第三章 削除
翌朝、渉は昨夜の原稿を開いた。
コーヒーを片手に、書きかけの第二章を読み返す。ハナが映画館で目覚める場面。映写技師の老人。スクリーンに映る映像。われながら悪くない滑り出しだと思った。感情は動かないが、構造は機能している。それで十分だった。
スクロールして末尾を確認する。
あった。
また、あった。
あなたが煙草を消したのを見ていた。灰皿の縁で二回、押しつけた。
渉は画面に顔を近づけた。
昨夜消したはずだった。確かに選択して、deleteキーを押した。なのに今朝また、原稿の末尾に一行、同じような文体の文章が存在している。
しかも今度は内容が違う。
昨夜の誤入力なら、昨夜と同じ文章のはずだ。だがこれは新しい文章だ。昨夜の自分の行動を、正確に描写している。煙草を消したこと。灰皿の縁で二回押しつけたこと。
渉は煙草を消すとき、いつも二回押しつける癖がある。誰にも言ったことがない。
選択して、削除した。
コーヒーを一口飲んで、続きを書き始めた。ハナが映写技師の老人に話しかける場面。老人が町の歴史を語る場面。渉の指は淡々と動いた。
一時間後、保存して画面から目を離した。
立ち上がって、キッチンへ行く。冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉める。窓の外を見る。雨はまだ続いていた。
机に戻ったとき、渉は画面を見て動きを止めた。
原稿の末尾にまた一行あった。
今度はこう書いてあった。
冷蔵庫を開けて、何も取らなかった。なぜ開けたのか、自分でもわからなかったでしょう。私にもわからない。でも私には見えている。
渉はしばらく画面を見つめていた。
それから静かに、また削除した。
保存した。
ファイルを閉じた。
その夜、渉は原稿を開かなかった。
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