← 作品ページへ戻る

Win〜彗星は南から

NOB

117,786 字

地方競馬ファンタジー家族ドラマ

"南国の風が運ぶ、魂の継承と家族の絆。彗星は、希望を乗せて南から来る。"

← 右から左へスクロール

第19話 人生のすべて

 病室に現れた万次郎の姿に、広美は目を見開いて固まることしかできなかった。
 万次郎は、優しく微笑みながら近寄り、へたりこんでいる広美の手を取ると、ゆっくりと立たせてやる。
 そのまま広美の頭を撫でた。

「……大きゅうなった、大人になったねゃあ」

「なんで……いまさら……」

 泣き笑いのような顔を作り、明美を向くと優しく微笑み返す。

「広美、すまんかった」
「お父ちゃん、自分の事しか考えれんかった」
「馬に乗れんなった事で、お父ちゃんの生き甲斐を全部奪われたと思うてしもうて」

 広美から明美へ、そしてベッドの仁美にそれぞれ視線を移した。

「ほんとうの、わしの生き甲斐は……」
「こんなに、目の前におったのに」
「確かに、おったのに」
「気づく事が出来んかった」
「ほんまに、すまん!」

 流れはじめた涙は、もう止まらない、広美がそのまま万次郎の胸に、顔を埋めて声をあげて泣き始める。
 万次郎はしっかりとその体を抱きしめて、優しく背中をさすってやった。

「……そんな言葉、ずっと、聞きたかった」
「子供の時の……優しいお父ちゃんに、戻って欲しかった」
「けんど、素直に言えんかった……」

 言葉を重ねる度に、感情があふれて来る。
 涙に混じり、途切れ途切れになりながらも、思いの丈を吐き出すように、広美の言葉は止まらなかった。

「甘えやと思いよった」
「車椅子になったがも、お母ちゃんのお葬式の時も」
「一番辛いがは……」
「悲しいがは……お父ちゃんやって解っちょったのに!」

 万次郎の目にも、光るものが現れる。
 自分に向けて、無邪気な笑顔を見せていた広美の姿が重なった。

「……ありがとう、広美」
「ほんで、せんでも良い苦労をかけてすまんかった」

 明美がそっと広美に寄り添い、椅子に座らせてやると、万次郎は仁美に向き直る。
 その頬に、そっと触れた。
 広美は、はっと我に返ると、あらためて明美の顔を見る。

「……先約って……まさか!」

 明美は無言で頷き、万次郎がまた広美の頭に手を置いた。

「そう言うことや」
「わしも、もうお前らに世話をかけるわけにはいかん」
「お前は信吾が……」
「仁美は騎手として」
「自分で未来を作っていける」
「わしらは、それを見守るだけや」

 広美は言葉を失ってしまう。
 長い時間、隔絶した父親に対するわだかまりが、綺麗に洗い流された。
 万次郎もまた、父親として自分に接してくれている。
 それは長年広美自身が渇望していた瞬間に他ならない。

「そんな顔をするな」
「お母さんも言うたろう?」
「ひとつの命が尽きたら、違う命の灯がともる」
「自分の子供の命に変わるがぞ」
「お父ちゃんには幸せなことや」

 広美は顔を伏せて黙って頷いた。
 明美は、慈愛のこもった笑顔を崩さず言う。

「……それにね、もうちょっと時間がかかるき」
「体はここにあるけど、仁美の心は」
「いま、ここにおらんき」

「……え?」

 不思議そうに明美に向き直ると、万次郎が口を開いた。

「大丈夫や、しばらく経ったら必ず戻んてくる」
「わしの相棒が連れてきてくれる」
「それまで、話でもしようか」

 きょとんとする広美の隣に座ると、万次郎が急に真顔になった。

「……本当に、信吾で良いがか?」

 突然の言葉に、広美は思わず吹き出してしまった。

「真面目な顔して、何を言いだすかと思うたら」

 万次郎もつられて顔をほころばせる。
 暗く、重苦しかった病室に、再び笑い声が響きわたった。

 武政厩舎の馬房では、ヘールボップの前に、信吾がひとり立っていた。
 言葉はない、ただ無言で一点を見つめたままだ。
 そこに、洋平と瀧越が現れる。

「ボップのジャパンカップは……中止や」
「明日……登録解除の手続きをする」

 重たい言葉が落ちた、瀧越は頭をかきながら言葉を出す事ができない。

「それだけやない、北林オーナーは、仁美ちゃん以外乗せる気はない、と」

 初めて信吾が洋平に振り向いた。

「それ、どう言うことですか?」

 瀧越が長いため息をついて、視線を上げる。

「ボップを、引退させるらしい」
「自分の牧場に連れて帰って、余生を過ごさせるがやと」
「正直、ポップは俺には荷が重い……」
「仁美ちゃんみたいに、あんなに気持ちよう走らせれる自信はないき」

