第15話 頭を持ち上げるカトブレパス 一
俺は二人の衛兵に先導され、窓ごとに陽光が差し込む皇宮の歩廊を歩いていた。機械のように無表情で一部の隙も見せない兵士に前後を挟まれて長い廊下を進む。調査内容を報告する捜査官というより刑場に連れていかれる囚人のようだなと思った。
俺はクラッススに面会したその足で、宮殿に向かいネロへの面会を申し込んだ。陳情者を処理する皇帝秘書は事前に俺のことについて情報共有していたようで、半時間ほどしてネロへのお目通りが叶った。
衛兵はネロの執務室の前で立ち止まり、扉を叩くと直立し叫ぶ。
「参謀本部所属作戦参謀中佐ハヤシヒデノリが拝謁を希望しております!」
数秒の沈黙の後、部屋の中にいた別の衛兵の手で扉が開かれた。彼は油断なく周囲を見渡し危険がないことを確かめると、俺が部屋にはいれるよう脇に引いた。俺は兵士たちの間を通って足を踏み入れる。
敬礼し、深々と頭を下げる。
「陛下の忠実な臣、ハヤシヒデノリであります。この度は小官如きにお時間を割いていただき恐懼の至りであります」
「そう固くならなくてもいい。かけてくれハヤシ中佐」
ネロは目を落としていた机の書類束から視線を外し微笑むと、部屋の中央の長椅子を示した。俺は浅く腰を掛けた。
「今日、私に面会を申し込んだ目的は調査に関する報告のためと聞いている。私としても何か進展があったか聞きたかったところだ」
俺は事前に整理していた調査内容をネロに報告する。ネロは顔色を変えずに聞いていたが、アフリカヌスが皇帝は縮小主義者だと言っていたという報告にはわずかに眉を動かした。俺は調査で知り得たことを細大漏らさず報告したが、ただ一点、俺がアフリカヌスに何かを託された件だけは黙っていた。それを報告することで俺の身が危うくなりはしないか、そんな不安があったからだ。アフリカヌスの真意が分からない以上、迂闊な真似はできない。
俺の報告を聞き終えると、ネロは目を瞑りこめかみに右手を当て黙り込んだ。
ネロが何も言わないので、仕方なくこちらから問う。
「陛下。ポンペイウス総督及びクラッスス氏の証言を真実とすると、小官は世間のアフリカヌス様の評価、つまりあのお方が陛下の最大の対抗者であったという評価に疑いを容れざるを得ません。アフリカヌス様の行動はむしろ陛下を利するものばかりです」一呼吸容れて覚悟を決める。「陛下とアフリカヌス様のご関係について、本当のところをお聞かせ願えないでしょうか?」
ネロは何かに祈るよう手を組み合わせると深々と溜息を吐いた。
「そうだな、これ以上貴官に隠し立てしても仕方あるまい。義兄、アフリカヌスは私の敵ではなかった。表向きはそう振舞っていたがな」
ああ、やはりか。俺は自分の推測が正しいことを半ば確信する。
「私は本来、兄上こそがルームの皇帝に相応しいと思っていたし、そうなるはずだった。しかし、兄上が帝国の運営方針をめぐり先帝と不仲になったことから私が帝位を継いだ。先帝が生きている間、私は彼の政策に疑義を呈したことはない。自分の基本政策を受け継ぐことを私に期待したのだろう。だが私も義兄と同じく拡張主義には内心疑問を抱いていた」
「アフリカヌス様は陛下が縮小主義者であることを仄めかされていたそうですが……事実そうなのですね?」
ネロは頷く。
「東方征服事業が上手く行き過ぎたのが問題の発端だ。軍人は最大の支配の中に最大の栄光があると考えるようになった。貴族はルームの権勢が世界の隅々まで至ることを夢見て、民衆は運ばれてくる富に驚喜している。だが、こんなことはいつまでも続けられない。国庫を圧迫する巨大な軍隊は、それでも広がりすぎた国境を守るにはまるで足りていない。それに弱敵はもうすべて平らげた。アフリカ南部、インド、ゲルマニア、モンゴル、残る敵はみな強大だ。彼らが内部の争いに決着をつけ帝国に反旗を翻せば、帝国は戦火に見舞われ有為な人材と貴重な国帑が塵芥のように消耗されるだろう。誰も彼も不都合な現実から目を逸らしているとしか思えない」
「しかし、陛下が帝国運営方針の転換を宣言すれば、帝国内部から反対の声が上がる……」
「その通りだ。高級軍人をはじめ、拡張主義こそ帝国の歩行原則だと思い込んでいる者たち。私が周辺諸国との和平と互恵的関係の構築を堂々と宣言できぬ理由だ。そのために兄上が政敵の役を買って出てくれたのだ。兄上は大した役者だった。みな私と兄上が反目しあっているものと信じていた……」
「帝国の実力者であるアフリカヌス様は陛下の意思に反し周辺国との和平を叫ぶ。陛下は強大な影響力を持つアフリカヌス様に譲歩ししぶしぶ帝国拡張政策を停止させる……。しかし、実際にはお二人は共謀して事に当たっていたというわけですね」
ネロは苦痛を忍ぶかのように顔をしかめて頷いた。
なるほど、ネロがアフリカヌスの死に殊更関心を寄せるわけだ。アフリカヌスの死は政敵の脱落という望外の幸運ではなく、彼にとって唯一無二の味方を失った痛切な悲劇なのだ。
しかし、そうすると一つの疑問が生じる。
「ですが陛下、そうすると一年前のゲルマニアの軍議の夜、あれはどう理解するべきでしょう? 陛下を罠にかけようとした真犯人が誰であれ、その目的はアフリカヌス様を帝位に就けることと思われたのですが、しかし、陛下のお話を伺えばアフリカヌス様にそのような野心があったとは思えません」
