第30話 悪意の渦
キャンパスの掲示板の前に、ざわめく人だかりができていた。
「うそやろ……ほんに、ここまでやるん?あん人ら……」
人だかりの最前列で、掲示されている紙を見た広原が、愕然とした表情で肩を落とす。
その時、メッセージ着信があり、すかさずスマホを取り出し、内容を確認すると、目を見開いて顔をこわばらせた。
【お前この間、学食で見てただろ?】
【余計な真似するんじゃねえぞ】
顔を上げて辺りを見渡すと、並木道のベンチに腰をかける三人の姿を確認した。
【いいか、お前の心がけ次第だからな】
【へんな気おこしたら、あの動画】
【お顔、まる出しにしちゃうよ♡】
【ご両親や部活の人が見たら、どう思うかな?】
広原は震える手で鞄にスマホを投げ込むと、慌てて振り返った。
その時……
「……あっ!」
「……ごめんなさい」
後ろにいる杏奈とぶつかってしまった。
咄嗟に謝罪した杏奈と目が合う広原。
昨日見た一部始終を思い出し、目を合わせたまま口元が震える。
「……あ、あの……あの」
その時、杏奈の肩越しに見えるベンチの三人が立ち上がった。
「……ごめんなさい……」
広原は深く頭を下げて駆け出した。
杏奈は首を傾げて見送ると、掲示板に目を向けて驚愕する。
「……なんね?……それ」
学籍番号 S26ー0328
河瀬清彦
上記の者を
無期限謹慎処分とする
杏奈の思考が停止してしまう。
周囲のざわつく声は耳に届かない。
その場に立ち尽くしたまま、ただ紙を見つめることしか出来なかった。
「なんで?……なんで、河瀬くんが?」
その時突然、背後で誰かが囁いた声が耳に飛び込んで来る。
「あの動画、ほんとだったんだ」
「優しそうだったのに、人は見かけによらないんだね」
「恐喝って、やばくない?」
「しかも土下座までさせたんでしょ」
杏奈は、はっと振り返った。
「……あの、その話、どういうことですか?」
声をかけられた学生たちは、一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、そのうちの一人が、すぐにスマホを差し出してくる。
「え、知らないの? 今、相当拡散されてるよ」
画面の中央に、悪意に満ちた見出しが躍っていた。
【脳筋体育会系 恫喝、土下座強要、恐喝】
杏奈の呼吸が、止まる。
「……これは、違うけえ」
学生のスマホから視線を戻した杏奈は、無言のまま駆け出した。
その背中を目で追う三人。
「あの方向は……学生課かな?」
「無駄な努力乙」
「なあ、早く行っちゃおうよ」
「なんなら尾ける?……そっからさ……」
「バーカ、それじゃマジもんの犯罪じゃん」
「時間の問題だよ」
「ゆっくり、じっくり追い詰めちゃおうぜ」
遠ざかる杏奈の背中を見つめたまま、また顔をにやつかせていた。
学生課の窓口に駆け込んだ杏奈が、カウンター越しに身を乗り出すようにして訴えていた。
「あの動画は間違いです!」
声が思っていたより大きく響く。
周囲の視線が一瞬だけ集まったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「あの人たちに腕を掴まれた私を、河瀬くんが助けてくれたんです!」
職員は困ったように眉を寄せ、手元の書類に目を落とした。
「でも、君は映ってないよね」
「それは編集されてるからです」
「河瀬くんの言葉も途中で切り取られてます」
「あんなの、全部じゃありません」
職員は小さく頷いた。
「確かにこの件については、当時学食にいた一部の学生からも、同じような証言が何件か出ている」
「それだったら……!」
だが、次の言葉は冷たかった。
「でもね、動画は可視化できる証拠なんだよ」
「しかも、すでにかなり拡散されている」
その一言で、胸の奥が痛む。
職員は、さらに言いにくそうに続けた。
「しかも、テレビでも取り上げられるらしい」
「そんな……」
杏奈の声がかすれる。
職員は事務的な口調に戻った。
「君の証言は、きちんと聞いた」
「こちらでも記録する」
「だけど、現時点では、厳正に調査するとしか言えない」
杏奈は、声を震わせることしかできない。
「じゃあ、河瀬くんは、このままなんですか?」