「……そんな」

 信吾はその場に膝をつき、涙を流す。
 すると、ヘールボップが首を下げて、その顔を信吾に近づけた。
 洋平と瀧越も、その肩に手を添える。

「あと、俺らあに出来ることは、仁美ちゃんの無事を祈ることだけや」

「もう消灯やろう?朝の作業は俺らあがやるき」
「お前は、朝から広美ちゃんの所に行っちゃれ」

 信吾は黙って立ち上がり、袖で目を拭うと、三人で並んで厩舎をあとにした。
 やがて、照明が落とされて暗闇と静寂が訪れる。

(……ジャパンカップは中止)
(僕は引退……か)
(帰れるのか……牧場に)

 ヘールボップは窓の外の星空を、じっと眺めていた。

(母さん、元気かな?また会えるかな?)
(一緒に、暮らせるのかな?)
(……けど)

 青黒いサラブレッドの瞳から、一筋の涙が流れた。

(また走ってみたかったな)
(芝のコース)

 自身が勝利した、2歳の時のGⅠレースの瞬間が思い浮かぶ。

(勝ちたかったな)
(母さんから聞かされた)
(お父さんが勝ったダービーと同じ)
(府中の2400メートル)

 脳裏に浮かぶ、勝利の瞬間の大歓声。

(……走り、たかったな!)

