第三話 百合とコーヒー
店の郵便物に混じって、一通、花よし宛のダイレクトメールが入っていた。
封を開けてから気づいた。事業承継コンサルティング、と大きく書かれた案内状。
うちにも何度か、届いたことがあるやつだ。同じ封筒、同じデザイン。だから何も考えずに開けてしまった。
村瀬隆一は封筒をカウンターの上に置いて、少しの間、そのまま立っていた。
宛名を見直す。花よしの店名と、店主の名前。
他人宛の郵便物を開けてしまった。誤配とはいえ、厳密に言えば犯罪になるのだろう。
とはいえ中身はダイレクトメール。届いたところで中身も見ずにゴミ箱に行く可能性が高い。
自分のところに初めて届いた時がそうだった。開封して、少しだけ見て、そのまま捨てた。まだ早いと思った。
このまま捨ててしまっても、たぶん何も問題は起こらない。
だけど、まだ早いと思ったのは二年前のことで、最近はそう思えなくなってきている。今年で五十三になる。
「Coffee Roastery MURASE」。父が喫茶店として始めた店を引き継ぎ、十五年前にロースタリーカフェに業態転換した。
豆の焙煎を自分でやるようになり、内装を変え、メニューを絞った。父は何も言わなかった。そして五年前に亡くなった。
花よしの店主とは顔馴染みだ。花よしにはうちのエントランスの花瓶の生け込みを頼んでいる。週に一度、季節の花を入れ替えてくれる。時々コーヒーを飲みに来る。
カフェに花があると空気が変わる。業態転換をしても、父から引き継いだ花瓶は残しておいた。
さて、開けてしまったDMをどうするか。開けていなければ封筒ごと花よしのポストに入れてくれば済む話だ。
だが、開封済みの封筒を入れるわけにはいかない。かといって「間違えて開けちゃいました」と言って渡すのも気まずい。所詮DMだとしても。
そういえば、花よしの店主は息子も娘も後を継ぐ気はない、と言っていた。商店街組合の新年会だったか、忘年会だったか。
酒が入っていたから冗談めかしていたが、顔は笑っていなかった。
村瀬はダイレクトメールをいったん封筒に戻し、カウンターの下に置いた。午後の営業が落ち着いたら、花よしに顔を出そう。
開けてしまった件は伏せて、うちに届いたものだという体で、中身のDMだけを持って、「こういうのがあるらしいんだけど」と情報として持っていけば不自然ではない。
自分のところにも届いていたんだから、嘘にはならない。嘘にはならないが、花よし宛だったことは隠しておこう。
夕方、村瀬は花よしに向かった。三月の日はまだ短くて、五時を過ぎると商店街のアーケードの下はもう薄暗い。花よしの店先だけが、蛍光灯とバケツの花の色で明るかった。
店に入ると、店主の娘がいた。大学生で、アルバイトとして手伝っていると聞いていた。そういえば、実際に店で仕事をしているのを見るのは初めてだ。
娘は白い百合の花を手に取っていた。開きかけた花弁の隙間から何かを摘み取っている。花弁を傷つけないように慎重に。しかし手早く慣れた手つきで。
「こんにちは。お父さんいる?」
「あ、村瀬さん。父はちょっと配達に出てて、もう少ししたら戻ると思います」
「そう。じゃあちょっと待たせてもらうよ」
「すみません、こちらへどうぞ」
娘は丸椅子を差し出してきた。村瀬は椅子に腰掛けて待つことにした。
娘は先ほどからしている作業を続けた。
「それ、何やってるの?」
「花粉……いや、雄しべを取ってるんです。このまま置いとくと花粉が出て、汚れちゃうんで」
「へえ。雄しべって取っちゃうんだ」
「ええ。花粉が服につくと落ちないですし。花粉が出始める前に、花が開きかけたらすぐに取っちゃうのが基本で」
娘の手つきは手慣れていた。アルバイトとはいえ、この作業は何度もやっているのだろう。花弁を傷つけずに、雄しべだけを正確に摘み取る。村瀬はコーヒー豆のハンドピックを思い出した。焙煎前に欠点豆を一粒ずつ取り除く作業。地味で、時間がかかって、誰にも気づかれない。でもやるとやらないでは味が変わる。