杏奈は唇を噛みしめたまま、窓口の前に立ち尽くしていた。
たった一つの切り取られた映像が、もう学内だけの話ではなくなり、大きな悪意の渦となって、河瀬を飲み込もうとしている。
弓道場の張り詰めた空気の中、乾いた弦音(つるね)が、やけに鋭く響く。
主将の久島了(りょう)は、腕を組んだまま、どこか苛立ちを含んだ目で、射場を見つめていた。
傍らにいた女子主将の安積ゆかが、ふと視線を外し道場の玄関の方を見ると、久島に声をかける。
「了、お客さんみたいよ」
その一言で、久島の視線が道場の入り口に立つ杏奈の姿を捉えた。
不安気ではあるが、まっすぐにこちらを見ている。
久島は一瞬だけ目を細めた。
「……君は」
杏奈は弓道場の和室に通される。
大量の弓が束ねられ、木製の四角い筒に沢山の矢が差し込まれていた。
小さなプラスチックの棚の、透明な引き出しの向こうには、消耗品の予備が整頓されていた。
杏奈は正座のまま、深く頭を下げる。
「申し訳、ありませんでした」
向かいに座る久島は、静かに首を振った。
「君が悪いんじゃないよ、もちろん河瀬も」
「こっちにも、一部始終を見ていたという話は来ているさ」
その落ち着いた声に、杏奈は顔を上げきれないまま、言葉を絞り出した。
「私が……素直に、あの人たちについていってれば……」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
その言葉を、安積がぴしゃりと遮り、真っ直ぐな視線で見据える。
「ああいう奴らが、女の子囲んで、酒飲んで終わりのはずないでしょう?」
「あんた、本当に危なかったんだからね」
言葉を失ったまま、視線を落とすと、久島が静かに口を開いた。
「ああ、河瀬はよくやったよ」
「しっかり君を守ったんだ」
武道家らしく、その一言には一切の迷いはない。
しかし、杏奈は膝の上で固く拳を握り込む。
「なのに処分されるなんて……納得出来ません」
杏奈の目は潤み、声が震える。
久島は一瞬だけ視線を伏せ、それから淡々と告げた。
「ここだけの話だが、実際の所は、除籍処分前提の謹慎だそうだ」
杏奈の目が見開かれ、息を詰まらせたまま言葉を絞り出した。
「……本当ですか? もし……そんなことになったら……」
久島は、迷いなく言った。
「われわれ弓道部は、六星の中でもスポーツ推薦枠のある最強化団体の一つだ」
「過去に何度も、全日本やインカレで優勝している」
その言葉には、誇りと同時に背負っているものの重さが滲み出ていた。
安積が静かに続ける。
「OB会も、それなりに大学に対して影響力があってね」
「そっちにも、もう根回しは済んでるの」
杏奈の目がわずかに見開かれる。
安積は、はっきりと言った。
「大学に対して、ある条件をつけることも含めて、OBの皆さんも理解してくれてる」
「条件……ですか?」
杏奈の声は、かすかに震えていた。
久島が続きを引き取り、話し始めた。
「もしもこのまま、何の事実確認もせず、世論の言いなりのまま、河瀬を除籍処分にするなら」
久島は一度だけ目を閉じ、そして言い切る。
「弓道部を、解散する」
その言葉は、杏奈の胸を貫いた。
安積の顔を見ても、一切の迷いがない。
「俺たちは全員、推薦組だ」
「当然部がなくなれば、みんな退学になる」
「その覚悟を決めているんだ」
その事実を、淡々と口にする姿は一切の疑いを抱いていない、と確信するには充分だった。
「……そこまでして、ですか?」
安積もまた、揺るがない言葉で答えた。
「そこまで河瀬を信用してるのよ」
「それにね、強い味方も動いてるから、安心してね」
「……強い味方、ですか?」
安積が穏やかな顔で微笑み、ウィンクする。
「あたしの、友達いや、弟子かな?」
久島も、腕組みをして頷いた。
「六星で、一番敵に回しちゃいけない奴」
「最強の法律家だよ」
それでも、杏奈の不安は拭えない。
「でも、報道されたら終わり」
「世論の圧力が、一気にかかるんじゃないですか?」
久島が頭を抱えた。
「確かに、今の世の中、体育会系への風当たりは厳しいからね」
「だけど、希望は捨てないでくれ」
安積も杏奈に近寄り、その手を取った。
「こんな事が、まかり通るはずないんだよ」
「いや……通しちゃいけない」
