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PLANET LAND - 彗星から惑星へ -

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143,163 字

青春群像劇、成長物語

"彗星のように駆け抜けた日々を終え、彼女は仲間という重力の中で、自らの軌道を描き始める。"

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第2話 ちっちゃい世界

 その日、杏奈は一般教養の授業。
 教室の大きな窓からは、昼前の眩しい春の光が差し込んでいた。
 周りは、まだ初々しい新入生達が集まり、誰しもが緊張の面持ちで、大学での授業開始を待っていた。

 その時杏奈の隣の席に、服装も髪色も、派手ではないが、軽い印象の男が慣れた立ち振る舞いで、腰を下ろして鞄を開く。
 しかし……

「……あ、やっば」

 男は焦った様子で、鞄の中をゴソゴソと探り始める。
 杏奈は気になりながらも、視線を移さず教科書と、ルーズリーフを用意していた。
 すると、男の顔がすっと杏奈を向き、焦ったように苦笑して、一言。

「……ごめん、教科書、忘れて」

 申し訳なさそうに、頭を掻いていた。

「……忘れたんですか」

 彼は杏奈に向かって、両手を合わせた。

「うん、今日だけ」
「命分けてくんない?」

「命……?」

 少し呆れたように、息を吐いた。

(大袈裟じゃろ)

「一般教養、落とすとやばいんだ」

 教室には、講師が入室し、空気が引き締まる。
 杏奈は仕方なく教科書を机の中ほどに、音もなくずらしていた。

「……ここまでです、見える範囲で」

「やさしい……ありがとう」

 男は心底安心した様子で、屈託のない笑顔を見せる。
 杏奈は隣の気配を感じながらも、返事を返さず、黒板から目を離さない。
 講師の声と、板書をするチョークの音が響いた。
 授業終了のチャイムが鳴り、教室の張り詰めていた空気が解けた。
 ざわざわと、声が溢れる。

