運ぶ。
「ん、んふ......」
瓶の中の琥珀色の液体が波打ち、気泡が幾重にも重なって行く。
「かはぁ!はぁ、はぁ」
「は、はは、ははははは」
万次郎は、無理やり笑い声を出した、その目からは、一筋の涙が頬をつたってゆく。
厩舎の馬房では、仁美が一人、清掃に励んでいた。
馬の古くなった寝藁を回収し、床をデッキブラシで磨く。
そして、新しい寝藁に交換する。
その作業を黙々と続ける。
仁美にとって、それは苦ではない。
前年まで競馬学校で日課として行ってきたことだったからだ。
「この空き馬房、まだ入る馬、決まらんがかな?」
新しい寝藁を敷き詰めながら、仁美は隣の主のいない馬房に目をやりつぶやいた。
その時……
「沖浜騎手」
「調子はどうですか?」
聞き慣れた声にはっと気づいて、仁美は振り返った、懐かしい優しい声。
「お姉ちゃん!?」
「こんにちは、『週刊競馬ナイン』地方競馬担当記者」
「沖浜広美です」
そこにいたのは、ロングヘアで、ビシッとしたフォーマルな衣装を、都会的にスマートに着こなしている女性、沖浜広美が屈託のない笑顔をたたえていた。
「お姉ちゃん、今日は、何しに来たが?」
「ご挨拶やね、一応実家ながで」
仁美は、その言葉に不思議な感覚を覚える。
7年前
母の葬儀が終わり、万次郎と広美と仁美。
高校三年生の広美と、小学六年生の仁美。
万次郎は黙々と酒を煽る。
その姿を憎々しげに睨みつける広美。
「あんたのせいで」
「何?」
「お母さんがこうなったがは、あんたのせいやきね!」
広美は、唇を震わせ、涙を溜めた目で万次郎を見据える。
「あんたが、そんな、身体やなかったら!あんたが、もっと上手に乗って、落馬らあせんかったら!全部、あんたのせいやきね!」
万次郎は何も言えずに視線を落として、口をつぐんだ。
「やと言うがやに、ガバガバ、お母さんの前で、恥ずかしゅうないがかえ!」
広美の剣幕に、仁美はただ、震えることしかできない。
広美はお銚子を手に取り、中身を全て万次郎の頭に流す。
「そんなに好きながやったら、いくらでも飲んだらえいわ!」
「お母さんやのうて......」
広美はそれ以上は飲み込んだ。
「私はもう直ぐ卒業やき、そしたらこんな家、すんぐ出て行くき」
立ち上がりざまに仁美に視線を移す。
「あんたも、考えた方が良いで」
仁美はただ、恐怖と驚きで、顔を歪めて涙を流すことしか、出来なかった。
姉の姿を見たのはそれ以来である。
電話で何度か会話はしたものの、直接対面するのは7年ぶりだ。
地方の素朴な女子高生だった姉が、会わないうちに洗練された、都会の女性として、目の前に立っている。
それだけで、仁美の胸は高鳴った。
「お姉ちゃん、競馬記者って」
「ああ、私、昔から作文得意やったろう?」
「卒業して、東京行って、そう言う専門学校行きよったがよ」
「ほんで、学費稼ぐために、ちょっとね、男の人とお酒飲むお店で働きよったがね」
仁美には、広美の言葉がピンと来ない。
地元の中学を出て、競馬学校の寄宿舎で過ごしていた自分には、遠い異国の話だった。
「そこにね、編集部の人、今の私の上司やけどね、その人が紹介してくれて、ほんで今に至るがよ」
仁美は一瞬目を伏せる。
「なんで、競馬なが?あんなに、お父ちゃん……師匠に怒鳴り散らして出て行ったがやに」
広美は顔を綻ばせる。
「馬は……好きやったき、今も好きながよ」
その時、競走馬の引き運動に出ていた洋平と、若手厩務員の松崎信吾が、競走馬を伴い現れた。
「仁美ちゃん!掃除やらされゆうかえ?……あれ?」
「ご無沙汰してます、武政さん」
洋平は目を見開いて、笑顔を浮かべた。
「広美ちゃんやないかえ!?」
