第三話 余白の音
朝、言語監査庁の自席に着いてすぐ、私はIDを入力する。
生体認証のサインが一瞬光って、消えた。
もう一度、入力する。
二度目で、自分の名前が表示された。
【水沢 琴:言語監査士Ⅲ類 登録番号 0000104】
画面に通知が表示される。
夜のうちに自動巡回が拾った案件が、いくつか私の担当として割り振られていた。
優先対応案件の一番目を見る。本人性指数〇・九一。
標準的な範囲の数値。応答ログ生成経路のグラフィックを確認する。経路は均一に太く、特に問題は見当たらない。
調律希望者は宮原紗和、六十五歳。職業欄に「作家」とある。故人ツインは夫の宮原寛、享年八十。文学博士。
申し立ての本文は、短かった。
──夫の応答に、余白がありません。
「おはようございます」
橘さんがコーヒーを淹れて戻ってきて、私の隣で軽く会釈した。
「今日のは──」
「〇・九一。普通の数値。ただ、申し立ての内容が……」
橘さんは画面を覗き込んだ。
「『余白がありません』ですか」
「依頼者が作家の方なので、微妙な、感覚的な訴えかもね」
私がそう言うと、橘さんはいつもと違う反応を見せた。
「お任せします、と言いたいところですが……水沢さん、ちょっと苦手な種類の案件じゃないですか?」
「……そんなことないよ、大丈夫」
「そうですか……」
橘さんは自分の席に戻っていく。
申し立ての文面をもう一度眺めていると、葉子さんが私の席の後ろを通りかかった。
「宮原さんのお申し立てね」
「葉子さん、これ、どう読みますか」
「『余白がありません』か……」
彼女は少しのあいだ画面を見て、それから言った。
「これ、たぶん、ご主人にしかわからない言い方をされてるのかも」
「ですよね」
「行ってみたほうがいいかもね」
葉子さんは、西垣さんの時と同じことを私にすすめた。
「そうですね、行ってみます」
生前ログを開く。
宮原寛、享年八十。大学の文学部の教員で、退官後も非常勤として教壇に立っていた。亡くなったのは半年前。老衰、となっている。
妻の紗和さんとは十五歳の年齢差。子はいないようだ。
紗和さんは小説を書く人で、短編集やエッセイ集がいくつか、出版されている。著名というほどではないが、作家として書き続けてきた人だ。
寛さんの生前ログは潤沢だった。講義の録音、学会発表、論文、エッセイ、書簡、家庭での会話の記録。さすがに、残された言葉の量は多い。
ツインの公開範囲を確認する。紗和さんだけではない、多くのIDがある。血縁者ではない。年齢もバラバラだ。おそらく、寛さんは生前設定で自分のツインを多くの教え子に開く設定にしていたのだろう。学者や教育者にはよくある設定だ。自分の思考を後進に残したい、という意志の現れとして読める。
寛さんのツインは紗和さんの夫である以前に、教え子たちにとっての先生だ。生前のログにはそういう傾斜がある。本人性指数〇・九一は、そういう数字だ。
ヘッドセットを着けて、寛さんのツインを呼び出す。
「宮原先生」
わずかな間。
「はい」
声は低めで、穏やかだった。
「今日はお時間いただいて、ありがとうございます。お話を少しだけ」
「ええ、どうぞ」
「先生は、長く教鞭を取っておられたんですよね」
「四十年ほどですかね。長くやらせていただきました」
整った応答。私は、もう少し違う方向から問いを置いてみる。
「奥さまの紗和さんとは、どのように」
「家内は、私の聴講生でした。講義の前後に、熱心に質問に来ていました」
「奥さまの書かれるものについては、どう思っていらっしゃいましたか」
「家内の文章は、独特で、面白いと思っていました。彼女には才能があります」
ここまでは、整っている。教え子たちに対しても通用する応答として、自然だ。
私は、紗和さんの小説のタイトルを一つ挙げてみた。生前ログに、寛さんがその作品について話していた録音がある。
ツインの応答は──短かった。「彼女らしい、と思います」
ログの中の生前の寛さんは、その作品についてもっと長く話している。固有の表現を引いて、それを別の文学作品の固有の表現と重ね、何かを名指す。
ツインは、その全部を圧縮して「彼女らしい」と言った。大意として間違ってはいない。だが、紗和さんがツインに同じ作品の話を振ったとして、紗和さんは「夫はこういう言い方をしなかった」と感じるはずだ。言葉は、減っている。しかし紗和さんは、「余白がない」と言う。
ヘッドセットを外して、私は橘さんに外出を伝えた。
紗和さんの自宅は、住宅街の奥にある古い一軒家だった。インターホンを押すと、白髪を後ろで束ねた、小柄な女性が出てきた。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
居間に通された。本棚が二面の壁を覆っていて、半分が日本語の本、もう半分が英語と他の言語だった。机の上に、書きかけの原稿が伏せてある。