「だから、あたしらは絶対に負けないから、あなたも気を強く持って」
「……間違っても、河瀬の為にって、あいつらの所に行ったりしないでね」
「それだけは、絶対に河瀬は望まないことだかんね!」
その安積の言葉に対して、涙を流すしかない杏奈だった。
学生会館へ戻る途中、キャンパスの一角が妙に騒がしかった。
人だかりの向こうに、見慣れない機材が並び、テレビ局の腕章をつけたスタッフが、学生にマイクを向けていた。
「本当に、白昼堂々恐喝なんて信じられません」
カメラの前で、インタビューを受けている学生がそう話すと、すぐ横でレポーターらしき男が相槌を打つ。
「そうですよね〜、信じられませんよね〜」
少し離れたところで、別のスタッフが別の学生に声をかける。
「あれ、見てたんですけど、怒ってた人にはちゃんと理由があるんですよ」
「あの人たちが最初に……」
「あ、ありがとうございました、もう大丈夫ですよ」
その言葉で、会話は一方的に切られ、カメラもすぐに外された。
その言葉は最初から必要とされていないかのようだ。
その光景を、少し離れた場所から見ていた杏奈の胸の奥が、ざわりと揺れる。
(……なに?それ)
あの動画と同じだ。
見せたい部分だけを拾って、それ以外は最初からなかったことにしている。
杏奈は、たまらずスタッフに向かって駆け出した。
「なんで……あの人が悪者じゃないといけないんですか!?」
スタッフが、怪訝そうに振り向く。
「はあ? 君、何?」
ぶっきらぼうで、怪訝な顔をしたスタッフに、杏奈は息を乱したまま詰め寄った。
「どうしてちゃんと話を聞かないんですか?」
「あれには、理由があるんです!」
「理由?」
「絡まれてる私を、あの人が助けてくれたんです!」
「でも、動画ではそう見えないよね」
言葉を切るように、相手がかぶせてきた。
杏奈も負けじと声を張る。
「それは、他の部分を切り取られて、編集しているからじゃないですか!」
「よく見てくださいよ!」
「そんな動画の真贋の判定なんて、我々の持ち場じゃないんだよ」
「我々は、事実を伝えるのが仕事なの」
「邪魔、しないでもらえる?」
どこまでも冷たい、他人事な声だった。
思わず杏奈の声が、強くなる。
「じゃあ!なんで、違う意見を聞かないんですか?」
「あの人を悪く言う言葉しか、聞かないんですか!?」
するとスタッフは、露骨に面倒くさそうな顔をした。
「君さ、さっきから取材の邪魔なんだよ」
「そういうのは大学か警察に言いなさい」
「こっちは忙しいんだよ」
そう言って、杏奈の方を見もしないまま、スタッフは別の学生の方へ歩いていった。
杏奈は、その背中を見つめたまま立ち尽くす。
「なんね……それ」
学生会館のいつものソファ席に、瀬良と田﨑の姿があった。
そこに遅れて杏奈が現れる。
「遅くなりました」
峯岸が顔を上げた。
「おう、大変なことになってもうてるな」
「大丈夫か?」
ユズも腕を組んだまま頷く。
「ホンマにな」
「ここまでする奴らやなんて、思わへんかったわ」
杏奈は深く頭を下げた。
「すみません、ご心配をおかけして……」
そして、視線を二人に向ける。
「そちらの方々は……?」
瀬良がにっと笑った。
「ちーっす!演劇部部長、瀬良姫良理」
「あなたが杏奈チャン?やだマジかわいー♪」
「メチャ会いたかったー!超絶よろ♪」
田﨑は瀬良に、呆れた目線を送ってから、穏やかに続ける。
「演劇部座長の一人、田﨑雅音といいます」
杏奈は、その場で固まった。
ミナが苦笑する。
「無理ないよね、瀬良さん」
「インパクト強いから」
瀬良が肩をすくめた。
「ミナちんひどい、ぴえん」
田﨑がやんわりとフォローする。
「混乱させてごめんね」
「この人、キャラ変が趣味みたいなもので」
「俺、『PLANET LAND』と『ハローライフ』で、すっかり君の台本のファンなんだ」
「できれば、うちに来て欲しいよ」
宮坂が口を挟んだ。
「瀬良さんこう見えて、法学部の主席なんだよ」
「おい、ちょ、宮っち」
「こう見えてって、失礼じゃない?」
「……法学部、主席……じゃあ」
「久島さんと、安積さんが言っていた、強い味方って……」
「あっれ〜? りょうちんとあずみん、知り合いなの?」
