第17話 頭を持ち上げるカトブレパス 三
ドルッシラは首都ルームに近いオスティア港ではなく、半島最南端のタレントゥムに向かっていると聞いた。そこで一泊した翌日に地中海に浮かぶシキリア島に上陸し、船を乗り継いでアフリカ属州に戻る道程とのことだった。
俺とコルシュ、ジャオジュン、アプレイウスは参謀本部で軍用馬を借り受け、半島を縦断するアッピウス街道を南下する。太陽は西方の森の奥に没しつつあり、残照に照らされる水道橋が黄金に輝き、巨大な影を地面に落としていた。
貴人を乗せた馬車はそれほど早く走らない。こちらが全速力で走らなくても、やがて姿が見えてくるだろうと予想していた通り、街道の行程の中ほどに位置するアクイラ地方で皇室の紋章を刻んだ二頭立ての馬車が見えてきた、前後左右を挟むように四騎の騎兵が護衛している。
俺たちは若干手綱を緩めて、ゆっくりと馬車に近寄る。俺たちに近い馬車後方の騎兵が振り返る。彼は片手を上げながら叫んだ。
「それ以上近づくな! この馬車には貴顕が乗っておられる。急いでいるのなら街道脇を抜けていくがいい」
俺は銀時計と命令書を高く掲げる。
「参謀本部所属ハヤシヒデノリ中佐だ。皇帝陛下の命によりドルッシラ様宛に伝言を預かってきた。不躾な仕儀と心得るが、お目通り願いたい」
騎兵たちが集まり言葉を交わす、逆光で彼らの表情は窺えない。
やがて一騎が俺たちの方に近づいてきた。
「銀時計と書簡を改めさせていただきたい」
俺は下馬して銀時計と書簡を馬上の兵士に渡した。彼はじっくりとそれを検分したあと返してきた。
「中佐。小官はドルッシラ様の護衛を務めておりますガビニウス中尉であります。命令書、銀時計ともに本物かと思われますが、私からはなんと返答するべきか分かりません」
「貴官の立場は理解できる」俺は頷き、助け舟を出す。「実は私はドルッシラ様と面識があるのだ。ハヤシ中佐が来ていると伝えてもらえれば話は早いと思う」
ガビニウスは馬車に寄り窓越しに何かを話しかける、しばらくして先ほどより少し表情を柔らかくして戻ってきた。
「馬車で移動しながら話を聞くとおっしゃっています。ハヤシ中佐とコルシュ上等兵の同乗を許すそうですのでこちらへどうぞ」
俺とコルシュは馬車に招かれた。俺たちが乗り込むと、馬車は再び動き始める。
「ハヤシ中佐、妙なところで再び会いましたね」
ドルッシラの態度はあからさまではないが若干の警戒を感じさせるものだった。
「この度は急な面会をお許しいただき恐悦至極」
「お久しぶりですドルッシラ様。カリグラは元気ですか」
「コルシュ」ドルッシラは柔らかく微笑む。「貴方のおかげで私もカリグラも元気を取り戻しました。息子はどこか頑ななところがありますが、貴方とは相性がいいようです。どうです、カリグラの従者になりませんか?」
俺は二人の会話に割って入った。
「コルシュは小官の従卒です。ドルッシラ様のご希望といえどもそれにはお応え出来かねます」
ドルッシラはくすくすと笑った。
「冗談ですハヤシ中佐。貴方もそんな焦った声を出すのですね」
俺は憮然とした。自分の声調が焦燥感を漂わせるようなものになっていた自覚はなかったが、彼女にそう聞こえたのなら、実際そうだったのかもしれない。
「ハヤシ中佐。僕、いえ私もハヤシ中佐以外にお仕えする気はありません」
コルシュもドルッシラに釣られたように笑う
「……結構。大いに結構」
俺は威儀を正してドルッシラを見つめた。
しかし、どう切り出したものか。彼女がネロの派閥を疑っているなら、俺がネロやアグリッピナの示唆に従い、話を聞きに来たと明かしても、彼女の口は堅くなるばかりだろう。
しばらく考えようやく選んだ俺の言葉は、随分迂遠なものだった。
「小官はアフリカヌス様に何か期待されていたようです」
「どういうことです?」
ドルッシラが疑わしげな表情を浮かべた。