「たまるか!綺麗な娘さんになって」
「どうしよったがで?」
「色々ありまして、今は東京で競馬ナインの記者をやらしてもろうてます」
広美は名刺を差し出した。
受け取った洋平が、まじまじと名刺を見ていると、隣から信吾が覗き込み、名刺と広美を険しい目つきで見比べていた。
「記者さん、ですか?」
「おい、この人は先生の娘さんで、ここで住みよったがぞ」
信吾がさっと一歩前へ出て、広美の行く手を遮った。
その顔には、はっきりとした警戒の色が浮かんでいる。
その横で、洋平は一瞬だけ言葉を失ったように口をつぐむ。
視線が、つい隣の空き馬房へ流れた。
「それも、そうやねゃ……すまん、広美ちゃん」
洋平の声は柔らかかったが、その奥には、昔から知る相手への親しみと、線引きが混ざっていた。
「その馬房の主のことも……」
「……お聞きしたかったんですが」
広美の顔を見る仁美。
自身の知らない姉の姿がそこにあった。
家庭で自分の世話をしてくれた、優しい姉ではない。
記者として、社会人として、旧知の洋平にも公私の線引きをしている。
初めて見る姉の姿だった。
洋平も同じ思いだったのだろう。
どこか面食らっている。
信吾はなおも険しい顔のままだ。
そんな張りつめていた空気を、広美がすっとほどくように口を開いた。
「本当は、各地の地方競馬場の新人騎手のインタビューの担当になりまして、第一回は仁美なんです。」
その言葉に、仁美がぱっと顔を上げる。
思いもよらない話に、目を丸くしたまま言葉を探す。
「え?インタビュー?」
「雑誌に載るが?」
「私が?」
戸惑いと驚きがそのまま声に出ていた。
そんな仁美を見て、広美はくすりと笑う。
「騎手も人気商売やき、顔は売っちょかんとね」
横から、信吾が間髪入れずに口を挟む。
腕を組んだまま、納得していない顔だ。
「やるやったら、よそでやってくださいね」
その物言いに、広美の視線がすっと信吾に向く。
「あんた、名前は?」
「え?」
急に振られて、信吾が一瞬たじろぐと、隣で洋平が口を出した。
「松崎信吾、今四年目や」
紹介された信吾は、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らす。
広美はその様子を一通り眺めてから、肩をすくめるようにして笑った。
「若いがやき、細かいことばっかり言いよったら」
「モテんで」
信吾の顔がかっと赤くなる。
「大きなお世話や!」
厩舎の出口へと続く通路を、仁美と広美が並んで歩いていた。
遠くでは、次の調教へ向かう馬のいななきが聞こえる。
「インタビューは、晩にしようか、お街の方で、ここに電話して」
姉妹並んで歩きながら広美は名刺を差し出した。
「お姉ちゃん?あの空き馬房に入る馬、知っちゅうが?」
歩きながら受け取り、問いかける仁美に、広美はほんのわずかに口元を緩める。
「まだ、噂やけどね」
広美は横目で仁美を見て言った。
「あんた、あの人が日本ダービー勝った馬、知っちゅうろう?」
「コメットハンター」
即答だった。
迷いのない声に、広美は小さく頷く。
「そう、引退して種牡馬になって、何頭か中央のGⅠ馬も出しちゅう」
「確か、6年前に亡くなったよね」
「そう、その最後の世代の最後のGⅠ馬」
その言葉に、足を止める仁美。
「3年前の、2歳馬のGⅠレース――フューチャリティーステークスの勝馬で、それ以来全戦連敗の馬」
仁美は目を見開いたまま、息を呑む。
ゆっくりと振り返る広美。
仁美と目を合わせて、その名を告げた。
「ヘールボップ」
Win〜彗星は南から
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。