第三章 1991年・4月:土曜日の拒絶
新年度が始まり、二度目の土曜日。
山に昼を告げるサイレンが響き渡る。低学年の子どもたちは堰を切ったように校門を飛び出していく。しかし、高学年の四人は、ランドセルを揺らしながら裏手の教職員寄宿舎へと向かう。
「大輔、夏目先生の部屋すげえんだぞ。変な匂いのする絵具とか、面白い本とかいっぱいあってさ」
校庭の隅で、五年生の翔太が声を張り上げた。
その視線の先には、昇降口の階段に一人で座り、靴紐を締め直している大輔がいた。夏目は寄宿舎の窓枠に手をかけ、無意識に呼吸を止めてその光景を眺めた。
「行きたくない」
大輔は顔を上げなかった。指先で器用に紐を操り、完璧な蝶結びを作ると、ようやく立ち上がった。
「そっか。大輔、絵、嫌いだもんな」
翔太が肩をすくめて駆け出す。子どもたちの足音が廊下を揺らし始めると、夏目は窓から身を引き、穏やかな微笑を顔に張りつけた。
「おっ、みんな来たな。今日は、名古屋で買ってきた新しい画集があるぞ」
六畳の和室は、瞬く間に子どもたちの熱気と、油絵具の鋭い匂いで満たされた。夏目は、彼らに惜しみなく「外の情報」と「自由」を与え続けた。飛び散る原色のしぶきは、夏目にとって自らの教育が成功している証に思えた。
だが、その喧騒のなかで、夏目の意識の端にはあの「空洞」が残っていた。
校門へと続く細い坂道を、一人で下っていく大輔の背中。一度も振り返ることなく、淡々と、一定の歩幅で。その背中は「子どもらしさ」からも、「野原の自由」からも、等しく距離を置いているように見えた。
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