 涙が止めどなく流れ続ける。
 その時だった。

「何を泣きゆうが?」
「たっすいがはいかんって、言うたろう?」

 聞き慣れた優しい声がする。
 仁美がヘールボップの馬房の中に立ち、その涙を拭ってやっていた。

「……仁美さん!無事だったの?」
「先生も、信吾さんも、凄く心配してたから」
「大丈夫だったんだね?」

 すると、仁美は首を振った。

「ごめんで、反対やき」
「お別れに来たが、もう、会えんなるがよ」
「遠い所に、行かんといかんなって」
「ありがとうね、ボップ」

 仁美の言葉に、ヘールボップの体が硬直してしまった。

「遠い所って?」
「北海道より遠い?」

 仁美は表情を、パッと明るくして、その場に腰を下ろした。

「もっとずっと遠い所」
「あんたの、お父さんがおる所」
「もう、誰とも会えんなる所ながよ」

 寂しげな表情を、ヘールボップに向けると、仁美も、馬房の窓から星空を見上げる。

「走りたかったな」
「ボップと、ジャパンカップ」
「見たかったな」
「お姉ちゃんと、信吾さんの結婚式」

 そして、仁美もまた、その目から大粒の涙をボロボロとこぼし出した。

「……話したかった」
「もう一度」

 もう、声にはならなかった。
 搾り出すように言葉を紡ぐ。

「もう一回」
「お父ちゃんと……」
「師匠と弟子やのうて」
「父と、娘として!」
「……お父ちゃんと!」

 ヘールボップが、いつものように仁美の涙を拭うように、顔を近づけた。

「仁美さん?……『たっすいがはいかん』じゃなかったの?」
「それに、話してたよ」
「万次郎さんと」

「……どう言うこと?」

 驚いて顔を上げる仁美。
 ヘールボップは、鼻面を頬に添えたままだった。

「万次郎さん、ずっと僕の中にいたんだ」
「心を閉ざしていた僕の代わりに」
「ヘールボップとして、生きていたんだ」

 思わず立ち上がる仁美。

「じゃあ、あのレース……」
「あんたと初めて出たレース」
「全部、ボップが一人で勝ったと思うたがは」

「そう、万次郎さんが走ったんだ」
「けど、僕が落鉄したレースと」
「潮嵐賞は、何もしてないよ」
「あれは、全部仁美さんと僕で勝ったレースなんだ」

「ペガサスカップは?」

「あのレースは、万次郎さんも乗ってた」
「でも」
「仁美さんと万次郎さん、全くおんなじ乗り方をしたんだよ」

 仁美は、また膝をついた。

「……そんな、そんな」
「お父ちゃんは?今はおらんが?」

「ちょっと前、明美さん?と一緒に」
「空に飛んでいっちゃった」

 顔を覆い、取り乱したように泣き出す仁美。
 堪えていたものが崩れる。

「やっぱり、まだまだ、あんたに乗りたい!」
「一緒にレースを走りたい!」

「お姉ちゃんと」
「信吾さんと、瀧越さんと、武政先生と」
「大好きな人らあと」
「……もっともっと……」
「生きて……行きたい!」
「生きていきたいがよ」

 その悲痛な叫びが、馬房に響いた。
 ヘールボップはただ黙って見つめることしかできない。

「大丈夫ですよ、仁美さん」

 ふっと声が聞こえる。
 隣の馬房のスポイルクーラーが、穏やかに声をかけて来たのだった。

「いつも、体に気を遣ってくれてありがとう」

 反対側の、クラークアローも続く。

「仁美さんは、帰ってこれます」
「先生が助けてくれます」

 カツラシンタローが、ハナスミレも声をかけてきた。

「先生が、仁美さんのところで待ってますよ」
「早く帰って来てください」

 厩舎の中の馬たちが、一斉に仁美に励ましの言葉をかけ続けた。
 そして、ヘールボップの体に光が宿った。
 身体の輪郭を縁取るように、表面からゆらゆらと立ち昇る。

「ボップ……その姿……」

 初めて見た時。
 馬運車から降りた、ヘールボップの立ち昇る汗の蒸気が、日差しに照らされて闘気を帯びているように見えた姿そのものだった。

「帰ってきて、仁美さん」
「一緒にジャパンカップを走ろう」
「『たっすいがはいかん』だよ……」

 ヘールボップの光は、あたり一面を照らしてやがて一箇所に集束して、一頭のサラブレッドになった。

「……コメット、ハンター?」

 仁美は、目の前に現れた栗色の競走馬に目を奪われた。
 調教師室に飾られた写真を何度も見ている。
 豊かな威厳と風格、それでいて優雅な気品を漂わせる馬体。
 それが仁美の目の前に現れている。

「はじめまして、仁美ちゃん」
「君には、息子が随分お世話になったね」
「ありがとう」

「いえ……どう、いたし、まして」

 仁美は、目の前の事実に思考が追いつかず、自分が何を言っているのかすら、理解できていない様子だった。

「明美さんは、君が必ずここに来ると言っていた」
「流石だね、人の親とは、すごいもんだ」

「……お母さんが?いたんですか?」

 コメットハンターは、厩舎の入り口を見つめる。

「万次郎さんと明美さんは」
「君の体の元に行っている」
「君も、自分の体に戻る時だよ」

 優しい口調のコメットハンターが、自分の背中を首で指した。

「さあ、私に乗りなさい、一緒に戻ろう」

「はい!」

 迷わずその背中に、仁美は跨った。
 父馬は息子に目を合わせる。

「……息子よ、父はずっとお前と共に在る」
「忘れるな」

「……はい」

 今度は、仁美がヘールボップを見て言った。
 力強い、確信のこもった声で。

「絶対に、帰ってくるきね」

「うん、待ってる」
「かならず、帰ってきてね!」

 やがて人馬は黄金の輝きに包まれて、その場から姿が消えていった。
 また、闇と静寂に包まれる厩舎。
 しかし、ヘールボップの心には、もう不安はない。
 明日には、いつもの笑顔で仁美が現れる。
 期待と希望しか存在していなかったからだ。

 病室では、それまでの雰囲気とは打って変わった和やかな雰囲気で、三人の歓談が続いていた。
 そんな中、万次郎が窓の外を見て、何かに気づいたように呟く。

「……来たな」

「何が?」

 明美が広美の肩に手を乗せた。

「戻んてきたがよ」
「お帰り……って、言うちゃって」

 窓の向こうの夜空に、小さな光点が点ると、それがだんだん、こちらに向かって近づいてきた。

「お父ちゃん、お母さん……あれ」
「彗星?」

 両親は何も言わずにただ頷く。
 光の束が目の前に来た時、広美は思わず万次郎にしがみついた。
 そして。
 それは、窓をすり抜けて仁美の体に向かう。
 長い光の尾が、仁美の体の中に延々と吸い込まれていくさまを、広美は驚愕の眼差しで見つめることしかできなかった。