「アフリカヌス様の死について調査している最中クラッスス氏に話を伺う機会があったのですが、彼はアフリカヌス様に小官への伝言を頼まれていたようなのです。その伝言が、よろしく頼む、でした」
ドルッシラはこちらにじっと視線を注ぐ。
「これはドルッシラ様の信用を得るための嘘ではありません。クラッスス氏に確かめていいただければはっきりします。あるいはクラッスス氏が嘘をついている恐れもありますが、彼にその理由があるとは思われないのです」俺は溜息を吐いた。「正直に申し上げて、訳が分かりません。アフリカヌス様は生前から小官について知っていたようですが、ご自分が死に、またその調査を小官が担当することを予期していたとでもいうのでしょうか。そんな馬鹿な」俺はドルッシラの視線を受け止める。「あるいは、何か異なる用件で小官はアフリカヌス様に係る予定だったのでしょうか。ドルッシラ様はアフリカヌス様に一番近い人物だったはずです。何かご意見はありますか」
「よろしく頼む、ですか」ドルッシラは呟くように言った。「その言葉を一時期よく聞きました。エンヴィル中佐がアフリカにいたころ、アフリカヌス様は彼女にその言葉を投げていました」
「エンヴィル中佐ですか……」
「貴方が何を頼まれたのか、私にも見当は付きません。ですが頼まれたからには貴方にはそれに応える義務があると思う」
「依頼自体が判然としないのですが」
俺は苦笑いを浮かべる。彼女は笑わない。
「貴方がアフリカヌス様の期待通りの人物であれば、いずれそれも理解できるはずです」
不意に寒気を覚えた。今は亡きアフリカヌスの視線が俺に注がれているのを肌に感じる。彼の目は俺に何事か訴えかけていた。
「ドルッシラ様はアフリカヌス様が殺害されたと疑っておられるのですか」
俺は本題を切り出す。ドルッシラの表情は硬くなった。
「誰からその話を聞いたのですか?」
「アグリッピナ様からです」
「アグリッピナ……」ドルッシラの目に俄に憎悪が宿るのを俺は見た。「どんなつもりでそんなことを」
ドルッシラは黙り込み、車輪が石畳を転がる音だけが室内に響く。
彼女は口を開く気が失せたようだった。彼女の顔色を見れば更なる情報を引き出すことに非常な困難を伴うことぐらい分かる。さて、どうするべきか、取るべき方策が分からず俺も黙るしかなかった。
しばらくして、馬車が速度を落としたように感じた。最初は錯覚かと思ったが、ゆっくりとだが着実に停止に近づいている。
「どうした?」
俺は窓を開け、随行するガビニウスに声をかけた。
「前方に一個小隊が簡易柵を設けています。検問のようです」
やがて馬車が完全に止まったので俺はコルシュとアグリッピナを残して路面に降りた。道の両脇が森に挟まれた、見通しの悪い場所だった。
ガビニウスの言うとおり完全武装のルームの正規兵が検問を実施していた。ガビニウスは小隊の代表者と何やら話している。俺も銀時計を示しながら彼らに近づく。
「何があった」
軍曹の階級章の兵士がこちらに敬礼を送ってくる。
「首都駐留第二軍団イタリカのカッシアニウス軍曹であります。お手を煩わせて申し訳ありません。すぐに柵をどかします」
ガビニウスは彼らの作業を見守りながら苦い顔で言った。
「脱走兵だそうです」
「脱走?」
「ええ、お恥ずかしながら」
カッシアニウスが俺の問いに答える。
「その兵士はなんでまた脱走なんてしたんだ? 軍隊生活に耐えられなかったのか」
「首都の父親が危篤だと連絡があったのです。しかしながら危篤では休暇の許可は下りません、葬儀であれば認められるのですが……。その兵士は父親の死に目に立ち会うため脱走したのです」
「なるほど、同情はできる理由だ」
「しかし軍規ですから」
「うむ、その通りだ」
俺は頷いた。俺の顔を見つめるカッシアニウスに何かを閃いた表情が兆す。
「失礼ですが、ハヤシ中佐でしょうか」
「ああ、そうだが」