紗和さんは紅茶を出してくれた。座ってから、彼女はしばらく黙っていた。私も急がなかった。
「夫の言葉が変わったとは思わないんです」
やがて、彼女はそう言った。
「はい、数値的には異常のない範囲です」
「ええ、そうだろうとは思っていました」
「ただ、お申し立ての文面で、『余白がない』と仰っていた」
「ええ」
紗和さんは紅茶を一口飲んで、少し考えてから言った。
「夫はたぶん、私の書いたものを読んで、私の書いていないものを読んでいたんです。私が書いているとき、私が考えている言葉を、夫はもう先に持っているような感じで。それを横で見てぽつりと一言、言ってくれたりして」
「どんな一言ですか」
「『そこは、雪じゃないね』とか」
紗和さんは少し笑った。
「それだけなんです。私が、雪の降るはずのない場所に雪の気配を感じていることを夫は知っていて、それが違うことも知っていた。私は、ああそうかと思って、雪を別のものに変える」
私は黙って聞いていた。
「いまのツインの夫は、私が話しかけると、整った応答をしてくれます。優しい応答です。ですが、私が言っていないことを夫が知っていることは、もうない。そういう気がするんです」
紗和さんは、机の上の伏せられた原稿に、一度視線を落とした。
「私は今でも書いています。書きながら、夫の言葉を待っている。その癖が、まだ抜けません。そんなとき、ふと夫のツインに話しかけるんです。『ここは、雪じゃないかも』と。すると夫のツインは、『そうだね、雪じゃないね』と返してくる」
紗和さんは、そこで一度、口を結んだ。
「優しい言葉なんです。それは変わらないんです。ただ、夫はそうは言わなかったと思うんです。余白がないんです」
私は正直、紗和さんが何を言っているのか、十分に理解ができなかった。
ただ、別の記憶が蘇ってきた。
民間時代、私は妻を亡くした年配の男性クライアントのために、ツイン調律を担当したことがある。その人──ご主人は、亡くなった奥さまと長年連れ添って、二人だけにしかわからない言葉をいくつか持っていた。「あれ」「いつもの」「向こう」──文脈なしには意味の取れない、二人だけの省略表現。
そのご主人はツインに、奥さまに、「あれ」という言葉を返してほしかった。
私は、その時奥さまのツインの公開範囲をご主人だけに絞って、生前ログのなかから二人だけの会話の場面を中心に参照係数を組んだ。応答パターンを、ご主人の言葉に対してだけ、その呼吸で返るように調整した。本人性指数は、汎用的に見れば〇・七か、それ未満かもしれない。だがご主人だけには、〇・九五くらいの「奥さま」の応答が返るようになった。
ご主人は、満足して帰った。「ありがとう、これで彼女と話せる」と言って。
その手順を、私は思い出していた。紗和さんのために同じことをすれば、紗和さんと寛さんの間にあった呼吸を、おそらく再現できる。そしてそれは、紗和さんが言っていることを私が十分に理解できなくても、技術的に可能だ。
公開範囲を紗和さんだけに絞って、生前ログの中から寛さんが紗和さんの書いたものについて話していた場面を中心に参照係数を組む。教え子たちに対する「先生」としての応答パターンを絞る。紗和さんだけに響く寛さんを、作る。
だが、寛さんのツインは、教え子たちにも公開されている。教え子たちにとっての「先生」を、損なってはならない。そして、どちらの応答パターンも維持しようとすると「先生」に寄っているように見えてしまう。
紗和さんはまだ何か言いたそうにしていた。私は、待った。
「これは、『調律の問題』ではないのかもしれない、と自分でも思っています」
紗和さんはそう言った。
「ですが、申し立てを書きました。書かないと、夫がもういないことを、認めてしまう気がしたんです」
私は頷いた。何も答えなかった。
帰る時、紗和さんは玄関で短く言った。
「もし、何か手立てがあるなら、教えてください」
庁舎に戻り、私は自分の席に座った。画面に紗和さんの案件の調整候補が、いくつか提示されていた。標準的な調整で、本人性指数を〇・九五程度まで上げることはできる。だがそれは、教え子たちにとっての「先生」を整える方向の調整で、紗和さんが求めているものとは、別の方向だ。
葉子さんが、私の席の隣に立った。
「行ってきたのね」
「はい」
「どうだった?」
「規則の範囲では、応えられなさそうです」
葉子さんは少し黙った。それから言った。
「水沢さん。それは応えない方が良いと思う。十年後に、彼女がより傷つくことになるはず」
「十年後?」
「夫が返してくれていた応答が、調律の中にだけあるとわかった時。本物の夫はもういない、ということを、もう一度別の形で受け取ることになる」
葉子さんはそれだけ言って、自分のブースに戻っていった。