 やがて、彗星の光がすべて仁美の体の中に収まった瞬間。

「……お姉……ちゃん?」

 閉じられていた仁美の目が開く。
 そして、はっきりとした口調で、言葉を告げた。
 万次郎が、優しく酸素マスクを外してやる。

「お父ちゃん……お母さんも」

 広美は言葉を出せない、仁美の手をしっかりと握りしめ、その温もりを感じて肩を震わせている。
 そんな二人を、万次郎が両手で抱き寄せた。

「広美!仁美!」

 二人の娘たちは、ただ父の身体にしがみついて、感情の赴くままに涙を流す。
 母も、二人に寄り添い、慈愛の眼差しを絶やすことはなかった。

「すまんかった、仁美!」
「お前に、お父ちゃんのやり残したもんを、全部押し付けて」

「……違う、私は、自分の意思で馬に乗りたかった」
「お父ちゃんが見よった景色を見たかったが」

「お父ちゃんが、歩けん、馬に乗れん体やなかったら、違う生き方も選べたはずや!」

「そんなことない!お父ちゃんが、竹さんみたいに、今も現役やっても……私はおんなじ道を選んだき」
「私は、騎手の道を選んだき」

 その言葉は、万次郎の胸により深く刻まれた。
 自分が生きて来た、歩んできた道がしっかりと、娘に伝わっていたことを実感したからだ。
 背中を抱く腕に、力が籠る。

「ありがとう……ありがとう仁美」
「広美、弱いお父ちゃんですまん」
「自分の弱さを見せとうのうて」
「ちゃんと、向き合うことが出来んかった」

 広美は万次郎の胸で、首を振った。
 それは、言葉に出すよりも雄弁に語っている。

「ふたりとも、どこで何をしよっても良い」
「一生懸命、その日を、その時間を、生きてくれ!」

 明美が万次郎の肩に触れると、その身体が静かに光を放ちはじめた。

「おとう……ちゃん」

「まだ、行かんとって!」

 抱きしめる手を緩めた万次郎は、二人と目線を合わす。

「とにかく、毎日を幸せに生きてくれ」
「笑顔と、安らぎに満ちた、時間を生きてくれ」
「お前らあが……お前らあ二人は」
「わしの、お父ちゃんの」
「人生の……すべてや!」

 そしてまた、力強く二人を抱きしめた。
 言葉を搾り出す広美。

「ありがとう……お父ちゃん、これで、心から泣ける」
「お父ちゃんを想うて、泣けるき」

 仁美も、声を震わせた。

「ずっと、見よってよ」
「ずっとずっと、走り続けていくき」
「……ずっと、見よってよ!」

 最後には明美の言葉。

「姿は見えんでも、離ればなれになっても、みんな家族やき」
「ずっと一緒に、おるきね」

 そして、病室は光にあふれて、やがて止まっていた時計の針が動きはじめた。
 その瞬間。
 ベッドに横たわる万次郎のそばにある、医療機器の画面が、全て一本の線になり、リズムを刻んでいた電子音は、単調な音に変わった。

 沖浜万次郎、永眠。
 享年56歳
 競走馬を愛し、家族に愛された男の一生は、こうして幕を閉じたのだった。

最終話 彗星は南から

 翌朝、遠林病院は大混乱に見舞われた。
 生死の境を彷徨っていた仁美が、一夜にして回復し、検査の結果も異常がない。
 刺し傷、切りつけられた背中の傷すら、元からなかったように回復している。
 そして、別の病室で数ヶ月の間眠り続けていた万次郎が、息を引き取った。
 朝一番で駆け込んだ信吾も、仁美の元気な姿を見て腰を抜かし、万次郎の旅立ちに涙する。
 広美と仁美、信吾が万次郎の病室を訪ねると、父は安らかに眠っているようだった。

「……先生、目を覚まして、俺と広美さんの結婚式に、来て欲しかったです」

 姉妹は顔を見合わせて、微笑み合い、広美が信吾の背後から手を回した。

「そんなに泣かんで良いわえ」
「大丈夫……お父ちゃん、ちゃんと見てくれるき」
「家族やも、絶対に見てくれるきね」

 仁美もつられて涙が出るが、口元は穏やかだ。
 その後、寝台車に乗せられた遺体は、競馬場近くの葬祭会館へ。
 洋平と瀧越が、先回りしていた。
 二人は、最初に車から降りて来た仁美の姿を見て目を丸くした。

