第11話 君臨するトリトン 三
ポンペイウスは手巾で口を拭うと、口を開いた。
「饗宴の楽しみは料理ばかりではない、集まった衆賓達との会話もその一つだ。しかしルームの英雄である私の話など今更話すことなどなかろう、真に偉大な人物は他者に語られるものであって、自ら語るものではないのだから。故に貴様の話を聞かせてみろ、ハヤシ中佐」
「はっ」肉刀を置いて答える「小官の出身はヤマト属州であります。14歳の時にルームに居を移し、帝国軍に奉職することを許されました。以来微力ながら全力で帝国に仕えてきましたが、その働きが評価されたようで、参謀本部中佐という過分な地位に取り立てていただいております」
「そしていまやハンの元王族を部下にしているというわけか。私は極東に詳しいわけではないが、ヤマトはもともとハンの属国のような立場にあったそうだな。かつての宗主国の王統を従属させているのは、さぞや気分が良かろう」
「……小官もジャオジュン中尉も、今はルーム帝国の臣民です。ヤマトもハンも既に国家としては地上に存在しておりません、かつては上位者下位者の関係であっても遠い過去のこと。今は皇帝陛下に忠誠を誓う一軍人、属州人同士であります。現在、中尉が小官に従うのは階級とそれに伴う指揮系統のためです。それ以上でも以下でもありません」
俺は慎重に答える。
俺に答えに気に入らなかったのか、鼻を鳴らしたポンペイウスはジャオジュンに目を向けた。
「中尉、中佐はこう言っているが貴官はどう思っているのだ。偉大なハンの元王族として未開人であったはずのヤマト人にひれ伏すのは苦痛ではないのか」
「未開とは愚かにもルーム帝国に歯向かったハンにこそ相応しい形容詞であります。小官としてはハヤシ中佐のような有能なお方に仕えられる機会を与えられ喜ばしく思っております」
ジャオジュンはいつも通りの鉄面皮で答える。ポンペイウスが不快に思わぬか、俺は少し心配したが、意外なことに彼は大声で笑った。
「ハンこそ未開か! なるほど、そう言わざるを得んか!」
ポンペイウスは笑みを浮かべたまま、ジャオジュンを見つめる。その顔には俺に対しているときには認められなかった好意の色があった。
「私はルームの極東遠征に関しては直接関わってはおらんが友人たちを通して色々な話を聞いた、北方遊牧民の不羈の気質、強大なインドの諸国家、ヤマト民族の従順さ、そしてハンという国家の洗練された文化や制度などをな。実際にハンに訪れたルーム人はみなハンに一目置いていた」
俺たちは何も言えず黙り込んだ。ルームに服属する属州人として、滅多なことは言えない。
ポンペイウスは次にコルシュに目を向けた。俺は予期していたとはいえ少しく緊張を覚えた。
「少年、貴様はハヤシ中佐の従卒か」
「はい、そうです。ポンペイウス様」
「名前は?」
「コルシュです」
俺は口をはさむ。
「ポンペイウス様、この者はまだ錬成の途中でありまして、貴人への礼を欠くところがあります。それに小人ですので、ポンペイウス様のご興味を惹かれるようなものはないかと」
「私に比べればたいていの人間は小人だ。それに年少者が粗相しても怒りはせん。貴様は黙っているといい」
そう言われてしまえば、これ以上、俺に何が言えよう。不安な心持でコルシュを見ると、彼は俺を見て頷いた。安心しろ、と言っているようだ。しかし、心配せずにはいられないよ、俺の可愛い巻き毛。
「食事はどうだった、コルシュ」
「とても美味しかったです。食べたことのないものばかりでした。たまにはこんなものもいいですね」
コルシュは快活に笑う。
「たまにはか。貴様も出世すれば、毎日こんなものを食えるかもしれんぞ」
「いやあ毎日はいいですよ。食堂の料理で十分満足です。毎日こんな食卓なら疲れちゃいます」
「そうか、食堂の料理の方が肩肘張らないで楽か」
ポンペイウスは好々爺の顔で笑った。この男もこんな顔ができるのかと意外に思う。いやコルシュがこの表情を引き出したのか。コルシュは自然と相手の警戒を解く雰囲気を持っている。
「ヒスパニアは初めて訪れたのか」
「いえ、もともとヒスパニア出身です。両親が帝国への反抗運動に加わっていて、逮捕された後、家族別々に奴隷として売り出されたんです。僕はハヤシ中佐の目に留まって買ってもらえました」
「ほう、なかなか面白い出自ではないか。ルームや私に恨みはないのか」
「恨み? 恨むべきですか?」
「両親と離れ離れになり奴隷の身に落とされたのだろう? 帝国やヒスパニア属州総督を恨む理由はある」
「でも誰も殺されてません。父も母もどこかで楽しくやっているかもしれません。僕がハヤシ中佐に合えたように」
「奴隷労働はそんなに甘くはないぞ、特に男であればな」
「生きていれば」コルシュは珍しく真剣な顔になった「生きていれば、何かの楽しみを見出すことはできます。僕も中佐に買われるまで酷い目にもあいましたが、朝日はいつも美しかったです」
明け透けなコルシュだが、俺に買われるまでのヒスパニアからルームへの道中については話したがらなかった。何か残酷な目に合ったのは間違いない。だが、それでも彼は朝日を愛でる心を失わなかったのを俺は知っている。
ポンペイウスは腕を組んで独り言のように言った。
「生きていれば、か。確かに生きることは何にもまして重要だ。しかし、私はそれだけでは満足できん。生きているうちに何を為すかが重要なのだ」
