第二章 配役
第二章
一
その昔、大きな戦争があったらしい。
四千世界の七割が焼かれ、数えきれないほどのカイストが死に、それでも最後には世界の側が勝ったのだという。カイがこの世界に転生したのは、その話が昔話になりかけた頃だった。
死んでも記憶と能力を引き継いで転生する存在、それがカイストだ。よく勘違いされるが、『転生すること自体』は全ての生命体に起こっているという。カイストが積み重ねた意志の力は我力と呼ばれ、世界の法則をねじ曲げることさえあるらしい。カイは自分がカイストとなったことに、何の感慨もわかなかった。
前の生を終えてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。数えようとも思わなかった。暗くて、静かで、何も始まらない場所に、ずっといた気がする。戻ってくる理由は見つからなかった。
戻ってきた世界は、平和だった。
市場には果物が積まれ、子供達は通りを走り回り、酒場からは下手な歌が聞こえてくる。カイストらしき連中も時々見かけたが、誰も彼も、戦争の後の休暇を持て余しているような顔をしていた。
カイは十五才になっていた。痩せて、背ばかり伸びて、どこにいても目立たない少年だった。
ある夕方、カイは街外れの空き地を通りかかった。子供達が勇者ごっこをしていた。木の枝を剣にして、一人が勇者、一人が魔王、残りは村人や姫になる。
空き地の端に、小さな子が一人、所在なげに座っていた。遊びの輪に入れてもらえなかったのか、自分から入らなかったのか。
その子を見た時、カイの耳の奥で、いつかの声がした。
じゃあ、カイは見てる役な。
カイは立ち止まった。
見てる役。
あの時、自分は輪の外に逃げたのだと思っていた。役を断り、見る側に回ったのだと。見ている限り、自分はなにも痛まない。
けれど、あの子供は言ったのだ。見てる役な、と。
断ったつもりで、役を与えられていた。見る側に逃げたつもりで、見る側という役を演じていた。輪の外に座っていた自分も、あの遊びの登場人物の一人だった。
なら、どこにも外などなかったのだ。
床下も、写本屋の片隅も、空き地の端も、全部舞台の上だった。生きている限り、誰かに何かの役を振られる。逃げても、隠れても、逃げる者の役、隠れる者の役を振られるだけだ。
カイは、空き地の端の子供から目を逸らさずに思った。
なら、せめて自分で選ぶ。
誰かに振られる前に、自分の役は自分で決める。与えられた舞台を眺めるだけの客ではなく、どの物語を読み、どの物語を選ぶかを、自分で決める者。
観測者。
そう決めた瞬間、頭の中に、本棚が現れた。
見上げるほど高い本棚だった。背表紙がぎっしりと並んでいる。カイは本棚の前に立つ自分を感じた。一冊に手を伸ばすと、背表紙の文字が読めた。
知っている名前だった。この世界で、名の知れたカイストの名前だ。二つ名と一緒に、その名が題に入っている。隣の一冊も、その隣も、みんなそうだった。
頁を開くと、物語が書かれていた。どれも、この世界では起こりえなかった出来事だった。恐ろしい殺戮者が実は優しかった話。無敗の剣士が名もない誰かに敗れる話。死んだはずの者が生き返る話。
そして頁の余白には、細かな書き込みがあった。誰かの感想のようだった。面白かった、とか、解釈違い、とか、続きを待っています、とか。カイには意味の分からない言葉も混じっていた。
どこの誰が書いたのか、分からなかった。この世界の誰でもない、どこか違う世界の誰かが、この世界の人物達について書き続けている。そういうものらしかった。
カイは本を閉じ、空き地を後にした。
ずいぶん長い間、何も始まらない場所にいた。
そろそろ、観に行こう。
二
フィロスは笑っていた。
胴から噴き出した刃が夕陽を弾き、安宿の並ぶ路地を銀色に埋め尽くしていく。逃げ惑う人々の背に、その切っ先が殺到する。『八つ裂き王』にとって、これは呼吸のようなものだった。肉を、丁寧に、時間をかけて、ばらばらにする。それ以上の悦びを、フィロスは知らない。
男が転んだ。振り返り、無様に命乞いをする。刃が届く。
届いて、逸れた。
一万を超える刃が、男の体を避けるように曲がり、その周囲を取り囲み、頭上で交差した。折しも降り出した雨が、刃の天蓋に弾かれて、男の上には一滴も落ちない。
フィロスは己の刃を見た。動かしてなどいない。むしろ全力で、この惨めな獲物を裂こうとしている。なのに刃は、雨除けの庇になっている。
「あ……ありがとう、ございます」
男が言った。
「礼など要らぬ。弱き者を守るは、強き者の務めよ」
