第16話
頭を持ち上げるカトブレパス ニ
皇太后アグリッピナのいる部屋は宮殿上階の見晴らしのいい一室だった。大きく切り開かれた窓から溶かした碧玉のような空が広がるルーム市街が一望できる。狭い街区に芥粒のように人がひしめき合うのを彼女は眺めていた。その顔に表情はない。透明な眼差しがルームの蒼民に向けられている。
部屋に足を踏み入れたネロは、彼女から椅子を勧められるのを待って立ち尽くしていた。
ようやく、アグリッピナが俺たちに視線を向ける。
「私の許可なく椅子に腰を掛ける気はないのですね。その態度には感心できます。どうぞおかけなさい」
アグリッピナの部屋には寝椅子が二脚、卓をはさんで向かい合うように設置されていた。我々は寝そべるアグリッピナの面前に姿勢を正し座った。卓の上には香炉が置かれているが火の気配はない。いま鼻に香ってくる腐りかけの果実のような甘い匂いは香炉から立ち上がる残り香か、それとも目の前の嫣然たる女から発されているのか、判別は付かない。
それにしても好い女だ。こうして近い距離で向き合ってみると、改めて実感させられる。
目鼻立ち、眉の形がいいのはもちろんだが、少し厚めの唇に溢れんばかり美が宿っている。実に肉感的なのだが、どこか侵し難さも感じさせ、機能を失った俺の股座の物が疼くような気さえする。
「お寛ぎのところ申し訳ありません母上。二、三お聞きしたいことがあり参上いたしました」
アグリッピナは俺に目を向ける。
「ハヤシ中佐を伴っているということはアフリカヌスの件ですか」
ネロの指先が痙攣した。
「よくご存じですね。私が兄上の件で調査を行っていることを母上には告げていませんが……」
「そうでしたか? なら、どこかで伝え聞いたのでしょう。詮索は不要ですよ」
ネロは一瞬黙った後、切り出した。
「母上、正直に答えていただきたいのですが……兄上が亡くなる二カ月前、母上は兄上と面会していますね」
「そうですね、そのころ。アフリカヌスと会っているかと思います」
「そのことを母上は私に隠しておられたのですか」
「いえ? わざわざ言うまでのことではないと思っただけです」
「いったいどのような御用件だったのでしょう」
「特別な用件はありませんでした。アフリカヌスは私の義理の息子です。久しく会っていなかったので、顔を見たくなったから会いに行きました」
ネロは黙り込んで、自分の母親をじっと見つめた。アグリッピナは息子の眼差しを真っ向から受け止めて微笑を浮かべている。
「その程度の要件で、わざわざアフリカ属州まで母上が秘密裏に赴くはずがありません。それに面会時はお互い従者を交えなかったと。特別な話し合いがもたれたからこそ、従者を外したのではありませんか?」
「私は親族に会うことを軽い要件とは考えません。特に相手がアフリカヌスならばなおさらです。彼は帝国有数の大物でした。家族として情、そして政治家としての視察、ふたつの意味合いから私はアフリカヌスを訪問しました。家族同士の会合に部外者は不要です」
「どういったことを話されたのでしょう?」
「彼の家族や健康状態について話をしました。それからアフリカ属州の統治に関する話を聞き、また私からは首都ルームの様子や貴方の話をしました。あの頃彼は自分の体調に不安を覚えている様子はありませんでした。私もそれで安心したのですが、あんなことになってしまい大変残念です」
「母上がそこまで兄上のことを気にかけていたとは知りませんでした」ネロは指を組んで身を乗り出した。「アフリカヌス兄上に気を許すな、かつて母上は私にそういいました」
二人の視線がぶつかり合う、しかし気を張り詰めているのはネロだけだ。アグリッピナは一切の動揺を見せない。ネロの独り相撲の感がある。
「確かに言いました。しかし、それはルーム皇帝としての心構えを説いたのであって、母と息子にはまた別の関係性があります。貴方も私には心を許してください」