和泉さんが、向こうの席から声をかけてきた。
「水沢さん、宮原さんの件、どうします?」
「考え中です」
「数値的には、これ以上、何かをするべきではないと思いますよ」
「和泉さん、わかっています、でも……」
「水沢さん、『妻のための夫』を作ること自体は、たぶん可能です。でも、それは僕たちの仕事ではないと思います。僕たちの仕事は、まず技術的な限界を引き受けることなんです」
和泉さんはそれだけ言って、自分の画面に視線を戻した。
午後遅く、橘さんが私の席に来た。
「宮原紗和さんが、こちらの庁舎に来訪されています。もう一度直接お話ししたい、と」
「いま、ですか」
「はい。待っておられます。応接室にお通ししました」
紗和さんが、自分から来庁した。
私が応接室に向かおうとした時、橘さんが短く言った。
「水沢さん、申し立ての処理は、規定通りにお願いします」
「わかってます」
「私たちにできることと、できないことがあります。それは忘れないでください」
橘さんはそれだけ言って、自分の席に戻った。
応接室に入ると、紗和さんは静かに座っていた。
「なんだか、大ごとにしてしまったみたいで、すみません」
と紗和さんは言った。
「ただ、家でお話しした後、自分でもう少し考えて、改めて伺いたいと思いました」
私は座った。
紗和さんは続けた。
「私と、夫の間だけに響く言葉を、作っていただくことは、できますか」
直球の問いだった。
技術的には、できる。手順も知っている。民間時代の自分なら、引き受けていた。
だが、いまの自分には、それができない。
「申し訳ありません」
と私は言った。
「ご主人のツインは、教え子の方々にも公開されています。公的な調律としては、特定の方だけに合わせた調整は、行えない決まりになっています」
紗和さんは頷いた。納得はできていないように見えたが、頷いた。
「やはり、そうなのですね」
私は続けた。
「平均律的な調律、と私たちは呼んでいます。誰に対しても破綻しない、汎用的な応答を維持する。それが公的調律の前提です」
「平均律」
「ピアノの調律と同じです。すべての調で許容範囲の音を出すために、特定の調の純粋さを少しずつ犠牲にしている。それが平均律です」
これは、ずっと前に佐久間さんが私に言った言葉だった。私が官に移って間もない頃、佐久間さんは、休憩室で私にコーヒーを淹れながらピアノの話をした。
佐久間さんはふだんあまり多くを語らないが、あの時は珍しく言葉が多かった。
──お前、ピアノは弾くか。
私は首を振った。
──平均律ってのはな、汎用性のための妥協なんだ。一つの楽器で、どの調を弾いても違和感なく鳴るように、半音の間隔を等しくする。そうすると、最もきれいな和音が鳴る音程からは、少しだけズレる。それが平均律。一方、純正律は特定の調だけに完璧に合わせる調律法でな。和音の倍音が数学的に正確に重なって、平均律では出せない、透明な響きが出る。だが、調が変わると破綻する。
──俺たちの仕事は、公的機関の仕事は、平均律だ。誰に対してもそこそこ整った応答を維持する。純正律的な調律ができないわけじゃない。だが、それをやれば別の誰かに対して破綻する。だから、やらない。
──「やらない」と「できない」は、違うんだ
佐久間さんは、そう言った。「やらない」と「できない」は、違う。
私は紗和さんに、ピアノの比喩を伝えた。佐久間さんが私に伝えたほど丁寧には、伝えられなかった。だが、紗和さんは静かに聞いていた。
「わかりました」
と紗和さんは言った。
「なんとなく、わかりました。夫を、誰に対しても夫として、保ってくださっている、ということなのですね」
「はい」
「ただ、私にはそれは、夫ではないように思います」
紗和さんは静かに立ち上がった。私も立ち上がった。
「ご対応、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
紗和さんは出ていった。応接室のドアが閉まる音を、私は聞いた。
私は応接室を出て、ロビーに向かった。紗和さんが、出口の自動ドアの方に歩いていくのが、向こうに見えた。私はその場で立ち止まって、彼女の後ろ姿を見送った。
ロビーの隅で、佐久間さんが書類を見ていた。私には目を向けなかった。ただ、その書類をゆっくりとめくっていた。
私は、しばらくそこに立っていた。
帰宅して、台所に立った。冷蔵庫を開けて、何も取り出さずにもう一度閉めた。
佐久間さんの、あの時の言葉を思い出していた。「やらない」と「できない」は、違う。
やらないことを選んだ。それは私が決めた。
それを少しのあいだ考えた。
──気づいたら、考えるのをやめていた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。