フィロスの口が、勝手に動いてそう告げた。
言っていない。我はそんなことを、ただの一度も思ったことがない。
体が操られている。否、操られているのではない。動かす力などどこにもない。我力の気配も、術者の影も、結界の歪みもない。ただ、そういうことになっている。八つ裂き王フィロスは、弱者を守る心優しき剣士である。世界がそう決めてしまったかのように、フィロスの体は、その役を淀みなく演じていく。
男は泣きながらフィロスの手を取り、何度も頭を下げた。その手の温度が、フィロスの内側の何かを、ひどく逆撫でした。
この手を、裂きたい。
この顔を、恐怖で歪ませたい。
三百億年、一日たりとも絶えたことのない渇きが、腹の底から湧き上がってくる。優しき剣士の役が、その渇きに押されて軋む。フィロスは、己の中の何かが、見えない枷を内側から引きちぎろうとしているのを感じた。
刃の天蓋が、一枚、また一枚と、元の向きへ戻っていく。
そして、全てが戻った。
男の顔が、感謝から恐怖へ変わる途中で、ばらばらになった。
雨が、肉片の上に降り始めた。
フィロスは肩で息をしていた。息を切らすなど、いつぶりか分からなかった。殺した。いつも通りに。いつも通りに殺せたことに、これほど安堵したのは初めてだった。
そして、フィロスは気づいた。
路地の端に、一人の男が立っていた。
冴えない、痩せた男だ。カイストの鋭さも、一般人の鈍さもない、奇妙に薄い存在だった。男は雨に濡れながら、困ったように頭を掻いていた。
「あぁー、ダメだったか」
男は言った。
「まぁ僕もちょっと無茶な"エピソード"だとは思ってたんだよね。八つ裂き王が実は優しい人でした、なんてさ。解釈違いって書き込みも多かったし」
フィロスには、男の言っていることが一つも分からなかった。ただ、この男が今の出来事に関わっていることだけは分かった。
フィロスの刃が、男に殺到した。
男は避けなかった。逃げようともしなかった。雨の中で、少しだけ残念そうな顔をしていた。
「……ぷきゅ」
男は、ばらばらになった。
頭の中の本棚から、一冊が消えたのを、カイは死ぬ間際に感じた。
三
次に転生した時、カイは、もう少し慎重に選ぶことにした。
フィロスで学んだことがある。その人物の芯に反する物語は、長くは保たない。本人の中にある一番強いものが、物語を内側から押し返してしまう。
カイは本棚の前に立った。もちろん、頭の中で。
背表紙を眺めていく。『針一本』裏鋭の名が入った本は、何冊かあった。
一冊目を手に取りかけて、やめた。急所を見抜けなくなった針一本の話。これは、フィロスの時と同じことになる。急所を見抜くことだけで百五十億年以上生きてきた男から、それを奪う物語は、たぶん一晩も保たない。
二冊目を開いた。
急所を狙ってくるなら、その急所を把握して守っておけば防げるのではないか。そういう要旨の物語だった。短い話で、余白には「そんな単純な話あるか」とか「いや針一本ならそれも貫くでしょ」とか、否定的な書き込みが多かった。
けれど、この物語は裏鋭から何も奪わない。裏鋭は急所を見抜き、急所を狙い、急所を突く。いつも通りに。ただ、その先が防がれるだけだ。
カイは、その一冊を選んだ。
裏鋭は、酒場の隅の席で、一人で食事をしていた。
特徴のない男だった。地味な服に、肩掛けの鞄。親指に黒い布のサックを嵌め、手首には細いリストバンドを巻いている。誰の目も引かない。それが、この男の在り方だった。地味で、さりげない。
カイは、その向かいの席に座った。
「こんばんは。『針一本』さん」
裏鋭はカイの顔を見た。
そして、カイの体の内側を見た。
カイには分からなかったが、裏鋭の視界の中で、カイの体は無数の光点と細い線の網目に変わっていたのだろう。光点の一つ一つが急所だ。裏鋭は、その中から最も効率的で、最も美しい一点を探す。
「僕の急所、どこにあるか分かるかい」
カイが言い終わる前に、裏鋭の手はもう動いていた。
手首の鞘から抜かれた九センチの針が、カイの急所、魂の座、その一点へ音もなく吸い込まれていく。
その針先が、止まった。
カイの胸の、服の上。急所のほんの手前で、見えない何かに弾かれていた。
カイは何もしていなかった。指一本動かしていない。物語がそうなっているだけだ。急所を狙ってくるなら、その急所を守ればいい。
裏鋭の目が、見開かれた。
カイは、ほっと息を吐いた。
「これもちょっと無茶かなと思ったけど、案外いけたね」
カイは立ち上がった。
「意外とみんな、こういう"妄想"しがちなのかな」
物語は、そこで終わっていた。最後の一行はこうだった。そして男は、最初からそこにいなかったかのように消えた。