「ならば、母上も私に心を許していただきたい」ネロの語調は縋るようだった。「私は最初に言いました。正直に話してくださいと。ただの世間話で母上が兄上に会ったわけがない。どうか真実をお話しください」
「困った子ですね。私は本当のことしか話していない。我が子に隠しごとはしませんよ」
「母上、貴方の言葉は私に疑いを抱かせます」
「私は貴方を愛していますよ」
ネロは一瞬言葉に詰まった。
「……それが信じられればどんなにいいことか」
アグリッピナはつまらなそうに自分の爪を眺めた。
「ではどうするのでしょう、自白魔術でもかけるのでしょうか。皇帝には確かにその権限がありますね」
「御冗談はおやめください」
ネロは絞り出すように答える。
「失礼しました、ネロ陛下」
アグリッピナは微笑んだ……。
心中で溜息を吐く。これは駄目だ、どうにもならない。ネロは完全に母親に呑まれている。想定していた以上にこの母子の上下関係は強固らしい。これでは尋問が成立するはずもない。ネロの補佐役として何かアグリッピナに綻びを生じさせるような材料がないか脳内を浚うが何も思い浮かばなかった。彼女は自然体でありながら一部の隙も無いように見えた。
権力者に生まれついた人間、そんな印象を彼女に抱く。どこかアルビウスを彷彿とさせるが彼女より徹底して他者を見下ろしている。ネロよりよほど権威を感じさせる佇まいだ。
ネロは黙ってアグリッピナを見つめていた。あるいは、ここがこの調査の終着点なのかもしれない。ネロは母親に疑念を抱きつつ、それ以上踏み込めない。アフリカヌスは先と同じく病死として結論付けられる。それもいいだろう。帝国の平穏は保たれ、そして俺も晴れてヤマトへ帰還できるというものだ。むしろこれが望みえる最良の結末とさえ思える。
俺の心が僅かに弛緩したのを見計らったかのように、彼女は俺に視線を向けた。透明な眼差しに打たれ俺は固まる。先日の庭園を思い出す。
「ハヤシ中佐、ご苦労なことです。貴方もアフリカヌスの病死について、私を疑っているのですか?」
どう答えたものか、ネロに諮問されるよりよほど緊張を覚える。
「臣は調査内容を陛下にご報告申し上げただけです。特別アグリッピナ様を疑っているわけではありません。しかしながら、アグリッピナ様からお話を聞かずして真相に辿り着くことはできないと考えたのも事実であります」
「なるほど、それで納得しましたか?」
「……私の納得に価値はありません。陛下が納得なさるかが全てです」
「それは責任回避ですね」
アグリッピナの言うとおりだ。この回答ではネロの信頼も損ねるかもしれない。表と影の最高権力者に挟まれた俺は、仕方なしに一方へ偏る。
「ではこう換言します。陛下の納得が私の納得でもあります。見るところ陛下はアグリッピナ様の言葉に納得がいかない御様子。であれば私も納得したとは言えません」隣に座るネロの肩が一度小さく跳ねた「臣、いえ、小官はアグリッピナ様に真実を話していただくことを望みます」
参謀本部やネロ、アグリッピナと俺の立ち位置を考えれば、ここでネロを切り捨てアグリッピナにつくわけにはいかない。少なくとも今この場ではネロの忠臣として振る舞いアグリッピナに対立する。もし彼女に再会する機会があれば、土下座でもして非礼を詫びよう。
俺の言葉にアグリッピナは微笑んだ。
「大した忠勤ぶりです。これからもその調子でネロを支えてくださいね」
面の皮の厚い女だ、内心では反感を覚えたのに違いあるまいに。
「では、見どころのあるハヤシ中佐に情報を提供しましょう」
情報提供……、俺は会話の雲行きが怪しくなるのを感じた。
「アフリカヌスが病死ではなく殺されたという噂の源はドルッシラです」
「それは……確かにあり得る話ですが、根拠はおありですか?」
「私がこの耳で、彼女が宮殿で会った高官にその話をしているを聞きました」