そういえば。
うちの店の生け込みに、百合が入っていたことはない。もう何年も花よしに頼んでいるが、一度もない。百合は華やかで見栄えがする。カフェのエントランスには似合うだろうと思うが、花よしの店主がそれを選んだことはない。
「百合の花、きれいだね」
「ありがとうございます。これは明日、ホテルの宴会に届けるやつで」
「うちの店には百合、入れたことないよね。お父さん」
娘は少し考えるような顔をして、言った。
「ああ、たぶんそれは。村瀬さんのお店、コーヒー屋さんだから」
あっさりと。当然のように。村瀬はしばらく何も言えなかった。
父が喫茶店を始めた頃のことを思い出した。村瀬が子供の頃、店にはいつも花が飾ってあった。母が近所の花屋で買ってきた季節の花。百合もあった。父は何も言わなかった。コーヒーの香りも百合の香りも、同じ空気の中にあった。
自分が店を継いで、業態転換して、焙煎を始めて、豆の香りにこだわるようになった。花よしに生け込みを頼むようになったのはその頃からだ。
店主は最初の打ち合わせで何か聞いたかもしれない。あるいは聞かなかったかもしれない。ただ百合を入れなかった。それだけのことだ。
店主が配達から戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。
「おう、村瀬さん。珍しいね、こんな時間に」
「いや、ちょっと相談っていうか。情報共有っていうか」
「何?」
村瀬は事業承継コンサルティングの案内状を広げて見せた。自分のところにもDMが来て、ちょっと気になったんだけど、知ってる?と。嘘ではない。嘘ではないが、きっかけは隠している。
店主は少し黙ってから、言った。
「まあ、そういう時期だよな」
「だよな」
「村瀬さんとこは?後継ぎ」
「いない。嫁さんと二人でやってるだけだし」
「うちは一応、二人いるけど。どっちもやる気はないよ」
店主はそう言いながら、配達用に持ち出していたバケツを片付けていた。
「やっぱりそうか」
「まあね。息子はITで、娘は就活中。やりたいなんて一度も言われたことない」
「寂しいか」
「寂しいっていうか。いや、寂しいのは寂しいか。でも、継がせたいかって言われたら、わからない」
「わからない?」
「うちの親父は継がせたかったんだと思うよ。何も言わなかったけど。俺は継いだ。でも今、自分は。この商売、この先どうなるかわかんないのに、って」
村瀬の父も何も言わなかった。だけど継いだ。業態転換の時も何も言われなかった。あの沈黙が何だったのかは、もう聞けない。
「村瀬さんが店を継いだ時、何か思った?」
「何かって?」
「親父さんに何か言われたとか。自分で何か決心したとか」
村瀬は少し考えた。
「何も言われてない。俺が勝手に継いだ。で、勝手に変えた。親父は何も言わなかった」
「何も言わなかった」
「うん。いいとも悪いとも。そういえば、あれが一番ありがたかった」
店主はバケツを洗いながら、しばらく黙っていた。
「何も言わない、か」
「まあ、言いたいことはあったと思うよ。でも言わなかった。それで俺は自分の店にできた」
「そうか」
娘が「お父さん、百合の雄しべ全部取っといたよ」と声をかけてきた。店主は「ありがとう」と短く返した。
村瀬は店を出た。商店街のアーケードを歩きながら、開けてしまった封筒のことを思った。たぶん花よしの店主はあのDMを自分で受け取っても捨てただろう。
でも、さっきの会話は捨てないだろう。
自分の店が見えてきた。エントランスの花瓶に、今週の花が入っている。何の花かは知らない。百合ではないことだけは知っている。
そういえば、ずっとそうだった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。