第二章 泥と黄金の都
1640年、暮れ。スヘルデ川を下り、海を経由してアムステルダムの港に降り立った瞬間、私は自分が決定的な異邦人であることを悟った。
この街の空気は、まるで違っていた。
アントウェルペンを包んでいた、あの湿った石畳と教会の乳香が混じり合った静謐な匂いはない。
代わりに鼻腔を突いたのは腐りかけた運河の水、タール、そして遠い異国から運ばれてきた香辛料の刺激臭だった。
人々は早足で、誰もが何かに追われているか、あるいは何かを追いかけている目をしていた。重厚な外套をまとった私は、この喧騒の中でひどく浮いていた。ここでは、身なりが示す「階級」よりもその懐にいま幾らの銀貨が入っているかという、「現在価値」だけが問われているようだった。
私は懐にある、革で封じられた小壺の冷たい感触を確かめながら、画商に教えられた場所を目指した。
ブレー通り。アムステルダムの中でも最も雑多で、最もせわしない場所。
道ゆく人々の吐息には、いまだに数年前の「忌まわしき風」の、苦い後味が混じっていた。
「……あれは、ただの草花の、ただの根に過ぎなかったのだ。あんなものに、牛数十頭分もの値をつけた俺たちが、どうかしていたのだ」
角の酒場で、かつての富商らしき男がうつろな目でこぼしているのが聞こえた。数年前、この街を襲ったチューリップの狂乱。
この地には、実体のない富を膨れ上がらせる魔物が住んでいる。
人々は「風の商売(ウィンドハンデル)」という名の魔物に唆(そそのか)され、まだ見ぬ花のために金貨を積み上げ、そしてある朝、風が止むようにすべてがただの泥へと帰した。
だが、この街の連中は、喉元を過ぎればその恐怖を忘れるらしい。
私は、眼前にそびえるレンブラント・ファン・レインの豪邸を見上げた。それは、権威が住まう館というよりは、英雄譚を演じるための舞台のような、どこか危うい均衡の上に立つ楼閣だった。
街中が魔物に食い荒らされた傷跡を隠している最中に、レンブラントは莫大な借金を背負ってこの楼閣を買い取ったという。アントウェルペンの理から見れば、それは正気の沙汰とは思えない振る舞いだ。
「……チューリップの次は、絵具なのか」
私は懐にある、重い小壺をそっと撫でた。人々が何を買い、何を尊ぶかは、私のような職人の知るところではない。
だが、この街に漂う「軽さ」だけはどうしても肌に合わなかった。
私に分かるのは、重さだけだ。
私は、自分の指先に伝わる小壺の冷たい感触を握りしめ、重厚な扉を叩いた。
通されたアトリエの光景に、私は言葉を失った。
そこは私が知る「工房」ではなかった。市場の喧騒がそのまま建物の中になだれ込んできたかのような、無秩序な空間だった。
壁には完成したのかどうかも定かではない習作が無造作に立てかけられ、床には高価な東洋の絨毯が敷かれているが、その上には絵具の染みが点々と散っている。
異国風のターバンを巻いた老人や、物乞いのような風体の男たちがモデルとしてたむろし、職人たちは卑猥な冗談を言い合っていた。
ルーベンス様の工房にあった、あの張り詰めた静寂、整然と並べられた道具、弟子たちの完璧な規律は、ここには微塵もなかった。
「──誰だ、あんたは」
不意に、混沌の中から低い声がした。男が一人、私の方へ歩いてきた。
私はその姿に息を呑んだ。レンブラントという男。想像していた「画家の王」の姿とは、あまりにかけ離れていた。ルーベンス様のような、洗練された宮廷人の佇まいではない。ずんぐりとした体躯に労働者のような太い首。
高価なベルベットの上着を羽織っているが、袖口は顔料でひどく汚れている。
だが、その目は異様だった。獲物を前にした獣のように、私を、いや、私がまとっている「アントウェルペンの匂い」を値踏みしていた。
「画商から話は聞いている。南から来た『影の技術者』だな」
挨拶も、礼儀もない。彼は私の目の前まで来ると、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐような仕草をした。
「……あんたからは、古い教会のカビ臭い匂いがする。だが、その奥に、極上の油の匂いが混じっているな」
彼はニヤリと笑い、無遠慮に手を差し出してきた。握手を求めているのではない。「ブツ」を出せという要求だ。
私はためらいながら、懐から小壺を取り出した。紐を解き、封じていた革を剥ぐ。
レンブラントの目の色が、変わった。それまでの不遜な態度が消え、純粋な、しかしどこか狂気を孕んだ好奇心の輝きだけが残った。彼は壺を奪い取るように受け取ると、中身を指先で掬い取った。
「ほう……」
彼が指先で黒を練ると、アトリエの窓から差し込む鈍い冬の光が、その黒に吸い込まれて消えた。
「これが、ルーベンスの影か。重い。そして、深い。まるで墓石の裏側だ」
彼は恍惚とした表情で、その黒を自分の掌に塗り広げた。
「いいだろう、アントウェルペンの男。採用だ。俺の光は強すぎる。並大抵の影では、すぐに焼き尽くされてしまう。俺の物語には、この『絶対に燃えない影』が必要だ」
彼は私を見なかった。ただ、私の技術(モノ)だけを見ていた。
私はその瞬間、自分がとんでもない場所に来てしまったことを悟った。
この男は、神に仕えるために絵を描いていない。自分の光で世界を焼き尽くすために、私の影を燃料として求めているのだ。
「……一つだけ、条件があります」
私は、乾いた喉から声を絞り出した。
「私が下地を練り、影を置く間、あなたは口を出さないでいただきたい。私の『理(ことわり)』は、あなたの『物語』とは違う時間で動いている」
レンブラントは顔を上げ、私を見て、面白そうに喉を鳴らした。
「理、か。いいだろう、好きにしろ。客への言い訳は俺の仕事だ。その代わり、俺の劇場を、アントウェルペンの教会みたいに退屈な場所にはするなよ?」
こうして、泥と黄金の都アムステルダムで、私はこの魔術師の影の担い手となった。
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