第20話 謀議する人間
俺の眼前にはネロ青年が両指を組んで座っていた。
「昨日の今日だというのにすぐ会うことになったな。火急の要件とは何なのだろう?」
ネロは柔らかく微笑み、椅子を指し示す。俺は彼の許しを無視し、その場で片膝をついて頭を垂れた。
「臣は陛下に衷心からの忠誠を誓っております。もし、陛下が臣めに疑いを持ちましたら、いつなんなりとこの首に裁きの刃を落としてください」
「穏やかではないな。何があったのだ」
「アフリカヌス様の調査に関して妨害に逢いました。昨日、ドルッシラ様と私は危うく口封じをされるところだったのです。襲撃者に自白魔術を掛けたところ、裏で手をひいているのはアグリッピナ太后であることが判明しました。また、じきに参謀本部から報告があるかと思いますが、アフリカヌス派がカリグラ殿下を旗印に反乱を起こすつもりです、彼らはアフリカヌス様の死の犯人をネロ陛下、あるいはその近くにいる者と見なし復讐戦を誓っております」
ネロが凍り付いたのは、顔を見なくても分かる。
「一体どういうことだ?」
ネロに問われた俺は詳しい事象を説明した。説明を聞きネロは息を呑む。
「理解が追い付かない……」
聞き終えたネロは、誰に聞かせる風もなく呟いた。俺は面を上げる。
「まず調査の件に限ってお話ししましょう。念のためお聞きしますが、陛下はアグリッピナ太后に臣と寡婦ドルッシラを暗殺するよう命じましたか? であるならば、少なくとも臣の命はこの場で捧げますが」
「そのようなこと、命じるはずがない。中佐は忠実な臣下だと思っているし、ましてやドルッシラ殿の命を狙うなど、そんな馬鹿なことを」
俺は立ちあがる。皇帝に忠実な臣下のように二心はないと堂々と直立する。
「陛下、先の会見の際にも思いましたが、アグリッピナ太后は果たして陛下の味方なのでしょうか?」
ネロはこちらにじっと視線を注ぎ、何も言わない。
「私は驚きました、至尊のはずのルーム皇帝がお立場に値する敬意を払われていないことに。アグリッピナ太后は陛下の権威を認めているようには思われませんでした。いや、もっと悪いことに陛下の権力すらも認めていなかったように見えた。まるで自分こそ帝国の支配者だと言わんばかりの態度をあの方は取られてはおりませんでしたか?」
俺は熱っぽい口調を意識する。
「詩の朗読会でペトロニウス殿が言ったとおりだ。アグリッピナ太后はまるで立場を弁えていない」
「太后をそう悪く言うものではない。彼女には彼女の考えがあるのだろう」
ネロは手元を見つめながら呟く。
「その考えは陛下を害すものでないという確信がお有りですか」
「確信があれば、苦労などしていない!」
ネロは声を荒げた。
「中佐の言わんとするところは分かる。確かに彼女が私の味方とは限らん。私から全ての実権を奪い、自分こそが帝国に君臨する気かもしれない。だが、真意など確かめようもないではないか」
「いえ、陛下。陛下であれば太后の真意を確かめることは可能です」
「親子の情に訴えるのか?」
ネロは力なく笑ったが、その笑みは俺の言葉に凍り付く。
「陛下は帝国臣民全てに対して裁判を経ずしてあらゆる行為を許されています。例え相手が皇族であっても、また真実を引き出す魔術も当然ながらその範疇です」
「……実の母親に自白魔術を掛けろというのか? まさかだろう」
「まさかではございません。陛下の取り得る手段の一つです、それは正当な行いと認められるでしょう」
「自白魔術を掛けられたものがどうなるか知っているはずだ!」
「ええ、脳髄に不可逆的な損傷が生じ、被術者は確実に死に至ります。しかし太后から真実を引き出す手段が他にあるでしょうか」
ネロは唇を噛んでしばらく考えていたが、今までの考えを頭から追い出すように頭を振った。
「駄目だ。母親殺しはできない」
「それが陛下の決断なら臣は異を唱えません。ですが、アフリカヌス様の伝言には背く結果になるかもしれない、臣はそれを恐れます」
ネロは不可解な表情を浮かべた。
「兄上からの伝言?」
「はい、実は臣はクラッスス氏を通してアフリカヌス様から伝言を受け取っています。その伝言の内容は、ネロをよろしく頼む、でした」