「はい、さっきまで、弓道場に行ってたんで」
瀬良の目線が鋭くなって行く。
「ほんと……あの二人も、かなり神経擦り減らしてるかんね」
杏奈はガックリと肩を落とした。
「……謹慎は、除籍処分前提だって……」
田﨑の眉間に、一気に皺が刻まれる。
「あんの、クソダラァ!」
「はいストップ!」
大声を出して、ソファを思い切り蹴り上げようとした田﨑を、瀬良が厳しい声で諌めた。
「また備品壊す気?その弁償代も部費から出んのよ……ソファはなんも悪くないっしょ?」
「それに……杏奈チャン怯えちゃってんじゃん」
「申し訳、ありません」
呆然として、身を震わせる杏奈に、峯岸が耳打ちをする。
「……あいつ、今の見た目は温厚なんやけど、ホンマは元ヤンやねん」
ソファに腰を下ろす聡志も、真面目な顔で呟いた。
「しかし……河瀬くん、いい奴なのにな」
「こんな事で処分なんて話になったら、あいつらますますやりたい放題だよ」
杏奈は、はっきり頷くと、瀬良が身を乗り出して来た。
「それで? りょうちんとあずみんはなんて?」
杏奈は、少し息を整えてから言った。
「河瀬くんが……もし除籍になるようなことがあったら、弓道部は自主的に解散するって……OB会の皆さんから圧力をかけてもらってるらしいです」
瀬良が口元を緩める。
「へえ、信頼されてるんだね」
「あんたのナイト君」
杏奈の頬が、ふっと赤くなると、ユズが腕を組んだ。
「しかし、ウチらも危なかったんやな」
ミナが静かに頷いた。
「ほんと、フタバのおかげだね」
杏奈が顔を上げた。
「そうですよ!どうやって返り討ちにしたんですか?」
ミナが少し苦笑する。
「ウチら三人、実際に飲みに行ったの」
「フタバが乗り気で」
峯岸が目を見開く。
「なんやと? 初耳やぞ」
ユズが笑いながら続ける。
「席についたらな、『何飲む?とりあえずビール?サワー系?』って来たんよ」
ミナが肩をすくめる。
「そしたらフタバ、いきなり『不動龍、常温で』って」
ユズが、どこか誇らしげに話した。
「そもそもな、『とりあえずってなんながで?酒って字、知っちゅうかえ?酒は日本酒やろう!』てな」
峯岸が苦い顔をする。
「確かに、あれだけはしんどかったわ」
ミナがさらっと締めた。
「で、そのままフタバ一人で三人相手にして、全員酔い潰して」
「支払い任せて帰ったの」
杏奈がぽつりと呟く。
「高知の人、怖い……」
宮坂も深く頷いた。
「本当にそうだよね」
ミナが、無言で宮坂を見る。
「え、何?」
すると聡志がすかさず口を開く。
「河瀬くんのことは、もちろん心配だけど……俺らは俺らのやること、やるしかない」
その言葉に、場の空気が少しだけ引き締まる。
瀬良が、ふっと笑みを消した。
「……なんとか、りょうちんとあずみんが時間稼いでる間に、決着つけなきゃね」
「証拠は掴んでるんだけど……色々デリケートな問題もあんのよ」
すると、それまでのギャルの雰囲気が消えて、睨みつけるような目つきに変わった。
「正直……マジで胸糞悪い、犯罪者だよ」
「……あいつら」
「ただ、公にはできない事情があるの……悔しいことにね」
田﨑の目付きがまた鋭くなり、硬く拳を握った。
瀬良が、少しだけ空気を和らげるように肩をすくめた。
「まあ、とにかくさ、こんな時に言うのもなんだけど、ウチら、舞台の方も協力させてもらうんで!よろ」
田﨑も静かに頭を下げる。
「よろしくお願いします」
それを受けて、杏奈は力無く頭を下げた。
「……お願いします」
すると瀬良が立ち上がり、杏奈の両肩をそっと抱いた。
しっかり目を見て告げる。
「今は無理しないで」
「台本、私たちも協力するから」
瀬良と視線を合わせていると、その目の力に心を奪われる。
恐怖も、不安も、苦悩も、焦燥も、今の心の中に渦巻いている負の感情を全て引き受ける。
そんな思いのこもった瞳だった。
次の言葉は、役作りのギャルのものではなかった。
「河瀬くんを助ける方法は、必ずあるから」
「そもそも、あいつらは完全な犯罪者なんです」
「そんな奴ら、絶対に野放しにしたらダメだからね」
「……はい」
瀬良の言葉は、絶望を、少しずつではあるが、和らげているように思えるのだった。
寮の部屋で、河瀬はベッドに腰掛けて