「助かったよ、ありがと」
「君、新入生?」

「……はい」

 男の礼の言葉に、顔も向けず杏奈は答えた。
 黙々と教科書を鞄に仕舞う。

「ねえねえ、サークル、決めた?」

 彼は無遠慮に言葉を続けるが、杏奈の視線は一度も声の方を向かない。

「決めてないです」

「……じゃあさ、演劇サークル、見学だけ行かない?」

 その言葉に、杏奈は初めて向き直り、表情を変えず、はっきりとした声で返答した。

「興味ないです」

「わかった」

 彼は、少し俯いて両掌を掲げるが、すぐに顔を上げてニヤリと笑うと、自分を指差して笑顔を作る。

「俺、多辺、聡志」
「三回生」

 三回生、その響きに、杏奈は思わず顔を上げた。

「……三回生が、なんで一般教養に」

「単位が足りてないんだよ、普通に」

 言い切って、少しだけ照れている。
 杏奈の口元が、また揺れた。

「……すごいですね」

「どこが?」

「……その、正直に言うところが」

「隠したって仕方ないからね」

 その言い方が、あまりにも素直で、一瞬吹き出しそうになりながら、また真顔に戻した。

「だからね」

 聡志が、杏奈と視線を合わせる。
 特に距離を詰めることなく、相手に構えさせないような笑顔だった。

「……はい」

「さっきの続き、サークル……」

 杏奈は、肩の力を抜くように息を吐いた。

「ごめんなさい、私、サークルとか、やってる暇ないんです」

「なんで?」

「遊んでる暇ないんです」

「……遊びって」

「勉強して、バイトしなきゃなんです」

「なんで?」

 その言葉が、杏奈の胸の奥を小さく叩く。 

「両親は、頑張って、私を私立の一貫の進学校に入れてくれました」
「私はそこではずっと真ん中で、推薦枠だって少ないし、一般入試でなんとか合格したんです」

「一般なの? すげえ。俺なんか指定校だったから」

 さらっと言われて、杏奈は一瞬だけ言葉を失った。
 しかし、ここで引くわけにはいかない。

「だから、両親は一生懸命働いて、私を支えてくれたんです」
「妹もずっと応援してくれたんです」
「だから、家族のみんなにこれ以上、負担を掛けられないんです」

 杏奈は一気に捲し立てる。
 決意が揺るがないように。
 自分に言い聞かせるように。

「良いところに就職して、みんなに楽をさせたいんです」

 最後の言葉が、喉の奥でひっかかった。
 聡志が何か言いかけた気配に、被せるように続ける。

「……もう、ほっといてください」

「それが、私がこの学校で一番やりたいことなんです」

 いつしか、口元が震えていた。
 聡志も笑顔を解き、神妙な面持ちで杏奈を見つめている。

「偉いね、でも……」

 ひとつ息をつくと、次は真顔で告げた。

「そんなに急いでたら、分からなくなるよ」
「自分がどこに居て、何をしてきたか、が」

 その言葉は、杏奈の胸を貫いた。
 堪えられない感情。
 溢れ出す言葉。

「もうかまわないでください!」

 杏奈は聡志に背を向けて、早足でその場を離れた。
 校舎を抜けて、下宿へ向かう道を駆ける。
 胸の奥が痛い。

(そんなこと、分かっとるよ)

(お父さんも、お母さんも、梨夏も)
(お前の人生、楽しめぇって言うよ)
(――おかげで、十分楽しんだよ)

 鍵を回して、部屋に飛び込む。
 さっきまでの人の気配が嘘みたいに、そこは静寂に包まれている。

「だって……」

 杏奈は唇を噛み、ベッドに座り込む。
 そして、テーブルの上の紙の束を手に取り、ページを開く。

「お前は、俺の人生のすべてだから」

 杏奈はその一行を指でなぞった。
 読めば読むほど、自分が薄っぺらい気がしてしまう。

「私、まだまだ全然、足りとらんよね……」

 言いながら息だけが震えた。

「お父さん……お母さん……梨夏……」

 名前を口にすると、堪えていたものがほどけてしまう。

「帰りたいよぉ……」

 声が子どもみたいになり、杏奈は紙の束を抱えたまま、ベッドに倒れ込んだ。

 ある日の昼休み。
 学食へ向かう流れに乗りそびれた杏奈は、なんとなく人の少ない通路を選んで歩いていた。
 日なたは暖かいのに、日陰はまだ冷たい。

 すると、どこからか拍手が聞こえた。
 軽い歓声と笑い声。

 杏奈はその声が、なんとなく気になり足を向けた。

 中庭の一角に人だかりがある。

(何しよるんじゃろう?)

 覗くだけ。
 そう思って近づいたのに、気づけば杏奈は列の端に立っていた。

 人だかりの中に空間が開き、その中心に一人の男がいた。
 杏奈はその顔を見て、息を飲んで目を見開いた。

 あの授業で教科書を忘れて「命分けて」と言った、あの男、多辺聡志。
 その姿は丸いつばの帽子。
 黒い背広に蝶ネクタイ。
 つけ髭に、手にはステッキ。
 その姿はまさに、
 チャーリー・チャップリン。

 帽子を取って一礼した聡志は、大げさな身振りで観客の笑いを誘いはじめた。
 声を出していないのに空気が揺れる。  
 腕の振り方、肩の落とし方、視線の切り方。 
 ひとつひとつが、わざとらしく大袈裟だ。
 ぎこちなく、ちょこまかと肩を揺らして、ステッキを回しながら、ウロウロと歩き出す。

 その動きはモノクロの無声映画そのものだ。
 聡志は帽子を胸に当て、また深々と礼をした。
 次の瞬間、何かに躓いたみたいによろめき、倒れそうで倒れない角度で止まって、顔だけはとぼけた表情を作る。

 観客が笑い、杏奈も笑いそうになって、喉の奥で止めた。

 でも聡志は、そこで終わらせない。

 今度は見えない壁にぶつかったみたいに尻餅をつき、眉を吊り上げて驚いた顔を見せると、壁の形を確かめるように指先を這わせる。

(……なに、これ)

 杏奈は目が離せない。
 聡志は観客に向かって、大げさに視線を向けた。
 目だけを見開いて、煽るように手を振ると、拍手が起こる。

 次の動きで、聡志は“恋に落ちた男”になった。

 胸を押さえ、膝ががくりと崩れ、視線だけが宙を漂う。
 見えない誰かに見惚れて、足を震わせながら、ゆっくり立ち上がった。
 そのまま一歩踏み出すと、また壁にぶつかって、目を回してその場に倒れ込む。