「アグリッピナ様はどういう対応を為されたのですか?」
「放っておきました。私が彼女の口を塞ごうとするとかえって噂に信憑性が加わると思ったのです。彼女も夫を失って冷静さを失っているだけ。落ち着けばそんな推測を周囲に吹き込むこともなくなると思っておりました」
「ですが、そうはならなかったと?」
「はい、彼女は先ほどまで宮殿を訪れていたのですが、相変わらず夫が殺されたと信じているようです。彼女が一番怪しいと睨んでいる人物はネロです。これは大変な不敬です、いままで見逃してきましたが、これ以上は看過できません」
アグリッピナは遠くを見つめた。
「彼女は何か根拠を持っているのでしょうか、それともただの憶測なのでしょうか。それは私には分からない。折角ですし、貴方から問い詰めてどうですか中佐。太后と皇帝が許可しますよ」
「私は何も言っていませんが……」
ネロが弱弱しく口を開く。
「でも同意するでしょう?」
アグリッピナの口調は有無を言わせない圧力に満ちていた。
「中佐、ドルッシラはアフリカ属州への帰途にあります。今から追えば彼女の馬車が港に辿り着く前に接触できるでしょう。属州では彼女は保護されていますからね。話を伺いたいなら、すぐに発ちなさい」
露骨に操作されている。だが、拒絶するには理由もない。俺はネロを横目で伺うと、彼は小さく頷いた。俺たちは立ち上がる。
「母上、大変参考になりました。失礼します」
ネロは一揖すると母親に背を向けた。
ネロが部屋を出て、俺もその後を追おうとした時だった。背後から声がかかる。
「ハヤシ中佐」
アグリッピナが俺を手招きしている。俺はアグリッピナの近くに寄った。
「なんでしょうか、アグリッピナ様」
彼女の視線はこちらを伺う息子に向けられている。彼女は俺の耳に口を寄せ、小声で囁いた。
「あれは皇帝としての威厳がまるで足りていませんね」
「そのようなことは……」
「彼には実物教育が必要です。よもや経験を教訓にできないほど愚物ではないと信じています。そうすれば、帝国の深部に潜む恐ろしい者達とも張り合えるようになるでしょう」
「ポンペイウスやクラッススのような?」
「いえ、彼らは半分引退しているようなものですから。私が言っているのはクラウディウスのような奴輩のことです」
「クラウディウス元帥?」
アグリッピナは俺から離れると、不思議な笑みを浮かべた。妖艶さではなく、なにか別方向の美が宿る。
「よろしく頼みます」
俺は心臓を掴まれて立ち尽くす。
「……いま、何と仰いましたか?」
「さようなら」
アグリッピナはもう俺に用はないとばかりに手を振った。この態度では俺が何を問うたところで答えてくれるはずもない。
俺は敬礼し引き下がった。
部屋を出て扉を閉めると、俺はネロと顔を見合わせた。
「母上は貴官に何を言ったのだ?」
「はい、陛下には教育が必要だと……。クラウディウス元帥のような者たちに対抗できるように」
「私はまず母上に対抗できる力が欲しいのだが」
ネロは力のない笑みを浮かべた。
「いまの会見を見ていれば分かっただろう。私は母上には強く出れぬ。彼女は私より老練な政治家で、有力者と関係を構築している。どちらが最高権力者か分かったものではない」
「ルーム帝国の最高権力者はネロ陛下であります、お気を強くお持ちください」
「それはそうなのだがな。私が最も困っているのは母上の真意が一向に見えぬことだ。彼女は私の実母だが、私を愛しているのかも疑わしい。彼女の狙いはどこにあるのだろう」
「陛下」俺は一歩下がりながら答える。「臣は属州出の一介の佐官であります。陛下のご命令は謹んで拝承いたしますが、心の内を語る相手としては不足があろうかと。申し訳ありませんが、ご理解ください」
「そうだな。すまなかった」
ネロは寂しそうに笑った。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。