第2話 ちっちゃい世界
その日、杏奈は一般教養の授業。
教室の大きな窓からは、昼前の眩しい春の光が差し込んでいた。
周りは、まだ初々しい新入生達が集まり、誰しもが緊張の面持ちで、大学での授業開始を待っていた。
その時杏奈の隣の席に、服装も髪色も、派手ではないが、軽い印象の男が慣れた立ち振る舞いで、腰を下ろして鞄を開く。
しかし……
「……あ、やっば」
男は焦った様子で、鞄の中をゴソゴソと探り始める。
杏奈は気になりながらも、視線を移さず教科書と、ルーズリーフを用意していた。
すると、男の顔がすっと杏奈を向き、焦ったように苦笑して、一言。
「……ごめん、教科書、忘れて」
申し訳なさそうに、頭を掻いていた。
「……忘れたんですか」
彼は杏奈に向かって、両手を合わせた。
「うん、今日だけ」
「命分けてくんない?」
「命……?」
少し呆れたように、息を吐いた。
(大袈裟じゃろ)
「一般教養、落とすとやばいんだ」
教室には、講師が入室し、空気が引き締まる。
杏奈は仕方なく教科書を机の中ほどに、音もなくずらしていた。
「……ここまでです、見える範囲で」
「やさしい……ありがとう」
男は心底安心した様子で、屈託のない笑顔を見せる。
杏奈は隣の気配を感じながらも、返事を返さず、黒板から目を離さない。
講師の声と、板書をするチョークの音が響いた。
授業終了のチャイムが鳴り、教室の張り詰めていた空気が解けた。
ざわざわと、声が溢れる。
「助かったよ、ありがと」
「君、新入生?」
「……はい」
男の礼の言葉に、顔も向けず杏奈は答えた。
黙々と教科書を鞄に仕舞う。
「ねえねえ、サークル、決めた?」
彼は無遠慮に言葉を続けるが、杏奈の視線は一度も声の方を向かない。
「決めてないです」
「……じゃあさ、演劇サークル、見学だけ行かない?」
その言葉に、杏奈は初めて向き直り、表情を変えず、はっきりとした声で返答した。
「興味ないです」
「わかった」
彼は、少し俯いて両掌を掲げるが、すぐに顔を上げてニヤリと笑うと、自分を指差して笑顔を作る。
「俺、多辺、聡志」
「三回生」
三回生、その響きに、杏奈は思わず顔を上げた。
「……三回生が、なんで一般教養に」
「単位が足りてないんだよ、普通に」
言い切って、少しだけ照れている。
杏奈の口元が、また揺れた。
「……すごいですね」
「どこが?」
「……その、正直に言うところが」
「隠したって仕方ないからね」
その言い方が、あまりにも素直で、一瞬吹き出しそうになりながら、また真顔に戻した。
「だからね」
聡志が、杏奈と視線を合わせる。
特に距離を詰めることなく、相手に構えさせないような笑顔だった。
「……はい」
「さっきの続き、サークル……」
杏奈は、肩の力を抜くように息を吐いた。
「ごめんなさい、私、サークルとか、やってる暇ないんです」
「なんで?」
「遊んでる暇ないんです」
「……遊びって」
「勉強して、バイトしなきゃなんです」
「なんで?」
その言葉が、杏奈の胸の奥を小さく叩く。
「両親は、頑張って、私を私立の一貫の進学校に入れてくれました」
「私はそこではずっと真ん中で、推薦枠だって少ないし、一般入試でなんとか合格したんです」
「一般なの? すげえ。俺なんか指定校だったから」
さらっと言われて、杏奈は一瞬だけ言葉を失った。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
「だから、両親は一生懸命働いて、私を支えてくれたんです」
「妹もずっと応援してくれたんです」
「だから、家族のみんなにこれ以上、負担を掛けられないんです」
杏奈は一気に捲し立てる。
決意が揺るがないように。
自分に言い聞かせるように。
「良いところに就職して、みんなに楽をさせたいんです」
最後の言葉が、喉の奥でひっかかった。