俺はたった一言、伝言になかった言葉を付け加えた。しかしそれは大きな効果を持つはずだった。
「クラッスス氏がこの伝言を頼まれたのはアフリカヌス様が死ぬ二カ月前です。あのお方はもしかすると自分の運命を予見しておられたのではないでしょうか」俺はネロの耳元に口を寄せた。「反乱を起こそうとしているアフリカヌス派はネロ陛下に近しいものが自分たちの主の暗殺の犯人と見込んでいる。それは果たして的外れでしょうか。あるいはこれ以上なく正鵠を射ているのでは」
ネロは苦し気に呻いた。空気が足りないとでもいうように、胸元を緩める。それからかすれた声で呟く。
「太后が実権を狙うなら、表では帝国第二位の実力者、裏では私を支える兄上が目障りであったろうな。しかし」
俺はそれ以上ネロに何も言わせないように、言葉を遮る。
「太后がアフリカヌス様殺しの犯人であることを証明できれば、彼らも留飲を下げ、反乱勃発を未然に防げるかもしれません」
ネロは俺を恐ろしい者を見るような目で見ている。やめてくれ、俺だって自分が言っていることが怖くて仕方がないのだ。だが、そんなことおくびにも出せない。
「もし、母上が無罪ならどうなる」
「その場合、陛下は無罪である実の母親を殺したことになります」
室内を重たい静寂が領す。俺とネロの視線がぶつかる。ネロの目は俺を射抜くかのごとく鋭かったが、先に視線を逸らしたのもまたネロだった。
「臣はあくまで陛下が決断するための材料を提供しているにすぎません。陛下がいかなる決断をしようと、臣は忠誠を尽くします」ネロをじっと見つめる。「なぜならば、アフリカヌス様に頼まれてしまったからです」
アフリカヌスから頼まれた、そういった瞬間、ネロの瞳が引き絞られるのを俺は見た。
「アフリカヌス様は自分が帝位に就くよりも、ネロ陛下が皇帝であることを望まれました。あの方はネロ陛下に何を見出し、何を望まれたのでしょうか。母親の傀儡として張りぼての権威を主張する、そんな生き方を見出していたとは臣には思われないのです」
俺は事前に考えていた言葉を全て言えた。あとはアンタの決断次第だ。さあどうする、ネロ・カエサル?
随分長い間、ネロは考えていた。だがやがて眉宇に寄っていた皴が解れる。再び俺を見た彼の顔色は蒼白だった。
「まず太后に話を聞く」ネロは幽鬼のように立ち上がる。「しかし、彼女が真実を明らかにしないなら、最終手段を使う」
「御英断感服いたしました」俺は深く頭を下げる。「部下に自白魔術を使えるものがおります。すぐにでも対応できますが、如何しますか」
「うむ、今すぐに母上を呼ぼう……衛兵、母上を連れてきてくれ。彼女一人だけだ、護衛を連れてくることは許さない」
ネロが衛兵に命じる。感情を殺した機械として仕えるはずの皇室衛兵すら、顔を引きつらせていた。
俺は内心で一つため息を吐く。流れは悪くない。これでネロがアグリッピナに自白魔術を掛ければ、俺の身は安全になるはずだ。そう、俺は別に真実など求めてはいない。俺が欲しいのは自白魔術の致死性だった。アグリッピナを退場させる手段として確実な殺害手段を求めたに過ぎない。
ネロはたとえ母親が無実でも俺を責めることはできないだろう。俺は材料を与えただけで決断したのは彼なのだ。責任を転嫁できるような人格の持ち主ではないのはすでに知っている。
大それた提言をしてしまったという恐怖が心中に湧き上がってくる。だが、覚えた感情はそれだけではないのを認めないわけにはいかなかった。
俺は歓喜に打ち震えていた。弱小属州出身の一軍人が、世界の支配者を操り、自分の敵を殺させるのだ。俺は俺の意のままに皇帝を操ろうとしている。その事実が俺に人道に背く快楽を与えていた。
恐怖と喜びの狭間で冷静な俺が言う。これからが勝負だ、抜かるなよ。
その通りだ。アグリッピナを前にすれば、ネロが前言を翻す恐れは大いにある。一瞬とて油断はできない。
俺は扉を見つめ、アグリッピナがこの部屋に来るのを待った。
衛兵がアグリッピナを連れてくる時間は無限に感じられた。期待とも恐怖とも判別のつかない焦燥感に襲われる。
そして、扉が叩かれる。
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