「仁美ちゃん!本当やったがやね、良かった」

 瀧越が、珍しく涙声で仁美に駆け寄る。
 照れたように笑い返すと、洋平に目を合わせた。

「先生、私、また乗れます」
「ジャパンカップ、走れます!」

 洋平は、目を真っ赤に腫らせて力強く頷いた。

「わかった!」
「ジャパンカップでも、有馬記念でも」
「ドバイでも、凱旋門賞でも」
「どこでも付き合うちゃる!」
「仁美ちゃんとボップに」
「とことん付き合うちゃる!」

 そして、寝台車から降りて来たストレッチャーの万次郎を向いた。

「おやっさん!」
「見よってくださいよ!」

 そして、万次郎の顔をまじまじと見ていると、感情を抑えることができなかった。
 遺体に駆け寄り、その場に突っ伏する洋平。

「……おやっさん、ありがとうございました」
「……おやっさん……おやっさん!」
「見よってくださいよ」
「俺も泣き事は言わん、勝ちまくりますき」
「あんたの、意地の悪い弟子と」

 瀧越がほくそ笑んで頬をかく。

「あんたの、娘婿夫婦と」
「……あんたの、不死身の娘と一緒に」
「勝ちまくりますき!」

 仁美は、決意を新たに力強く洋平の姿を見つめ、広美と信吾も肩を抱き合って、その場に立ち続けていた。

 テレビのニュースが一報を伝える。

『昨日、高知市内のショッピングモールで起こった刺傷事件の被害者、南海競馬所属の沖浜仁美騎手に関する続報です』

 竹が夫人と並んで、掌を結んだ。

『その後、病院に搬送されて治療を受けた結果、驚異的に回復し、先程退院したとの事です』

「……よかった」

 胸を撫で下ろした竹の肩に、夫人がそっと手を添える。

『また、意識不明の状態で入院していた、沖浜騎手の父の元騎手で、現在は南海競馬所属の沖浜万次郎調教師が、昨夜、亡くなりました、55歳でした』
※享年56歳は数え年

 竹夫妻は、顔を上げる。

「……まんじくん……そんな……」

「きっと、仁美ちゃんを、助けてあげたんですよ」

 竹は立ち上がり、リビングに飾られた写真に近寄り、手に取った。

「……そうだね、明美さんも、待ちくたびれただろうね」

 テレビの画面には、コメットハンターと共に制したダービーの画像が流れはじめる。

『沖浜調教師は、騎手時代は名手と呼ばれ、ダービーを始めとする大レースをいくつも勝利しました』
『しかし、落馬事故の影響で足が不自由になりながらも引退後、南海競馬で調教師として数多くの競走馬を育てました』
『ご冥福をお祈りします』

 藤村が、画面に向かって手を合わせた。
 目には涙が溢れている。

「本当に、ありがとうございました」

 そこに、電話が一本。
 発信先は、剣持からだった。

「先生、お世話になっております」

『こちらこそ、色々骨を折ってもらってすまなかったね』
『上崎の件、しっかり警察に話を通したから』
『あと、お陰でやつらもきっちり掃除できたよ』
『依頼を受けた手前、我々が動く訳にはいかなかったからね』

「当たり前のことをしたまでです」

 電話を切ると、深いため息をついた。

「……やっぱり、ちゃんと裁かれないとな」
「被害者に、しっかりとわかる結果じゃなきゃ」

 テレビは続ける。

『ここで続報です』
『先程報じた、沖浜仁美騎手の事件の犯人と見られる、上崎徳和容疑者が逮捕されました』
『上崎容疑者は、複数人と同乗した乗用車で逃亡中に、淡路島サービスエリアに立ち寄ったところを、車種やナンバーを通報を受けていた兵庫県警により逮捕されました』
『また、同乗していたのは、海外に拠点を置く国際詐欺グループのメンバーと見られており』
『上崎容疑者の関与も疑われています』