俺は答えながら剣を刀身の半ばまで引き抜いているカッシアニウスの右手首をハマルティアで切断した。呆気に取られるガビニウスの首に小隊の別の兵士の剣が突き立てられる。俺は未だ命のあるカッシアニウスと距離を取ろうと一歩後ずさる。それを追って二人の兵士が殺到してきたがそのうちの一人の顔面に拳が突き刺さりもう一人の腹に鎧を貫通して膝が撃ち込まれている。一呼吸の内の距離を詰めたジャオジュンが二人の兵士を一撃のもとに絶命させていた。
「襲撃だ! 護衛兵は馬車を守れ!」
「殺せ! 一人も逃すな!」
俺とカッシアニウスの叫びが樹間に響き渡る。
夕闇の中、白刃の煌めく乱戦が始まった。
精強なルーム正規兵と比べてもジャオジュンの技量は隔絶していた。俺は前衛をジャオジュンに任せ、後方に下がる。敵は一個小隊だけとは思われない。予想通り更に五名の兵士が森から現れ、俺たちの退路を塞いだ。
俺とアプレイウス、馭者を務めていた兵士と残りの三人の衛士がその前に立つ。
「お前らは四人で三人殺せ、残る二人は俺が始末する」
俺はハマルティアを構え敵兵に対峙した。
殺し合いか、全く恐ろしい限りだ、胃がむかつき吐き気を覚える。命のやり取りの緊張感に耐えられぬ普段の自分を捨てて、戦うための人格に切り替えなくてはならない。俺はそのための一種の儀式を持っている。
俺は微かな声でハンの兵法書の一節を吟じた。
「乃ち知る兵なる者は是れ凶器。聖人は己むを得ずして之を用ふるを」
……そして忘我の時が訪れる。
俺は荒い息を吐いて喘いだ。俺の前に斬殺された兵士の死体が二つ転がっている。
「お怪我はありませんか中佐」
アプレイウスが近づいてくる。
周囲を見渡せば先方の小隊はジャオジュンに制圧され、護衛兵はガビニウスの他に一人殺されたが、三人の敵を撃退できていた。
「中佐は剣の腕前も見事ですね」
「……剣など匹夫の業だ。俺の仕事は頭脳労働だぞ」
俺は通常の自分を取りもどし、呼吸を整えると吐き捨てるように答えた。
倒れている死体を見ると一人は兜ごと頭を両断されていた。手元のハマルティアを見れば血に濡れているが刃こぼれ一つない。大した剛剣だ。ヤマト刀でこんな真似をすれば刀身が折れていたかもしれぬ。ポンペイウスに感謝しなければならない。
馬車の扉が開き、コルシュとドルッシラが下りてきた。俺はまだ馬車の中に留まっているよう声を掛けようとした。しかし、それより早く護衛兵に倒されたはずの兵士が血を流しながら裂帛の叫び声をあげると剣を振りかぶりドルッシラに飛び掛かった。驚愕し動けないドルッシラの前に立ちふさがる影がある。俺は魂が凍った。コルシュが兵士の前に両腕を広げてドルッシラを庇っていた。
俺が突貫する兵士に後ろから切りかかる前に小さな風切り音がし兵士は倒れた。その首元に小刀が突き刺さっている。振り返ればアプレイウスが小刀を投げた姿勢のまま固まっていた。
俺はコルシュに駆け寄り、彼の体を確かめた。
「コルシュ! コルシュ! 怪我はないか!」
「大丈夫。でももう駄目かと思った」
コルシュはぎこちない笑みを浮かべる。
俺は安堵のため息を吐き、アプレイウスに向き直った。
「大尉、礼を言う。本心からのな」
「お役に立てたなら幸いです」
アプレイウスもどこか放心したような表情をしていた。
「これは一体、どういうことですか中佐」
ドルッシラの顔は青ざめていた。
「襲撃です。それもルーム正規兵による。おそらくドルッシラ様が標的かと」
「襲撃……ルームの本土で……そんな」
引きつった顔のドルッシラは両腕で自分の体をかき抱いた。
「中佐」ジャオジュンが兵士を一人引きずりながら歩いてきた。「カッシアニウスです、殺していません、気絶しているだけです。止血は施しましたが傷が深いのでそう長くはないでしょう。しかし、自白魔術を掛ける時間はあるかと」
「気が利くな中尉。アプレイウス頼む」
アプレイウスは跪くと、呪文を詠唱しながらカッシアニウスの頭に右手を当てた。手のひらから蒼白い火花が散り魔術的な措置が施される。ときたま痙攣するカッシアニウスの横で、ジャオジュンが膝をついた。
