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白檀の香り

Makoto Yaoi

22,330 字

父の法要で出会った、大学生の僕と若い僧侶の物語です。 

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第三章 渇愛

あの名刺にはどんな意味があるんだろう。

名刺を見る度に思い出す、
あの菩薩のような柔らかな笑顔と
僕を見つめるあの鋭い眼差し。

知りたくて、知りたくない渡された名刺の理由。

名刺をもらってから、しばらくは連絡をしなかった。

大学に入学して忙しかったということもあったが、
連絡をしてしまうと何かが崩れてしまいそうで、
それができずにいたのだ。

それでも、夜、布団の中で泣いている
妹を見たときや、
仏壇の前で涙ぐむ母を見た時には、
誰かに話を聞いて欲しくなった。

名刺は、机の一番上の引き出しに入れていた。
僕は時折取り出しては鼻に当て、
白檀の香りを探した。
今はもう殆どしない、
甘くて爽やかな香りを想像して目を閉じる。
そうすると、心の雑音が消え、
すうっとどこかへ落ちて行くことができた。

***

5月の連休前に、
母が父の納骨の日程について聞いてきた。

法要の度に親戚達に足を運んで
もらうのも大変なので、
百箇日に納骨をしてこれを最後にしよう
と思うという話だった。

淡々と説明を進めながら法事の予定を
カレンダーに書き込む姿に、
母なりのけじめをつけようとしているように見えた。

「いいんじゃないかな?毎回準備も大変だし。」

「それでね…。」

と母は携帯で料亭のウェブサイトを見せてきた。

「最後だし、お昼は御膳を頼もうと思って。
ご住職には仕出し弁当をお渡しして……
あ、慧光さんはどうなさるのかしら。
また送ってこられるなら、お弁当は二つにしないと。」

「あ、僕連絡先教えてもらったから、
聞いておこうか?」

ほぼ無意識に言葉が出た。

「じゃ頼もうかしら……この数ヶ月で
あなたもすっかり大人になったわね。」

申し訳なさそうに見つめる母の眼差しに、
思わず目を逸らしてしまった。

「気にしないで。」

僕は母の目を見ないまま告げると、
階段を駆け上がって部屋へと急いだ。

引き出しに入れていた名刺を取り出す。
鼻に近づけてみた。

さすがにもう何の香りもしない。

名刺を机の真ん中に置き、深呼吸をする。
携帯電話を取り出し、
もらってすぐに登録した電話番号を確認した。

間違ってないよな?