カイは、その一行に連れ出されるように、酒場から消えた。
裏鋭は、男の立っていた場所を見つめていた。
指の間には、まだ針がある。針の先には、何の痕もついていない。ただ、止められたという感触だけが、指先に残っている。
あれは、いったい何だったんだ。
裏鋭は長い間、その場に立ち尽くしていた。
四
キルマは、街をさまよっていた。
戦争は終わった。あの戦いを生き延びた。戦う理由も、守る者も、今はない。
雑踏を眺めていた。人々は笑い、物を売り、恋をし、子を育てている。守られるべき者達が、もう守られる必要のない世界で暮らしている。
目的のない凶器は、どこへ向かえばいいのか分からなかった。
「君がキルマかい」
声をかけられて、キルマは振り向いた。
痩せた男が立っていた。冴えない、薄い男だ。カイストの気配はほとんどない。
「随分と草臥れた……ちょっと汚れすぎだぞ。顔色も分かりゃしないじゃないか」
キルマは答えなかった。
「君の物語は、一度終わった。でも、まだ続きがあるらしい。君を救いたいと願う者が、違う世界にはいるようだ」
救い、だと。
キルマの胸の内に、冷たいものが広がった。二百十億年かけて積み上げてきた絶望と後悔が、そんな言葉で覆されるものか。
「新しい『目的』が、ここにあるよ」
男が、キルマの後ろを指さした。
キルマは振り返った。
一人の少女が立っていた。パンを抱えて、不安げにこちらを見つめている。
その顔を見て、キルマの時が止まった。
名は、思い出せなかった。気の遠くなる歳月が、それを摩耗させてしまった。けれど、この顔だけは覚えている。守れなかった、あの少女の顔だ。
「あの……」
少女が、おずおずと口を開いた。
「キルマさま、ですよね。お願いがあるんです。わたしを、守ってもらえませんか。お金は、あんまりないんですけど……パンなら、毎日焼けます」
茶番だ。
キルマは、声に出さずに吐き捨てた。
同じ顔の少女を宛がって、過去をなぞらせる。これが救いだと言うのか。都合の良い奇跡。安易な救済。それは、キルマが最も唾棄すべき偽善だった。
けれど、キルマの魂は、その茶番を求めていた。
再び誰かを守るという目的を。
振り返ると、痩せた男は、もういなかった。
少女だけが、そこにいた。
キルマは気づいた。自分の中から、何かが抜けていく。さっきまで、この少女を守らねばならないと、自分のものではない熱に押されていた。その熱が、すっと引いていく。
物語は、終わったのだ。
少女とキルマを引き合わせる。あの男が持ち込んだ物語は、そこまでだった。今ここにいるのは、元のキルマと、パンを抱えた見知らぬ少女だけだった。
目的のない凶器は、少女を見下ろした。
少女は、まだ不安げにこちらを見上げている。
キルマは、少女の方へ一歩踏み出した。
物語はもう働いていない。これはキルマ自身の一歩だった。
少女が依頼し、提示した報酬に納得したのなら、契約は成立するのだ。
五
フロウというカイストは、向こうからやってきた。
「こんにちわー」
街道沿いの茶屋で団子を食べていたカイの隣に、いつの間にか一人の男が座っていた。気配も足音もなかった。痩せた、にやついた顔の男だ。
「きみきみぃ、最近なんか暴れまわってるらしいじゃあーないか。八つ裂き王が雨宿りの屋根になったとか、針一本の針が止まったとか、浮浪者みたいなやつが子守りを始めたとか。楽しそうだから、俺も混ぜてくれよっ」
カイは団子の串をくわえたまま、男の顔を見た。
頭の中の本棚を、ざっと眺める。『蜘蛛男』フロウの名が入った本は、何冊もあった。人気があるらしい。余白の書き込みも多い。
けれど、カイは手を伸ばさなかった。
「あぁ……きみはちょっと無理だね」
「無理って、何がだよ」
「"違う世界"を知ってる側だろ」
フロウの顔から、にやつきが消えた。
フロウ自身にも、何を言われたのか分からなかった。違う世界。何のことだ。分からない。分からないのに、背筋が冷たくなった。自分の中の、自分でも覗いたことのない場所に、初対面の男の指先が触れた気がした。
フロウは、警戒を最大まで上げた。
「……おうおう、随分と物知りさんみたいなんだな」
声は軽いままだった。けれど、その目はもう笑っていなかった。
「何もんだ、お前」
「ちょっと本を読むのが好きなだけだよ」
カイは串を皿に置いた。
次の瞬間、カイの体は輪切りになっていた。首と、胸と、腹と、腰。見えない糸が、何本も通り過ぎていった後だった。
「あぁ、やっぱりそうなるよね」
落ちていく首で、カイはそう言った。抵抗は、最初からするつもりがなかった。