聡志が何か言いかけた気配に、被せるように続ける。
「……もう、ほっといてください」
「それが、私がこの学校で一番やりたいことなんです」
いつしか、口元が震えていた。
聡志も笑顔を解き、神妙な面持ちで杏奈を見つめている。
「偉いね、でも……」
ひとつ息をつくと、次は真顔で告げた。
「そんなに急いでたら、分からなくなるよ」
「自分がどこに居て、何をしてきたか、が」
その言葉は、杏奈の胸を貫いた。
堪えられない感情。
溢れ出す言葉。
「もうかまわないでください!」
杏奈は聡志に背を向けて、早足でその場を離れた。
校舎を抜けて、下宿へ向かう道を駆ける。
胸の奥が痛い。
(そんなこと、分かっとるよ)
(お父さんも、お母さんも、梨夏も)
(お前の人生、楽しめぇって言うよ)
(――おかげで、十分楽しんだよ)
鍵を回して、部屋に飛び込む。
さっきまでの人の気配が嘘みたいに、そこは静寂に包まれている。
「だって……」
杏奈は唇を噛み、ベッドに座り込む。
そして、テーブルの上の紙の束を手に取り、ページを開く。
「お前は、俺の人生のすべてだから」
杏奈はその一行を指でなぞった。
読めば読むほど、自分が薄っぺらい気がしてしまう。
「私、まだまだ全然、足りとらんよね……」
言いながら息だけが震えた。
「お父さん……お母さん……梨夏……」
名前を口にすると、堪えていたものがほどけてしまう。
「帰りたいよぉ……」
声が子どもみたいになり、杏奈は紙の束を抱えたまま、ベッドに倒れ込んだ。
ある日の昼休み。
学食へ向かう流れに乗りそびれた杏奈は、なんとなく人の少ない通路を選んで歩いていた。
日なたは暖かいのに、日陰はまだ冷たい。
すると、どこからか拍手が聞こえた。
軽い歓声と笑い声。
杏奈はその声が、なんとなく気になり足を向けた。
中庭の一角に人だかりがある。
(何しよるんじゃろう?)
覗くだけ。
そう思って近づいたのに、気づけば杏奈は列の端に立っていた。
人だかりの中に空間が開き、その中心に一人の男がいた。
杏奈はその顔を見て、息を飲んで目を見開いた。
あの授業で教科書を忘れて「命分けて」と言った、あの男、多辺聡志。
その姿は丸いつばの帽子。
黒い背広に蝶ネクタイ。
つけ髭に、手にはステッキ。
その姿はまさに、
チャーリー・チャップリン。
帽子を取って一礼した聡志は、大げさな身振りで観客の笑いを誘いはじめた。
声を出していないのに空気が揺れる。
腕の振り方、肩の落とし方、視線の切り方。
ひとつひとつが、わざとらしく大袈裟だ。
ぎこちなく、ちょこまかと肩を揺らして、ステッキを回しながら、ウロウロと歩き出す。
その動きはモノクロの無声映画そのものだ。
聡志は帽子を胸に当て、また深々と礼をした。
次の瞬間、何かに躓いたみたいによろめき、倒れそうで倒れない角度で止まって、顔だけはとぼけた表情を作る。
観客が笑い、杏奈も笑いそうになって、喉の奥で止めた。
でも聡志は、そこで終わらせない。
今度は見えない壁にぶつかったみたいに尻餅をつき、眉を吊り上げて驚いた顔を見せると、壁の形を確かめるように指先を這わせる。
(……なに、これ)
杏奈は目が離せない。
聡志は観客に向かって、大げさに視線を向けた。
目だけを見開いて、煽るように手を振ると、拍手が起こる。
次の動きで、聡志は“恋に落ちた男”になった。
胸を押さえ、膝ががくりと崩れ、視線だけが宙を漂う。
見えない誰かに見惚れて、足を震わせながら、ゆっくり立ち上がった。
そのまま一歩踏み出すと、また壁にぶつかって、目を回してその場に倒れ込む。
誰かが吹き出し、笑いが広がる。
でも杏奈は笑いながら、違うものを見ていた。
丁寧に計算された動きに目が離せない。
聡志は、観客を見ていた。
ただ笑わせるためじゃない。
