第三章 垂範
母に伝えたのは、会議の翌日だった。
頼賢は言葉を選ばなかった。選べば飾りになる。
「棄老の触れを出す。ついては、まず私が母上を山にお連れしたい」
母は頼賢の顔を見た。長い間、見ていた。頼賢はその目を見返した。目を逸らせば、逸らした分だけ言葉が軽くなるからだ。
母が口を開いた。
「善い、政です」
「赤子を殺すよりは、よほど善い」
頼賢の体が強張った。知っていたのか。いつから。どこまで。──だが問わなかった。問えば、母の言葉の意味が変わる。知っていて「善い政だ」と言ったのか、知らずに言ったのかでは、同じ言葉がまるで違うものになる。頼賢はどちらであるかを確かめることを避けた。確かめれば、どちらであっても自分が楽にはならないことがわかっていた。
「これは私にとっても至上の誉です」
母はそう言った。声は静かで、揺れていなかった。
至上の誉。その言葉を、頼賢は受け取るしかなかった。
母は付け加えた。
「秋庭の家の者が最初に山に入る。民はそれを見る。おまえの触れに重みが出る。私はその重みになる」
それは統治の言葉だった。母は領主の妻として、領主の母として、長くこの家にいた。自分の死を、統治の道具として図ることができる人だった。それが母の強さなのか、あるいはそうすることでしか受け止められなかったのか、頼賢には判じかねた。判じかねたまま、頼賢は頭を下げた。
山に入ったのは、三日後の朝だった。供はつけなかった。肉親の手で連れてゆくと決めたのは頼賢自身だ。であれば、自分もその通りにせねばならない。
母は自分の足で歩いた。六十を越えて、背は少し丸くなっていたが、足取りは確かだった。頼賢は母の後ろを歩いた。前を歩けば、道を選ぶのは自分になる。母に道を選ばせたかった。理由は自分でもわからなかった。
山道は緩やかに登っていった。木々の間から朝の光が差し、足元の土は湿っていた。鳥が啼いていた。山は、穏やかだった。
母は時折、立ち止まった。息が切れたのではなく、何かを見ていた。木の幹に触れた。苔の色を見ていた。頼賢はそのたびに足を止め、母が歩き出すのを待った。
何も言わなかった。何を言えばよいのかわからなかった。いや、言うべきことはなかった。言葉はすべて、昨日までに使い果たしていた。会議の広間で、母の部屋で。残っているのは足を動かすことだけだった。
道が開けた場所に出たとき、母が足を止めた。
「ここがよい」
頼賢は周りを見た。平らな場所があり、木の根が椅子のような形を作っていた。眺めはよくなかったが、木漏れ日が落ちていた。
母はその場所に腰を下ろした。ゆっくりと、しかし迷いなく。
「頼賢」
名を呼ばれた。母がこの名で呼ぶのを聞くのは、いつ以来だろう。領主になってからは「殿」だった。その前は何と呼んでいたか。思い出そうとしたが、うまく思い出せなかった。
「迷わず下りなさい」
母はそう言った。頼賢を見上げていた。目は穏やかだった。
そして母は目を伏せ、懐から紙と筆入れを取り出し何かを書き始めた。
その手は少し、震えているように見えた。辞世の句であろうか。頼賢はそう思った。
母から紙を渡され、開いた。そこに書かれていたのは、句ではなかった。
山を下りる帰路の目印──特徴のある木や岩の形が、順を遡って書かれていた。
「振り返らずに下りなさい。振り返れば、おまえの足が止まる。足を止めれば、触れが出せなくなる」
頼賢は頭を下げた。深く。長く。顔を上げたとき、母は微かに笑っていた。笑っていたように見えた。頼賢は背を向けた。一歩を踏み出した。振り返らなかった。母がそう言ったから振り返らなかったのか、振り返れば歩けなくなることを自分で知っていたから振り返らなかったのか、その区別はつかなかった。
山を降りる間、頼賢は足元だけを見ていた。木の根を踏まないように。石を蹴らないように。そうした小さなことに意識を向けている間は、背後のことを考えずに済んだ。
城に戻ったとき、日はまだ高かった。
頼賢は誰にも会わずに自分の部屋に入り、しばらく動かなかった。何を考えていたかは、後になっても思い出せなかった。
翌日、触れが出た。
六十を越えた者は、肉親の手で山に送ること。これを定めとする。触れの文面は短かった。理由は書かなかった。理由を書けば、理由に反論が来る。理由なく出せば、反論は制度そのものに向かう。だが制度そのものに反論するには、領主がすでに自らの母を山に送ったという事実を越えなければならない。越えられる者はいなかった。
領主が母を捨てた。その事実は、触れのどの文言よりも重かった。反対する者は、まず領主の覚悟を否定しなければならない。領主の母の「誉」を否定しなければならない。
民は従った。納得したからではない。触れに逆らう足場がなかったからだ。領主がやったのだから、自分たちもやらねばならない。その論理は、納得よりも深い場所で人を動かした。頼賢はそのことを知っていた。知っていて、それでよいと思った。納得を待っていたら、その間にも赤子は死ぬ。納得は後からついてくる。あるいは、ついてこなくてもよい。制度が動けばよい。
制度は動いた。山に向かう者の列が、やがてこの藩の風景の一部になった。
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