フロウは、崩れ落ちた男の残骸を見下ろしていた。
能力らしいものは、一度も使われなかった。ただ、この男は何かを知っている。それも知るはずのないことを。
「……念のため、だ」
フロウは誰にともなく呟き、茶屋の勘定を男の懐から抜いて払ってから、姿を消した。
六
(一)
「久々にワクワクするやつが現れたかもしれねぇ」
フロウは、勝手知ったる様子でガリデュエの住処に上がり込み、勝手に椅子に座った。
『裏の目』ガリデュエは、いつものように目元を白い帯で覆い、その帯に描かれた目でフロウを見ていた。
「ほう。お前さんがそう言うのは珍しいのう」
「フィロスとか裏鋭とかの件、聞いてるだろ。あれをやってる奴に会ったよ。殺しといたけど」
「殺したのか」
「念のためな。それよりさ、あいつ、変なこと言ってたぞ。違う世界とかなんとか」
ガリデュエは黙って聞いていた。
フロウは、話しながら、自分の言葉が妙に軽く響くのを感じていた。違う世界。あの男にそう言われた時の、あの冷たさを、うまく言葉にできない。
ガリデュエは何も言わなかった。何かをした気配も、ほとんどなかった。
ただ、フロウの中で、何かが戻ってきた。
フロウは、一瞬、口をつぐんだ。
「……あ。おいガリデュエ。今、俺の記憶、何か戻したろ」
「緊急事態だと思うての。話が済んだら、また元に戻しておくぞい」
「じゃあ借りは帳消しだな」
「戻すと言うたじゃろ」
「相変わらずムカつくじじいだな」
フロウはそう言って、それから少しの間、何も言わなかった。
(二)
ディンゴがその噂を聞いたのは、新しいディンゴ亭を見つけて、恒例の行事を済ませた後の宴会の席でだった。
フィロスが、妙な負け方をした。
八つ裂き王が、雨の路地で獲物を守り、礼を言われ、それから我に返ってようやく殺した。そういう話だった。
ディンゴは、杯を持つ手を止めた。
フィロス。ディンゴが挑み、今も超えられない相手だ。あの男の強さを、ディンゴは誰よりも知っている。そのフィロスが、子供のようにあしらわれた。
怒りに似たものが、腹の底で鈍く疼いた。
ディンゴは情報を辿った。針一本の件。キルマの件。検証士のネットワークでは、なにやら話題になっているらしい。そして、ガリデュエがフロウから何かの報告を受けたらしい、という話に行き着いた。
ガリデュエの住処を訪ねると、老人は待っていたように椅子を勧めた。
「来ると思うとったぞい」
「フィロスの件だ。何が起きてる」
ガリデュエは、別々の場所で起きた出来事を並べてみせた。フィロスの件。裏鋭の件。キルマの件。どれも、我力の気配がなく、術者の影もない。ただ、名の知れたカイスト達が、ありもしない役を演じさせられた。
フロウの件には、触れなかった。
「芯に反する役ほど、早く剥がれるようじゃの。フィロスは殺しの渇きで役を破った。裏鋭は、急所を狙うという芯には触れられておらん。だから最後まで演じさせられた。キルマは……あれは、剥がれた後も、自分で役を続けておるようじゃが」
「剥がれた後、ってのは」
「演じ終えれば、元に戻るらしい。役を演じておった間の記憶だけが残る」
「なんじゃそりゃ……」
ディンゴは呆れて天井を仰いだ。訳の分からない話だった。そんな魔術士の手品のようなもので、自分が追い求めてきた強者があっさりあしらわれたとは、思いたくもない。
けれど、フィロスが遊ばれたのは事実だった。
あのフィロスが。
ディンゴは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(三)
ディンゴが帰った後、ガリデュエは集めた情報を、検証士のネットワークへ正式な情報として流した。
ネットワークは、ざわめいた。
我力もないのに、法則が歪められている。名だたるカイストが、ありもしない役を演じさせられる。その匂いを、生き延びた者達は知っていた。
「またアブクドエか」
誰かが言った。
その一言で、あちこちの酒場の空気が凍った。やめてくれ。ようやく、終わったのだ。
けれど、それきり何も起こらなかった。
名だたるカイスト達の珍事は、ぱたりと止んだ。世界は歪まず、戦争も始まらず、空は今日も理不尽なほど青い。ひと月が過ぎ、半年が過ぎ、人々は肩の力を抜いた。まあ、こんなおかしなこともあったよな、と。
ガリデュエは一人、白い帯の下で笑みを消していた。
その手は、鎖の巻かれた何かの上に置かれていた。
「これ、使うような事態にはならんでほしいのう」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。