 恵美は身体中の力が抜けて、椅子の背もたれに深くもたれかかった。

「……今更だけど、良く一緒に暮らせていたもんだわ」

 万次郎の遺体が葬儀場に移されて、ひと段落がついた時、仁美は厩舎を訪れた。
 ヘールボップと目が合うと、いつものように優しく鼻面を撫でて微笑んだ。

「ただいま、ボップ」

 ブルルル、と嬉しそうに鼻を鳴らすヘールボップ。
 昨夜のように会話はできないが、人馬の意思はしっかり通じ合っている。
 仁美は、厩舎の中を見渡した。

「スポイル、クラーク、シンタロー、スミレ」
「みんな、ただいま!」
「これからも、よろしくね!」

 競走馬たちは、仁美の言葉に答えるように、首を上下させたり、蹄を鳴らしたりして返す。
 最後にヘールボップと視線を合わせて、もう一度微笑んだ。

 万次郎の葬儀は親族、厩舎関係者だけで執り行われたが、南海競馬、中央競馬共に彼の功績を讃えて、写真や賞状、コメットハンターのゼッケンなどが展示される記念ブースが開設された。
 ジャパンカップ当日の府中競馬場も例外ではない。
 多くの人が立ち寄り、その中にいた藤村は、22年前の写真を見上げて悲嘆に暮れた。
 そして、ゆっくり手を合わせて目を閉じる。

 パドックでは、信吾がヘールボップを引いて歩いていた。
 着慣れないスーツ姿で、緊張に顔をこわばらせながらも、何とか足を運んでいる。
 対してヘールボップは、しっかりとした歩調で、機嫌良く前に進んでいる。
 馬主席で、その様子が映るモニターを、北林オーナーと、洋平、広美が見つめていた。
 洋平もいつもと違って正装で席についていた。

「……ありゃあ、足がもつれたりせんろうか?」

 洋平の言葉に広美が苦笑いで答える。

「やっぱり、設備も人も違いますから、ただでさえ緊張しいやき」

 北林オーナーは、終始表情が穏やかだ。

「しかし、本当に一時はどうなるかと思いましたが……何事もなくこの日が迎えられて良かった」

 洋平と広美は、黙って北林オーナーと視線を交わした。
 騎手控え室では、仁美が落ち着かない様子で椅子に一人腰を下ろしている。
 地方の新人騎手。
 しかも、南海のプレハブと違って、近代的な設備である。
 その雰囲気に飲まれそうになっていた。
 そこに竹が近寄る。

「そう堅くなってちゃ、レースで体が動かなくなるよ」

 優しい口調に、引きつった笑顔で返すしかなかった。

「まんじくんは、残念だった」
「あんないい奴が、あんな苦労して」
「大変な人生だったと思う」

「……それは、違います」

「仁美ちゃん?」

「父は、体の自由がきかなくなって、母を失って、若くして亡くなりました」
「ですが、ヘールボップ達、武政先生、瀧越さん、松崎さん」
「馬も人もたくさん育ててきました」
「そして、姉と私をこの世に送り出してくれました」

 顔を上げて、胸をおさえる仁美。

「だから、父はここにあります」
「父の命は、私の中に生きています」

 その言葉に、竹の顔は満面の笑顔に変わる。

「そうだね、やっぱり幸せな男だよ、彼は」
「僕も、遠慮はいらないな」
「はなから、そんなつもりはないけど」

 そして、急に眼光鋭い厳しい表情に変わった。

「思う存分に……」
「……かかってこい」

 仁美も、負けじと意思の強い目で応じた。

「もちろんです」

 合図がかかり、騎手が揃って愛馬の元へ向かう。
 強張った信吾の表情を見た仁美は、わずかながら緊張がほぐれた。

「信吾さん、似合うてますよ」
「お姉ちゃんの見立て、バッチリですね」

「……からかわんとってくれますか?」
「こじゃんとようけ、人がおる」

「そりゃあ、南国市と香南市合わせたくらいの人が来るがやも」

「具体的な数を言われたら、ますます緊張するやいか」

 テレビ中継が始まる。
 矢野アナウンサーが実況で、レース展望をかたりはじめた。
 その中継を、高知の騎手控えで不貞腐れながら瀧越が見ていた。

「俺も、行きたかったねゃあ」

 傍の後輩騎手が声をかける。

「瀧越さんは、来週クトゥルフと行くでしょう?チャンピオンズカップ」

「見ると乗るとじゃ違わあや」

 本馬場へ続く通路を歩く、信吾に引かれたヘールボップ、そこに洋平と広美が立っていた。

(……お姉ちゃん、行ってくるきね)

(頑張りよ……仁美)