番号を一つ一つ確認した後、発信ボタンを押した。

3コールほどで、メールのほうがいいか?
と思い直し電話を切ろうとした時、

「もしもし。」

耳元であの低く響く声がした。
身体の奥が熱を帯びる。

「慧光さん、圭吾です。……小山圭吾。
……あの、わかりますか?
父の法要に来ていただいた。」

少しの沈黙も耐えきれなくなって、
僕は少し早口になっていた。

「はい。分かりますよ。
電話ありがとう。元気にしていた?
大学が始まって、忙しいでしょう。」

柔らかく包み込むような声に、全身の緊張が解ける。

「はい。慣れないことばかりで、
バイトも始めたし……。」

「アルバイトか。何やってるの?」

「駅前の喫茶店です。」

「あ、あの白い壁の?
あの前に葬儀場があるの知ってるかな?
よく葬儀で行くんだよ。」

――知っている。もしかしてという思いもあり、
アルバイトに選んだ店だった。

実際に、窓から黒の法衣に身を包んだ慧光を
見かけたこともある。

何気ない会話に体の力が抜けていく。

「お母さんやご家族はお元気ですか?」

「はい、元気にしています。
今は法事も続くので色々忙しいのもあって、
気が紛れているんだと思うんですが。

――あ、実は今度うちで百箇日と納骨を
しようと思っていて。」

「あぁ、5月の4週目の土曜日でしたね。」

「慧光さんも来られますか?
母が来られるのか聞いてほしいと言っていたので。」

「その日も僕が車で送る予定です。
だから電話をかけてくれたのかな。
……なんだ、勘違いしちゃったな。」

照れくさそうに話す慧光の声が聞こえた。

そうじゃない。

もちろん頼まれたということも理由の一つだが、
ただ慧光と話をしたかったのだ。

「それもありますけど。僕が、慧光さんとお話したくて。」

変に思われるかもしれないが、
電話をかけた理由を誤解されたくなかった。

少しの沈黙が続いた。

まるで判決を待つかのような気持ちで、
僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。

電話の向こうで、
微かに慧光の息づかいが聞こえた気がした。

「……僕も圭吾くんと話をしたかったのでよかった。
よかったらどこかで会いませんか?」

低い声でゆっくりと紡がれたその言葉に
僕は目を見開いた。
心臓が大きく脈打ち、電話を持つ手に力が入る。

「はい。」

これ以上話すと、声が上ずってしまう。

「えっと……じゃ、来週はどうかな?」

「来週は火曜日と、金曜日の午後からなら。
あと、土曜日も。」

「じゃ、金曜日に。
圭吾くんのうちまで迎えに行くよ。いいかな?」

「はい。ありがとうございます!
よろしくお願い致します。」

力み過ぎてしまった。
電話の向こうで、クスクスと笑っているのがわかる。

「じゃ、金曜日の、1時頃でもいい?
お昼を一緒に食べよう。」

「はい。待っています」

電話を切り、ベッドに寝転んだ。
手に持った携帯電話さえ愛おしい。 

重症だな……。

***

慧光が来たのは、一時ちょうどだった。
前回と同じく、黒の軽自動車。

慧光は助手席のドアを開け、

「ひと月ぶりだね」

と声をかけて来た。

こんな風に会って話すのは初めてなので
圭吾は緊張のあまり頷くことしかできなかった。

白のインナーにカーキ色の薄手のジャケット、
黒いパンツ。
いつもの法衣姿に慣れていただけに、
思わず見入ってしまう。

「恥ずかしいな、そんなに見ないで。」

慧光は少しはにかみながら言った。

僕は助手席に乗りシートベルトを締める。

「座席、後ろすぎるかな?
いつも父親が乗ってるから……」

そういいながら慧光が僕に近づいてきた。

座席の下のレバーに手をかける。
同時に背もたれに手をかけて、
座席を前にスライドさせる。

いつもの洗練された所作ではなく、
力強いその動きに、鼓動が早くなる。

慧光のジャケットからする白檀の香りが、
抱きとめられた記憶を呼び起こす。

ハンドルを握る慧光は
僧侶の時より幾分若く見えた。
ジャケットを着ていても、
均整の取れた体つきであることがわかる。

「そんなに僕の私服が珍しいかな。」

笑いながら慧光が聞いてきた。

「いや、意外に筋肉質だなと思って……。」

僕は前を向きながら言った。

「高校3年間水泳部だったからね。
上半身はまだ筋肉がついてるんだよ。
たまにジムも行くし。」

水泳部。そう言えば高校教師だった父も
水泳部の顧問をしていた。

「父さんも、水泳部の顧問をしていたんですよ。」

小さな共通点でさえも嬉しくて、
僕は無邪気に話しかけた。

しかし、慧光は苦しげに押し黙ってしまった。

僕が次の言葉を待っていると、

「僕の顧問だったんだ……。
僕が水泳部だった時の顧問が小山先生なんだよ」

慧光は少し苦しそうに話した。
「え⁈」
僕は驚いて慧光を見た。

父と慧光の接点と僕と慧光の出会いに、
奇妙な因果を感じた。

「小山先生には高校3年間本当にお世話になったんだよ。」

慧光は思い出を手繰り寄せるかのように
少しずつ話してくれた。

「僕は高2の時に母を亡くしてね。」

思わぬ話に、僕は慧光を見つめた。
少し悲しそうに慧光は続けた。

「亡くなる前の三年間は入退院を繰り返していて、
ほとんど家にいなかったんだ。
母は寺のことをひどく心配してね。
それで知人の住職の娘という人が母の手伝いに来たんだ。
それが今の僕の義母なんだ」

突然の慧光の家族の話に、僕は戸惑った。
そして、慧光も高校生で母親を亡くしてたということを
聞いて胸のあたりが痛くなった。

「母は寺の娘が来たことをありがたいって言ってたけど、
僕はそれが許せなかったんだ。
そのあと、半年ほどして『もう心配することはない』と言って
母は他界したんだよ」

