← 作品ページへ戻る

神の帰還

いらいじゃ

98,495 字

壮大なファンタジー、成長と愛の物語

"神と悪魔が交錯する世界で、少年は愛の力で運命を切り拓く。"

← 右から左へスクロール

第二章

1

 道が徐々にしっかりしたものになる。木々がまばらになり、視界が開けた。
「ほう」
 バーノルが小さな感嘆の声を上げる。
「どうしたんですか?」
「ずいぶんちゃんとした畑だな。ここらへんの村で、小麦が出来るとはね。前に通ったところは、大きな岩がごろごろしているばかりで、こんな立派な畑はなかったし、荒れ地に育つ雑穀しかなかったよ」
 アルミスとクレイはそれに答えず顔を見合わせて、微笑む。クレイは得意げに解説をする。
「ここは蓑村というところです。先生の魔法のおかげで、この村の植物はとても元気が良いんです。僕たちは三ヶ月に一度村に来て、様々な魔法で村を助けているんですよ」
 バーノルは畑で作業をしていた農夫が、帽子を取ってこっちを見ているのに気がつく。農夫はしばらくぼんやり眺めていたかと思うと、ばたばたと走ってくる。
「ア、アルミス様? クレイ様!」
 帽子を胸に押し当て、腰をかがめて、三人から少し距離をとったところで立ち止まる。わずかに後ろに下がった後に、
「どうなさったのですか、来ていただくにはまだ日があるのでは?」
 クレイ達が答えようとしたとき、農夫は初めてバーノルの大きさに気がつき、ぎょっとする。しかし再び真剣な顔でクレイとアルミスを見る。バーノルは農夫の挙動を見ている。こんな開拓村に剣をぶら下げた傭兵が来れば必ず警戒されるはずなのに、農夫はアルミスとクレイのみに注意を払っている。
 クレイは農夫に声をかける。
「お願いがあって来たのです。すみませんが、村長に知らせておいて下さい」
「は、はい」
 中年にさしかかろうとしている農夫が、自分の子供のような少年の命令で、村に駆け戻っていく。
 クレイが振り返る。
「ここの村長さんに、少し旅の助けをしてもらいます。どんな用意をすればいいのか、助言をしていただけますか?」
「あ…ああ」
 バーノルは考え込みながら答えた。村人達はクレイとアルミスを明らかに恐れている。三人は井戸のある、村の広場へと歩みをすすめていた。家が二十に満たない、ありふれた開拓民の村。村のほとんどの人間が集まっているのだろう。人混みができている。
 初老の男とよく似た特徴を持つ青年が村人達の列から進み出て、アルミス達を出迎えた。好奇心に満ちた子供も人混みから前に出ようとして、親に止められる。
「アルミス様、クレイ様、ようこそいらっしゃいました」
 バーノルは初老の男を見る。どことなく品がある。村長なのだろう。後ろの青年はたぶん息子だ。恭しく出迎える村長の態度を自然にアルミスとクレイは受け止めている。老人のかしこまった様子に居心地の悪さを感じているのは、バーノル一人だけだ。人は村長の家に招き入れられ、テーブルの周りに座らされる。テーブルの周りは村の女達がばたばたと動き回り、騒がしい。
「もう少しお待ち下さい。宴の準備をしていますので、少し騒がしいのは、ご容赦下さい」
「いきなり私達が訪問したのです。あまり気を使わないで下さい」
「はい、アルミス様」
 老人が頭を下げる姿に目を向ける息子の表情にバーノルは気づく。息子の表情にはアルミスとクレイへの疑惑の色が顔をのぞかせている。村人の何人かも浮かべていた表情だ。
 何故この少年と少女が今、ここに来たのか? 村人達は表情でそう語っている。誰もけっして、それを口に出して、二人に問わない。それがこの二人と、村人の関係らしいことバーノルは察知する。
 話をしようとしたアルミスを止めて、まず食事を、と村長は言った。
 宴が始まった。バーノルはその歓待ぶりのすごさに目を丸くする。数匹の鳥をつぶしたたっぷりのシチュー、卵とジャガイモのオムレツ、色とりどりのピクルス、大皿に盛りつけられた白身魚のフライ……酒、料理、そして明かり。子供二人をもてなすために用意したとは思えない。開拓民らしい、素朴な料理だが、量も、そして種類もこの村で出来る限りの贅を尽くした物だというのが分かる。
 村の若者が、古ぼけた琴をひいて、若い娘が、都の昔のはやり歌を歌う。給仕は忙しく動いている。しかし、宴は盛り上がることはなかった。人が少ないのだ。広く作られた宴会場には村長と、その息子、アルミスと、クレイと、バーノルしかいない。会話もないまま、五人は食事を続けていく。バーノルをのぞいては誰一人気まずい思いをしていないようだった。
「あー村長さん、ちょっと聞いていいですか」
 重い空気を破ったバーノルの声に、村長と、息子の体が小さく震えた。
「な、何でしょうか、バーノル様」
 村長の顔は緊張している。バーノルが笑いかけると、村長は引きつった笑みを返した。
「ご家族はいるんですか?」
「え? …ええ。妻と二人の娘がおりますが」
 村長の答えに、逆にバーノルがとまどう。
「……あ、ああ。そうですか」