 もうそこに言葉はいらない。
 視線を合わすだけで、姉妹の意思はしっかりと通じ合った。

 通路を抜けると、光が一気に押し寄せた。
 芝生の青々とした香りが漂う、そして客席からの大歓声。

『さあ、まず最初に、中央の芝のコースに帰って来ました』
『一枠一番ヘールボップ』
『鞍上は往年の名騎手、沖浜万次郎の愛娘、沖浜仁美』
『中央GⅠ初挑戦になります』

「ほいたら、頑張ってよ!」

 信吾が金具を外すと、気合いを入れるかのように、前足を上げるヘールボップ。
 仁美は一旦目を閉じて、芝生の香りを吸い込んだ。

「……よし、行くよ、ボップ!」

 手綱を引いて、返し馬に駆け出して行く。
 何頭かの入場が続くと、ひときわ大きな歓声が沸き上がった。

『さあ、大本命の入場です』
『6枠11番、イギリス最高峰』
『キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスを制した、日本が誇る絶対王者』
『アマノガワと竹裕』

 堂々たる鹿毛の馬体。
 流れるような動きで、駆け出した。

「……芸術品やねゃあ、見惚れてしまうわ」

 洋平がポツリと呟くと、広美の視線はまっすぐゲートに向かっていた。

 ファンファーレが鳴り響く。
 全馬がゲート前に揃い、順番に収まり始める。
 仁美も最内の1番ゲートに入り、大きく息をついて、ゴーグルを下ろした。
 その時だった。

(……いよいよだね、仁美さん)

「……うん、絶対、勝つで」

(たっすいがは……)

「いかん!」

 ゲートが開いた、全馬が流れるようにゲートを飛び出して行く、大きな出遅れはない。
 各馬がスタンドの前を通過、それぞれが、得意な位置にポジションをとっていく。
 アマノガワは、中団。
 ヘールボップはやや後方寄りに位置を取る。
 そのままの流れで、コーナーを周り、向こう正面に。
 仁美は、すぐ後ろに付けながら、アマノガワの動向を観察していた。

「きっと竹さんは、3コーナー抜けた瞬間に位置を上げて行くはず」
「今は囲まれちゅうけど、コーナーで振られて隙間ができたら突っ込むろう」
「4コーナー抜ける時に4、5番手に付けて伸びて行く」
「ボップは内枠のおかげで、最短コース」
「じっくり、脚を貯めることができちゅう」
「……わかるよね、ボップ」

(もちろんだよ、仁美さん)

 3コーナーを抜けた瞬間、アマノガワのブロックが乱れ、前の壁に隙間が現れた瞬間、飛び込んだ。

「よし、これでパターンだ、直線入ったら一気に突き放すよ、アマノガワ」

 じわりじわりと、前に位置を上げるアマノガワ。
 対照的に、ヘールボップは動かない。
 後方の馬たちに交わされ、徐々に位置を下げる。
 4コーナー手前では、ほぼ最後方に下がってしまった。

「……仁美」

 顔をしかめる広美に対して、洋平は目を剥いて呟く。

「……あれは……おやっさんの……」

 スタンドの藤村は口元を押さえて体を震わせた。

「……コメットハンターのレースと、同じだ」

 検量室前で待機している信吾は、奥歯を噛み締めて、拳を握る。

「ここの直線は、南海の倍ある……」
「絶対、届く!」

 コーナーを抜けて、5番手だったアマノガワが加速して行く、4番手、3番手、2番手みるみるうちに先頭に並んだ。

 対して、ヘールボップはほぼ最後方の位置から、すすっと遠心力で大外に持ち出す。
 そしてヘールボップの首が地面に突き刺さらんばかりに力強く低く沈んだ。
 万次郎から引き継いだ鞭が、高々と掲げられる。

「行くで!ボップ!」
「本当のあんたを、みんなに見せちゃり!」

 鞭が振り下ろされた瞬間、ヘールボップの闘志が爆発する。

(僕は……)
(ヘールボップなんだ!)