「中尉、大丈夫か」
「はい、中佐。問題ありません」
ジャオジュンの顔には疲労の陰が濃い。
「問題がないようには見えんが……部下の体調を把握するのも上官の務めだ。正直なところを話せ」
「はっ。小官がハンにて習得した秘術は気力体力を消費し短時間ながら爆発的な戦闘能力を引き出すものです。しかし、それを行使したあとはこのように一気に疲労が押し寄せます」
俺は納得した。なんの不利益も被らずあのような力を振るえるなら、ハンがルームに征服されるはずもない。
「であるならば少し休め。周囲に敵影は見えない。しばらくは安全であろうよ」
「ご配慮感謝します」
彼女も流石にこれ以上の無理はできないようだった。
俺は自白魔術が施される光景に視線を戻す。カッシアニウスよ、お前にはお前の事情があったであろうことは認める。であるならばそれを話してもらおうではないか。
五分ほどしてアプレイウスが汗を拭った。
「施術完了しました。被術者は既に大量の血液を失い瀕死です。自白魔術の負荷にそう長くは耐えられないでしょう。質問は重要なものだけにした方がよろしいかと」
「分かった、起きろカッシアニウス」
俺が体を揺さぶるとカッシアニウスは目を開いた。その視線はどこにも焦点が合っていない。俺はエンヴィルを思い出しおぞましさを覚えたが、それを無視して問う。
「貴様は第二軍団イタリカに属するカッシアニウス軍曹で間違いないか」
「間違いない……」
生気のない平板な語調で回答が返ってくる。やはり変装などではなくルームの正規兵だ。
「首都ルームから発ち俺たちを先回りして検問所を設けたのか」
「そうだ……」
「貴様らの目的はなんだ」
「ど、ドルッシラの殺害」
まあ、そうだろうな。俺は予期していた答えを得て、むしろ気分が落ち着いた。しかし、続くカッシアニウスの言葉が再び俺の心臓を凍り付かせた。
「そして、参謀本部所属ハヤシヒデノリ中佐の殺害……」
「な、なんだと……」
俺は動揺を殺すため拳を強く握りしめた。爪が皮膚に刺さる感覚が俺の正気を保たせる。
「誰がそれを命じた」
「軍団の大佐を通して……アグリッピナ様から命令された……」
「いや、待て、それはおかしい!」
俺は思わず大声を出していた。
仮に命令の大本がアグリッピナだとしても、それを末端の実行犯に知らせる理由がない。俺は偽情報を掴まされようとしているのか、それとも、あえて黒幕を明かすことで俺に圧力を加える気なのか。
俺は頭を振った。命を脅かされている恐怖のせいか脳が十全に働かない。
「中佐、予想より脳髄への損害が大きいようです。次が最後の質問だと思ってください」
アプレイウスはカッシアニウスの目を覗き込みながら言った。
最後に何を聞くべきか、必死に考えを巡らせる。何を最優先に考える? 決まっている、自分の命だ!
「他に俺を殺すために部隊は差遣されているか!?」
「いや、俺たちだけだ……」
取り合えず火急の危機は迫っていないようだ。俺は少しだけ平静を取り戻す。
カッシアニウスの目が裏返った。
「死にました」
アプレイウスが脈を確かめながら言った。
俺は立ち尽くし天を仰いだ。
なぜ俺が狙われている? ドルッシラなら分かる。彼女は皇帝を毒殺犯扱いしたのだ。アグリッピナから刺客を派遣されても、本来取るべき手続きを大幅に省略した暴力的な手段であるが、まだ理解できる範疇だ。しかし俺が何をしたというのだ。
アグリッピナが首謀者なら行動は迅速を極めたはずだ。俺達が参謀本部により馬を借りる間に、自分の言いなりになる兵士に命令を下し街道を先回りさせた。ならば決断を迷っている時間などない、彼女はあの会見の最中には俺の殺害命令を出すことを決意していたに違いない。しかし、あの会見で俺はアグリッピナに命を狙われるようなことを言っただろうか。確かにネロ寄りの発言をしたがまさかそれだけで?