慧光は一瞬眉間に深いしわを寄せて苦しそうな顔をしていた。
今でも、やりきれない思いがあるのだろう。

「その時は荒れに荒れたよ。うちに帰らなかったり、友だちと喧嘩したり。そんなときに僕を支えてくれたのが、小山先生だったんだよ。」

父の名を口にした時の慧光の切なげな表情に
僕は既視感を覚えた。

初七日の時だ。 

読経の後の法話で、慧光の見せた悲しげな笑顔だ。

慧光は懐かしそうに遠くを見ていた。
彼の目線の先には父がいるのだろうか。

『愛別離苦』

僕の脳裏に初七日で聞いたあの言葉が浮かんだ。

慧光は切なげに遠くを見ながら、

親指で何度も何度もハンドルを撫でた。

僕はその動きに小さな違和感を覚えた。

車は隣町の小さな一軒家の前で止まった。 

「さあ着いたよ。ここは本当に、何でも美味しいんだよ」

慧光は気持ちを切り替えるかのように、
明るく言った。

店は結構混んでいてにぎやかだった。
話が聞こえにくい僕らは時々顔を近づけて話した。
そのたびに甘い白檀の香りがする。

慧光は父との思い出話を色々してくれた。

慧光の目線で語られる父は
教師と言うより包容力のある一人の男
のように聞こえた。 

また、違和感が胸に染みを作る。

「よければ部活の写真を見る?」

慧光は携帯電話を取り出しながら聞いた。

働く父の様子なんて見たことがなかった。
僕は頷いた。

僕は慧光の隣に座り直し、一緒に写真を見た。

慧光がゆっくりと写真をスクロールしていると
父が古いベンチで一人、
居眠りしている写真があった。
顔に落書きがされている写真だった。

慧光はすぐに写真をスクロールした。

父の写真と慧光の無言のスクロールに
違和感がまたさらに広がっていく。

僕はわざと慧光に写真の話をした。

「あ、さっきの写真、僕覚えています。
小学6年生の誕生日の日、父が大きなマスクをして帰って来たんですよ。
顔に落書きされたって言って。」

慧光は少し悲しそうにこちらを見ていた。
もしかして、落書きしたことに未だに罪悪感を持っているのかもしれない。

そう思い、僕は努めて明るく話した。

「あれって、慧光さんだったんですか?」

慧光は押し黙ったままだった。

「あの後僕たち石鹸やお湯で一生懸命父の顔を洗ってね。
最後はどうしてもうっすら残っていたから、
母が父にファンデーションを塗りだして。
僕、すっごく笑ったんですよ」

小山家の笑い話にも、慧光はどこか上の空で
悲しげな表情をしていた。

「高校へ行ってみようか。」という慧光の提案で僕らは店を出て、
父が勤めていた高校を見に行くことにした。

あの写真の話から慧光の様子がどうもおかしい。

「慧光さん、あんな父の写真、いつまでも残してたんですね。」

慧光は何も言わないまま運転をしていた。

僕は慧光の顔色をうかがいながら、

「僕に送ってくれませんか。父の写真」

と聞いてみた。

慧光は一瞬眉を曇らせた。

――嫌がっている。

僕はあの一瞬の表情が慧光の気持ちのすべてだと悟った。

「ごめんね。あの写真は僕の思い出の写真なんだ。
だから、君にはあげられない……」

慧光ははっきりとした口調で断ってきた。

僕の中で疑惑が確信に変わった。

「慧光さん、父のことが……好きだったんですか?」

知りたくないのに、聞かずにはいられなかった。
僕は冗談めかして軽く聞いてみた。

それでも慧光は何も答えなかった。

「通夜も葬儀もたくさんの方が来てくださって、
父の人望だねって母と話していたんです。
父を好きでいてくれて、ありがとうございます。」

僕は慧光の気持ちを煽るように、
彼をほかの弔問客と同じだということを言外に伝えた。

それに苛立ちを覚えたのだろう、

「……渇愛していたんだよ、僕は」

慧光は苦しそうに僕に話した。

「渇愛?」

僕が呟くと

「そう。渇愛だよ。
暑い夏の日に朝から何も飲んでいなければとても喉が渇くでしょう。
無性に水が飲みたくなる。あの感覚です。
私は、無性に愛情が欲しかった。喉から手が出るほどにね。」