 誰かが吹き出し、笑いが広がる。

 でも杏奈は笑いながら、違うものを見ていた。

 丁寧に計算された動きに目が離せない。
 聡志は、観客を見ていた。
 ただ笑わせるためじゃない。
 その反応に合わせて、身振り手振りの大きさを、調整しているようにも見える。

 そのとき。

 聡志がふと顔を上げると、杏奈と目が合った。
 ほんの一瞬のことだったのに、聡志の重心が変わる。

 笑いを取りに行く動作ではなくなり、別のものを背負い始めた。
 聡志は帽子を脱ぎ、胸元にあてると背中が少し丸まる。
 肩が落ち、足取りは重い。
 空っぽの腹を押さえてよろけ、寒さに襟元を掻き寄せる。
 見えない風が吹き抜けていくのが、見えた気がした。

 笑いが、ひと呼吸だけ止まる。

 聡志は、その沈黙を恐れない。
 机も工場もないはずの中庭で、彼は急に働き始めた。
 見えない機械の前に立ち、見えないレバーを引き、見えないベルトコンベアに追い立てられる。
 手だけが忙しいが、指先が空回りし、身体が勝手に運ばれていく。

 上から押しつけられる圧、命令、時間、数字。

 聡志は貼り付けたような笑顔を作る。
 口角を上げたまま、目だけが困っている。
 次の瞬間、その笑顔が崩れそうになって、慌ててまた、無理に笑った。

 杏奈の目が釘付けになる。

 搾取される労働者。
 そんな言葉が、頭に浮かんだ。
 滑稽なのに胸の奥が痛み、目が離せない。

 最後に、聡志はふっと手を止めた。
 足元を見て、驚いた顔をする。
 何かを見つけ、ゆっくりしゃがみ込んだ。
 指先で拾い上げると、ほんの小さなものを、両手で包むように大事に持ち上げる。

 一枚のコインだった。

 聡志はそれを光にかざす。
 コインの縁を親指でそっとなぞって、確かめるように頷く。
 そして、観衆に視線を合わせて笑顔を向けた。
 それは希望に満ちた表情に見えた。
 貧しさも搾取もどうしようもなさも、全部抱えたままでも、どこか満ち足りたような顔だった。

 観客から拍手が沸き起こり、誰かが「すげえ」と声をあげたのが聞こえた。

 杏奈は、胸の奥が震えていた。

(なんじゃの? この人)

 さっきまで笑い声と拍手で満ちていた中庭が、昼休みの終わりと一緒に急速に普通の場所へ戻っていく。
 サークルのメンバーが小道具を抱え、声を掛け合いながら撤収を始めても、杏奈は足の裏が地面に、縫い付けられたみたいに動けなかった。
 胸の奥だけが、まださっきの白黒の世界にいる。

 やがて、輪の中心にいた聡志が、こちらへ歩いてきた。
 近づくほど、杏奈の膝がわずかに震えはじめる。

 聡志は杏奈の前で立ち止まり、何も言わずに、その手首にそっと触れる。

 驚いて引きかけた手を、逃げ道を塞ぐみたいに掴むのではなく、確かめるみたいに持ち上げた。

 そして、杏奈の指をゆっくり開く。
 空っぽの掌。
 そこへ、聡志が小さな何かを落とした。

 杏奈が反射的に握りしめると、それは、さっきのコインだった。

「君は、ちっちゃい世界しか、まだ知らないよ」

 聡志の言葉が真っすぐ刺さる。
 杏奈の胸の鼓動が高鳴った。

「俺らにできることは、所詮この程度だけど」
「君は、新しい世界を知れば知るほど、新しいものを見られるんだよ」

 杏奈は、掌の中のコインを確かめるように、もう一度強く握った。
 ひとつひとつの言葉が、頑なだった彼女の鎧を剥がしていく。

「それを、学べるのも、この学校なんだ」

 掌の中で、最初は冷たかったコインが、だんだんと熱を帯びてくる。
 聡志がつけ髭のまま、笑顔を作った。

「君、名前は?」

「田澤……杏奈です」

 驚くほど素直に返答してしまう自分が可笑しくなり、杏奈は思わず笑顔になった。

 聡志は、杏奈と目を合わせ、どこか満足したような表情で告げる。

「杏奈さん、一緒にやろうよ」

「……はい」

 言ってしまってから、杏奈は自分の返事が信じられなかった。

 けれど、拳の中のコインの存在が、いまの返事を嘘にさせなかった。

── 第2章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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