その反応に合わせて、身振り手振りの大きさを、調整しているようにも見える。
そのとき。
聡志がふと顔を上げると、杏奈と目が合った。
ほんの一瞬のことだったのに、聡志の重心が変わる。
笑いを取りに行く動作ではなくなり、別のものを背負い始めた。
聡志は帽子を脱ぎ、胸元にあてると背中が少し丸まる。
肩が落ち、足取りは重い。
空っぽの腹を押さえてよろけ、寒さに襟元を掻き寄せる。
見えない風が吹き抜けていくのが、見えた気がした。
笑いが、ひと呼吸だけ止まる。
聡志は、その沈黙を恐れない。
机も工場もないはずの中庭で、彼は急に働き始めた。
見えない機械の前に立ち、見えないレバーを引き、見えないベルトコンベアに追い立てられる。
手だけが忙しいが、指先が空回りし、身体が勝手に運ばれていく。
上から押しつけられる圧、命令、時間、数字。
聡志は貼り付けたような笑顔を作る。
口角を上げたまま、目だけが困っている。
次の瞬間、その笑顔が崩れそうになって、慌ててまた、無理に笑った。
杏奈の目が釘付けになる。
搾取される労働者。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
滑稽なのに胸の奥が痛み、目が離せない。
最後に、聡志はふっと手を止めた。
足元を見て、驚いた顔をする。
何かを見つけ、ゆっくりしゃがみ込んだ。
指先で拾い上げると、ほんの小さなものを、両手で包むように大事に持ち上げる。
一枚のコインだった。
聡志はそれを光にかざす。
コインの縁を親指でそっとなぞって、確かめるように頷く。
そして、観衆に視線を合わせて笑顔を向けた。
それは希望に満ちた表情に見えた。
貧しさも搾取もどうしようもなさも、全部抱えたままでも、どこか満ち足りたような顔だった。
観客から拍手が沸き起こり、誰かが「すげえ」と声をあげたのが聞こえた。
杏奈は、胸の奥が震えていた。
(なんじゃの? この人)
さっきまで笑い声と拍手で満ちていた中庭が、昼休みの終わりと一緒に急速に普通の場所へ戻っていく。
サークルのメンバーが小道具を抱え、声を掛け合いながら撤収を始めても、杏奈は足の裏が地面に、縫い付けられたみたいに動けなかった。
胸の奥だけが、まださっきの白黒の世界にいる。
やがて、輪の中心にいた聡志が、こちらへ歩いてきた。
近づくほど、杏奈の膝がわずかに震えはじめる。
聡志は杏奈の前で立ち止まり、何も言わずに、その手首にそっと触れる。
驚いて引きかけた手を、逃げ道を塞ぐみたいに掴むのではなく、確かめるみたいに持ち上げた。
そして、杏奈の指をゆっくり開く。
空っぽの掌。
そこへ、聡志が小さな何かを落とした。
杏奈が反射的に握りしめると、それは、さっきのコインだった。
「君は、ちっちゃい世界しか、まだ知らないよ」
聡志の言葉が真っすぐ刺さる。
杏奈の胸の鼓動が高鳴った。
「俺らにできることは、所詮この程度だけど」
「君は、新しい世界を知れば知るほど、新しいものを見られるんだよ」
杏奈は、掌の中のコインを確かめるように、もう一度強く握った。
ひとつひとつの言葉が、頑なだった彼女の鎧を剥がしていく。
「それを、学べるのも、この学校なんだ」
掌の中で、最初は冷たかったコインが、だんだんと熱を帯びてくる。
聡志がつけ髭のまま、笑顔を作った。
「君、名前は?」
「田澤……杏奈です」
驚くほど素直に返答してしまう自分が可笑しくなり、杏奈は思わず笑顔になった。
聡志は、杏奈と目を合わせ、どこか満足したような表情で告げる。
「杏奈さん、一緒にやろうよ」
「……はい」
言ってしまってから、杏奈は自分の返事が信じられなかった。
けれど、拳の中のコインの存在が、いまの返事を嘘にさせなかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。