と、説明してくれた。
僕はその言葉の重さに言葉が出なかった。

「その渇愛が、親愛の情なのか恋慕の情なのか、
今となってはわからない。
でも確実に、先生からの愛情を求めていたんだ。
そんな気持ちだったんだよ。僕の好きは」

慧光はハンドルを握りながら、遠くを見据えていた。
きっと慧光は父の幻影を見ているんだ。

慧光は父に執着している。
その事実に、父への嫉妬が大きく膨らんでいった。

しかし、その父はもう今はいない。
彼の渇きを癒せるのは僕だけだ。

僕は慧光がまるで迷子の子どものように見えた。

「大丈夫ですよ」

僕は慧光を見つめ小さく呟いた。
彼の執着は僕が受け止める。

「僕は父に似ていますか?」

思わず僕がそう聞いたてしまった時、
車は砂利の敷かれた駐車場に入った。
砂利の上を走る音に、僕の質問はかき消された。

僕はその事に少しホッとした。
これで良かった。
僕は自分の狡さに驚いた。

慧光は車を停めたあとこちらを向いた。

真っ直ぐに僕を見つめる。

「似ているよ。目元や鼻筋がとくに。
笑った顔もよく似ている。懐かしいな。」

と言いながら、顔にかかった僕の前髪を横に分けた。
慧光はまた悲しそうに笑っていた。

聞こえていたんだ。
似ていると言われたことが
僕に小さな絶望と期待を抱かせた。

校門を囲むように植えられた桜の木には
青々とした葉が茂り、大きな影を作っていた。

流石に高校の中には入れず
外から見るだけになったが、
つい数か月前まで父が通っていた
学校を見ることができるだけで十分だった。

僕たちは外から、高校の周りを一周することにした。  

学校の裏手からはプールを見ることができる。
プールサイドには崩れかかった古いベンチがあった。

父が居眠りしていたベンチだ。

慧光はそのベンチを愛おしそうに見ている。

彼の渇愛の対象は未だに父なのだ。

目の前にいるのは僕なのに。
怒りにも似た嫉妬心で息苦しくなる。

「渇愛」という文字が頭から離れない。
慧光が狂おしいほど欲しているのは父ならば、
その父に似た僕があなたを渇愛すればあなたは抗えないだろう。

「僕も慧光さんに渇愛してもいいですか。」

苦しさに耐え切れず慧光に告げた。

「あなたが父へ向けたその気持ちを、私もあなたに向けたい」

僕が言葉を続けると

風が吹き、葉擦れの音がかさかさと鳴った。

一瞬目を閉じた。

再び目を開けると慧光が目の前に立っていた。
慧光はじっと僕を見た。

背中がひやりとした。

僕は慧光と初めて目が合った時を思い出した。

慧光は風に煽られた僕の髪を整えながら、

じっとこちらを見ている。

僕の心臓は苦しいくらい大きな音を立てていた。
緊張して体中が強張っていたが

僕は笑顔を作った。
僕は慧光の喉が大きくうねるのを見逃さなかった。

「慧光さんが父の死を悲しむように、私も悲しいし、寂しい。
その気持ちをあなたで埋めてくれませんか」

僕はもう一度言葉を重ねた。

彼は何かを言おうとして、再び言葉を飲み込んだ。

僕は慧光を見つめながら、さらに微笑んだ。

彼を手に入れたい。
そんな思いが胸いっぱいに広がり
僕は彼を見つめながら、ため息とともにその思いを外に出した。

慧光の目が大きく開いたあと、

「いいよ。」と呟いた。

もう一度風が吹いた。

風に乗って白檀の香りが僕の頬を撫でた。

「うれしい」

僕は微笑みながら慧光を見上げた。

慧光の指が前髪から唇へ滑り落ちようとした瞬間、
彼はためらうように手を引いた。

僕は慧光の手をそっと掴み持ち再び僕の頬に戻した。

彼の親指が唇に触れる。

じっと慧光を見つめた。

父の代わりでもいい。
その執着を僕にも向けてほしい。

僕は少し微笑んで見せた。

その時、慧光の指がぴくりと動いた。

彼は両手で僕の顔を引き寄せ、柔らかく唇を重ねた。

甘い白檀の香りが二人を包んだ。

その甘くて重い香りは
僕たちを抜け出すことのできない深淵へと
堕として行った。

強い風が吹き、プールサイドの古いベンチが
風にあおられて、ざりっと地面を撫でて滑った。

── 第3章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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