プロローグ
闇だった。
上も下もない。光も、音もない。手を伸ばそうにも、伸ばす手があるのかどうかさえ分からない。形容するなら、深い混沌。その中を、カイは漂っていた。
どれだけ漂っているのかも、分からなかった。一瞬のようでもあり、途方もなく長いようでもあった。
ただ、覚えていることはあった。
月明かり。笑っている少女。痩せこけた頬で佇む男。
自分が差し込んだ不幸が、一つ残らず、あの結末のために並べ直されていく光景。崩れた遺跡から出てきたもの。空から落ちてきたもの。滲み出した灰色の欠片。どれもこれも、あの男の好む結末の、ちょうどいい位置に収まっていった。
叩きのめされた。コー・オウジに。
いや、違う。
あの男は何もしていない。何も考えていない。頬のこけた顔で、ただ笑っていただけだ。それなのに、結末の方が勝手に、あの男の好む形へと転がっていった。
だとすれば、自分が負けた相手は。
世界の――。
いや。
"物語"の意思だ。
「そうは言っても到底納得できないでしょうね。よく分かりませんが結局のところ、"この世界"はこういった結末の方が好きなのではありませんか。よく分かりませんけど」
男に言われた言葉が、頭を駆け巡る。
できるわけがない……そんなので、納得できるか。
勇者の物語で、僕は床下に隠れた。勇者の腕に抱かれて死ぬはずだった。僕が逃げたせいで、代わりに、ミーナが死んだ。後の英雄譚では村の娘、とだけ歌われて。広場の歓呼の中で、その歌の下に何が埋まっているのか、僕だけが知っていた。
だから、観る側に立つと決めた。誰かの筋書きを演じる側にはならないと。
だが、その観る側さえ、誰かの筋書きの一行に過ぎなかったというのなら。
ここで終わるわけにはいかない。
勝たなきゃならない。
あの時、僕はまだ全力を出していなかったはずだ。観測者の顔をしたまま、似非批評家気取りをしていた。舞台の上の誰かに、一冊ずつ物語を投げつけていただけだ。
もう一度。
今度は、すべてを賭けて。
そう思った瞬間、闇が裏返った。
眩しい。音がある。誰かの荒い息と、遠くで何かが鳴る音。肌に触れる空気が、ひどく冷たい。
カイは、見知らぬ天井を見上げていた。
それから、自分を覗き込む、見知らぬ女の顔を。汗に濡れて、疲れ切って、それでも笑っている。
見知らぬ母親だった。
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