「うむ、その通りだ。兄上が帝位を狙うならいくらでも機会があったが、兄上は一心に私を支えてくれたし、あの夜に関して誰に何の指示も出していないと私に言明してくれた。あの夜に何が起こったのか確かなことは分からない。兄上が調査を請け負ってくれていたのだが、果たしてどこまで真相を掴んでいたのか、亡くなられた今となっては知りようがない」ネロは溜息を吐いた。「兄上が亡くなって改めて実感させられる、私は兄上に頼りっぱなしであった」
俺は改めて目の前の青年を見た。彼はこの先、帝国という巨大な構造物を独りで支えなければならない。果たしてそれが務まる器だろうか。
「私は」ネロがゆっくりと口を開く「やはり帝国の国歩を考えるならば、拡張主義は間違っているとしか思えない。しかし、意見を一にしてくれる味方は少ない。いや、兄上、それに相談役であった家庭教師が老衰で死んだ今となっては絶無と言っていい。兄上に盾になっていただいている間に徐々に理解者を増やすつもりだったのだが、もはやそれは叶わぬ。だが諦めるつもりもない」
ネロは身を乗り出して、俺を見つめた。
「成り行き上だが、貴官は私と兄上の真意を知った。貴官は信頼できる軍人だ、かつて帝国と私を救ってくれた。それにヤマト属州出身者故、ルーム人の複雑な党派や利害関係に捕らわれていない。どうか、これから私の味方となってこの微力な体を支えてくれないだろうか」
俺は床を蹴って勢いよく立ちあがった。
「身に余る信頼を与えてくださり光栄の至り。惟命是聴(ただめいにこれきく)。臣の忠誠の全てを陛下に捧げます」
敬礼する俺を眩しそうにネロは見上げている。そうだな、とりあえず忠誠を誓っておこうか。もっとも、俺はやがてヤマトに赴くのだ、どこかでネロとは関係を絶たねばならない。俺は忠臣のふりをしながら、目の前の青年との手の切り方を考える。
「よろしく頼む」
奇しくもネロはアフリカヌスと同じ言葉を俺に投げかけた。
俺は椅子に座りなおして、声を潜めてネロに告げた。
「しかし陛下。ポンペイウス総督とクラッスス氏がアフリカヌス様を殺害した線は薄いです。残る重要参考人は一人、いかがいたしましょう?」
ネロは黙り込んだ、眉間に皴が寄る。
「率直に申し上げますが、小官と小官の部下だけで太后殿下を尋問するのは臣下の上下を損なうものと言わざるを得ません」
「それは……その通りだ」
ネロは呻くように言った。
俺はこれ以上、何も言わない。ここから先はネロに決断してもらわねば困る。無用な責任を負いたくない。
ネロは重い沈黙ののち、口を開いた。
「母上……アグリッピナ太后への尋問は私が行う。貴官にも立ち会ってもらうが、あくまで私への助言役としてだ」
「かしこまりました。いつ尋問を行われますか」
「ちょうどいま、母上が皇宮を訪れている。後に伸ばしても気が重くなるだけでなんの意味もいない。すぐ行おう」ネロは控えている衛兵に目をやった「母上にネロが話があると伝えてくれ、すぐに部屋に向かうと」
衛兵が扉を開けて駆けていくのを見送ってから、ネロはゆっくりと立ち上がった。
「正直なところ、私は母上の考えていることがよく分からない。私の敵でないことを願いたいが……」
ネロの白皙の美顔がさらに青ざめたように見える。
俺は皇后の話を避け、気になっていたことを聞いた。
「陛下はポンペイウス総督の野望を聞いても顔色を変えませんでしたね。すでにご存じだったのですか?」
ネロは微笑む。
「共同統治者の地位を望む、などという言葉を直接聞いたことはない。だが、あの老人は分かりやすいのだ。自分の今の地位に満足していないことは、はっきり伝わってきていたよ。これ以上、何を望むのかと思ったが、貴官の報告を聞いてむしろ腑に落ちた思いだ」
「総督に対して何か処置を取りますか?」
「あの巨頭に対して、まだ権力の全てを掌握していない皇帝が何をできる? 共同統治権など与えれば政権が乗っ取られる。処罰を加えようとすれば弑されかねん。放っておくしかない」
この面会で分かったが、ネロは馬鹿ではない。視野は広く大局を見ている。だが皇帝としては何かが物足りない。
太后のいる部屋に向かうネロの背中を見つめながら、改めて、俺が心身を捧げるべき相手ではないと評価を定める。
それにしても、一年前の軍議の夜が、さらに不可解なものになってしまった。今となってはアルビウスがエンヴィルを利用して軍団の壊滅の謀ったという推論にも自信はない。俺があの夜成し遂げたこと、演じた役割とは一体何だったのだ?
エンヴィル、俺にとってアンタはますますの謎になった。できるなら直接話を聞きたいが、俺はまだ冥府に赴く気はない。生者しかいない地上世界で、アンタ達主従の真意を掴まなければ。
まずはアグリッピナ、それにアルビウス。どちらも俺より遥かに格上の政治的怪物。彼女たちから可能な限り情報を引き出さねばならない。幸い生者とは会話ができる。死者と違って、こちらを害しえるのが怖いところだが。
とりあえずアグリッピナの尋問に関してはネロに頑張ってもらおう。俺は息をひそめて二人の会話を見守るのだ。
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