ぼんやりとテレビ画面を見ている。
『六星大学の体育会系部活動に所属する学生による恐喝動画が拡散し、波紋が広がっています』
『この動画には、同大学に通う十九歳の男子学生が、相手を恫喝し、土下座を強要したうえで、金銭を要求しているかのような様子が収められていました』
「……違う」
河瀬の口から、低く言葉が漏れると、画面の中では、インタビューを受けた学生が、不安そうな顔で答えていた。
『うちの学校に、そんな人がいたなんて怖いです』
「違う、違うんじゃ」
続いて、スタジオのコメンテーターが、もっともらしい顔で語り始める。
『体育会系にありがちな構造ですよね』
『上下関係の中で圧力をかけ、相手を従わせる』
『この生徒は下級生だから、押さえ込まれていた気持ちを、外の自分より弱そうな相手にむけたんでしょう』
『ある意味、彼自身も古い体質の被害者なのかもしれません』
「何を勝手な事を言いよるんよ……」
河瀬は、乾いた笑いをひとつ漏らした。
スマホの動画サイトでは、コメント欄が荒れ続けていた。
――こんな奴、即退学でええやろ
――六星終わってる
――脳筋体育会、こわ
――土下座強要は普通に犯罪
「言いたい放題じゃのう、笑えるわ」
そう呟きながら、河瀬は机の上の封筒に手を伸ばした。
その表面に書かれた文字は、退部届。
「これ以上、迷惑はかけられん」
その時、流れ続けるコメントの中に、一つだけ、主張の違う書き込みが混ざった。
アカウント名は、A-kuni。
【彼はこんなことは絶対しない】
【何かの間違いです】
河瀬を擁護するコメントに、どこか面白がったような反応があふれた。
【何か出てきた】
【自演乙】
しかし、A-kuniのコメントは止まらない。
【動画も意図的に切り取られて編集されています】
【彼を陥れようとしているのがわかります】
【陰謀論キターーー】
河瀬の視線が、ぴたりと止まる。
「A-kuni……」
A……
くに……
青島、邦彦。
次の書き込みを見た瞬間、河瀬の喉が詰まった。
【おいは、おはんを信じちょっとじゃ】
【また試合ってくいやんせ!】
「青島……」
そこで、声が崩れた。
「うっ……ふぐっ……」
河瀬の記憶が、インターハイの個人決勝の舞台に戻る。
焼けるような夏の空の下。
会場は、静けさと緊張が張り詰めていた。
射場では二人の射手だけが、その場の空気を支配している。
河瀬の視線は、青島の射に釘付けだ。
乾いた弦音が響くと、放たれた矢は、的に吸い込まれるように中心を射抜く。
張りつめていた空気がほどけると、アナウンスが響いた。
「ただ今の結果をもちまして」
「優勝は、鹿児島県代表、加地城(かじき)工業高校、青島邦彦選手」
「準優勝は、島根県代表、石見(いわみ)総合学園高校、河瀬清彦選手です」
拍手が広がると、河瀬はゆっくりと息を吐いた。
「……負けた」
それでも、不思議と悔しさだけではない、隣の椅子に座る青島は、まだまっすぐ的を見つめていた。
やがて合図に従い、二人は同時に立ち上がり、的に一礼して退場した。
射場の敷居を越えた瞬間、青島が振り返り、迷いなく手を差し出して笑顔を作る。
「おまんさあ、強かな」
「おいは、楽しかったとぞ」
河瀬はその手を見つめてから、しっかりと握り返した。
「次は、負けんけえの」
青島は嬉しそうな目元で答えた
「おう!」
「受けて立つ!」
ぼろぼろと溢れる涙を拭えず、河瀬はスマホを見つめた。
自分が追い求める背中は、こうしていつでも振り返るのだ、と実感した。
そのコメントは、折れそうになった河瀬の心を、もう一度奮い立たせたのだった。
学生会館では、杏奈はスマホの画面を見つめたまま小さく呟いた。
「青島さん……」
ユズが首をかしげる。
「誰?」
「河瀬くんが、インターハイで負けた人らしいです」
その場にいた全員の視線が、杏奈に集まる。
杏奈は、ゆっくりと息を吸った。
「私、決めました」
「私が、河瀬くんを助けます」
聡志が思わず聞き返す。
「助けるって……どうやって?」
杏奈の目には、もう迷いはない。
「狙いが私なら」
「私が、囮になります」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。