そういうと背後の像を振り返る。彼が見つめていたのは大神ヘリオガバルスでも神君アウグストゥスでもなくアグリッパ将軍の像だった。
彼は像を見つめながら呟いた。
「ハヤシ中佐」
「はい、なんでしょう」
「お前は死ぬまでに何を為したい?」
俺は答えに詰まった。死ぬまでに為したいことと問われても何も思いつかなかい。出世も、ヤマト属州の地位向上も俺の悲願というわけではない、ヤマト上層部から求められているからそのように動いているだけだ。ヤマトニクス様に願ったヤマトへの帰還とてルームからの避難措置に過ぎない。俺という人間はただその時々の問題に必死に対応しているだけだ。俺の行動を決めるのは信念ではない、周囲の状況あるいは他人からの要請だった。
だが、俺はそんな自分を自覚しても特に失望は覚えなかった。個人的な望みを持つなどという贅沢に無縁な立場にいるのだから仕方がない。
「帝国に尽くすこと、それ自体が小官の望みです」
いつかのジャオジュンの言葉を思い出しながら答える。
ポンペイウスは呆れたように溜息をついた。
「実につまらぬ答えだ。軽蔑すら覚える」彼は視線をこちらに向けた「お前はこの世に生きていないのも同じだ」
「満足のいく答えができず申し訳ありません、ポンペイウス様。ただ」自然と舌が動いた「小官は確かに生きております。できるだけ長生きをしたいとも思っております」
何の計算もなく口に出た言葉は、それだけに俺の本心を反映しているように思えた。
口の端に自嘲的な笑いが浮かぶ。
俺の望みはただ長生きすることか。しかもコルシュと違って別に人生に楽しみを見出すでもなく、ポンペイウスのように偉業を達成するでもなく、ひたすら生にしがみつくこと自体が目的だ。なるほど小人の俺には相応しい望みと言える。
ポンペイウスに再び軽侮されるかと思ったが、彼は何も言わずじっとこちらを見つめていた。
饗宴の後、俺たちは与えられた客室に案内された。窓から中庭が伺える広い部屋だった。
「入浴はなさいますか」
案内してくれた使用人が聞いてきたので答える。
「せっかくだがご遠慮する。湯を張った洗面器と数枚浴布をいただきたい」
「他にご入用な物はありますでしょうか、主人よりお客様の希望は可能な限り答えろと命じられております。何なりとお申し出ください」
「ふむ、ではポンペイウス様のご厚意に甘えよう。煙草と珈琲を頼む。コルシュ、中尉、お前たちも必要なものがあれば頼むといい」
コルシュは葡萄水を、ジャオジュンは固辞した。
しばらく部屋で憩うていると、中庭から声が聞こえてきた。
「なんだろう」コルシュが窓から外を見る「あっ、レスリングしている」
俺とジャオジュンも窓に近づき中庭を見る。整地された庭の中央で全裸のポンペイウスが男と組みあっていた。
相手は二十代か三十代の盛りの季節にあると見えたが、ポンペイウスの方が力は勝っているようで徐々に組み敷かれる。男の体勢が崩れたのを見ると、ポンペイウスは背後に回り込んで彼の関節を極めた。たまらず男は悲鳴を上げて降参する。
ポンペイウスが悠然と立ち上がる。俺はその様に息を呑んだ。体にはうっすらと脂肪がついていたが、その下に筋肉が発達していることは一目で分かった。俄に汗ばんだ老英雄の裸身は上半身と下半身の調和が取れ、篝火に照らされ美しい陰影を作り出している。
「一人ずつでは食後の運動にもならん。二人同時にかかってこい」
ポンペイウスが叫ぶ。居並んだ男達の中から二人が中央に歩み出て、ポンペイウスに対峙した。
俺たちは彼らの試合に目を奪われた、二人を相手にポンペイウスは優勢に立ち回っている。
「すごいねえ」
コルシュが感嘆の声を漏らす。
「俺たちに見せつけているのだろう。この部屋に案内されたもの、中庭が見下ろせるからに違いない」
ポンペイウスは自身の英雄ぶりを他人に見せつけることに余念がないようだ。あえて実力を隠すという思考は彼にはないらしい。
だが、それはそれで理解できる方針だ。自らの実力で他者を圧倒し続けるというのがポンペイウスの生きざまで、彼は実際にそれで地位を得てきたのだろう。
「中尉、ポンペイウスの戦いぶりはどうだ。貴官より強いか?」
何気なくジャオジュンに問いを投げかけたが、その答えは俺の予想を裏切った。
「レスリングでは敵わないでしょう、しかし、生還を度外視し暗殺しろというご命令があればあるいは可能かと」
俺はジャオジュンの顔を見つめた。
「そんな命令は出さんよ……今のところはだが」
再び中庭に目をやるとポンペイウスが対戦相手の一人の背中に膝を載せて制圧し、腕でもう一人の首を絞めていた。すでに七十を超えているというのに尋常ではない強さだ。
「なんか神話に出てきそう」
コルシュが呟く。俺はその言葉に納得する。なるほどポンペイウスは神話の人物か、的を射た評価だと思った。
その時、俺の脳裏に何か閃くものがあった。ある種の解決策なようなものが思い浮かんだ気がしたのだ。
しかし、俺は思考の糸を掴み損ねた。閃きは茫洋とし、暗闇に沈んでいった。
俺はいま自分が思いついたのは何だったのか、しばらく考えていた、神のごとく振舞うポンペイウスの姿を視界に入れながら……。
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