俺は痛烈な喉の渇きを覚えた。
「珈琲が欲しい……それに煙草も」
独り言をつぶやく俺に近づく影があった。
「どうやら私は貴方に命を救われたようですね」ドルッシラが俺の手を取る。「ありがとうございます。私が死ねばカリグラは一人になる」
「お褒めの言葉をいただき光栄です。どうやら彼らはドルッシラ様のみならず小官の命も狙っていたようですがね」
アフリカヌスに係る調査は俺の身に対する直接的な脅威とはならないはずだったのに、どこで何を間違ったんだ?
「そこに倒れている兵士はアグリッピナの命令だと自白しました。それは正しいのでしょうか中佐?」
「どうでしょうか、普通に考えれば実行犯に黒幕の名は教えないはずですが……。正直、小官も判断に迷っております」
「私はアフリカヌス様が毒殺されたと思っています」ドルッシラは何かの決意を秘めた顔で告げた。「その理由はアグリッピナです。彼女はアフリカヌス様の葬儀で宮殿を訪れた私にこう言いました。息子にアフリカヌスのような不自然な死に方をさせたくなければ教育には気を配りなさい、と」
「それは確かに不信感を抱かせる言葉ですね」
「それだけではありません。アフリカヌスの死は神君アウグストゥス、あるいはその地上の代行者が引き起こしたものだと言った」
俺は何も言えない。不用意な一言は命取りになる。
「私はカリグラを守るためにアフリカヌス様と親交のあった政府の高官や将軍に味方になってくださるよう頼んでおりました。それがアグリッピナには気に入らなかったのかもしれません」
「とにかく」俺は話を変えることにした。「まずはドルッシラ様の安全確保が最優先です。どこかに信頼のおける味方はいますか?」
「タレントゥムまで行けば第三軍団の兵士と合流できます」
「ではそこまで護衛します」
俺は生き残りの二人の護衛兵に死体を森に隠すように伝えた。今回の事件が発覚すればネロの派閥とアフリカヌスの派閥で大事になる。俺の方針が定まるまでは事態の発覚を遅らせたい。
護衛には後始末が終わり次第追ってくるように命令し、俺達はタレントゥムまで駆けた。
日が完全に沈んだ頃、タレントゥムの第三軍団が待機している兵舎に着いた。ドルッシラを彼らに引き渡す前に声を潜めて忠告する。
「ドルッシラ様、太后が今回の事件を引き起こした証拠はありません。兵士は偽情報を吹き込まされていたのかもしれませんし、例え事実であったとしても、自白魔術に証拠能力がないことはご存じのとおりです」
「ではどうしろと?」
「この件、小官に任せてくださいませんか? 私も命を狙われている以上、何か手を打たなければならない立場です」
ドルッシラはこちらをじっと見つめた後、ふっと微笑んだ。
「貴方を信じるほかないようです。事件が解決を見るまで、私とカリグラはアフリカ属州から出ません。あそこなら我々親子は安全でしょうから」
「ご信頼いただき光栄です。では失礼いたします」
ドルッシラと別れた俺たちは、夜陰に身を隠しルームに戻ることにした。自分の命を守るために有力者に庇護を求めなければならない。その対象はネロではなかった。相手がアグリッピナでは彼は役に立たないかもしれない、俺が助けを求める相手は参謀総長クラウディウス元帥だ。人臣位を極め帝国最高知性と呼ばれる彼ならばきっと俺を守ってくれる。
暗闇の街道を月あかりを頼みにかけていると、アプレイウスが馬を寄せてきた。
「中佐は犯人について、どうお考えですか?」
「決まってるだろうが。十中八九、アグリッピナが首謀者だ」
ドルッシラには犯人は確定していないといったが、それは彼女の行動を牽制するための嘘に過ぎない。もしドルッシラだけが殺害の対象であれば必ずしもアグリッピナが犯人とは限らなかったが、この街道で俺を殺害する命令を下したのであれば、ドルッシラを追うよう俺に示唆したアグリッピナが首謀者である可能性が極めて高い。問題は犯人は誰かではなく、その意図は何か、だ。
「考える能力を失ってはおられないようで安心しました」
アプレイウスが離れていく。先の会話から俺が正常な思考能力を失っていないか不安に思ったのだろう。俺はその危惧を侮辱とは思わなかった。帝国の裏の最高権力者に命を狙われている恐怖は俺を恐慌寸前まで追い込んでいる。
どうにかしなければ、俺は身を焦がす焦燥感のまま首都ルームに向かって馬を駆けさせた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。