 口の中で小さく答えて、バーノルはお愛想に笑う。村人は、必要以上にはこの二人の前に姿を現せないように、関わりにならないようにしているのだ。クレイとアルミスは村人の警戒心に全く気付いていないように見える。たぶん、彼らがボドルフと訪れるときはいつもこうなのだろう。
 バーノルは改めて考える。通常、魔法使い達は、混沌の神をまつる神殿の神官として国や教団組織に管理されている。本物の魔法はそういった組織でしか学ぶことができないからだ。そうでない魔法使いと自称する人々は、ペテン師か、力の弱い精霊と繋がりを持つあやふやなまじない師がほとんどだ。
 この時代、町や村に住む人々が本物の魔法に触れる機会はほとんどない。人々がいかに魔法を恐れているか、それはアルミス達に対するこの村の人々の反応で分かる。アルミス達は子供の頃から村に訪れていると言っていた。それでもこうなのだ。アルミスとクレイが外の世界に出ることの難しさを、改めて重く考える。
 クレイは、左腕が使えないアルミスの食事を手伝うのに一生懸命だった。アルミスのシチューから鳥の骨を取り除き、パンを一口大に千切る、何度も声をかけ大皿の料理を取り分ける……。その気遣いはいささか過剰で滑稽さすらあったが、クレイの表情は真剣そのものだった。
「ありがとう、クレイ」
 アルミスの声に、バーノルは、村長の方へ目を向ける。
「村長さん」
「何ですか、アルミス様」
「後で用意して頂きたい物があるのです。お願いできますか?」
 今まで無言だった村長の息子が、突然口を開いた。
「アルミス様…お二人はどうして…こちらに来られたので…?」
「ルボノ!」
 緊張した声で息子が質問をすると、はっきりと顔色を変えて村長は息子の名を叫び、言葉を遮った。
「し、失礼をしました」
「いいのです。しかし、答えは、少し待っていただきたいのです」
「ええ、それはもちろん」
 愛想笑いをしながらも、不安と恐れの影が村長の顔に濃くなる。バーノルはクレイを見る。クレイはいつの間にかアルミスの食事を手伝うことをやめて、下を向いていた。クレイの顔が急に跳ね上がり、村長に話しかける。
「村長さん、僕もお願いがあるのですが」
 クレイは顔を上げ、真っ直ぐ村長を見る。クレイの握りしめられた拳が震えて、皿と食器が小さな音を立てている。
「納屋か倉庫でいいんですが、ちょっと今夜使わせていただけないでしょうか?」
 クレイの声に、村長が立ち上がる。
「ま、魔法をお使いになるので?」
「クレイ!」
 アルミスの大きな声に、琴の音が止まる。村長親子は、青ざめた表情でクレイを見ている。クレイは、アルミスの包帯を巻かれた手に、そっと手を置く。
「明日までにやらなきゃいけないんだ」
 二人のやりとりを見ながら、村長はあわてて言う。
「すぐに準備をさせましょう。」
 村長の答えは、隠しきれない恐怖に震えていた。
「用意が出来たら言って下さい。」
 アルミスの手を放し、軽く一礼して、クレイは部屋を出る。バーノルはクレイの表情にただならぬ決意を感じる。村長は給仕を呼ぶ。焦りを含んだ声で命令する。
「すぐにご用意するんだ。東のはずれにギドの家の倉庫だった空き家があるだろう、あそこを使えばいい、ただし…出来るだけ他の村人には、知られるなよ」
「は、はい」
 給仕があわてて出ていく。バーノルは声を潜めてアルミスに話しかける。
「アルミス、クレイは何をするんだ。すごい気合いを入れていたが」
 アルミスはクレイの去った出口を見続けている。そのまま小さく声を絞り出した。
「精霊を喚ぶんです」
 バーノルは思わず大きな声を出してしまう。
「こんな村の真ん中で?」
 バーノルの言葉に、村長達が息をのむ。クレイの言葉によって引き起こされた村長達の小さな恐慌をようやく納得する。村人達にとって魔法は未知のものだ。アルミスとクレイへの消えることのない村人の警戒心が村人の魔法への恐れを物語っている。
「ちょっとまて、その魔法は安全な物なんだろうな? やつはこれから長い旅に出るんだぞ」
「…魔法に『安全』なんてありえないわ」
 つぶやくように言うアルミスに、バーノルは身を乗り出す。
「それなのに黙ってやらせるのか?」
 アルミスはバーノルに向き直る。息を吸い込み、感情をぶつけようとして、急に勢いを失い、下を向いて、手に巻いた包帯を触る。
「クレイはより強い力を望んでいる。…私には止めることが出来ない。クレイなら、きっと…召喚は…うまくいく」
 その表情に、バーノルは椅子に座り直す。
「そうか」
 宴は唐突に終わった。村長が合図をすると歌をやめ、こちらを不安そうに見ていた娘達は部屋から出る。
「アルミス様…」
 村長の息子が声をかけた。
「何でしょうか」
「バーノルさんが、『旅』とおっしゃってましたが?」
 村長の息子ルボノの声には探るような響きがある。アルミスは息子の方ではなく、村長を見て答えた。
「…後でお話をします」
 村長は立ち上がり、息子とアルミスの間に入って、へつらうような卑屈な笑みを浮かべる。
「は、はい。それはもう。クレイ様のご用意もすぐにさせていただきますので」
「お願いします。歓待、ありがとうございました」
 アルミスとバーノルは部屋を出る。

2

 広い納屋であった。あわてて荷物を外に出したのだろう、地面には物を引きずった跡が残っている。クレイは丹念に地面をならしてから、行者ニンニクの灰と炭を混ぜた粉で、大きく二重の円を描く。
 円と円の間に儀式用の短剣でルーンを刻み込む。同じように円の中心に四角を二つ重ねて混沌の象徴である八芒星形を描き、そこから南の位置に、結界となる三角形を描く。
 二つの形の間に、小さな木で出来たテーブルをおく。テーブルの上の鉢に豚の脂を混ぜた油を注いで、火をつける。納屋の隅に置いておいた袋を手に取る。袋の中の物が身動きをして、一瞬クレイの伸ばした手が止まる。
 アルミス達が部屋から去ってから、こっそりと村長に頼んでいた物だ。生きた鶏。乾燥させたジギタリスの葉を餌に混ぜて与えてあるため、今はその毒が回り、声を出すことも歩くこともできない。鶏の目ばかりが不安そうに動いている。できるだけ鶏の方は見ないようにして、袋の中から取り上げて、テーブルの上に横たえる。
 クレイはもう一つの袋を取り出す。さっき掘ったばかりの、畑の土だ。少し時間をかけて50センチほど掘り下げたところからとった土を、八芒星形の中心に盛り上げる。腰の袋からアーモンドよりふた回りほど大きな青いオパールを取り出し、盛り土の頂点におく。
 これからの魔法の儀式で、クレイは力の強い精霊を精霊界より探し出し、“繋がり”を持てるように交渉する。儀式と契約が成功し、強力な存在と“繋がり”を持つことができれば、クレイが持つ地の精や水の精のようにいつでも精霊を呼びだすことができるようになる。オパールは契約の証に使う。
 クレイは魔法陣を描くのに使った短剣の刃を香油と酢のしみこませた布で清め、わずかに身動きをする鶏の横に置く。
 クレイは息を小さく吐き出す。準備は整った。
 本来なら、ここまで手のこんだ、生け贄を用意するような陰惨な儀式は必要ない。本来、精霊を呼びだすだけなら自然に囲まれた環境で精神を集中して精霊語で歌えば、それでいい。クレイはあえてそれを選ばずに、手の込んだ、邪悪の臭いのする召喚の方法を選んだ。
 クレイはつばを飲み込む。喚びだした者と、対面し、ねじ伏せ、従わせるのだ。自分にそれが出来るだろうか? やらなければならない。自分には〝力〟が必要なのだ。昨日のバーノルの姿。あれこそが、これから必要となる。旅のために、生きるために。そして何より、アルミスを守るために。
 クレイは服のポケットから小さな瓶と貝の容器を取り出す。瓶の中には水仙を蒸留した液体が入っている。鶏の口を開け、注意深く、一滴だけ喉にたらす。
「グゥエー」
 鶏が叫び声を上げる。水仙が全身が麻痺した鶏の喉だけを開放する。身体が動かないまま鶏は悲鳴を上げ続ける。クレイは貝殻の容器を開ける。中には白い軟膏がある。カヤツリグサと麻の実の他にも、様々な物を混ぜてある薬だ。この薬は意識をとぎすまし、異次元への呼びかけを助ける。クレイは薬を指にすくい取って、口に含む。強烈な苦み。気分が高揚し、体が軽くなる。意識と肉体がずれる感覚。麻薬による酩酊と、意識の収束と拡散が同時に襲ってくる。
 この世界における魔法とは、主に我々の“次元”とは異なった世界にいる者を呼び寄せ、使役する法を指す。人間と親和性を持つ精霊、そしてさらに高次な“混沌”の次元。魔法使いは毒物を常用し、神人の言葉「精霊語」を使いこなすといった訓練によって、神人達に近い存在へとなる。薬の力を使うことで精神を活性化し、次元の壁を越え、異界の存在と交渉をする。彼らを現世に呼び出し、かりそめの実体を与え、使役する。それが「魔法使い」と呼ばれる者達だった。
 クレイは足に力を込めて、精霊を喚ぶ精霊の歌を歌う。意識を地面に、地下に向ける。
 クレイの意識は呼びかけに反応する〝存在〟を捉える。今はまだ海の底にある石のように、ただごろごろとそれらがあるのを感じられるだけで、細部は分からない。土の精霊と総称される力の小さなものがほとんどだ。地の精霊の最もありふれている存在。クレイは意識の手で存在達をなでていく。
 呼びかけに応え、存在を誇示したものの中にはまだ「地震の主」とまで呼ばれる大きな精霊はいない。それらは数が少ないが、強大な力を持っている。クレイは彼らほどの存在を呼び出さなくてはならない。代償を払えば、力の存在は応えてくれるはずだ。クレイは再び自分の肉体に意識を戻す。少ししびれを感じる手に力を込めて、短剣を握る。
 短剣の刃が、炎の照り返しを受けて輝く。切っ先を鶏に向ける。
「ゲェェーッ!」
 鶏の悲鳴。地の底の存在達が動揺する。己の運命を呪う叫びは、健やかな精霊には無縁のものだ。喚び出しに応じた存在のいくつかは逃げ去っていく。反対に、地の底から、さらに浮かび上がってくるもの達もいる。彼らは、この叫びが好きなのだ。力をふるい、物を壊すのを望むものが選別されていく。クレイは鶏の羽を広げ、付け根のあたりに、刃を食い込ませていく。鶏の悲鳴が一オクターブ上がる。甲高い叫びがクレイの脳を揺さぶった。次の瞬間、クレイの心の中に一つの映像が浮かび上がる。
 クレイは、つい最近、この叫びを聞いたのだった。「あの怪物」の声だ。鶏を使ったのは、失敗だったのかもしれない。心のどこかでそんな思考のひらめきがあった。しかし、思考のほとんどは、憎しみと、後悔と、恐怖と、恨みに急速に染め上げられていく。
 緑の炎に燃える地の精。走ってくる怪物。アルミスの傷。アルミスの血。怪物の笑み。そして…力を失って垂れ下がる自分の手。
「うわぁぁっ!」
 麻薬の働きで制御を失ったクレイの心が暴走する。上げ続けられる鶏の叫びが彼の狂騒を後押しする。憎しみを、怨嗟を込めて、精霊の歌は絶叫へと変わる。精霊達が激しく動いている。クレイの呼びかけと接触は、今や暴虐の刃と化して、精霊達に突き刺さる。協力を求めて差し出された精霊達の接触の手はすべて消え去った。
 暗い、空虚な、応答のない世界がクレイの意識とつながっている。それなのに憎しみに駆られた心の叫びは止まることはなかった。暴走する心が、確信している。こここそ望んだ世界だ。
 クレイの心のどこかで、恐怖とおびえの心が動いた。それは正常な心の動きだったのかもしれない。しかし、今のクレイは、その自覚こそ最も忌むべき物だと思った。
 心の中のためらいを切り捨てるイメージに重ねて、クレイは刃を鶏に振り下ろした。
 この瞬間、クレイの心は憎悪の結晶体になった。
 意識の深い、深い底で何かが動いた。
『私の力が欲しいか』
 その存在はクレイにそう、語りかけた。この世の中すべてに対する怒りと、憎しみ。泥のような密度を持った邪悪な意識の触手がクレイにふれる。恐怖と拒否の悲鳴を上げる心はすでに切り離されていた。強烈な力に身を任せる快感がクレイの背を走る。味わったことのない開放感の中で、クレイは鶏に、刃を振り下ろしながら叫ぶ。
『僕に力を! そのためならどんな代償も払いましょう!』
 急速に、闇の底から存在がかけ上ってくる。耳に聞こえるのは自分の歓喜の叫びなのか、鶏の断末魔なのか、もう分からない。地の底のものが、クレイの意識の端を掴む。
 違う!
 これは地の精霊の眷属ではない。この地にある存在が、ここまで世界に邪悪な反抗心を持つはずがない、すべての生きている物をここまで呪うはずがない。
『お前が私を呼んだのだ。お前の憎しみこそが、私のよりしろとなる資格だ』
 目で見ているのか、意識でとらえているのか、もうクレイには分からない。クレイの意識をつかんでいるものが、はっきりと笑みを浮かべたのだ。嘲笑の笑みを。
『お前は私の力の扉だ』
 クレイの姿は、意識は、黒い闇に飲み込まれていった。

3

「それは本当のことですか! 村長?」
 隣の部屋からアルミスの声が上がる。その声の響きにただならぬものを感じて、バーノルは腰掛けていたベッドから立ち上がる。隣の部屋のドアが勢いよく開いてアルミスが廊下を走っていく音がする。バーノルは刀をつかみ、あわてて彼女の後を追う。
 追いついたアルミスの背に声をかける。
「どうした?」
「クレイは村長に生け贄を用意させたの! 止めないと、危険すぎる」
 アルミスが振り返って叫ぶ。バーノルには何が危険なのかわからないが、アルミスの声からはただならないものを感じる。
 その時、二人の耳に村人の叫び声が聞こえた。
「火事だーっ」
 東のはずれに火の手が上がっている。
「クレイがいた方だわ」
 アルミスの声が震えている。アルミスは急激に膨らんでいく不安に自分の肩を抱く。アルミスの手の上にバーノルの大きな手の平が重ねられた。
「何してる。早く行くぞ」
「はい」
 走ろうとしてアルミスがよろける。バーノルは手を伸ばしてアルミスを支える。今まで我慢を重ねていたが、左腕の傷はアルミスの体力を著しく消耗させていた。バーノルはアルミスを抱えると、村人達の集まっている方へ、走る。
 その時、村中の犬が吠え声をあげた。その怯えの声に眠りを覚まされ、外に出た村人達が、火事を見つけたのだ。火の手は村のはずれの納屋だった。発見者が悲鳴を上げてからすぐに、人々は桶に水をくんで集まってきた。何人かは、鍬や槌をもってきている。燃えている建物の回りを壊して、延焼を防ぐためだ。
 しかし、集まった村人は炎を前にして、動きを止めることしかできなかった。
 炎の中に、何かがいる。
 納屋のほとんどを燃やし尽くすほどの激しい炎の中に、何かが動いていた。獣でも、人でもない、村人が見たこともない、何か。村人は炎を消すこともせずにそれを見つめている。犬が一匹、人々の間から飛び出し、納屋の前で激しく吠えたてる。犬の声に炎の中の物が反応をする。村人すべてが後ずさった。
 ザクリ。鋤が地面を掘るような、硬質な何かが地面に突き刺さる、足音。黒い、ガラス質の皮膚が炎を映している。炎の中から現れたのは、水晶の塊を無理矢理人間の形に組み合わせたような、二メートルほどの巨人だった。
 人の形という形容は正しくないのかもしれない。手ばかりが長く背骨の折れ曲がった、巨猿のような姿。水晶人形という言い方がぴったりな、曖昧な造形。それは人の形からかけ離れているからこそ、人という存在を嘲笑しているように見えた。
 犬が水晶人形に飛びかかった。
 カチン。怪物の皮膚が、犬の牙を跳ね返す。
 悲鳴が上がった。人形の手が、一枚の刃に変わり、犬の体に振り下ろされたのだ。刃は一気に犬の体を貫通した。子供が一人、犬の名前を叫びながら、怪物に石を投げる。飼い主なのだろう。
 人形が、首を巡らす。顔の部分には、卵のような艶やかで丸い表面があるだけだ。そこに三つの赤い裂け目が現れる。裂け目が広がっていく。村人が一斉に後ずさりする。
 目だ。白目も、瞳もない、ルビーのような赤い裂け目。
 それなのに何故、目だと分かるのだろう。何故、こちらを見ていると感じるのだろう。
 その裂け目から迸る光が、眼だと確信させるのだ。憎悪。すべての存在を呪う憎しみの光。村人のすべてがこの光を忘れることが出来ないに違いない。人々は夜、その光を不意に思い出し、恐慌にかられるだろう。ある者は酒に逃げ、ある者は眠れぬままに朝を待つことになる。魂に食い込み、怯えの毒をそそぎ込む。怪物の眼は、そんな意志を持っていた。
 石を投げた子供は声も出せず座り込む。ゆっくりと、人形は村人の方へ足を踏み出した。
「この野郎ぉ!」
 見守っていた男の一人が持っていた斧を人形に振り下ろした。刃が半ばまで怪物の腕に食い込む。怪物が勢いよく腕を振った。斧を持ったまま男の体が地に転がる。怪物は腕を振り上げる。怪物の腕の、斧で作られた裂け目に、黒い色の付いた風が吹き込んでゆく。裂け目は瞬く間に塞がっていく。黒い風は裂け目に触れると、瞬時に皮膚として固着していった。斧を持った男は立ち上がることも出来ずに、呆然と振り上げられた怪物の腕を見ていた。
 怪物は縦に並んだ赤い、三つの目を細めた。笑ったのだ。怪物の腕が振り下ろされる。女達が悲鳴を上げる。怪物の腕は地面に突き刺さった。へたり込んでいた男の姿は消えている。
 地面には物を引きずった跡がある。男の悲鳴は怪物から遙か離れたところ、群衆の中から聞こえた。次の瞬間、怪物は首の半ばまで斧を食い込ませ、吹っ飛んでいた。
 バーノルであった。串刺しにされる寸前の男の襟首を掴んで放り投げ、返す手で斧をつかみ、怪物をなぎ払ったのだ。男の身体を数メートル放り投げ、大きな怪物を地に転がすその圧倒的な力。
「アルミス、こいつは何だ?」
 倒れた怪物を見下ろして、バーノルは背後に問う。アルミスは村人をかき分けて、バーノルの傍らに立つ。
「分かりません。〝混沌〟の生き物なのは確かですが……」
 怪物がゆっくりと起きあがる。斧が地面に落ちる。
「ほう」
 バーノルの口に不敵な笑いが浮かぶ。斧が作った怪物の傷に黒い風が吹き込み、瞬時に治っていく。怪物の目はさらに細められ、バーノルの顔一点に注がれている。吹きこぼれる憎悪の、何という凄まじさ。怪物は刃に変わった腕を振り上げ、跳躍する。二メートル半の巨体が、その倍の高さに飛び上がり、バーノルめがけて落下する。
 バーノルは背中に背負った刀の柄を握る。
 アルミスはこんな時なのに、つまらない疑問を感じていた。バーノルの曲刀はその長身の半ば以上の長さがある。鞘は帯で固定され、背にくくりつけられているため、柄をいくら持ち上げても、手の長さでは刀は鞘から抜けない。どうやってあの刀を抜くというのだろう? バーノルの左手が、その答えだった。鞘の先端に添えられた指が金具をはじくと、鞘が貝のように割れた。鞘から放たれた刃が、怪物の腕と交差した。
 切り落とされた怪物の腕の先端が、地面に落ちる。バーノルは刀を正眼に構える。
 怪物は切り落とされた自分の腕を見つめている。切断された切り口に、今までと同じように黒い風が渦巻いている…しかしそれはこれまでの傷のように、固着化し、治癒することはなかった。
 怪物が、バーノルを、いや、向けられた刀を見る。バーノルが足を踏み出す。怪物は後ろに飛び退く。
「こいつが怖いか? この刀は混沌の魔法に対抗する“法の魔法”で鍛えられている。斬られれば、混沌はその力を失うんだ」
 アルミスは耳を疑う、そんな話は聞いたことがない。この人は、一体?
 怪物が身を低くする。目は真っ直ぐにバーノルに向けられたまま、四つん這いになり、バーノルを見上げる。バーノルは足を開き、大きく上段の構えをとる。怪物の体が地面から跳ね上がる。バーノルは一気に刀を振り下ろした。怪物はバーノルの背後に着地する。バーノルはゆっくりと体を回転させ、変わらずに揺るぎのない構えで対面する。
「真っ二つにしたと思ったが……よくかわしたな」
 村人からどよめきが上がる。怪物の顔の半分が、ない。半分になった目の憎しみの光は変わらない。しかし、バーノルとの距離、慎重さを持った姿勢が、バーノルへの恐れを物語っている。
「次はしとめるぞ」
 バーノルの笑みが深くなる。怪物はさらに後ろに後ずさった。
 バーノルが刀を構え直す。
 怪物が突然2本の足で立ち上がる。手を広げた無防備な姿勢。
「む?」
 バーノルの動きが止まる。
 怪物の体が左右に開いていく。黒一色の硬質の皮膚の下から現れたもの、
「クレイっ!」
 アルミスの叫びには驚きと、そして悲しみがあった。
 怪物の体の中に、クレイがいる。目は堅く閉じられ、顔は紙のように白い。クレイの胸に異様な物があった。黒い宝石がはだけられた胸の中心に埋め込まれている。その宝石は、露出した心臓のように、大きく脈打っていた。
 アルミスの予感は確信に変わった。この怪物は、クレイが喚びだしたものなのだ。クレイは魔法で呼びだしたこの怪物に身体ごと取り込まれてしまったのだ。
「アルミス、これはどういうことだ。クレイはどうなったんだ?」
 怪物の体が再び閉じ、バーノルに向けて腕を振り下ろす。バーノルはその腕をかわし、反射的に怪物の身体を斬ろうとして、刀を止めてとびすさる。クレイの身体を傷つけるわけにいかない。
 怪物の目が笑みを浮かべる。怪物がさらに刃に変わった腕を振るう。わずかにかわし損ね、バーノルの腕から血が流れる。
「クレイ、目を覚ませ!」
 バーノルは怪物に向かって叫ぶ。怪物の動きは変わらない。
「アルミス、何とかならないのか!」
 怪物の腕がさらにバーノルを傷つけていく。
 どうすればいいのだろう。拳を胸の所に押しつけながら、必死にアルミスは自問する。
「分かりません、何でこんな事になっているか、クレイが何をしたのか、私には分からない!」
 さらに怪物が襲いかかってくる。
「むんっ!」
 バーノルは刀を捨て、怪物の腕を掴む。怪物の動きを封じようと、バーノルの腕に筋肉が縄のように浮き出る。凄まじい、力同士の戦い。力のぶつかり合いが、両者の体を激しく震えさせる。村人達が歓声を上げる。バーノルの力に、怪物が押さえ込まれていく。
「クレイっ!」
 アルミスは呼びかけることしかできない。
『風の精よっ!』
 アルミスは首飾りに封じた風の精を呼び出す。小さなつむじ風が、空気を歪ませ、輪郭のぼやけた乙女の姿を形作る。
『私の声を、あの怪物の中へ届けなさいっ!』
 精霊語で叫び、怪物を指さす。風の精が怪物の体にまとわりつく。
「クレイっ! 目を覚まして、お願いっ!」
 アルミスの絶叫が、怪物の体の中で、反響する。その瞬間、怪物の体がはぜた。
「アルっ!」
 怪物の身体の中で、クレイは叫ぶ。クレイの身体を再び中に封じ込めるように、黒い物質が両側から扉のようにクレイの身体を覆い始める。バーノルはその物質の縁を押さえる。閉じようとしていた黒い物質の動きが止まる。
「バーノルさん!」
 バーノルは歯を食いしばり、閉じようとする物質を全力で止める。その歯のすきまから、震える声でバーノルはクレイに話しかける。
「クレイ、こいつを何とか止められないか?」
 クレイは周りを見回す。そして自分の胸から溢れる黒い光に気付いた。
「僕の胸の所にこいつを封じるはずだったオパールがあります。これを壊せば、こいつはこの世界にいられなくなるはずです!」
 バーノルはクレイの胸を見る。はだけられた胸に、脈打つ宝石が埋め込まれている。クレイはオパールといったが、漆黒の色に変わり、脈打つ宝石は明らかに違うものに変質している。その位置は……クレイの心臓の真上だ。
 バーノルの顔がこわばるのを見て、クレイは悟る。怪物に取り込まれたクレイの胸の宝石を壊すということは、クレイの身体を刃で貫くしかない。怪物を倒すということは、クレイもまた死んでしまうということなのだ。クレイは事の成り行きと自らの運命に呆然とする。
「おい!」
 バーノルがクレイの顔の前で、大声で呼びかける。反射的にクレイは顔を上げる。黒い物質を押さえたまま、バーノルはクレイに笑いかける。
「心配するな、絶対助けてやる」
 クレイはバーノルの眼を見てから、大きくうなずく。バーノルが飛び離れると同時に、クレイは再び黒い物質に覆われる。クレイの胸の宝石だけが、怪物の胸の表面に露出している。バーノルは落ちていた刀を取り上げる。柄を握った手を大きく後ろに引き、切っ先を怪物の胸に向ける。
「あの宝石だけを、壊すんだよな…」
 剣の切っ先は微動だにもしない。バーノルの額に汗が光る。狙うは親指大の宝石ただ一点。刀の切っ先を宝石の厚さだけ、突き刺そうというのだ。
 怪物が迫る。
「ふんっ!」
 紙一重で怪物の腕をかいくぐり、ねらい通りに切っ先を宝石に当てる。
 宝石に刀が突き刺さる。刀から伝わる宝石は、ぞっとするほど柔らかな、予想と違う物質に変わっていた。
「ちいいっっ!」
 バーノルの口から声が漏れる。このままでは刃がクレイの心臓に届いてしまう! バーノルは必死に刀を引き戻す。
 激しい破裂音とともに、怪物の体がはじけ飛ぶ。クレイの体が、地に落ち、仰向けに横たわった。
 クレイの胸の宝石は硬質の堅さを取り戻し、二つに割れて胸に埋め込まれている。宝石の埋め込まれている部分からわずかに血が流れている。バーノルはクレイの胸に手を当てる。心臓の鼓動が伝わってくる。刃はクレイの皮膚を傷つけただけだ。
 気を失ったままのクレイがわずかにうめく。
「クレイっ!」
 アルミスがクレイの体に取りすがる。
 バーノルは空気が変化したのを感じ、後ろを振り返る。村人達が立ちすくんだまま、三人を見ている。バーノルはわずかに眉をひそめる。ある者は密やかに、そしてある者ははっきりと、感情を宿して、三人を見ている。嫌悪と、恐怖。アルミスも不穏な空気を感じて、涙を拭って村人に振り返る。
 その時、
「ここから出ていけ、魔法使いっ!」
 村人の中から、声が上がった。反応は強烈であった。すべての村人が、不安と恐慌に支配される。誰だ。不遜なことを言ったのは、自分じゃない、魔法使いに目を付けられたら終わりだ。決して、自分じゃない。
 村人達の目は生け贄を、魔法使いが怒りを向けるための不敬な生け贄を探してお互いを見る。
「みんな、ボドルフはいなくなったんだ。あの山にいるのはもうあの餓鬼二人だけなんだ。俺達は魔法使いから、自由になったんだ」
 再び、声が上がる。村人達の列が割れる。その中心に一人の男が立っている。村長の息子・ルボノ。先ほどから声を上げていたのは、この男だった。ルボノはアルミスを指さす。
「この魔法使いの娘が、親父に言っていたんだ。ボドルフは家を出て帰ってこない。こいつらはボドルフを探しに根の国に行く。俺達はもう自由なんだ。魔法におびえることも、村一番の作物を捧げることもしなくていいんだ。俺達の村は、俺達自身のもんだ。もうこいつらに、でかい顔なんてさせやしない!」
 震えていたルボノの声が熱を帯びてくるとともに、村人のアルミス達を見る目に力がこもっていく。村人達すべての表情に変化が起きつつあった。恐怖から、反発へ。
 バーノルはわずかに足の位置を変える。大きな動きは出来ない。村人達に刺激を与えれば、どうなるか分からない。緊張した空気が、お互いの間に流れる。
「何を言うんだ。馬鹿者が!」
 ルボノの後ろから、声が飛んだ。同時にルボノはいきなり棒で殴りつけられ、地に倒れる。
「村長?」
 村人達の驚きの声。倒れたルボノの後ろに棒を持った村長が立っていた。ルボノは父親を見上げる。
「お、親父…」
 村長はさらに倒れている息子を蹴る。そのまま息子の身体を飛び越えると、アルミスの足下に平伏した。
「お、お許し下さいアルミス様。息子の戯言を、お許し下さい」
 大声で叫んでから、後ろを振り返る。
「お前らも、早く許しをこわんか不敬者が! 儂等の畑をならしてくれた人は誰だ? 二年前、青銅獣の群から村を助けてくれたお方はどなただ? 儂等もあの獣達のような目に遭いたいのか?」
 村長の声に村人はすぐさま従った。一斉に土下座し、口々に許しの言葉を叫ぶ。
「お許しを」
「お許し下さい」
「お助けを」
 恐怖だけが村人を支配していた。見上げる村長の顔を見て、アルミスは悟る。見慣れた村が、村人一人一人が、アルミスの前で、何度も姿を変えるようだった。一斉に土下座をし、口々に許しを乞う村人を見て、アルミスは思う。
 知らなかった。この人達は私達が、いや、お父様の魔法が怖いのだ。
 アルミスの背に不意に寒さがやってくる。気を失ったクレイの体を抱きしめる。胸の中に、黒い穴が開いたような気持ち。
 アルミスは静かにクレイの体を横たえてから、立ち上がる。
「……顔を上げて下さい。私達は気にしていません」
 ゆっくりと、アルミスは言う。
 ぱっと村長が顔を上げる。歓喜の表情。その老人の顔にアルミスはかすかに嫌悪を感じる。
「ゆ、許していただけるので?」
 村長の震える声にアルミスは無理に笑う。
「クレイが、あなた達の納屋を燃やしてしまった上に、こんな夜更けに騒ぎを起こしてしまったのです。謝らなくてはいけないのは私の方です」
「そんな、もったいないお言葉です」
 村長はアルミスに卑屈に笑いかける。アルミスはわずかに声を張る。くじけそうになる足に力を込める。
「今はお詫びをすることが出来ません。いずれ、近い内に……お父様の方から、お詫びをさせて……頂きます」
 涙があふれそうになる。下を向きそうになったとき、強く、暖かい腕が、アルミスの胸をそらさせた。
 村中の人間が、再び深く土下座をする。
 アルミスは小さく後ろを振り向く。バーノルが、アルミスの背をそらせるために肩にかけていた手で、もう一度アルミスの肩を軽くたたいた。
 アルミスはかすかに、バーノルに笑いかける。涙が、少しこぼれた。

5

『お前は私の物だ』
 闇の中から声が響く。クレイは必死に耳をふさぐ。
『お前は私の物だ』
 いくら耳をふさいでも、声はとぎれない。闇の中をいくら走って逃げても、声は離れない。声はクレイの中から、聞こえてくるのだ。
「助けて!」
 クレイは絶叫する。
 クレイの中のものが笑い声をあげる。
『何を逃げる。何故私を拒む。私を呼んだのはお前だ。お前は私の物だ』
「違う!」
『私はお前だ。自分の心に問うがいい。私を求めたのはお前だ。私とお前は一つになった。死が互いを分かつまで、お前は私の物だ。私はお前のものだ』
「嘘だ」
 声の嘲笑。
『嘘かどうか、きちんと自分で問うがいい。この声はどこから聞こえる? そしてお前に話しかけているのは、誰だ?』
 胸に激痛が走る。クレイの胸の中から、何かが出てくる。胸が皮膚を、肋骨を圧迫する。その激痛が、愉悦に変わっているのを自覚して、クレイはおののく。このまま力に任せてしまいたい。この力を解放したい。
 何かが胸の皮膚を突き破り出てくる。いつの間にかクレイは胸の中のもの自身になっている。クレイの体は卵の殻だ。この殻から出ることで、自分の力を思い切り、振るうことが出来る。力を解き放てば、自分は変わることが出来る。力を持った存在に。
 流れに身を任せれば、信じられないほどの快楽と、力を得ることが出来るのだ。出てくるものに恐怖を感じる自分。解放の衝動に身を任せる自分。クレイには、境界線を引くことが出来ない。
 その恐怖が、クレイに悲鳴を上げさせる。

 ベッドの上で、クレイが悲鳴を上げる。
「クレイ!」
 アルミスはベッドの上で暴れるクレイを押さえつけ、何度も名を呼ぶ。暴れる腕がアルミスの傷に触れる。歯を食いしばって、アルミスは声が出るのを押さえる。
 口から出すのは、クレイの名前だけだ。
 クレイの様子が落ち着く。クレイの髪をなでる。柔らかな、茶色の髪。
 子供の頃、クレイはアルミスの銀の髪をうらやましがったが、アルミスはクレイの柔らかい髪に、指を通す感触が大好きだった。
 クレイの苦しげな顔。アルミスの目に涙があふれる。
 小さな、ノックの音
「クレイは大丈夫か?」
「バーノルさん……」
 バーノルが部屋に入ってくる。アルミスはクレイのベッドに腰掛けて、バーノルに椅子をすすめる。
 あの騒ぎが終わった後、クレイは目を覚まさなかった。三人は村長の家に戻り、アルミスはクレイの看病をしていたのだ。
「クレイのやつ、大丈夫なのか?」
 バーノルは、もう一度聞く。
 アルミスの緑の瞳が下を向く。
「分からない……“封印”を失敗すると、こういう症状になる。精霊にほとんどの力を吸い取られてしまうんです」
「お、おい」
「命に関わることはない。ない……はずなんです」
 アルミスの語尾が震える。
「でも、あれがなんだったのか、私には分からない。あれは精霊なんかじゃない。何であんな事になってしまったのか……分からない」
「……」
「でも、クレイが無茶なことをするんじゃないかって、思っていたんです。こんな事になるんじゃないかって、心の底で感じていたような気がします」
「アルミス……」
「……私には止めることが出来ませんでした。クレイに『無理をしないで』とは言えなかった……」
 嗚咽がアルミスの口から漏れる。涙の滴が、包帯の上に落ちる。
「まぁ……、誉めてやるんだな」
 わずかに顔を赤くしながら、バーノルはアルミスを見ずに、小さく言った。
「えっ?」
 アルミスが、顔を上げる。
 バーノルは天井を見上げて、首筋の傷跡をかきながら、
「まずはしかるんだぞ。『無茶なことするな』とか、何とか。その後、誉めてやれ。実際、あんな凄いやつをまがりなりにも、喚びだしたんだ。そうまでして、クレイは努力をしたってことだ。そこは、誉めてやった方がいい」
「バーノルさん……」
 アルミスの声に、さらにバーノルは照れたらしかった。頭を乱暴に掻く。それからクレイに目をやって、唇の端を笑いの形にゆがませる。
「こいつは、本当にがんばったんだ。それだけは、ちゃんと、誉めてやれよ」
 アルミスは涙を拭って頷く。
「はい」
「少し居心地が悪いが、迷惑のかけついでだ。明日一日村にいて、それから出ようぜ。明日はゆっくり休めるようにしよう」
 そういってからバーノルは部屋を出る。
「……ありがとう」
 アルミスの声が背にかかる。バーノルはちょっと惜しいと思いながらも、アルミスの顔を見ずに、ドアを閉めた。

 昼頃に、クレイとアルミスは、村長や、バーノルの前に姿を現した。バーノルはクレイの表情の中に、明るい光を見る。アルミスの緑の瞳の中にも。大丈夫だ。バーノルは心の中で確信する。
 次の日の早朝に三人は村を離れた。村から分けてもらった荷物は、もらったロバの上に積んである。村人すべてが早朝にも関わらず、三人を見送っている。
 アルミスとクレイは、硬い表情で村人を見ている。そのまま足を速めて村から出ようとする。そんな二人に、バーノルは声をかける。
「よく、見ておけ。お前達とつながりのある世界は、ここで終わるんだ。思い出に、この光景は焼き付けておくんだ」
 アルミスとクレイは後ろを振り返る。村人達は三人を見送り終わったとして、それぞれの生活に戻っていくところだった。
 アルミスとクレイが知っている人々が住んでいる所。ここを出て、二人は本当の旅人となる。村を見たまま、クレイはアルミスに話しかける。
「アル、きっと、帰ってこよう。先生と一緒に。三人で、また、この村に来るんだ」
「ええ」
 アルミスと、クレイは互いの手を握る。
 アルミスとクレイは、二人にとって未知の世界へ、足を踏み出す。 

── 第3章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました