第二章 口
いつもの時間、いつもの駅、いつもの車両。
そして――その“いつも”の場所の前に、男は立った。
そのまま、彼の指の熱が残っているかのように、目の前のつり革にそっと触れた。
その行為は、まるで懺悔だった。
彼はこんなふうに私を見ていたのだろうか……。
男はかつての自分の残像をそこに見た。
ビジネスバッグの柄を愛おしそうに指で撫で、目を閉じ、体を震わせた。
それは、男が快楽に攫われた記憶の残響だった。
男は吐き気と軽蔑に襲われ思わず手で口を覆った。
目の前の像がこちらを一瞥し、ニヤリと笑った。
見えるはずのないその笑みに、体の奥が冷えた。
車両のドアが開くと、押し寄せるように乗車客の群れが雪崩れ込んだ。
つり革を握る手に、ぐっと力がこもる。
ドサッ、と重みのある音。
男はそっと顔を上げた。
窓越しの反射の中に、切れ長の目をした彼が立っていた。
「彼だ……。」
男は、咄嗟にうつむいた。
口もとが緩み、笑みがこぼれる。
「彼が、隣に来てくれた……。」
再び出会えたことへの微かな熱が胸の奥にじわりと広がっていくのを感じつつ、男は視線を戻す。
その瞬間、ピクリと肩が揺れた。
彼の口元に、まだ乾ききらない赤いかさぶたが浮いていた。
彼は舌をちろりと出し、かさぶたに触れる。
男はたまらず、前を向きつり革を握り直し、深呼吸した。
赤みを帯びた彼の唇がわずかに開き、熱を帯びた吐息がこぼれた。
男は奥歯を噛み締め、そっと目を閉じた。
車内のざわめきに紛れるような微かな音が、耳に触れた。
「……っつ……」
堪えるような小さな声が、彼の喉奥から零れた。
男は無意識に下唇を噛み、彼と痛みを分かち合っているような錯覚に沈んだ。
彼は、左手の中指でそっと傷跡に触れる。
ジュクッと滲んだ血と、わずかに粘り気を帯びた体液が指に付着した。
男は彼の白い指先に絡みつくそれに釘付けになった。
男は喉の渇きを覚えた。
彼はじっと血の付いた指先を見つめ、それを口元へと運んだ。
彼は自分の指先を吸い、ほんの少し指先を上下に動かした。
男は窓に映るその一連の行為に、下腹部をきゅっと締め付けられる思いがした。
男はそっと目を閉じ、眉をビクリとさせた。
深いため息とともに、正面を向いた男の顔は少し赤みが刺している。
彼は、指を見てもう一度口元へ運び、今度はちうちうと吸い出した。
小さな羽虫が発する高くかすかな音が、男の耳に絡みつき、鼓膜を突き破り、脳天を震わせた。
その刺激は脳から脊髄へと伝い、男の下腹部をさらに疼かせた。
深いため息とともに、窓に恍惚とした表情の男が映り込んでいた。
男は己の姿を見て頬が引きつった。
だがもうすでに、男はぽっかりと空いた暗闇にずるずると沈み……音もなく壊れはじめていた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。