 ギアが変わった。
 前へ飛び出して、ぐんぐんと加速を始める。
 広美の頬を涙が伝うが、口元は綻び、満面の微笑みに変わって行った。

「……仁美が……ボップが」

 視界の端で、他の馬たちが流れていく。
 抜く。
 抜く。
 抜く。
 そして前が近づく。

「走りゆう……」
「アマノガワを追いかけて……」
「……前へ前へ」

『さあ、アマノガワが抜け出します』
『このまま、他馬をねじ伏せるか?』
『しかし、大外からもう一頭』
『なんと、1枠1番、白い帽子』
『ヘールボップ、ヘールボップです!』

 自転車の記憶、運動会の記憶、レースの記憶。
 広美の脳裏に、幼い時から今まで姿を変えながら、仁美が走り続ける。

「……ずっと、ずっと」
「仁美は……走りゆう!」
「走り続けゆう!」

「残り二百……届いて!」

 もう一度、鞭を入れて懸命に手綱を握る仁美。

「来たね、抜かせはしないよ……」
「ヘールボップ!」

 竹もまた、鞭を入れて追う。

「お父ちゃん!」
「お母さん!」
「仁美に……力を貸しちゃって!」

 前との差、五十メートル。
 二十メートル。
 そして、ゴール前十数メートル。
 アマノガワとの差が縮まり、ゴールの先を見据える仁美が、目を見開いて驚いた。 

「……お父ちゃん、お母さん……」

(……お父さん)

 ゴール板の向こうに、万次郎と明美が手を振り、コメットハンターが静かに佇んでいた。

 洋平が、その声が枯れんばかりに叫ぶ。

「走れ!ボップ!仁美ちゃん!」

 信吾も体を震わせながら叫ぶ。

「ボップーー!仁美ちゃーーん!」
「交わせる、交わせるでーー!」

 瀧越もテレビに向かって叫ぶ。

「行ける!押して押して、押しきれ!」

 北林オーナーも馬主席で叫ぶ。

「もう少しだ!行けーーー!」

 藤村も、客席で叫んでいた。

「届く、届くぞー!走れー!ヘールボップ!」

 広美が最後に声を振り絞った。

「仁美!仁美ーーー!」

 ヘールボップの踏み込みに力が籠る。
 蹴り上げる脚の運びが、芝生をえぐり、歩幅がさらに広がった。
 再加速したヘールボップは、一気にアマノガワに並ぶと、首差交わして先頭でゴールを果たした。

「おめでとう、仁美ちゃん」
「まんじくん……約束は、君の勝ちだ!」

 客席から、音が消えた。
 広美と洋平は抱き合って飛び跳ねた。
 信吾は真っ赤な目で雄叫びを上げる。
 北林オーナーは、拍手をつづけ、藤村は目を腫らせて鼻をつまんだ。
 高知の瀧越は、テレビの前で握手や抱擁を繰り返す。

 秋風の舞う、府中競馬場で、場内実況がこだました。

『なんと、勝ったのはヘールボップ』
『2歳以来の中央GⅠ制覇!』
『高知への旅を経て、彗星が天の川を横切りました!』

 ウィニングランで、右手を高々と上げる仁美に向かって、千切れんばかりに手を振る広美。

(お父ちゃん、お母さん……見よった?)
(……仁美が、あの子、やったで)
(すごいこと、やってくれたで)

 場内は割れんばかりの声援。
 「ヘールボップ」
 「仁美」
 両コールが、鳴り止まない。

 着順掲示板の上に、万次郎と明美が立っていた。
 誰からも認識されることはない。
 しかし、確かに娘の姿をしっかりと目に焼き付かせている。

「……まんじさん、いきなりGⅠですよ」

「わしは……3年かかったねゃあ」

「私の息子も、やるものでしょう?」

 コメットハンターも、ゴール板の陰から見守っていた。

「……命いうがは、不思議なもんやねゃあ、巡り巡って受け継いで」

「新しい姿になっても、伝わる中身は同じまんま」

「そうやって、世界は続いて行くんでしょう」

 すると、万次郎が明美に耳打ちして、悪戯っぽく笑った。

「……それ、後で大騒ぎになってもしりませんよ?」
「面白そうやけど」

「やろ?」 

 二人は笑い合って頷き、手を取り合って、掲示板の上から姿を消していく。
 矢野アナウンサーの実況の声が、ヘールボップと仁美のコールと共に、秋晴れの府中の空に高らかに響き渡った。

『沖浜仁美とヘールボップ!』
『お互いの父が制した、この府中の2400m』
『クラシックディスタンスを制覇!』
『まさに!彗星が……いや彗星は……』
『彗星は南からやって来たー!!』

Win〜彗星は南から
           完 

── 第20章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました